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吉田拓郎


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吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年〈昭和21年〉4月5日 -)は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、俳優。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)生まれ、広島県広島市育ち。

● 人物
竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。フォーライフ・レコードの第2代社長を務めた。楽曲提供者としては入江剣のペンネームを用いることがある。 妻は森下愛子(1986年結婚)。元妻は四角佳子(1972年 - 1975年)→浅田美代子(1977年 - 1984年)。 日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している。2000年2月号の日経エンタテインメントの特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される。

● 来歴


◎ 生い立ち
父親・吉田正廣が朝鮮総督府で農林官吏として勤務したため、吉田家は戦前、朝鮮京城で暮らした。長女は小学校1年の時、病気により朝鮮で早世。長兄1人、次女までは朝鮮で生まれ、敗戦により、1945年夏に朝鮮・京城から家族で引き揚げ、拓郎のみ次男の末っ子として鹿児島県大口町(現在の伊佐市)で生まれた。1952年春、鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)に転居し、谷山小学校に2年生まで在学した。小児喘息の持病があり。皆実小学校。1962年、広島皆実高校に入学(後輩に奥田民生ら)。友人の通う広島商業の文化祭に誘われ、そこで同じ高校生のバンドがエレキで演奏しているのを「これだ!」と確信し、「僕もこれをやろう!」と決めた。ボーカルとギターを担当した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがGSブームも未到来の時代であり、相手にされなかった。天下のナベプロに断られたショックは計り知れず、フォークソング・ブームが始まった時代でもあり、「オレ、ギター一本でフォークソングやるわ」と決意するに至った。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京した。 ザ・ダウンタウンズとして1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで「イメージの詩」を歌う。演奏終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジ(agitation)を浴びせられた。拓郎自身は、明確な政治的イデオロギーを持っていなかったとされるが、「イメージの詩」には70年安保敗北後の時代の空気が色濃く滲むに就職内定したが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した、広島のレコード店で売っていることに驚いた拓郎が買って家で聞いたら、リズムが途中で裏になっていたりし。広島フォーク村の仲間たちに広島駅ホームで、胴上げ、万歳三唱されて見送られ、寝台特急あさかぜで上京した。

◎ よしだたくろう期(1970年 - 1974年)

○ エレック所属期
1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職した。エレックはまともな仕事は取ってこられず、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした。6月1日、当時のシングルとしては異例の7分弱の長尺シングル「イメージの詩/マークII」で正式にデビュー。吉田拓郎と広島フォーク村は、この1曲によって世に知られるようになったとも言われる。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる。1971年8月7日〜9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。サブ・ステージで六文銭とともに「人間なんて」を延々と唄い続け、それまで「関西フォーク」中心の流れに対峙する存在として認知される『ユイ音楽工房』を設立。同月、『バイタリス・フォーク・ビレッジ』(ニッポン放送)のパーソナリティに就任。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供。
○ CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期
1972年1月にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結んだ。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になり、画期的な「音楽シーン」を作り上げる第一歩を記した。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった。2月26日に公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱。6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しい生活様式を表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げ、7月1日に発売したシングル「旅の宿」が8月7日付けでオリコンチャート1位を獲得。この週から5週間1位を続けるが、二週目の8月14日付けでアルバム『元気です。』がオリコンアルバムチャートで1位を獲得し、以降連続14週(通算15週)トップを独走したため、8月14日~9月4日まで、拓郎作品がシングル・アルバムの両チャート1位を独占する偉業であった。またバックバンドだった猫をデビューさせたり、ロックやフォーク、歌謡曲、演歌歌手に楽曲プロデュースを行うなど音楽プロデューサーとしての地位も上げていった。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた。この金沢事件で女性ファンは一気に減ったが。 6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社。これを機に「吉田拓郎」と改名した。9月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表した。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる。 8月2日から3日、静岡県掛川市・つま恋で、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」開催。 1976年3月28日、TBS「サンデースペシャル」「セブンスター・ショー」のトリを務めた(後述)。 4月にフォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている。11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。 70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である。 1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した。 1981年4月5日、資生堂81夏のコマーシャルソング「サマーピープル」リリース。
○ フォーライフ・レコード社長を退任
1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表された、総合ベスト10で、拓郎は、ビートルズ、長嶋茂雄、美空ひばり、チャップリン、王貞治、エルビス・プレスリーに続く第7位に選ばれた。 2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する。 2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表された。 2022年、本年を以て全ての音楽活動から引退する意思を明らかにした。 2023年2月18日に『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』に出演。

● シンガーソングライターとして


◎ 音楽性

○ 政治性を排除
自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され。 1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった。またビール瓶などモノを投げつけられ一曲も歌わず、本当に帰ることもあったという(慶應三田祭事件、日比谷野音。拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれた。断ったが『月刊明星』から「表紙をやりませんか」と言われたこともあったという。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けた。北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と、寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている。最初はメッセージ・フォークを歌っていて、1971年のフォークジャンボリーでは、同イベントの形骸化批判の口火を切ったにも関わらず、その半年後には「結婚しようよ」をリリースするという拓郎の"変節"に関して、伊藤強は「1972年には日本はすでに政治の季節を終えていた。終わってしまった季節に対して何を言っても意味はない。吉田拓郎は時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのに違いない」、菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」、高護は「吉田拓郎の登場によってフォーク・シーンは新たな展開を迎えることになる」と論じた。萩原健太は「一大勢力を誇っていたメッセージ色濃い関西系フォークは、中津川フォークジャンボリーのあの忌まわしいイベントの失敗と相前後する形で姿を消した。代わって小さくて安全な夢に彩られた歌が人々の心を惹きつけ始めた。"フォーク"は"ニューミュージック"へと衣を替えていくが、吉田拓郎は時代の変わり様を全身で感じながら、ただ一人過激に疾走を続けた」と論じた。恩蔵茂は『ニッポンPOPの黄金時代』という2001年の著書で戦後の日本のポピュラー・ミュージック(ポップス)の歴史を、序章「ザ・ヒット・パレードの興亡」から11章に分け論じているが、第10章である最終章、1970年代から今日(2001年)までのタイトルを「拓郎からJ-POPへ」としている。富澤一誠は「吉田拓郎が出なければ、今のJ-POPはないといっても過言ではない」と述べている。
○ 自作自演スタイルの一般化
ダンガリーのシャツにジーパン、ギブソンのアコースティック・ギター(1967年製のギブソンJ-45)、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた。当時の拓郎たちフォークシンガーのイメージはパンタロン。泉麻人は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはずだ。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている。「日本語って、こんな生き生きとメロディに乗せられるものだったのか!」と多くの若者は驚嘆した。 それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した。柴門ふみは「当時の歌謡曲の男と女の色恋沙汰は、夜のネオン街にしかないような世界観で。そこに拓郎さんが、もうちょっとポピュラーな心情、若者のリアルな恋愛感情までも歌った。だから私を含めて若者たちは『これは私たちの音楽だ』と飛び付いたのです。拓郎さんの影響力は大きくて、同級生の男の子たちはギターを弾き始めてましたね」と述べている。スージー鈴木は「若者にギターを持たせ、『自分の言葉で歌っていいんだ』と思わせたのは、拓郎の最も大きな功績。日本人が自分の言葉で歌詞を書き、メロディを作って歌う『Jポップ』の礎を作ったのが拓郎と言える」と論じている。拓郎の影響でギター、ダンガリーのシャツ、ジーパンが非常に良く売れた。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた。男の子は勿論、女性のギター人口「ギター女子」をも増やした。ニュー・フォーク以外にも、アウト・フォーク、ジーンズ・フォークなどの呼び方もされたが、これらは拓郎登場以降の呼び方である。小川真一は「吉田拓郎を一語で評するなら『イノベーター』でしょう。まだ、文語調の歌詞が残っていた時代に、終始、自分(ミー)のことしか歌わない姿勢は新鮮でした。『イメージの詩』など初期の曲についても拓郎本人は『ぜんぶ自分のことを歌っているのであって、他人へのメッセージではない』と語っています。そう言い切れるのが、拓郎の強さだと思います。『結婚しようよ』で日本の歌謡界は、米国のポップスとようやく肩を並べることができたと思います」などと論じている。拓郎は当時のフォークファンの中では珍しく、若い女性ファンが多かった。 なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」。拓郎は自身を中心とした1972年のフォークブームについて「フォークブームは起こるべくして起こったものだ。ファンが熱狂する場を作ったのがわれわれで、他の歌にはそんな要素がなかったってことだ」と述べた。森山良子は「吉田拓郎さん抜きでは私の中に日本のフォークは存在しません。若かりし頃の私が歌っていたのはあくまでもアメリカンフォークであって、それをコピーしていたに過ぎないのです。そんな私の前に現れた吉田拓郎は、この人、何をしようとしているんだろう? と若干脅威だった。吉田拓郎は、ここからフォークブームを表面ではなく、本当の自分を自分の言葉でハッキリ強く歌にしてメッセージを送った。日本の若者たちに音楽を通して揺さぶりを掛けた、そんなエネルギーに溢れていた」と評した。井上陽水は「フォークシンガーは沢山いるが、それを全国区にしたのは吉田拓郎。みんなその後に続いている」と評した。谷村新司は「我々の時代を切り開いて来てくれたかけがえのない先輩」と拓郎を評した。坂崎幸之助は「拓郎さん以降は、フォークギター持って歌っていてもフォークではないです。皆さんに愛されるPOPSです」と論じている。中村とうようは「70年安保を境にシラケという語が広くささやかれ、フォークソングの商品化がさらに進んで吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットしたころには、フォークソングはニューミュージックへと変質をとげるに至った」と論じた。

