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小野寺 昭(おのでら あきら、1943年9月19日 -)は、日本の俳優、大阪芸術大学短期大学部客員教授。本名は同じ帯広市出身。北海道帯広三条高等学校卒業。高校卒業後、東京で児童劇団を主宰していた父親の元劇団仲間を頼って、上京する。俳優座養成所入所を目指すも2年連続で受験に失敗する。最終選考では高橋長英が隣の番号で、合格していれば花の15期生だった。劇団やまいもに参加し、『チロリン村とくるみの木』の人形操作を最終回まで担当した。当時は人形を操りながら、「役者になりたくて東京へ出てきたのに、顔を出すと怒られるなんて」と悔しがったが、芝居のセリフを入れたテープをもらい、カット割りを頭に入れ、スタジオでテープの声に合わせて、足元のモニターを見ながら人形を操作する作業により、ドラマ・映画の撮影時のカット割りの要領を独学で覚えた。この修練は後年大いに役立ち、時代劇の殺陣の所作も腰が容易に決まるようになった。
1969年、TBSの『パンとあこがれ』に出演、25歳で17歳の役を演じる。リハーサル後の休憩時間に、俳優には渡されないスタッフのカット割り台本を見つけ、頭に入れて本番に臨み、カット割りにキッチリ合わせた芝居をして高い評価を受ける。当時はNGを出すと、ビデオテープを切ってつなぐのに1カ所3万円かかり、膨大なコストと時間がかかったが、小野寺はカット割りを理解していたおかげでNGが少なく、その後の俳優生活の飛躍に繋がった。
1970年には第8回プラハ国際テレビ祭演出賞受賞作品であるNHK『ナタを追え』(橋本忍原作)で中心人物の小西順吉巡査役で出演、1971年には木下惠介ドラマ『冬の雲』の小鄕良助役で、優しくて物静かで誠実な男性を好演、雑誌の『Myojo』や『週刊平凡』でも話題になり、若い女性の間で評判になった。
『太陽にほえろ』降板直後の1980年10月から、平岩弓枝原作のNHK時代劇『御宿かわせみ』に出演、真野響子が演じる主人公・るいの恋人役・神林東吾を演じて好評を得る。計47回の放送は大河ドラマに匹敵する充実した内容となり、「真野・小野寺コンビ」の印象が強かった作品となったことから、NHKが再び『御宿かわせみ』を制作するまで20年近い歳月を必要とするほど人気を博した。
2時間ドラマにも多数出演し、明智小五郎、金田一耕助、十津川警部、狩矢警部などの名探偵役・名刑事役に起用された(明智と金田一の両方を演じたのは2006年末現在、小野寺、岡譲司、稲垣吾郎の3名のみ)。
『If もしも』では、出演当時50歳でギャグ作品ではないにもかかわらず、回想シーンでも学生服を着て高校生役を演じた。
2007年4月には大阪芸術大学短期大学部広報学科(現・メディア芸術学科)演劇(演技演出)コース教授に就任した。2012年6月には、前任者の川村龍一が急逝したため、同学科の学科長に就任し、12年間務めた。下積み時代に覚えたカット割りの知識を元に、演技だけでなく制作志望の学生にも指導をしており、1970年代に演じた「殿下」刑事を見たことがない若い学生から、「おばあちゃんがファンでした。」とサインをせがまれることがあるという。演技指導の基本は、優しすぎると言われるが、ピリピリしながら授業をするのいやだし、芝居は基本的に楽しくやらなきゃ、いいものは演じられないと思って、もしあのとき俳優座に受かっていればたぶんこういうことをやっていたんだろう、ということを学生たちにやらせており、「基本、役者は自分一人で努力するしかない。自立できる演技者になってほしい」と教えている。
2015年度、『龍三と七人の子分たち』で 第25回東京スポーツ映画大賞・助演男優賞を受賞した(近藤正臣、中尾彬、品川徹、樋浦勉、伊藤幸純、吉澤健、安田顕とともに受賞)。
2018年8月7日、長野県安曇野市の北アルプス燕岳燕山荘内で階段を踏み外して頭を打ち、ヘリコプターで長野県松本市内の病院に搬送された。外傷性くも膜下出血と診断されたが、軽症とみられ、2週間程度で退院できるとされた。合気道や射撃などの正統派アクションシーンに強いばかりでなく、爆発物の解体、金庫破り(第62話など)、録音テープを使ったアリバイ工作の見破り(第230話など)、無線の駆使(第227話など)等々、知的で繊細で手先は器用、メカや女性心理に強い特徴があり、女性層から絶大な人気があった。番組宛のファンレターも小野寺宛が一番多く、若い女性が多かった。萩原健一、松田優作、勝野洋と引き継がれていく後輩刑事役たちのカジュアルさとも、先輩役竜雷太の無骨さとも対照をなす役柄であり、沖雅也登板までは、同番組での若手二枚目イメージを一身に担うポジションであった。
