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江藤愼一


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江藤 慎一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 2008年2月28日)は、熊本県山鹿市出身(福岡県北九州市生まれ)のプロ野球選手(捕手、内野手、外野手)・監督、解説者。 前妻は元宝塚歌劇団44期生の瀬戸みちる。次女のはやせ翔馬は74期生。プロ野球選手、コーチ、慶大の監督を務めた江藤省三は実弟。

● 経歴


◎ プロ入りまで
北九州で生まれたが、太平洋戦争による集団疎開で各地を転々とし、幼少時より新聞配達やアイスキャンディー売りなどで家計を助けていた、日鉄二瀬の濃人渉監督を訪ねた。新規採用は既に終わっていたところを、濃人は会社に臨時雇での採用を掛け合い、江藤はテスト入団を果たした。江藤は入社直後は右方向しか打球が飛ばなかったが、濃人の指導によりきちっとしたスイングを身に付けた(チームメイトの古葉毅による)。1956年からまで都市対抗に3年連続出場を果たし、の大会では1回戦で鐘化カネカロンと対戦して決勝本塁打を放つ。この試合でチームメイトの村上峻介とバッテリーを組み、大会史上初の完全試合をアシスト。1958年の大会はエース・井洋雄の好投もあって決勝進出を果たすが、日本石油に敗れる。同年の産業対抗では決勝で日本ビールを降し、チームを初優勝に導いた。他の同僚には吉田勝豊がいた。

◎ 中日時代
に強肩・強打の捕手として中日ドラゴンズへ入団したが、後に古葉は「江藤は私と一緒の広島に入団すると思っていたが、中日は広島の2倍以上の契約を提示したため江藤は中日に入団した」と述べている。契約金500万円、月給10万円であった。当時の中日は吉沢岳男が正捕手としての地位を確立していたため、杉下茂監督は前年引退した西沢道夫が守っていた一塁へと江藤をコンバート、最終的に外野を守らせる構想もあった。4月15日の巨人戦(後楽園)では、1-4で3点差を追う9回表に伊藤芳明からプロ入り12打席目で初本塁打となる2ラン本塁打を放つ。杉下は江藤を全130試合に起用し。結局、同年のシーズンオフに水原の構想外となって球団からトレードを通告された。このトレードに対して中日ファンは強く反対し、球団への抗議電話はもちろん署名運動まで起こったが、球団側は水原の意志を優先した。水原が監督就任発表時に中京財界の要人らを従えてきたこともあって、水原に対して江藤の立場が弱かったとも言われている。トレード通告に対して江藤は「中日の江藤で終わりたい」とトレードを拒否。江藤は水原の自邸を訪問して中日残留を直訴したともされるが、江藤の訴えは容れられず、12月26日には任意引退に追い込まれてしまった。