◎ 影響を受けたミュージシャン

◇洋楽の原点 :洋楽の原点はニール・セダカ、コニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス「夏の日の恋」など映画音楽だった。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クック、ウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している。 :"フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングのヒーロー"、"ビートルズにドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫び回ったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという。日本におけるボブ・ディランの最大の普及者でもある。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹やみうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN
◇ Gift Pack Series10』を発売している。 :高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている。 :デビュー当時、東京にカレッジ・フォーク、関西に関西フォークがあったため、日本に於けるその元祖といわれ、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた。それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜1つに1つの字、とぴったりハマっており、多少の字余り、字足らずは気にしない、言葉を自由にメロディに載せる、あるいは日本語の歌を強引に捻じ曲げるという手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものである。字余りソングは当時顰蹙も買ったが、それはメロディを超えて、訴えたいことがたくさんあったからである。小田和正は「昔は見よう見まねで歌詞を書いていた。でもある時、字余りソングみたいなものが出てきた。その象徴が吉田拓郎で、新しいものが出てきた瞬間だったと思う」と述べた。ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「日本のオリジナル曲も充実してきて、日本語と海外のサウンドという問題についていえば、日本語の壁は破れたんじゃないかと思います。拓郎が歌ってた時は"字あまり"っていわれてたけど、今、サザンが歌っても"字あまり"っていわないでしょう」と述べた。小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察において、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで『私は』と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じた。 音楽通とされる志村けんは、「日本語って、やっぱりロックに合わないんだろうねえ。でも、日本語を英語っぽく歌って成功したのは吉田拓郎じゃないかと思うんだよね。桑田佳祐よりも前ですね。それと、拓郎のほうがビートルズっぽかったですね」と論じている。赤坂泰彦は「言葉を詰め込むというか、むしろ字余り的な、拓郎さんが書く曲から日本語の歌が変わっていって、後のサザンオールスターズや長渕剛さんなども影響を受けていると思う」と評した、成毛滋は「だいたい "字余りソング" なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」と批判した。
○ です・ます調の普及者
作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその「普及者」といわれる。 拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた。拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 と述べた。こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。穂口雄右が手がけたキャンディーズの「春一番」は、他の穂口作品の中で色合いが違う"です・ます調"で作られており、拓郎からの影響を指摘する論調が出た。
○ その他
他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった。他に「コードとリズムの上に、歌詞をのせていくような」「メロディを歌うというよりも、詩を語っているような」「アドリブで歌っているような」という表現もされた。 南こうせつは「僕らが『ああ夕日が綺麗だね、君のこと愛してるよ』とかという詞が多かったのに『これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか?~』って初めて聴いて、そんなことを詞に平気にして歌うっていう、カッコ良かったし、ショックでした。衝撃のシンガーソングライターでした」と拓郎を評した。柴門ふみは「それまでのフォークソングとは違って絵空事ではないリアリティのある歌詞に、私たち若者の心はストレートに鷲掴みにされました」などと述べている。小西康陽は「拓郎さんの『今日までそして明日から』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです。ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ。僕はザ・フォーク・クルセダーズもジャックスも岡林信康も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」と述べた。ROLLYと山本恭司は「『青春の詩』を初めて聴いた時、心の深いところに突き刺さった」等と述べている。鮎川誠は「高田渡や吉田拓郎や友部正人たち、フォークの人たちが日本語で歌いよるの見とってね。僕らもブルースを深くまでかじって、これを生かして日本語のオリジナル曲を作った」等と述べている、「こうき心 '73」を聴いて、特にその歌詞に体に電撃が走るほどのショックを受け。「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」などの作者・横浜銀蝿の嵐は「一番影響を受けたのは詞の世界は吉田拓郎さん。拓郎さんの詞って温かくて好きなんだ」と述べた。フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は、オリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている。 拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談や、小室哲哉との対談でその一端を言及している。 近田春夫は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている。喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している。Charは「『Char meets ???? 〜TALKING GUITARS〜』での仲井戸麗市とのセッションで、JOHNNY, LOUIS & CHAR (PINK CLOUD) 1979年のライブ盤『フリー・スピリット』に収録されている「籠の鳥」という曲は、拓郎がよく使ったGsus4から作った」と話している。小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げ、「一発で拓郎の曲と分かる、オリジナルのメロディを持っている、素晴らしい才能」と評している。福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル、山田耕筰のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」と話している。佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多用した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている。

◎ 歌唱法
山本コウタローは、声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと話している。小坂忠や久保田麻琴、荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている。織田哲郎は「日本のシンガーで声の説得力が最もあるのは拓郎さんであるというのが持論」と述べている。YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという啓示を受けた気がする」と述べている。小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している。渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ。2022年6月13日放送のbayfm『スージー鈴木とミラッキ大村の6の音粋』では、吉田拓郎の影響下にある楽曲を集めた「吉田拓郎のいない吉田拓郎特集」が組まれた。

