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は、日本の歌手、俳優、タレント。新御三家の1人。本名は木本 龍雄(きもと たつお)。広島県広島市東蟹屋町(現在の東区)出身。アースコーポレーション所属。血液型はAB型。
● 来歴
◎ 生い立ち
父・木本三郎、母・とし子の間に三人姉弟の末っ子として広島県広島市東蟹屋町(現在の東区)愛宕町に生まれる。1962年4月、広島市立尾長小学校に入学。ジャズ・ギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に親しみ、広島中央ジャズ・スクールに通うようになる。最初はエレキ・ギター、その後にベース、次いでドラムを勉強した。
1965年、小学4年生の時に兄とエレキ・バンド「ベガーズ(beggars)」を結成。小学校在学中から小学生ドラマーとして活動する。1968年4月、広島市立二葉中学校に入学。兄が中3、自身が中1の時には中学校の文化祭でステージ演奏をした。ザ・ベンチャーズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、シカゴなどの洋楽に影響を受ける。こうした洋楽通ぶりが後に、他のアイドル歌手とは一線を画す個性となった。
◎ ドラマーから歌手へ
1969年、中学2年生の時、兄たちが卒業したため「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成。1971年4月、山陽高等学校商業科に入学。「ジプシー」のリード・ボーカルとなる。それまではロックの世界でドラマーとして成功することを目指していたが、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を聴いて歌謡曲のイメージが一変し、歌手に転向することになった。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの第1回、第2回に出場し。R&B喫茶「パンチ」から声がかかってレギュラー・バンドになり。
1971年10月3日、厳格で頑固だった父親の芸能界入りへの猛反対を押し切って
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● 業績
◎ スタジアム・コンサート
西城は、スタジアム・コンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催した(グループでの日本初は1968年のザ・タイガース)。
1974年夏、ワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く。これは、「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した。観客2万5000人。
コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円、1回にかかる費用は当時の金額で6000万円かかり、満員になっても儲けが出ることは無かったという。
大阪球場での公演は、1974年から1983年まで10年連続で行われた。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多かった。
西城の球場コンサートでは、ただ歌と演奏をするだけではなく、現在では許可が下りない危険な演出も行われた。具体的には、建設用クレーンに吊るされたゴンドラの中での歌唱や。ソロシンガーとしての初の開催であり、以降、1981年まで毎年コンサートを行い計4回。後楽園球場の最多公演アーティストとなる(後楽園球場コンサートを開催したミュージシャン)。
1978年夏の全国縦断ツアーでは、5回目の大阪球場の他、三重県の合歓の郷(7月9日)、千葉県東部の九十九里浜特設ステージ(7月26日)で野外ライブを行った、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている。
◇なんばパークスガーデンのモニュメント
大阪球場跡地に建設されたなんばパークスの屋上にあるパークスガーデンには、難波及び大阪球場にゆかりのある人物の手形モニュメントが展示されていた。その中には西城の手形とサインが入ったモニュメントもあった。
その後、2024年にそれらのモニュメントは7階パークスミュージアム横に移転された。
◎ ペンライト
アイドルのコンサートで使われるペンライトは、西城のコンサートが発祥とされる。その経緯は、サイモンとガーファンクルの海外のライブでファンがライターを灯す姿にヒントを得て、1974年の球場ライブで「(火は危ないから)なにか光るものを用意してきて」と観客に呼びかけると、それ以降、観客がペンライトを用意するようになった、というもの。
ペンライトが使用された具体例として、3回目の大阪球場ライブを伝える1976年11月の『月刊平凡』の記事に「ヒデキの登場に、赤、黄、グリーンのペンライトを持ったファンが応える」という記述や、
1976年11月の武道館リサイタルをレポートした『mimi』1977年1月号の記事に「全方向から見られるように、八角形にしつらえたステージ。秀樹のステージでおなじみとなったペンライトのゆれる中で..」という記述が見られる。
◎ 野外ライヴ
1975年7月20日、富士山麓(緑の休暇村)での野外ライヴでは、広大な空き地に一からステージを設営し、バスで全国から観客を運んだ。当初は10万人の動員を予定していたが。
当時の週刊誌で「史上初、空前絶後の大イベント」と書かれた
この松竹版がドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』である、『エルビス・オン・ステージ』をヒントに製作されたと評されたと評している。
◎ アジア進出
◇香港
1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演。20分のゲスト出演だったが、番組視聴率は90%を超えた。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞。
アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる。
当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった。
1982年9月22日 - 9月24日の3日間、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)。
当時の香港では、教科書問題が起こり、同時期コンサートを予定していたさだまさしと三原順子は中止を余儀なくされたが、西城だけは特別扱い。広告曲は「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で鑑賞に訪れるので。1986年に香港でも発売したカバー・アルバム『Strangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで47週トップを独走した。
香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された。
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◇アジアのスターとの交友関係
アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった。
ジャッキー・チェンやサミュエル・ホイ、ジョイ・ウォンなどが、早くから西城のステージを観に訪れた。中国人民対外友好協会の二年越しのオファーに応える形で行われた。
1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産の万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する。この模様は10月13日、中国全土に放映された。
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◇韓国
1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭にチョー・ヨンピル、ダニー・チャンと共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う。
このとき、韓国の公式の場において、初めて日本語の歌が放送された(参考:韓国での日本大衆文化の流入制限)。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された。
"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンタテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる。
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◇その他
自ら構築したステージ狭しと駆け回り、派手な身振り手振りで楽曲の世界観を表現する、「日本のアイドル歌手」というスタイルをいち早くアジア各国へ輸出した。
『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイのテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシテンプラ西城秀樹」と連呼するので驚いたと話している。
西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放のゴールデンタイムで生中継されるのは初めてといわれた。
2012年9月16日、ブラジル・サンパウロで23年振りにコンサートを開催。
◎ 歌番組
◇夜のヒットスタジオ
フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル『チャンスは一度』での出演であった。1974年以降、準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし・森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。
:1984年11月19日放送では、ワムの「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ -Careless Whisper-」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。
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◇ザ・ベストテン
『ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げた。
「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど、番組の立ち上げと隆盛に貢献した。
◎ テレビ・広告 他
◇バーモントカレーのCM
:1973年から1985年にかけてハウス食品(旧・ハウス食品工業)の「バーモントカレー」の広告に出演した。キャッチコピーの"ヒデキ、感激"、"ヒデキ、ご機嫌"、"ヒデキ、満足"などがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る。
:材料にリンゴと蜂蜜を使っているという商品の特徴は、西城の歌う広告曲を通じて広く浸透し、同製品の知名度を一気に高め、カレーライスの国民食押し上げに貢献した。
:なお、西城本人は甘めのカレーがあまり好きではなく、収録のテイクの度に何度も食べるのがつらかった、と後に語っている。1986年にバーモントカレーを「卒業」し、辛さを前面に押し出した「ジャワカレー」のテレビ広告に起用されたことを喜んでいた。
:2018年に西城が逝去した際には、ハウス食品グループ本社から「(西城出演の)バーモントカレーの広告で、カレーが国民食となり愛されることとなった」など感謝を込めた追悼メッセージが発せられた。また、西城の通夜では参列者に会葬御礼としてバーモントカレーが用意され、関係者によって配られた。