◎ ロッテ時代
に濃人がロッテオリオンズの監督に就任すると、江藤を引き取るべく中日と交渉。6月4日に形式上は川畑和人との交換トレードの形を取って、江藤は現役復帰を果たした。途中加入ながらシーズンでは11本塁打、31打点を記録し、10年ぶりのロッテのリーグ優勝に貢献。巨人との日本シリーズでは第5戦(東京)で高橋一三から先制1号2ラン本塁打を放っている。 には榎本喜八に代わり一塁手に定着し、開幕から四番打者として起用されて3度目の首位打者を獲得、史上初のセ・パ両リーグ首位打者となる。これはに内川聖一が記録するまで、40年の長きに亘って江藤のみの記録であった。自身の誕生日である10月6日に行われたシーズン最終戦の南海戦(東京)で首位打者が確定したが、翌7日にオーナーの中村長芳から大洋へのトレードを通告される。一方の太平洋側にも、稲尾和久の後任として大沢の就任が9分9厘決まりかけていたのを「かつての西鉄のような荒々しい野武士野球を」と中村長芳オーナーが一転して、江藤に白羽の矢を立てた事情があり、監督兼任での獲得となった。球団運営会社である福岡野球の経営難により、用意された住居は6畳一間のアパートであったが、「俺は野球が出来ればええんじゃい」と意に介さなかったという。 11月に江藤を送り出す大洋は中部謙吉オーナー同席の記者会見を行い、トレードというより太平洋監督就任の挨拶という内容の新天地にかける抱負を延々と述べた。太平洋も中村オーナーが同席して福岡市内のホテルで記者会見を行うが、地元記者クラブが「福岡でまず新監督の発表をして、そのあと東京でやろうというのならまだしも、先に東京でやるとは」と激怒し、中村に抗議文を突き付けて記者会見をボイコットしたし、大洋からは打撃投手兼通訳の古賀英彦を連れてきて、古賀は一軍投手コーチ補佐に就任。 在任中はユニフォームの後ろポケットにバットを突き刺すというスタイルで注目を集め、ファイト剥きだしのプレーと首脳陣にも思ったことを口に出す江藤は、投手出身で選手を長い目で見て育てようとする前任の稲尾のカラーを一掃すべく、力のある強打線で打ち勝つ野球を標榜。トレードで日本ハムから白仁天、近鉄から土井正博のスラッガーを獲得。このシーズンのライオンズ打線には山賊打線の異名が付けられた。ひと癖もふた癖もある個性派ぞろいのチームは派手に打ち勝つゲームがあるかと思えば、打てないときは全くお手上げという大雑把な野球であったが、低迷するライオンズの現状を打ち破るのではないかという期待をファンに抱かせた。江藤は「来年も山賊野球で大暴れしてペナントに挑戦する」とやる気満々であったが、打撃3部門に2人、最多勝と計3人も主要タイトルを3人も獲得し、西鉄から西武への過渡期の太平洋・クラウン時代で唯一のAクラス入りも借金4で、江藤の采配にはフロントも「優勝もしていないのに個人タイトルばかり獲らせて・・・。契約更改がゾッとする経営者泣かせの監督だ」と顔をしかめた。借金がかさみ、給料の遅配もあった当時の太平洋にとって、江藤の山賊軍団は迷惑な存在になっていた。その後、結局ドローチャーは体調不良で来日せずに契約を破棄したため、後任監督にはヘッドコーチの鬼頭政一が昇格した。 在任中に竹之内雅史とベンチ裏で口論を繰り広げるなど、チーム内に団結力は生まれなかった。当時の選手からは以下のような評価がある。
・江藤慎一選手兼任監督の時は干されました。春のオープン戦で長崎の諫早に行ったときに若い選手を集めて江藤監督が打撃理論を講義したんですけど、僕には理解できなくて「できません」と言ってしまったんです。あとから考えるとその打撃理論分かったんですが、そのときは思ったんです。そしたら「お前、いらない」と言われ、使われなくなりました。(大田卓司)
・次の監督江藤さんだったけど、見ると聞くとじゃ大違い。豪快な人に見えるよね?それが繊細な人でね、気が小さいし。この人と俺、一回ケンカしたことあるんだよ。それが、監督のほうから謝ってきた。普通だったら、選手の立場から言うとクビって言われても仕方ないようなケンカやったのに。そういう意味じゃ、懐深ったのかもしれないね。(竹之内雅史)
・がらっぱちな性格で、試合で選手がちょっとしたミスを犯してもコーチを呼んで蹴飛ばしたりする。熱すぎるのだ。しかし、私はキャンプで右膝を痛め、我慢してプレーしていたが、それも限界に達し、江藤監督のスタイルとも合わないこともあって、生意気にも球団上層部に「トレードに出してください」と直訴してしまった。(伊原春樹)

◎ ロッテ復帰
、金田正一監督の「プロとしての生きざまを若い選手に見てもらいたい」との誘いでロッテに復帰。金田は記者に獲得の理由を聞かれた際、「江藤に男の花道を飾らせてやる」と言っている。妻子を博多に残して四畳半の合宿所住まいを選び、大好きな酒も断ったほか、猛烈な走り込みなどで13kgの減量に成功、現役を引退。