◎ 多様な音楽ジャンルへのアプローチ
アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり。田家秀樹は「フォークは吉田拓郎の登場で大きく変わったと思います。拓郎の曲には、ロックもR&Bも入ってました」、高護は「吉田拓郎のサウンド・プロダクションはシンプルだったがフォーク・ロックを基調とする点で初期の岡林信康や高石友也とは明らかに一線を画していた」と評した。吉田拓郎が初めてアイドル雑誌に取り上げられたのは『月刊平凡』1971年1月号と見られるが、この記事に「吉田拓郎さんといっても、まだ知らない人が多いかも知れない。現在、広島商科大学に在学中の学生シンガーだ。(中略)今回のLP『青春の詩』は、作詞、作曲、ギター、歌、すべて彼ひとりの作品集。フォークとロックの絶妙なコントラストが、音楽界に新分野をもたらしている」と記述されており、「僕はバンド出身なので、バンドサウンドにすごいこだわりを持っている」と話した、相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」、スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」。イルカは「フォークもロックも、後ろで支えていた人たちは交流がありました。初期の矢沢永吉さんのスタッフの中には吉田拓郎さんを支えていた方が入り交じっていました」と述べた。スペクトラムの元メンバーで、KUWATA BANDのリーダーを務めた今野拓郎(今野多久郎)は、「吉田拓郎の歌に出会って"男"とはこうあるべきだということを、中学生の私は初めて考え、学んだように思う。『元気です。』のアナログ盤を四六時中聴き、ギターをかき鳴らした私はその後もずっと吉田拓郎の歌を"元"に人生を生きてきたと感じている」と述べた。但し、「吉田拓郎は矢沢永吉や桑田佳祐の登場以上の社会的現象だった」と述べている。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく。 スピッツの草野マサムネは、バンドを一時休止するほど、THE BLUE HEARTSに大きな衝撃を受けたと話しているが 、「THE BLUE HEARTSを最初に聴いたとき、自然な日常の言葉に拓郎みたいなものを感じて、大きなショックを受けた」と話している。 : 浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
◇ アルバム・セールス時代の先鞭 : 1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌か女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳、井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである。
◇ ライブ・アルバム : 拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられる。また拓郎の独特の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる。このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。
◇ コンサート・ツアー : 1973年10月、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する。当時はイベンターという職業はまだなく、当時のコンサートは地方の有力者などが主催し。後藤由多加は「1970年代の初めに、拓郎を中心に俺達の時代をこれからつくっていくんだと、地方のプロモーターの方々はみんな思ってくれていた」と述べている。
◇ 元祖夏フェス : 1975年8月2日〜3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」は画期的なものだった。1985年7月27日から7月28日にかけて「吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋」を開催した。自身二度目のヤマハリゾートつま恋でのオールナイトコンサートで、1975年・2006年に同所で行われたコンサートがかぐや姫との共同であったのに対し、1985年は単独でのコンサートとなった。2006年9月23日、31年ぶりにつま恋でかぐや姫と「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」を開催した。
◇ 離島イベント : 1979年7月26日〜27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった。ゲストに小室等、長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである。

◎ 音楽ビジネスへの影響

○ テレビ出演拒否
1972年「旅の宿」のリリース中に「テレビ出演拒否」を行った。理由は、テレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう」と考えた意地だったと述べている。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるという見方もある。また、紅白歌合戦の出演について、NHKは1972年にアプローチしたが出演を拒否した。藤村は粘りに粘り、紅白から『歌謡グランドショー』に切り替え、「企画コーナーとして5曲歌って欲しい」と提案。女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と取材申し込みが殺到したが、「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行った。 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎はそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた。拓郎のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否した。これは各所属事務所、あるいはレコード会社の戦略によるものであった、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ。相澤秀禎は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べている。 1986年に『メリー・クリスマス・ショー』への出演オファーがなされたが、拓郎は「司会だったらやってやるよ」の一点張りだったため実現しなかった。桑田佳祐は拓郎に歌での出演を希望していた。 1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所のアイドル・KinKi Kidsと共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった。「出てもいい」と思った大きな理由として、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げた。
○ フォークの地位の向上
フォークとロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となった。多くの改革により、今日では「普通」となったミュージシャン像を作り上げた。最初に就職したエレックレコードは、専属アーティストではなく社員契約で。当時のアーティストでそうした著作権関係を知る者はおらず、会社から「お金のことを言うな」等と押さえ付けられていた時代。 1976年2月15日からTBSの「サンデースペシャル」枠で、久世光彦企画による音楽番組「セブンスター・ショー」が、日曜日の19時30分〜21時というゴールデンタイムで、7週にわたって放送され、7人(組)のトップスターがスタジオでワンマンライブを披露した。第1週の沢田研二から、森進一、西城秀樹、布施明、かまやつひろし・荒井由実、五木ひろしという並びで、拓郎はシングルリリース直後の3月28日放送で"トリ"を務め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった。「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した。小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している。 拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、出版、音楽関係者、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者の代表的な人物がきくち伸である。
○ コマーシャルソング
ニューミュージック系歌手によるCMソング製作のはしりである。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した。1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった。
◇僕の旅は小さな叫び :CMソング第一号は1971年歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」。松下電器産業「Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N) の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。本CMソングは、「僕の旅は小さな叫び」という曲であり、作詞期間4週間、制作費約100万円と当時のCMソングとしては多額の費用がかかった。
◇HAVE A NICE DAY :1972年には「旅の宿」のヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)。彼のしゃべり言葉をそのまま生かし、歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなった。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとして先駆的なものとなる。同年、りりぃに山発産業フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス(富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した。 これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった。広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである。 小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている。 桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分を壊したこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている。

● 音楽プロデューサーとして


◎ ミュージシャン系プロデューサーの先駆
小室哲哉やつんくのプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された。拓郎は"日本初のミュージシャン兼プロデューサー"と評される、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。職業作詞家との多くのコラボレーションは拓郎が初めてである。現在では見られないR&B+ 浪花節をベースとするコンポーザーである。「東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って作業する。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときの気持ちよさといったら、もう」等と述べている。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因の一つでもあるが、この後阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった。またCMソング作家だった小林亜星が作曲し、阿久悠が歌詞に「です・ます」調を取り入れた。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献。
◇かまやつひろし :かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエット「シンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。 :こうしたロック、演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲。『ミュージックフェア』で共演もしている。
◇キャンディーズ :1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われている。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている。 :「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)。キャンディーズ自身はこの曲を「私たちの代表曲」と話した。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで「さよならキャンディーズ」と歌った。 :このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977年暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。 :1980年代の松田聖子とシンガーソングライターのコラボは、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という、この拓郎とキャンディーズのコラボの方法論を踏襲したもの。
◇梓みちよ :梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの。1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場した。
◇原田真二 :フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ、原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた、プロの作曲家というものが、いかに綿密な計算をしたうえで楽曲を創作しているかを説明するため筒美京平を盛んに聴かせたり、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた「ニューミュージック系の人達はテレビに出ない」という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した。 :こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し、フォーライフの危機をも救った。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった。アミューズは、渡辺プロダクションを退職した大里洋吉が、原田を売り出すために設立したもの。
◇石野真子 :石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。 :吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。
◇なかにし礼 :1977年、なかにし礼にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「時には娼婦のように」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と黒沢年男の盤との競作となり、いづれも大ヒットした。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している。