・ その絶大な人気ぶりは、殿下ファンの女性の父親から「毎週殿下を楽しみに番組を欠かさず見ていた娘が家出をしたので、テレビを通じて知らせてほしい。」と日本テレビに依頼があったほどであった。作品の中で、家出した娘に対して、「父親が心配しているから早く家に帰るように。」と殿下が説得する形で呼びかける作品(第247話「家出」1977年4月15日放送)を作った。実際に娘が見つかったと連絡があったという。
・ 『太陽にほえろ』の視聴率が初めて視聴率20%台に乗ったのは、殿下の優しい性格をアピールするために作った「真夜中の刑事たち」(第8話・1972年9月8日放送)で、関係者はこの作品でヒットの確信をつかんだ。
・ 匿名で番組係宛てに送られてきた脚本を基にした「鶴が飛んだ日」(第79話・1974年1月18日放送)では、犯人によって麻薬中毒にされた殿下が実際に露口茂演じる山さんと本当に手錠につながれ、手首を血だらけにして暴れまわった迫真の演技が大きな反響を呼んだ。岡田晋吉プロデューサーはファンとの座談会で、「やっぱり太陽にとっては、この作品(「鶴が飛んだ日」)は、一つの節目だった。小野寺さんも必死だったけど、露口さんの方も必死だった。露口さんが俺のことはいいからやりたいようにやれと言ったら、小野寺さんは本当にやりたいようにやった。二人とも本当に燃焼した。だから迫力があった。あれから露口さんと小野寺さんは仲よかったですね」と語った。
・ 最初に恋人役(有吉ひとみ)が登場した時は、「殿下に恋人がいるのは許せない。」と投書が殺到したため、初登場(第70話)から僅か17週後、僅か3回目の出番で交通事故死させた(第87話)。二番目の恋人(演・真野響子)とは出会いから別れまでを1話で完結させた(第150話)。脚本家の畑嶺明は「(殿下の恋人役で)どんないい女を登場させても、ファンの反感を買うだけだった。」と証言している。岡田晋吉によると、実際に優しい性格の殿下の恋が悲恋に終わり、不幸になればなるほど、女性視聴者は母性本能をくすぐられ殿下を応援してくれたという。
・ 第299話「ある出逢い」(1978年4月21日放送)より三人目の恋人・三好恵子(香野百合子)が登場した時は、「殿下と恵子を結婚させないで。」とファンからの手紙や電話が殺到した。殿下の結婚反対の投書には、脅迫状まがいのものから、香野宛の封筒にカミソリが入れてあったり、クラスメイトなど200人の署名を集めたノート、学校の昼休みにグループで電話をかけてきて泣きわめいたものもあった。岡田晋吉は、「いくら微妙な年頃とはいえ、驚きますよ。もうなんて言ったらいいかわかりません。」と証言している。この物語は恵子の犯人隠匿(第306話)・車爆破事件の重い後遺症(第311話)と困難な道程が描かれてのち、恵子は治療のため渡米し(第335話)番組では約1年半不在に。そして空港での再会直前に島刑事が交通事故死するが(第414話)、この悲劇的結末は小野寺の番組卒業と連動する構成となった。計6回続いた恋愛劇は「あるシリーズ」と呼ばれ人気を博し、ビデオ化の際に「もう一度見たい」という圧倒的なリクエストが寄せられ、「殿下純愛編」として発売された。
・ 上京する前から、ボスを演じた石原裕次郎の大ファンだった。最初に『太陽にほえろ』の宣伝写真の撮影のときに会った時は隣にいたにも関わらず、一言も話せなかったが、テレビのインタビューで俳優を目指した理由を聞かれた時に、石原裕次郎に憧れて俳優になったことを話すと、その番組をまき子夫人がたまたま見ていた。インタビュー放送直後の撮影で、裕次郎から「殿下、俺のファンだったんだって。テレビで見たって、カミさんが言っていたぞ。」と声をかけられ、ゴルフや自宅にも呼ばれるようになった。
・ 小野寺が下積み時代に人形劇団にいたと知った岡田晋吉は、殿下主演作品として人形劇団に潜入捜査する「夢見る人形たち」(128話・1974年12月27日放送)を作り、「人形なら僕にまかせて」と小野寺は劇中で見事に人形を操作する姿を披露した。しかし小野寺にとっては「人形劇をやる時、幕の陰で膝で動き回るので、厚い膝あてをするが、どんどん擦り切れてくる。おれもこの膝あてみたいにこのまま擦り切れていくのかと思っていた。」とつらい時代の思い出だったという。
・ 昭和54年3月30日に後楽園球場で開催された『太陽にほえろ』と『大都会 PARTIII』の野球対抗試合では、18,000人の大観衆の前で先発投手として登板、降雨中止になる2回まで無得点に抑え、自らヒットを打つ活躍で最優秀選手に輝いた。投球は「ヘンカ球」ならぬ「デンカ球」とほめられ、「いやあ、人前で投げたの初めてなんだけどなあ。」と自分でもびっくりした。