◎ 引退後
引退後はから東京12チャンネル→テレビ東京「○曜ナイター→戦国ナイター」、ラジオ関東「バッチリナイター」解説者を務めた。 江藤は「引退後は中日新聞の記者になりたい」と考えていたこともあり、野球を言語化して伝えることについては、前向きに捉えていたが、テレビ局やスポンサーとの付き合いが好きになれず、解説者時代は悶々としていた。江藤は常々「わしはこの仕事は嫌いや」と放言し、「どれだけ事前に取材して現場に臨んでも不勉強なアナウンサーが台なしにするんや。売り出したい選手を推してくるんじゃが、わしは野球については絶対に嘘は言えん」と言っていたほか、「新人選手の評価や順位予想について節を曲げてまでコメントを出すのは、嫌で仕方がない」と親しい人物に漏らしていた。さらに、1980年9月には熊本日日新聞社の後援を受けて、熊本市の少年野球選手30名余を率いてブラジル遠征を実施。帰国後、世界少年野球協会(現在の少年軟式野球国際交流協会)の理事として有志を募り社団法人認可の準備に取りかかるが、乱脈に過ぎて経済的に行き詰まり、江藤は理事を辞任した。 4月からは静岡県田方郡天城湯ケ島町に日本野球体育学校(通称「江藤塾」)を設立。最初は天城湯ケ島町に野球場が建設されることになり、浄蓮の滝観光協会の肝入りで野球と観光をセットにしたボールパーク旅館などの着想があったが、球場建設のアドバイザーをしていた江藤は太陽が沈む方角とホームベースの向きについてなど、事細かく助言。そのうちに「ここで野球の学校をやりたい」と思い至ったや、野球ブラジル代表投手・ダニエル・ミサキの父であるマルセル・ミサキが含まれていた。 午前中の座学の授業では、江藤の人脈を活かして、幾人もの選手やOBが講義に来たが、巨人のファームディレクターであった弟の省三、メジャー挑戦から帰国した江夏豊が僅か2ヶ月後に湯ケ島まで来てくれた。江夏が講義した後は、寮の赤電話の前に行列ができた。それぞれに訳があって入学した選手達が、親や親類、友人達に感動を伝えるために殺到した。1球目は空振りで、2球目はかすってファウルし、目が慣れた3球目に左翼のフェンスを越える本塁打を放つ。江藤は目を丸くして「あんた、もし野球をやっていたら王、長嶋クラスになっていたよ」と言った。 からは同校のクラブチーム「天城ベースボールクラブ」が社会人クラブチームとして登録され、公式戦の参加が許された。にはヤオハンと業務提携し、チーム名を「ヤオハンジャパン硬式野球部」に改称。江藤は、ヤオハンのオーナー一族に「社名変更にあたって宣伝広告で新聞各紙に1億円出すなら、同じ静岡の野球チームに投資されませんか」と説き、ヤオハンはこの提携を受け入れた。 夏頃に脳梗塞で倒れて入院、以後は寝たきりの生活であった。弟の省三によれば、入院してからは球界関係者の見舞いを断り続けて、親族のみの訪問だけ受け入れていたとのことである。2月28日午後3時38分、肝臓癌のため東京都内の病院で死去。葬儀・告別式は東京都桐ケ谷斎場で行われた。葬儀委員長は渋沢良一元セ・リーグ事務局長。喪主は三女が務めた。。、野球殿堂入り。

● 選手としての特徴

・ 背番号8を長く背負ったことから「エイトマン」の愛称で呼ばれたほか、闘志溢れる打撃フォームや豪快なスイングに、一塁へのヘッドスライディングなど、常に全力を出し切るプレースタイルで「闘将」と呼ばれた。
・ 「丁寧に打つこと、特に最終打席を大切に」をモットーに相手チームの先発ローテーションを1ヶ月先まで予測し、過去数年間のデータと付き合わせ、実践的バッティングを予習するという細心にして根気強い研究による自信に裏付けられたバッティングであった。
・ 球を捉えに行くが下半身は残り、踏み込んで半身に構えるとアウトコースが甘くなるため、外に逃げる球でもバットの芯に当たった。それを右手を返さないでヘッドを左中間に持って行ったが、打球もまさに弾丸ライナーで、遊撃手が取れると思ってジャンプした球が加速してそのまま左翼席に突き刺さったこともあった。
・ 捕手出身で外野守備は得意とは言えなかったが、強肩には定評があり、1969年には15補殺を記録している。