● ラジオ・パーソナリティとして


◎ しゃべり (MC) の魅力
ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は、「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている。田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている。竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している。 ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している。 初期の拓郎の "しゃべり (MC)" は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった。こうした拓郎の "しゃべり" を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれた。拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオのパーソナリティでさらに活かされることになる。

◎ ミュージシャン・パーソナリティ
1971年10月に『バイタリス・フォーク・ビレッジ』(ニッポン放送)のパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した。当時のラジオにはまだ放送作家が付いてなく、深夜放送なのに前日の夜9時にはスタジオに入り、自分で話す内容を決めていたという。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎をはじめとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった。 亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと評している。赤坂泰彦は「中学校の頃に、吉田拓郎さん、泉谷しげるさん、谷村新司さんなど、フォークの方々がラジオでレギュラー番組を持っていたんです。なので、世代的にラジオとフォークソングというのがリンクしていますね。喋りの面白い方たちというイメージがありました(笑)」などと話している。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。 先に挙げたようにボブ・ディランを広く紹介したという功績は大きいし、ガロの「学生街の喫茶店」やふきのとうの「白い冬」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった。

● ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍


● 出演


◎ 現在の出演

○ テレビ

・なし
○ ラジオ 

・ なし

◎ 過去の出演

○ テレビ

・ 音楽番組
 ・ 愉快にオンステージ(NHK総合、1989年10月23日・1990年1月29日)ホストとして出演。
 ・ LOVE LOVE あいしてる(フジテレビ、1996年 - 2001年3月31日)KinKi Kidsと共に司会を担当。
 ・ ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること(フジテレビ、1999年12月31日 - 2000年1月1日)KinKi Kids、篠原ともえと共にメインパーソナリティを担当。
 ・ 吉田拓郎〜これからも元気です(TBS、2001年2月10日)
 ・ 吉田拓郎デラックス(NHK-BShi、2002年12月9日)
 ・ 拓郎マチャミのみんな歌えるスーパーヒット(フジテレビ、2003年10月12日)
 ・ 吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006・総集編(NHK-BS2、2006年10月29日)
 ・ 大いなる明日へ 〜復活吉田拓郎〜(NHK-BS2、2009年3月22日)
・ テレビドラマ
 ・ おはよう(TBS、1972年7月5日 - 1972年10月25日) - マリの兄・吉野役
 ・ あこがれ共同隊(TBS、1975年) - ゲスト出演
 ・ なつかしき海の歌(TBS、1975年9月21日) - テレビ局AD・下沢役
 ・ 男なら(TBS、1979年9月4日) - 本人役で第22話にゲスト出演。
 ・ しあわせ戦争(TBS、1980年10月8日) - ミュージシャン・岸本衆役として第6話にゲスト出演
 ・ 幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(日本テレビ、1982年11月16日) - 高杉晋作役
 ・ マッハブイロク・Big大作戦(フジテレビ、2000年6月29日) - 本人役
・ バラエティ
 ・ 地球ZIG ZAG(TBS、1993年4月 - 1994年3月)隊長(司会)を担当。
 ・ 吉田拓郎のお喋り道楽(TBS、1997年4月4日 - 9月26日)
 ・ T×2 SHOW(テレビ朝日、2000年10月 - 2002年9月)高見沢俊彦と共に司会を担当。
・ 旅番組
 ・ 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日) - 牧瀬里穂・ラサール石井と共演。
 ・ 吉田拓郎&中村雅俊・よみがえれ青春!シッチャカメッチャカ!広島の旅(TBS、1999年7月25日) - 中村雅俊と共演。
 ・ 吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅(テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日) - 中村雅俊・眞鍋かをりらと共演。
・ ドキュメンタリー番組
 ・ 吉田拓郎TV特番『吉田拓郎 〜これからも元気です〜』(TBS、2001年2月10日)
 ・ スーパーテレビ情報最前線『吉田拓郎 「復活」への軌跡』(日本テレビ、2003年10月27日)
 ・ プレミアム10『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会〜』(NHK総合、2006年10月23日)
○ ラジオ

・ パックインミュージック(TBSラジオ、1972年4月 - 9月)
・ たくろうの気ままな世界(TBSラジオ、1972年10月 - 1973年5月)
・ バイタリス・フォーク・ビレッジ(ニッポン放送、1972年)
・ 吉田拓郎のオールナイトニッポン(ニッポン放送、1974年9月末 - 1975年9月末、1980年10月 - 1982年3月)
・ セイヤング(文化放送、1978年4月 - 1980年3月)
・ ヤングタウンTOKYO・サタデーナイトカーニバル(TBSラジオ、1980年4月 - 1981年10月)
・ フォーエバー・ヤング(TOKYO FM、1985年1月 - 1988年2月)
・ 吉田拓郎 CLUB25→吉田拓郎 CLUB26→吉田拓郎 CLUB26プラスワン(TOKYO FM、1995年1月 - 1996年12月)
・ 吉田拓郎のオールナイトニッポンDX(ニッポン放送、1997年10月 - 1998年3月)
・ 吉田拓郎 それイケ(ニッポン放送、1998年4月 - 1999年3月)
・ 吉田拓郎のSuper Music Stadium(ニッポン放送、2000年10月 - 2001年3月)
・ 吉田拓郎とアスリートな彼女たち(ニッポン放送、2001年10月 - 2002年3月)
・ セイヤング21(文化放送、2002年10月 - 2003年3月)
・ 吉田拓郎 わがままベスト10(ニッポン放送、2003年10月 - 2004年3月)
・ 俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル(ニッポン放送、2008年2月24日)
・ 吉田拓郎 残暑お見舞い申し上げます(ニッポン放送、2008年8月)
・ 坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD(ニッポン放送、2009年12月 - 2013年9月)
・ 元気です吉田拓郎(ニッポン放送、2010年10月 - 2012年3月)
・ 吉田拓郎 ラジオでナイト(ニッポン放送、2017年4月2日 - 2019年3月31日)
○ 映画

・ 女子学園 ヤバい卒業(1970年) - 本人役
・ 百万人の大合唱(1972年) - 本人役
・ 刑事物語 くろしおの詩(1985年) - 屋台のラーメン屋の客役
・ 幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年) - 高杉晋作役
・ 微熱少年(1987年) - カメラマン役
○ CM

・ サッポロビール「サッポロ☆ドライ」(1988年) 広岡達朗と共演
・ TaKaRa「純」レジェンド(1994年)
・オートレース(1994年)
・セルラー電話(1994年)
・アサヒビール『アサヒ黒生』(1997年)
・ サンヨー食品「カップスター」(1999年)
・P&G『ジョイ』(1999年)
・ ユニクロ(2001年)
・ 黄桜おやじ倶楽部「辛口一献」(2007年)
○ 関連書籍