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◇寺内貫太郎一家
:西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーの広告で見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた『寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった。
:久世光彦プロデューサーは、西城抜擢の経緯について「秀樹がテレビやステージでみせる、あの炎のような激しいアクション、力感、エネルギー。だがその影には、きっと涙があるに違いない。バンカラではなく、少年のようにセンサイで、悲しいものを持っている。それが本当の"男"の魅力です。今度のドラマで追求したいのは「日本人の男らしさ」―それを表現する素材として、秀樹以外に考えられなかったからです。秀樹は将来、役者としても大物の素材であることは間違いない。日本のアラン・ドロンは沢田研二だが、ぼくは秀樹には日本のジェームズ・ディーンになってもらいたいんです。ドラマは秀樹の弟と姉の将来をタテの線に、人間の傷つけあい、かばいあいをヨコの線に進めていきます」などと話した。当時の人気タレントはドラマの収録に充てる日にちはせいぜい一週間に2日だったが、西城は一週間に4日空けて、久世からのオファーに応えた。
:毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる。
:当時を振り返って西城は「やってる方は愛情もクソもない。亜星さんを本気で張り倒すつもりでやっていた」と話している。
:小林も「ボクもヒデキも本気だった。リアルな芝居を求める久世光彦さんが収録現場でどんどんNGを出す。ボクもヒデキもお互いに『このヤロー』となり最後には本気になって喧嘩してしまう」「当時のヒデキはスーパーアイドル。スケジュールは真っ黒で、本来なら長時間拘束されるドラマに出演している余裕などなかったはずだ。それでもヒデキは文句ひとつ言わずに熱心にリハーサルを行う。出演者は収録後、しょっちゅう飲みに行ったが、多忙を極めていたヒデキは自分の出番が終わると次の現場に急行だ。時にはワガママを言うのが普通のアイドルだろうけど、ヒデキのそんな姿は見たことがない。今、あんなことが収録現場で起こったら大事件とみなされ、すぐに番組は打ち切られるだろう。当時だって事情はそんなに変わらなかったと思う。打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある」などと話し、番組の継続は俳優の仕事にも理解を示していた西城のお陰であると述べている、1970年代から1980年代に頻繁に民放テレビで放映された「オールスター運動会・水泳大会」では、スポーツ万能を活かして競泳、走高跳などで活躍した(走高跳では芸能人記録を樹立)。フジテレビの「紅白スター対抗水泳大会」が番組最高視聴率28.9%を獲った1978年2月7日放送回では白組キャプテンを務めた(紅組キャプテン・郷ひろみ)。
:郷との対決は番組のハイライトだったが、西城は水泳大会では、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。
:また西城の幅の狭いブーメランパンツから覗く剛毛は「ギャランドゥ」と呼ばれた。
:陸上をやっていたつんく♂は、芸能人運動会で西城秀樹を第3コーナーで抜くことが子どもの頃の夢で、中学二年で走り高跳びで165cmくらい跳んでたとき、西城がレコード会社対抗運動会で、走り高跳びで150cm跳んで優勝したのをテレビで観て「この運動会出たら、オレ1位になれる」と思ったことが将来の目標を芸能人と決めた切っ掛けと言う。
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◇ちびまる子ちゃん
:さくらももこの漫画『ちびまる子ちゃん』では、主人公まる子の姉さきこが大の西城ファンという設定があり、漫画・アニメ問わずしばしば西城に因んだ話が登場している。また、作者のさくら自身も西城のファンであった事から、さくら側が西城に依頼する形で、同作のテレビアニメ第1期後半のエンディングテーマ「走れ正直者」の歌唱を担当した。
:その後、2007年から2008年に放送された同作のテレビドラマ版『まるまるちびまる子ちゃん』では、第20回の2時間スペシャルに西城が魚屋の主人「魚辰の辰」役で出演。
:西城の訃報が報じられた際には、さくらはブログで追悼のコメントを記した 。
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◇後進タレントの発掘
:芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、デビュー間もない1972年夏、事務所関係者と共に浅田美代子を街頭でスカウト。無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦した。
:また、自らの名前を冠した新人コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」からは河合奈保子と石川秀美がデビューした。河合も石川もオーディションの1位ではなく、他の人が選ばれそうなところを西城の強い推しで逆転1位になった。
:また西城のコンサートで、熱狂の余り突然ステージ上に乱入した、ファンの岸本加世子を「自分の事務所に入らないか。」とスカウトした。
● 家族・親戚
2001年6月30日、長らく独身であったが、大阪府在住の会社員の一般女性と結婚。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に次男が誕生している。
・姉
・子 - 宅見将典 - 秀樹の甥
・妻
・長男 - 木本慎之介
・長女
・次男
「西城秀樹」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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