● 人物

・ 日鉄二瀬時代、江藤は「自分は高校までだったから3人の弟は大学を出す」と月給11000円のうち、2/3の8000円を学費として実家に送金していた。また、中日入団後も最初の給料を全額実家に送金したが、あとで生活費がないことに気づき、5000円だけ送り返してもらったという。
・ 中日の球団職員を57年に渡って務めあげた足木敏郎は「野球選手に欠落しがちな社会常識もしっかり持ち合わせた人でした。マネージャーという立場上、江藤からよく電話がかかってきましたが、応対は実にていねいでした。『もしもし、足木さんのお宅でしょうか。江藤でございます」と名乗ったあと、必ず「いつもお世話になっております』と続けるのです」と振り返っており、他の選手は名乗ると同時に要件を話し出すが、江藤だけはベテランになっても年俸が上がっても御礼の言葉が必ずついた。容姿や言動からは想像できない繊細さや誠実を併せ持っており、引退後も試合のチケットなどを手配すると必ず毛筆で書いた達筆の礼状が送られてきた。しかもそれらは書の作品の域に達していたという。

● 詳細情報


◎ 年度別打撃成績

      中日  130  529  495  52  139  19  3  15  209  84  13  12  0  4  27  5  3  58  9  .281  .319  .422  .742
    130  474  429  48  108  19  2  14  173  61  7  11  0  4  36  5  5  49  8  .252  .314  .403  .718
    130  540  480  50  128  17  1  20  207  77  4  8  4  8  46  6  2  48  10  .267  .328  .431  .760
    133  562  493  74  142  13  0  23  224  61  4  4  1  5  60  5  3  61  4  .288  .365  .454  .820
    140  583  510  72  148  26  0  25  249  70  12  7  0  5  61  13  7  50  9  .290  .370  .488  .859
    140  527  468  57  151  21  0  21  235  72  5  1  0  6  47  6  6  43  13  .323  .387  .502  .889
    129  529  443  75  149  22  2  29  262  74  6  3  0  2  81  18  3  36  13  .336  .440  .591  1.032
    102  413  364  51  117  16  1  26  213  91  1  1  0  2  43  15  4  30  9  .321  .397  .585  .982
    132  553  481  85  133  20  1  34  257  78  6  6  0  4  64  14  4  49  9  .277  .363  .534  .898
    131  535  487  80  147  29  1  36  286  93  7  3  0  2  40  5  6  59  12  .302  .361  .587  .948
    119  497  436  51  122  20  2  25  221  84  1  3  0  6  51  9  4  52  10  .280  .356  .507  .863
      ロッテ  72  181  146  21  42  4  0  11  79  31  1  1  0  3  30  3  2  23  6  .288  .409  .541  .950
    114  446  389  57  131  8  1  25  216  91  3  1  0  6  49  5  2  41  15  .337  .408  .555  .963
      大洋  103  309  276  37  69  9  0  18  132  51  0  0  0  2  29  3  2  35  8  .250  .324  .478  .802
    111  405  365  30  103  7  0  15  155  44  2  3  0  1  38  5  1  33  20  .282  .351  .425  .775
    111  403  378  34  110  11  0  16  169  67  3  0  0  1  24  1  0  30  13  .291  .333  .447  .780
     太平洋  88  324  302  28  69  11  1  8  106  36  2  1  0  2  17  0  3  31  12  .228  .275  .351  .626
     ロッテ  69  237  214  22  49  2  0  6  69  24  1  2  0  4  18  0  1  24  6  .229  .287  .322  .609
 通算:18年  2084  8047  7156  924  2057  274  15  367  3462  1189  78  67  5  67  761  118  58  752  186  .287  .358  .484  .841

・ 各年度の太字はリーグ最高

◎ 年度別監督成績

 1975年  太平洋  3位  130  58  62  10  .483  2位・4位  135  .261  3.73  38歳

・ 1975年から1996年までは130試合制
・ 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は前期、後期順位の順に表示