・気ままな絵日記/吉田拓郎著/角川文庫(1983年)
・明日に向って走れ/吉田拓郎著/ 角川文庫(1983年)
・俺だけダルセーニョ―いまもどりたい自由な世界/吉田拓郎著/ 集英社(1984年)
・自分の事は棚に上げて / 吉田拓郎著 /小学館(1992年)
・自分の事は棚に上げて ふたたび/吉田拓郎著/小学館(1994年)
・吉田拓郎*お喋り道楽/吉田拓郎著/徳間書店(1997年)
・もういらない / 吉田拓郎著/祥伝社(2002年)
・ 晴れときどき拓郎 : Younger than yesterday / 吉田拓郎著
◇ 文化放送「セイヤング21」編 /小学館(2003年)
・ 豊かなる日々 : 吉田拓郎2003年の全軌跡 / 田家秀樹著 /ぴあ(2004年)
・吉田拓郎 / 田家秀樹監修 /改訂版/TOKYO FM出版(2007年)
・吉田拓郎終わりなき日々/田家秀樹著/角川書店(2010年)
・誰も知らなかった吉田拓郎 / 山本コウタロー著 /イースト・プレス(2009年)
・吉田拓郎とつま恋と僕 / 木下晃著 /講談社(2010年)
・いつも見ていた広島 : ダウンタウンズ物語 / 田家秀樹著 /小学館(2007年)

◎ NHK紅白歌合戦出場歴

  1994年(平成6年)/第45回    初    外は白い雪の夜    11/25    松田聖子    後半トップバッター



● 関連人物


◎ 主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)

  あ行
・青山徹
・浅川マキ
・朝倉真司
・新井英治
・荒井由実
・石井宏太郎
・石川鷹彦
・石川鉄男
・石山恵三
・伊藤明夫
・稲葉政裕
・井上慎二郎
・井口喜典
・今井マサキ
・今泉正義
・岩崎元是
・内山修
・エルトン永田
・遠藤賢司
・大嶋吾郎
・大滝裕子
・大西順子
・大村雅朗
・岡沢章
・奥野恵
・小倉博和
・小田原豊
・小原礼   か行
・加藤和彦
・金沢英明
・鎌田清
・鎌田裕美子
・かまやつひろし
・神本宗幸
・川上恭生(KYON)
・菊谷淳子
・岸義和
・木田高介
・木戸やすひろ
・国吉良一
・栗林稔
・小出道也
・後藤次利
・駒沢裕城
・小室等   さ行
・斎藤ノヴ
・坂井リエコ
・坂崎幸之助
・佐藤竹善
・佐藤準
・澤田駿吾
・重田真人
・島村英二
・清水信之
・清水仁
・陣内大蔵
・陣山俊一
・鈴木茂
・砂原俊三
・ 隅山時一
・瀬尾一三   た行
・高中正義
・高橋研
・高見沢俊彦
・田口清
・武部聡志
・武部秀明
・田代耕一郎
・館野江里子
・田中章弘
・田中清司
・田辺和博
・チト河内
・常富喜雄
・坪倉唯子
・トータス松本
・渡嘉敷祐一
・徳武弘文
・富倉安生
・富田京子
・鳥山雄司   な行
・中川雅也
・中沢厚子
・中島みゆき
・中西康晴
・中村哲
・成沢彰三
・西川進
・納見義徳
・野村義男

  は行
・浜口茂外也
・林立夫
・土方隆行
・日野皓正
・日野元彦
・平野融
・Bro.TOM
・古川望
・古川昌義   ま行
・松尾一彦
・松田弘
・松任谷正隆
・松原正樹
・美久月千晴
・南こうせつ
・宮川泰
・宮田繁男
・宮下文一
・村石雅行
・村上秀一
・森高千里   や・ら・わ行
・矢島健
・柳田ヒロ
・山川恵子
・山田秀俊
・山中雅文
・山本拓夫
・湯川トーベン
・よしだけいこ
・吉田建
・吉田美奈子
・米倉利紀
・若子内悦郎
・渡辺格
・渡辺香津美   グループ
・愛奴
・THE ALFEE
・オフコース
・かぐや姫
・トマト ストリングス
・トランザム
・猫
・ハイ・ファイ・セット
・バズ
・ピピ&コット
・マックス
・六文銭   外国人
・エリック・ワイズバーグ
・ガース・ハドソン
・ジェイク・コンセプション
・デヴィッド・リンドレー
・ブッカー・T・ジョーンズ
・マーク・ゴールデンバーグ
・ラス・カンケル
・リーランド・スカラー