・ もともと合気道を習っていたが、『太陽にほえろ!』に出演が決まってから、それまでホームドラマの出演が多かったためさぼっていた合気道の特訓をはじめ、毎日曜日、TBSの番組宣伝部員が先生である三鷹市の春信寺合気道に通いだし、アクションもばっちり決まるようになった。
・ 出演5年目くらいに、このままでは刑事しか演じられなくなるのではと考え、降板を申し出たがプロデューサーの岡田晋吉に「絶対ダメ」と拒絶される。8年目に殉職が決定した際に岡田晋吉からは「正式に発表するまでは一切口外しないように」と言われ、そのとおり口外しなかったにもかかわらず、間もなく石塚刑事役の竜雷太から「お前、辞めるんだって?」と聞かれ仰天した。その真相は、竜も同時期に降板を申し入れたものの「殿下の卒業が決まったばかりなので待ってくれ」と慰留されたためだった(竜は2年後の1982年に殉職の形で番組を降板)。当時の太陽にほえろファンの間では、第一回から出演を続けてきたレギュラー刑事「殿下」の降板はそれほど衝撃的な事件だった。竜雷太演じるゴリさんは藤堂一家の長男的存在で「たくましい男」、殿下は次男坊で「やさしい男」の象徴だった。
・ 多くの出演者が壮絶な銃撃戦による殉職シーンを演じていたが、島刑事は撃ち合いではなく交通事故によりあっけなく死亡するという結末となった。これは小野寺自身の「自分は若手刑事ではないので、あっさりした殉職シーンを。」という希望に沿ったためである。ドラマ放映後には交通事故シーンロケ地である旧国道135号線、石橋山古戦場すぐ近くの高台に「島公之殉職之碑」が建てられた。現地を訪れた小野寺本人は「なんだか不思議な気持ちです。」と複雑な表情で語った。
・ 1988年放映の金田一耕助『三つ首塔』では、露口茂と『太陽にほえろ』以来約8年ぶりに共演した。小野寺は露口が「小野寺がやるなら。」と出演してくれたことがうれしかったと語った。翌年の明智小五郎『蜘蛛男』では、長寿刑事ドラマとして『太陽にほえろ』とライバル関係にあった『特捜最前線』橘警部役の本郷功次郎とも共演している。
◎ 趣味
・ 趣味の登山には50歳を過ぎてから本格的に取り組んでおり、著書も刊行している。日本百名山の中の半分近くをすでに踏破し、日本に27ある3000m級の山を踏破する目標を持っている。自ら選んだ目標に挑み、ペース配分を考え、つらさを克服し、自分自身と戦いながら最後にその目標を達成することに人生と同じ喜びを感じたからという。
・ 自分が立てた目標をクリアするのが登山の目的であり、頂上まで登らないと意味がないと思うので、単独行で登山するという。
・ パソコンによる作曲も得意で、携帯電話の着信音も自分で作曲・アレンジしたものをダウンロードしている。
・ 他にもギター
● ディスコグラフィ
◎ シングル
・1〜6:日本コロムビア、7:ポリドール。
発売日 A/B面 タイトル 作詞 作曲 編曲 規格品番
1
1975年
6月1日 A面 白いページ
山川啓介
大野克夫
青木望
P-412
B面 風よ
2
1976年
2月1日 A面 冬の手紙
竜真知子
あかのたちお
P-445
B面 白い街
3
1976年
6月1日 A面 燃えてるあいつ 中里綴 田山雅充
ラスト・ショウ
PK-4
B面 愛のささやき 高野早苗 滝まさる
4
1977年
5月1日 A面 旅でもしようか 藤公之介 大塚博堂
萩田光雄
PK-53
B面 友達がいた こうえいか 大浜和史
5
1977年
11月1日 A面 ふたりの方がいい 藤公之介 山本寛太郎 青木望
PK-83
B面 子供の頃 小野寺昭
クニ河内
6
1979年
9月1日 A面 愛
喜多條忠
出門英
木森敏之
PK-168
B面 愛という出会い
7
1992年
9月26日 01 北の街 恋の味
荒木とよひさ 柳和文
山中紀昌
PODH-1091
03 色あせた時のままに 鈴木義之
◎ アルバム
◎ タイアップ曲
年 楽曲 タイアップ
1975年 風よ 日本テレビ系ドラマ「太陽にほえろ」挿入歌
1976年 燃えてるあいつ TBS系ドラマ「火曜日のあいつ」EDテーマ
1979年 愛 TBS系ドラマ「愛」主題歌
1992年 北の街 恋の味 ハウス食品「うまいっしょ」CMソング
● 著書
・ 『ぼくの山登り いつも雨』リヨン社 1998年
「小野寺昭」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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