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田宮 二郎(たみや じろう、1935年〈昭和10年〉8月25日 - 1978年〈昭和53年〉12月28日)は、日本の俳優・司会者。
1960年代から1970年代にかけて俳優として活躍、代表作は映画『悪名』シリーズ、映画『白い巨塔』、テレビドラマ『高原へいらっしゃい』など。ほかにクイズ番組『クイズタイムショック』の司会としても長らく親しまれた(1969年1月9日 - 1978年9月28日)。
● 来歴
◎ 出生からデビュー
大阪府大阪市北区出身。本名、柴田 吾郎(しばた ごろう)。生後4日で父を事故で失ったため幼少から高校時代にかけては京都市にて母方の祖父の家で育つ。祖父の柴田永三郎は金融業を営む資産家で、田宮の母は永三郎の養女で、父の栄吾(旧姓南川)はその入り婿だった。9歳でその祖父も亡くし、その翌年肺結核の母とも死別、加えて敗戦時の占領政策により柴田家は財産を失った。同期には叶順子・市田ひろみがいた。1956年(昭和31年)、「ミスタースマートコンテスト」で空手を披露し優勝、ファッション雑誌『男子専科』の専属モデルに応募し合格、以後数年間は俳優業を兼ね活動する。
1957年(昭和32年)に本名の「柴田吾郎」でデビュー。1959年(昭和34年)、大映社長の永田雅一がオーナーを兼務する毎日大映オリオンズの強打者・田宮謙次郎にあやかりたいという永田の意思に強制される形で「田宮二郎」と改名。
長らく端役が多かったが、1961年(昭和36年)に吉村公三郎の監督映画『女の勲章』(山崎豊子原作)の演技で注目を集め、これが俳優人生の最初の転機となった。これにより、ただでさえスター不足で経営難の大映はますます屋台骨が傾くことになった。記者会見では記者から「田宮を辞めさせて興行的に困らないか」との声が社長に飛んだ。しかし永田は「失礼な、それほどの大物じゃない」と反論、さらに五社協定を持ち出し、他社の映画にもテレビドラマにも田宮を使わないように通達した。このため田宮は大きな転換期を迎えることとなり、一部マスメディアではこの大映解雇が「田宮の人生の歯車が狂い始めたきっかけ」とも言われている、千葉真一主演映画『日本暗殺秘録』に藤井斉役で出演し、映画界へカムバックを果たした。苦境を乗り越えたことで自信を付けた田宮は、偶然鉢合わせた永田雅一にを切るまでになっていた。そこで、1971年(昭和46年)に妻を社長に据え設立した自身の個人プロダクション「田宮企画」で『3000キロの罠』を製作・主演をしたが、ヒット作とはならなかった。一方の大映は1971年(昭和46年)に倒産。それをきっかけにすでに斜陽であった日本映画の観客動員数はさらに大きく落ち込み、テレビ時代の到来となる。
1972年(昭和47年)にはTBS系ドラマ『知らない同志』でテレビドラマへ本格進出。その後も『白い影』『白い滑走路』などの白いシリーズや、山田太一脚本『高原へいらっしゃい』などの話題のドラマに主演して、立て続けにヒットを飛ばし、ドラマ界でも花形スターの座を獲得。
その頃になると、自身を「実業家としても成功したい。日本のハワード・ヒューズになる」と公言しはじめた。また、付き人に段ボールの箱ごと育毛剤を買いに行かせたり、ドラマの撮影シーンで髪の毛が濡れることを嫌がるなど、頭髪についても悩んでいたという。
◎ 『白い巨塔』
妻が田宮の精神状態を気遣い、一旦ドラマを休ませようとしていた折、1977年(昭和52年)冬にTBSから田宮のキャスティング権を得たフジテレビから企画を求められる。
第18話まで撮影したところで撮影は1カ月の休暇に入り、田宮は7月29日にロンドンへ旅行に出発。戻って来ないのではないかという周囲の心配をよそに9月8日に帰国したが、その時に田宮は鬱状態に入っていた。9月17日から後半の収録が始まったが、テンションが高かった旅行前とは一転して、田宮は泣き崩れてばかりでセリフが頭に入らなくなっていた。妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、共演者の協力もあって撮影は11月15日に無事終了。財前五郎の死のシーンに際して、田宮は3日間絶食してすっかり癌患者になりきり、財前の遺書も自らが書き、それを台本に加えさせた。さらに、全身に白布を掛けられストレッチャーに横たわる遺体役をスタッフの代役ではなく自分自身でやると主張してストレッチャーに乗った。収録後には「うまく死ねた」とラストシーンを自賛したという。
この時期の田宮の奇行に関しては、女性週刊誌などに都市伝説として複数の記事が掲載された。一つはいわゆるM資金詐欺にだまされ、巨額の借金を負っていたという説。
また、現実と役柄の境界が不明瞭となり、航空機にて急病人が出て乗務員が医師を捜すと、たまたま同乗していた田宮が「医師の財前だが」と名乗り出たというもの。さらに、友人に電話で「12チャンネルを買い取った」と発言したり、自宅を訪れた芸能記者に対し、電話機を指差しながら「この電話はCIAと直につながっているのですよ」と述べたという話もある。息子の柴田光太郎は2009年(平成21年)、『スーパーモーニング』(テレビ朝日)に出演した際に金銭問題を含めた醜聞の内容の大半を否定している。