◎ 結婚

○ 配偶者

◇四角佳子 :最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ。 :二人の結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。当時はスターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという。最初にこの二人の交際報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也・樹木希林夫妻の奔走があったという。
◇森下愛子 :その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現在は甲斐よしひろの妻)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した。 :「オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという。他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった。
○ その他
自分の持ち番組に、自身がファンのアイドル・女優をゲストで呼び、その後結婚というパターンを長渕剛が石野真子との結婚の時にした。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている。写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影の依頼をしたのが始まりで、中島みゆきも同じ理由。 :浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている。 :高見沢俊彦が、現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。しかし、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの。高見沢は“王子”キャラの元祖である。アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる。
◇飯田久彦 :拓郎と同じく歌手出身のレコード会社社長経験者という共通点もあり、懇意にしている。 :拓郎がフォーライフ・レコードからインペリアルレコードに移籍したのは、飯田がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。また、飯田がエイベックスの取締役に就任した後、拓郎も飯田を慕いエイベックスに移籍した。
◇泉谷しげる :泉谷は、エレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた。 :1999年のかまやつひろしの還暦を祝うパーティーで、その泉谷やユーミン、井上陽水、堺正章、桃井かおり、アルフィー、今井美樹、石井竜也、NOKKOらが集まって東京飯倉のキャンティで会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となった。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような小僧ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれやれ」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく森山良子が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた。この、かまやつひろしの誕生日パーティーで、拓郎が酔ってネチネチカラんで泉谷とケンカ→森山良子が一喝、という流れはフォーライフから泉谷が抜けた1970年代後半頃にもあり、最後のケンカの1999年以来、泉谷と拓郎は断絶状態になっていたが2011年7月、12年ぶりにラジオで再会し和解した。拓郎は清志郎が好きだったようで、NHK-AM『若いこだま』 のDJ等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった吉見佑子が1970年代の後半、まったく売れていなかったRCサクセションの廃盤になっていたアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「セイヤング」でRCの曲をプッシュした。 :清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)しており、アルバム『Hawaiian Rhapsody』で拓郎に「こころのボーナス」を提供した。 :清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には、「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ〜」とムチャを言ったこともあった。
◇小田和正 :同期でもある小田は、拓郎を盟友と呼び認めている。初めて会ったのは、コンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ。しかし、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救い、無事開催できたという。同じ1994年8月16日には、日本武道館で「スーパーバンド」による「日本をすくえ'94」チャリティコンサートが行われた。このコンサートのドキュメンタリー番組「日本をすくえ'94」が、小田和正のナレーションで同年9月14日にテレビ朝日系『水曜特バン』枠でテレビ放送された。この中で拓郎の傍若無人ぶりにオロオロする泉谷と小田がテレビに映し出された。長崎でやった「スーパーバンド」のメンバーが全員揃うということで拓郎は引き受けたのだが、うち数人が参加出来ないという話になって、さらに出演が確定していないミュージシャン、出演交渉もしていないミュージシャンの名前がスポーツ新聞に出てしまい、各所属事務所から苦情の電話が掛かり出演交渉が暗礁に乗り上げ拓郎が激怒、「まわりに迷惑をかけてまでやることはない」「コンサートは中止だ」などと泉谷と小田に迫った。泉谷は「オレと拓郎、小田、伊勢正三、大友康平の5人だけでもやりたい」と「何とか開催したい」という二人の意見を却下し続け、最後に小田が「流そう(中止しよう)」と言うと、それまで散々中止すると言っていたのに拓郎は「やる。俺が決めた」と言い出した。泉谷は「拓郎は、いざ練習が始まると、この曲はイヤだ、あれは歌わないって言い出す。あまりにわがままなんで、そこまで言うならオレと小田さんで会見やって武道館は中止と発表しようと。ところが、やめると言うとイヤだと言うんだよ。あれは振り回された小田さんもショックだったんじゃないか」と当時の思い出を話した。日本武道館時の「スーパーバンド」は、この後メンバーを加えたもの。こうして拓郎と小田は苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあったという。それでも泉谷は拓郎を引っ張り出して、東日本大震災支援ライブのため「スーパーバンド」を蘇らせたいという。 :2000年4月3日放映の「LOVE LOVE あいしてる」にゲスト出演した際、小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」とKinKi Kidsを驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話してい。 :2013年12月25日放映された、小田がMCを務める『クリスマスの約束』(TBS)に拓郎が初出演し、小田は「1970年代、多くの若者が背伸びして何かを求めていたあの時代、歌には強いメッセージが求められていました。そこに、カリスマと呼ばれるシンガーがいました」と拓郎を紹介した。
◇かぐや姫 :山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい馬鹿野郎」と呼び続けてきた。パンダは、30年以上たった2005年に還暦を迎えた際、年齢詐称していたことを公表した。2000年に、かぐや姫が22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり東京から九州まで呼びつけたのがきっかけだった。 :まだ3人が高円寺の風呂のない部屋に3人別々に住んでた時に、拓郎はすでにスターになっていて豪華マンションに住んでいた。3人は「神田川」みたいに拓郎のマンションの前を通って風呂屋に本当に行っていたが、ある日、拓郎がベランダで長い髪なびかせて、朝ブローをしてるのを目撃し、山田パンダは「あんなマンションに住んで、朝ブローして。あれが夢だ、こうせつ」と南こうせつにプレッシャーをかけていた。また、かぐや姫の最初のアルバムに拓郎が参加したが、かぐや姫のアルバムなのに3人の写真より拓郎の写真のほうが大きく掲載されており、「吉田拓郎プロデュース」という字が大きく載っていた。
◇加藤和彦・安井かずみ :加藤との出会いはラジオが先で。この2人は非常に仲がよかった。 :小田和正が、1982年に"日本グラミー賞"を作ろうと奔走し、六本木で拓郎やユーミンや矢沢永吉、さだまさしらを集めて飲み会をした時、加藤が「拓郎は生意気なのは許せるけど松山千春が生意気なのは許せない」と怒って帰ったというエピソードがある。 :安井かずみとは、加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年の猫の「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初。安井の自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いをさらに強くした。同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「芸能界はもっとチャーミングな世界なの!ジュリーを見倣いなさい!」。1年後に加藤が中丸三千繪と再婚してからは、拓郎は加藤とは疎遠となり、以後は、全く付き合いがなかった。これは加藤が中丸のために、安井に近かった人を意図的に遠ざけたためである。加藤と付き合いはなくなっても拓郎は、「若者たちが自分の手でつくる『日本の若者のポップシーン』の先駆けとなったのは、フォーク・クルセダーズであり加藤和彦に間違いない」と、まわりに話し続けていたという。 :2009年10月、加藤和彦が亡くなった後、拓郎は「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で加藤を追悼し、加藤との思い出を話した。
◇かまやつひろし :拓郎は、「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。かまやつは、当時流行の最先端を行っていた業界人らと付き合い、拓郎を安井のマンション「川口アパート(プール付き)」等、そういう人達が集う場所に連れて行った。番組の企画を通じて二人のギター・作詞法・作曲法は数年かけながらも徐々に上達していき、2000年には堂本光一作曲・堂本剛作詞・吉田拓郎プロデュースのシングル「好きになってく 愛してく」を発売するまでに至った。「オレがギターをマジで教えた弟子」と話している。 :堂本剛も「自分の思ったことを歌詞にしてメッセージとして投げるという男の人生を目の当たりにして、音楽の自由を感じた」「拓郎さんと出会ったことにより楽器を弾くことにも繋げて頂いた」等と話している。
◇武田鉄矢 :拓郎に憧れて上京し、エレック・レコードに入った。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、「拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと思い拓郎にお願いした」と説明している。 :武田はテレビドラマへの進出について「僕は吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということだったんです」と話している。
◇中島みゆき :中島は拓郎を尊敬しており、彼女の楽曲に数曲、拓郎調の楽曲があるといわれることもある。1980年8月10日、NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で、学生時代に拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた、よた」と呼んでいた。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。 :拓郎も中島を尊敬していると公言している。彼女のライブでバックミュージシャンとしてギターを弾きたいと数年前からオファーしているが実現しておらず、彼女がオールナイトGOLDにゲスト出演した際に直接オファーを試みたが、ライブの間じっと演奏してられるかなど質問返しされて結局YesともNoとも答えてもらえなかった。拓郎によると「どうしても『悪女』を歌う中島みゆきのバックでギターを弾きたい」らしい。この時のゲスト出演について、中島に「瀬尾さんが行くって言うから来た」とコメントされると「なんだよそれー!」と拗ねていたらしい模様が放送された。拓郎は、自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで、拓郎からの注文は「夢のない遺書のような曲を」であったが。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった。