◎ タイトル

・ 首位打者:3回(1964年、1965年、1971年) ※2年連続はセ・リーグ歴代4位タイ、右打者4位タイ。両リーグでの首位打者は江藤と内川聖一の2人のみ
・ 最高出塁数:1回(1971年)

◎ 表彰

・ ベストナイン:6回(1961年、1963年 - 1966年、1968年)
・ オールスターゲームMVP:2回(1965年 第3戦、1968年 第1戦)
・ 野球殿堂エキスパート部門(2010年)

◎ 記録

◇初記録
・初出場・初先発出場:1959年4月11日、対大洋ホエールズ1回戦(中日スタヂアム)、5番・一塁手で先発出場
・初安打・初打点:同上、6回裏に鈴木隆から右前適時打
・初本塁打:1959年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、9回表に伊藤芳明から左越2ラン
◇節目の記録
・100本塁打:1964年4月5日、対阪神タイガース2回戦(中日スタヂアム)、9回裏に村山実から左越ソロ ※史上35人目
・150本塁打:1966年5月3日、対読売ジャイアンツ4回戦(後楽園球場)、1回表に中村稔から左越先制決勝2ラン ※史上21人目
・1000安打:1966年6月26日、対大洋ホエールズ11回戦(川崎球場)、6回表に平岡一郎から中前安打 ※史上24人目
・1000試合出場:1966年8月4日、対読売ジャイアンツ16回戦(中日スタヂアム)、4番・左翼手で先発出場 ※史上114人目
・200本塁打:1967年9月19日、対読売ジャイアンツ21回戦(後楽園球場)、7回表に中村稔から左越3ラン ※史上15人目
・250本塁打:1969年5月25日、対読売ジャイアンツ6回戦(中日スタヂアム)、3回裏に高橋一三から左越3ラン ※史上7人目
・1500安打:1970年8月16日、対西鉄ライオンズ18回戦(小倉球場)、4回表に後藤清から三塁内野安打 ※史上26人目
・1500試合出場:1971年4月29日、対南海ホークス4回戦(大阪球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上37人目
・300本塁打:1971年8月5日、対東映フライヤーズ17回戦(東京スタジアム)、2回裏に柳田豊から先制ソロ ※史上6人目
・1000打点:1972年7月16日、対広島東洋カープ16回戦(青森県営野球場)、9回裏に大石弥太郎から右前適時打 ※史上9人目
・3000塁打:1973年5月26日、対読売ジャイアンツ7回戦(川崎球場)、4回裏に関本四十四から右前安打 ※史上9人目
・350本塁打:1974年9月23日、対ヤクルトスワローズ23回戦(川崎球場)、4回裏に松岡弘からソロ ※史上6人目
・2000試合出場:1975年8月27日、対日本ハムファイターズ後期11回戦(平和台球場)、5番・指名打者で先発出場 ※史上10人目
・2000安打:1975年9月6日、対近鉄バファローズ後期7回戦(藤井寺球場)、9回表に柳田豊から右翼線二塁打 ※史上9人目
◇その他の記録
・全球団から本塁打:1975年6月1日、対ロッテオリオンズ前期12回戦(川崎球場)、7回表に水谷則博から左中間ソロ ※史上初
・オールスターゲーム出場:11回(1959年、1961年 - 1969年、1971年)

◎ 背番号

・ 8(1959年 - 1969年、1972年 - 1974年)
・ 12(1970年 - 1971年、1975年 - 1976年)

● 関連情報


◎ 出演番組

・女たちの大坂城(1983年11月3日、読売テレビ) - 坂崎直盛 役

◎ 主な著書

・闘将 火と燃えて~山賊軍団を率いる男の履歴書~(1975年、鷹書房)
・はばたけ少年野球~950万球児の青空学校~(1982年、広済堂)
・野球は根性やない(1986年、大和書房)

◎ 関連書籍 

・江藤慎一とその時代 早すぎたスラッガー(木村元彦著、ぴあ、2023年、ISBN 9784835646534)

「江藤慎一」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
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