しかし、2013年(平成25年)に『週刊現代』の企画で行われた山本學・生田悦子・柴田光太郎によるで、『白い巨塔』収録中に田宮が頻繁にM資金取引の電話をしていたことを、財前五郎の妻役で出演していた生田が証言している。生田によると、田宮は撮影の合間によくフジテレビの食堂で電話をかけていたが、使用していたのは10円玉しか入れられないピンク公衆電話であり、生田は田宮からの要請で通話中は両替に走っては傍で通話用の10円玉を手のひらに載せて立っていたため、通話内容がはっきりと聞こえたという。これを見かねて田宮にM資金の支払いを諦めるよう説得すると、「できない。来年(1979年〈昭和54年〉)になったらどうにかなるよ。でも、来年はないかな」と死をほのめかす返答をしたため、生田は怖くなってプロデューサー(演出も兼任)の小林俊一に相談したという。
◎ ドラマの終わりと共に
ドラマ撮影の間、9年に渡って司会を務めてきた『クイズタイムショック』を1978年(昭和53年)9月28日放送分をもって降板。病状が改善されないこともあり、自ら申し出たもので、司会者は山口崇へ引き継がれた。『白い巨塔』撮影終了後の田宮はすっかり虚脱状態になり、「財前五郎の後に、どんな役を演じたらいいかわからない」とプロデューサーの小林俊一に漏らすようになっていた。しかし、収録終了後、田宮は妻と温泉に行くなど回復しつつあるように見えた。43歳没。前年3月から躁鬱病で治療を受けており、過去に3回も「こうやれば死ねるんだ」と言って妻の前で猟銃自殺の真似をしたことあり、9月の帰国直後、妻に「もう死にたい」と漏らしていたことから警察はその動機を仕事の行き詰まりや病気を苦にしたものと推定した。
付き人が発見した時、田宮は苦悶の表情を浮かべほとんど息もしておらず、股関節のあたりまで掛け布団が掛かり、布団の下からは銃口がのぞいていた。「部屋は血の海になっていた」という報道もあったが実際はそこまで血は流れておらず、田宮の体の左側に血が散っているという感じだったと言う。付き人は慌てて119番通報をし、その後六本木にあった田宮企画の事務所にも電話をした。寝室の隣室の書籍から遺書も見つかっており、警察は自殺と断定。田宮の死亡が確認されたのは13時50分頃で、マスコミには14時過ぎに田宮猟銃自殺の一報が入った。偶然にもこの日は14時から日本テレビ(関東ローカル)で田宮が出演した映画『花と龍・第一部』(1973年公開、松竹)が放送されていたため、この映画の放送中に田宮自殺のニュース速報が流れることとなった。また、関西地区で14時から放送していた『スタジオ2時』(MBS制作、一部TBS系列局にもネット)では、鴨沂高校の同級生である落語家・初代森乃福郎の口から直接田宮の猟銃自殺が速報として伝えられたが、福郎はその場で悔しさのあまり原稿を叩きつけて号泣した。
その夜に仮通夜をすませ、翌29日の午前に遺体の検視、その夜に通夜、そして30日に密葬が行われた。密葬後に行われた会見では、田宮の妻は約100名の報道陣を前に「田宮は哲学的な死を遂げたのだと思います」と語った、「四十三才まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上の倖せはないと自分で思う」。
自殺場所となった田宮の自宅は後に解体され、跡地は妻がオーナー経営する外国人向け賃貸住宅になった。田宮の遺体は「猟銃自殺死体の見本例」として視聴覚教材となり都内大学の法医学講座でスライド公開された。
・ 映画『華麗なる一族』では、田宮は万俵鉄平役を望んだが撮影スケジュールの関係でかなわず、大蔵省のエリート役として出演した。
◎ バラエティ番組などに関して
・俳優としてはクールでアクの強い役を演じることが多かったが、『クイズタイムショック』をはじめとするテレビ番組の司会では、明るく軽妙で親しみやすいトーク、なおかつ折り目正しく理知的な司会ぶりが多くの視聴者から支持された。特に『タイムショック』では、番組冒頭とクイズ出題の際の決め台詞「ターイムショック」とカメラを指さすポーズが広く知られ、収録では極度の緊張状態にある一般出場者にリラックスしてクイズに臨んでもらえるよう、司会者として常に細やかな気配りと思いやりを忘れなかったという。『クイズタイムショック』での田宮の司会ぶりは好例として、その後のクイズ番組の司会に俳優が起用されるきっかけになったとも言われている。その後疎遠になったものの、勝はずっと田宮のことを気にかけていたという。
・1969年にナゴヤ球場で開催された芸能人対力士の親善野球に、藤田まこと、白木みのる、横綱・大鵬などと共に出場した。
・芝居の研究に熱心で一つ一つの役柄を研究するのが好きで、映画「悪名」では実在するヤクザの身のこなしを取り入れた。また、ガンアクションに定評があり、当たり役となった映画「宿無し犬」でのガンマニア役の役作りとして、自宅の書庫に保管していたモデルガンとガンホルダーを使いモデルガンを回す練習をしていた(NET→テレビ朝日、1969年1月9日 - 1978年9月28日) - 司会