◇長渕剛 :長渕剛が本格的に音楽の道を志すきっかけになったのは、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受けてからで、「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している。長渕が最初にユイ音楽工房に所属したのは拓郎がいたからである。 :1979年に愛知県篠島で行われた拓郎のオールナイトコンサートに出演した長渕が、拓郎ファンから「帰れコール」を浴びながらも歌い続けたエピソードはよく知られる。2012年の拓郎の3年ぶり復活ライブの最終日(NHKホール)の際には自ら拓郎の楽屋を訪ね、久々の再会を果たしている。そのことが後日、坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDで語られた(その場には山下達郎&竹内まりや夫妻や南こうせつもいたらしい)。
◇桑田佳祐・原由子 :桑田佳祐は1985年の著書『ロックの子』の中で、「フォークは大嫌いだったが唯一、拓郎が好きだったのは、拓郎の歌謡曲的な部分だった、拓郎のコマーシャルソングの音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけ、拓郎を聴いて『これなら曲が作れる』と思った」などと述べており。2003年夏に拓郎が癌治療で休業中には、『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞部分を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にしてライブで歌唱し、遠い地から拓郎にエールを送った。拓郎は、2008年2月24日の「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。桑田も、同年3月11日の「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、その経緯について触れ「ふらっと入った楽器店にあったギターを見た時、拓郎さんがバーンと浮かんだ。拓郎さんにこれを弾いてもらいたいと思った」「高校の頃、色んなフォークが流行ってたんだけど、拓郎さんだけが輝いて見えた。私が今ここにいられるのも拓郎さんが物凄く大きな切っ掛けになっている」などと話した。1986年ごろに拓郎の自宅へ招かれ、酔っぱらって無断でビートルズのピクチャーレコードを持ち帰ってしまい、のちにこのことを後悔し前述のフェンダーテレキャスターを送る共にそのピクチャーレコードを拓郎本人に返したが、レコードについては拓郎が「君とのいい思い出にしよう」という理由で送り返したというエピソードがある。 :一方の拓郎も桑田及びサザンオールスターズの才能や影響力を称えており、良好な関係が続いている。 :原由子も拓郎の大ファンで、中学の時、深夜放送で拓郎の四角佳子との結婚宣言を聞き、布団で泣いたという。
◇浜田省吾 :広島フォーク村時代からの先輩・後輩である浜田省吾とは、師弟関係にある。拓郎は、1970年にプロデビューして上京した後も、広島フォーク村のイベントなどに出演するため、度々帰郷。この頃は、スーパーの階段の催し場やレコードショップの横、などで歌うこともあった。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であった。浜田らが「愛奴」を結成してCBSソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの。
◇松本隆 :職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼がきた。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家・筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという。 :拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている。松本はこの時の拓郎との共同作業を通してより物語性を深め、1980年代にアイドルのヒットメーカーとして本格的に花開くことになる。松本にとってもマイルストーン的な作品となっている。
◇森山良子 :森山は、まだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど、拓郎を可愛がったという。 :森山は1971年から1972年にかけて結婚、長女(森山奈歩)出産のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山は、アルバムが売れない状況になっていた。1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った(同曲でNHK紅白歌合戦に出場)。
◇ 山下達郎・竹内まりや :山下達郎は拓郎について「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と過去に発言している。山下は拓郎がプロデュースした1975年のTBSドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌「風の街」に、山田パンダのコーラスとしてレコーディングに参加した。この時、拓郎にそのコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないと話していた。 :2012年8月13日の「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で、坂崎から「拓郎さん、日本ではどんな音楽が好きなんですか?」という話題が出た中で、「みんな意外なところでね、俺、山下達郎とか好きなんだよ、あいつのボーカルが好きなんだよ、達郎の声とか(彼の)奥さんの竹内まりやの声は、かなり俺(胸に)クるんだな。あそこの夫婦のファンだね。これ、このラジオで本邦初公開だけど」と告白した。この発言がきっかけとなり、同年10月1日の同番組で、お互いソロアーティストとしての立場で初共演を果たした。この放送で山下は"私的吉田拓郎史"を言わせてもらえば2時間は喋れると話し、18歳の時、東長崎のレコード店でアルバイトをしていた時、ちょうど拓郎のアルバム『元気です。』(1972年)が出た頃で、その『元気です。』とカーペンターズの「ア・ソング・フォー・ユー」の2枚が飛ぶように売れて10枚問屋に注文しても1枚しか来なかったという思い出や、前述の「風の街」のレコーディングで拓郎に歌唱指導された話、その時のしこりで1975年のつま恋にもコーラスとして参加を要請されたが「絶対イヤ」と断った話などをした。拓郎の方はそんな話はまったく知らず、山下を認識したのは1980年代になってから、毎年行くハワイで「LOVELAND, ISLAND」(1982年)を聴いて、こんなウェストコースト風サウンドを歌いこなせる日本人ボーカリストがいるのか、と感激したのが最初と話した。 :2013年6月24日には竹内が「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」に単独出演し、番組内で拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を竹内のアレンジにより3人で演奏した。
※ その他ミュージシャン
イルカは、2007年他界した夫の神部和夫ともども、最も古くからのフォーク仲間で全国をドサ回りした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。 古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた。加奈崎も仲井戸麗市も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べている。 1971年11月6日、慶應義塾大学で行われたコンサートは、俗に"慶應三田祭事件"と呼ばれる。これは頭脳警察伝説として有名だが、はっぴいえんどの事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの大滝詠一が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏できないまま引き下がった。このことを全く知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、PANTAと話す機会を得て好意を持ちパックインミュージックで『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかった。 小室等が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜してりりィを決めかけていたが、その後りりィは長い旅に出てうやむやに。りりィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)。 丸山圭子は1972年、コンテストで優勝するとCBSソニーとエレックレコードからスカウトが来た。当時ソニーは郷ひろみや天地真理らがいてばりばりアイドルの時代。普通だったらソニーを選びそうだが、エレックは拓郎がいて、まわりから(これからは)シンガーソングライターみたいに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよと言われてエレックに入ったという。しかしまもなく拓郎はソニーに引き抜かれる。 山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記" という非常に珍しい本で特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くは、かつてはこの本を参考にしていた。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている。 井上陽水と石川セリが出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、林美雄のパックインミュージック、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している。NSPが高専仲間の3人組となったのは、拓郎が1971年に組んだ3人組のミニバンドの路線を狙ったのがきっかけ。NSPは当初ロック志向であったが、フォークブームでロックがまったく受けず、フォークグループに転換した。オリジナルを作り始める前のレパートリーは拓郎の曲が中心だったという。NSP1973年のデビューアルバムに収録された「僕の夏休み」というオリジナル曲に"ギターを弾いてマークツーを二人で歌うはずだったのに"という歌詞が出る。きくち伸はその歌詞に出てきた「マークII」ってどんな曲なんだろう?、と本屋で調べて、よしだたくろうを知り、以降拓郎を追いかけるようになったと話している。岡本との曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている。1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロの大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘や服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべえと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている。1976年、ペドロ&カプリシャスに在籍時の髙橋真梨子と酒を飲み、ソロになると聞いて盛り上がり、「一緒にやろうよ」などとフォーライフに来ないかと熱心に口説いた。 松任谷由実は、デビューしたての頃(その当時の姓は「荒井」) "女拓郎" と呼ばれたと。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして"四畳半フォーク"って言葉を自分が考え出した」と自著で述べている。 中村雅俊とは、1975年『俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来の付き合い。『俺たちの勲章』は、中村主演の『われら青春』と同じプロデューサーで、気心知れていたため、大ファンだった拓郎に音楽を頼めないかと、中村がプロデューサーにお願いしたもの。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供が切っ掛けだった。「拓郎は憧れ以上の存在だった」と中村は話している。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「セイヤング」(1979年7月7日放送)と「オールナイトニッポン」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した。「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を「永ちゃん」「永吉君」「永吉」「オマエ」(矢沢も拓郎を「拓郎」「オマエ」(矢沢が年下))と呼んだ。 拓郎に憧れ多大なる影響を受けたと語る所ジョージは、『LOVE LOVEあいしてる』に三度ゲスト出演した。1997年11月29日に初めてゲスト出演した際、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだから、もう歌わないならを自分が作詞・作曲したことにさせてほしい、その代わりに自分の曲を10曲あげる、と交換条件を申し出た。「恋の唄」は、拓郎自身も一番好きな歌と公言していたが、所の申し出を承諾し、所はお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を渡した。二度目のゲスト出演した際、所は、自分が作った曲のことを「拓郎さんもすごい歌を作りますね」とネタにして笑わせた。後に、この曲を、所に返した。所は「恋の唄」の2番を書き加えた曲を、1999年、自身のアルバム『洗濯脱水』に収録している。広島フォーク村の実質の活動期間は2年程であったが、1978年に第II期広島フォーク村として再び活動を行った。この時に参加したミュージシャンには上綱克彦(元柳ジョージ&レイニーウッド)や原田真二、村下孝蔵らがおり、広島フォーク村の拓郎の一応の後輩となる。 拓郎のフジテレビ系音楽番組「夜のヒットスタジオ」への初出演は1980年6月30日。その約8か月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として「夜ヒット」初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いていた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している。 「テレビ出演拒否」のきっかけを作った布施明からは。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた。 松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言。これを聞きつけた拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり、犬猿の仲ということになっていた。2000年7月29日に「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人の会話はなく拓郎は終始無言で、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと、拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した。松山以外にも拓郎は「LOVE LOVEあいしてる」、注目の第1回放送(1996年10月5日)のオープニングで、唐突に「さだまさし嫌い」と発言した。1997年9月20日放送の同番組で、さだまさしがゲスト出演したとき、拓郎はさだが嫌いな理由を「ヴァイオリンを弾くから」と説明している。 高橋ジョージが最も影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」(ニッポン放送)という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「旅の宿」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ」と急いで通販でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという。 篠原ともえとは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前?触るんじゃねぇ」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。 YO-KINGは拓郎ファンとしてよく知られ。YO-KINGは「僕の世代には、拓郎さんをそんなに聞き込んだ人はいない。だから、そこがおもしろがられているんだと思います。それでデビューから20年以上もやってこられたんじゃないかと思います」などと話している。 あいみょんは、2001年の映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツオトナ帝国の逆襲』のエンディング近くに流れた「今日までそして明日から」を聴いてファンになったという。
○ ミュージシャン以外
明石家さんまは拓郎の大ファンで、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという。この後、拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)ハイライトを吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し、自身がカラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティアに変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた。 志村けんとよく飲み、電話で呼び出せる仲良し。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている。 爆笑問題の太田光は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている。太田は拓郎に会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば武田鉄矢もおんなじようなこと言ってたな」と言われたという。歌詞は拓郎の唯一の子供である四角佳子との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。ピースの又吉直樹は、創作活動の原点となるほど拓郎から影響を受けたと話しており、カラオケでも拓郎の曲をよく歌うという。リットン調査団の水野透も拓郎の大ファン。他にダチョウ倶楽部も拓郎ファンという。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している。秋吉のデビュー作・映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加したが秋吉に最低得点を付け、高橋洋子には気づかなかったと話している。 高橋洋子も拓郎のファンで、同じ日の放送を聴いてオーディションに応募した。 江口寿史は「マークII」(1985年)という拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが、レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎のアルバム『元気です。』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している。 柴門ふみは「ある世代の人々にとっての美空ひばり、ある世代の人々にとっての石原裕次郎が特別な意味合いを持っように、私たちの世代にとってのその人は、よしだたくろうである。たくろうが衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であった。それまでのフォークシンガーの貧乏臭い顔(岡林信康とか高石ともや)と比較して、まるで太陽の明るさの邪気のない笑顔であった。オカッパ頭の、人なつっこい丸顔のたくろうに、当時の女の子はみんなシビレたのだ。駄々っ子のようなたくろうのダミ声を復刻版で久しぶりに聴き直す。すると、当時私のまわりにいたボーイフレンドの誰よりもたくろうを愛していたことを確認した。徳島時代の同級生の男の子たちの誰も現在の私の作品に影響を与えていないが、たくろうの歌のいくつかは、私ののちの作品につながるものを感じさせてくれる」「『イメージの詩』に14歳の私のハートは打ち抜かれました。毎日毎日聞き続け、その言葉は40年たった私の体の芯の部分に残っていて、今でもふとした瞬間に立ち上がってくることがあります」などと話している。 漫画家では他に喜国雅彦、業田良家らが拓郎の大ファンで、喜国は拓郎のカバーバンド「マサ拓Z」としても活動している。業田は「拓郎さんを通じて表現する喜びを知ったことが、創作の原点」と話している。みうらが50代半ばにしてまだロン毛にしているのも、あの頃の拓郎さんを引きずっているからという。みうらは拓郎の初エッセイ集「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けていると話している。みうらは「昔は吉田拓郎に憧れて、髪の毛のばして、ギターを弾くってのが大概のルールだったんですけどね。それはスチャダラパーあたりでなくなっちゃった」「80年代は吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だか話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来るようになったのは真心ブラザーズの倉持君からですよ」と解説している。みうらもえのきどいちろうも「拓郎さんを選んでなかったら、今の仕事はしていない」と話している。 泉麻人も、今の仕事をするキッカケを与えてくれた一冊は、拓郎の著書「気ままな絵日記」で、「こういうエッセーみたいな文章なら書ける」「こんな本だったら出してみたい」と思ったと話している。 中学時代の中森明夫は「オールナイトニッポン」の拓郎の扇動にすっかり感化され、「つま恋オールナイトコンサート」は、その拓郎から招集をかけられたようなものだったと話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満の終夜観客は不可とのお達しが出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎らフォーク歌手やアイドルが棲む街」で、つま恋の行われた1975年に初めて上京し、原宿のペニーレインなどにも行き東京を感じた。「1975年に上京していなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森は拓郎を「かつて体制と闘った若者のカリスマが、時代を経て、今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている。 森達也も拓郎の深夜放送を夢中になって聴いたという。 拓郎と矢沢永吉ファンという重松清は「拓郎や矢沢は、地方に住む僕たちに『上京の物語』を与えてくれた」と話している。映画「恋妻家宮本」は重松の「ファミレス」であり、映画の中で拓郎に言及する真面がある。映画「恋妻家宮本」の挿入歌(エンディング)は「今日までそして明日から」で、出演者全員で歌唱する場面がある。雑誌「すばる」2010年3月号では拓郎にインタビューを行い、ディープな内容を聞き出すことに成功している。 箭内道彦は、松山千春や吉田拓郎に憧れ、中学二年からギターを始めたという。 任天堂の専務取締役情報開発本部長でゲームクリエイター・宮本茂は、大学時代に拓郎にハマったと話している。 桑原聡は「拓郎と同じ時代を生きることができた幸運を抱きしめなくてどうする、そんな思い」などと述べている。内田の一番好きな拓郎曲は「外は白い雪の夜」という。 若い世代のファンとしては、親の影響でファンになったという奈緒、扇久保博正らがいる。扇久保は「コンサートの古い音源から何からオークションで買いまくる拓郎マニアで、「他の吉田拓郎ファンには負けないです」と豪語している、高須基仁、佐々部清、逢坂誠二、森永卓郎、山本一力、古舘伊知郎、木村匡也らが、拓郎から特に大きな影響を受けたと話している。

「吉田拓郎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2023年6月4日3時(日本時間)現在での最新版を取得

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