・ゴールデンナイトショー(NET、1969年) - 司会
・サテスタ23(朝日放送、1969年) - 司会(桂三枝〈現・六代目桂文枝〉がアシスタント)
・田宮二郎ショー(東京12チャンネル、1969年) - 司会
・スター千一夜(フジテレビ、1969年 - 1970年) - 司会
・ミス・インターナショナル1969年世界大会(フジテレビ、1969年9月15日) - 司会
・なつメロ・ヒット・フェスティバル(フジテレビ、1970年) - 司会
・田宮二郎ショー・プラザ47(山梨放送製作・日本テレビ系 1971年) - 司会
・あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭(NET、1975年 - 1977年) - 司会
・ゆく年くる年(民放版、1976年12月31日 - 1977年1月1日) - 山口百恵と共に司会
・オールスター春の東西対抗歌合戦(テレビ朝日、1977年4月1日) - 総合司会
・ズバリ当てましょう(フジテレビ)
◎ 舞台・ミュージカル
・黒蜥蜴(1962年3月3日 - 3月25日、サンケイホール) - 雨宮潤一 役
・花筵(1970年、芸術座)
・スカーレット(1970年、帝国劇場) - アシュレー・ウィルクス 役
◎ CM
・大関(1968年 - 1977年) - 太地喜和子と共演。「酒は大関 心意気」のキャッチコピーを利用したCMは田宮出演が最初。6本のCMに出演。うち1本は2009年、稲垣吾郎により同カットでリメイク、放映された。
・トヨタ自動車 コロナ(1977年 - 1978年、5代目後期型 - 6代目前期型発売当初)
・ホラヤ
◎ ラジオ
・ ベロー・ミュージック・ミラー 瞳のささやき(1959 - 1963年、途中から出演。文化放送)
・ プレイボーイクラブ(1968年10月 - 1969年?、TBSラジオ)
・ 白い巨塔(1965年 - 1966年、文化放送/ラジオドラマ) - 財前五郎 役
● 音楽作品
◎ シングル
大映レコード
1967年
EP
D-3
A
青い犬のブルース
B
黒い太陽
ビクターレコード
1969年7月5日
EP
SV-860
A
パパの子守歌
十津川光子
植原道雄
寺岡真三
B
Let's go to dance my baby (いとしの奥方)
山上路夫
鈴木庸一
近藤進
1970年7月
EP
SV-2057
A
落葉の別れ
宮琢磨
すずきたけし
近藤進
B
深夜のRoute 246
原由紀
鈴木庸一
竹村次郎
1971年5月
EP
SV-2146
A
弱気だぜ
なかにし礼
鈴木庸一
近藤進
B
愛して別れたあとで
日本コロムビア
1975年8月
EP
P-419
A
パパの子守唄
朝海さち子
植原路雄
B
男の扉
阿見宏介
ポリドール・レコード
1978年
EP
DR-6249
A
たそがれの都会
伊井田朗
渡辺岳夫
福井峻
B
「白い巨塔」メインテーマ(インスト)
-
渡辺岳夫
◎ アルバム
○ オリジナル・アルバム
ビクターレコード
1968年
LP
SJV-396
上海ブルース
※ 注記以外は編曲:植原道雄
Side A:
上海ブルース
夜霧のブルース(作詞:島田磬也、作曲:大久保徳二郎)
あいつ(作曲:平岡精二)
知りすぎたのね
泣くんじゃないよ(編曲:原田良一)
恋のトランペット
Side B:
知りたくないの
ワン・レイニー・ナイト・イン東京
おさななじみ(作曲:中村八大)
夜霧!お前と……
一人ぼっちにゃ馴れっこさ(編曲:倉知輝)
赤いアンブレラ
ビクターレコード
1979年
LP
SJX-20123
田宮二郎
※上記「上海ブルース」と同内容。追悼盤、タイトルジャケットを新装した再発売LP。
○ オムニバス・アルバム
・ シネマスタア・コレクション<アクションスタア編>(2003年1月22日、ユニバーサル インターナショナル、UICZ6007)-「青い犬のブルース」収録。
・ 昭和銀幕ハードボイルド ベスト(2019年11月6日、テイチクエンタテインメント、BHST-250)-「青い犬のブルース」収録。
● 関連書籍
・升本喜年 『田宮二郎、壮絶 いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』(清流出版、2007年(平成19年)11月)
・回想伝記、著者は仕事仲間で、松竹で映画・テレビプロデューサーを務め、1972年〈昭和47年〉の映画『人生劇場』、1976年〈昭和51年〉のテレビドラマ『白い秘密』ほか、田宮出演作品の企画・製作を通じて親交があった。
・石田伸也 『田宮二郎の真相』(青志社、2018年(平成30年)11月)、夫人への取材を行った評伝。
「田宮二郎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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