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モロッコ王国(モロッコおうこく、ベルベル語: ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制の国家である。東でアルジェリアと、南で西サハラ(紛争地域)と、北でスペインの飛地(セウタとメリリャ)と接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバトである。
南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による亡命政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7.5割を実効支配しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない(を参照)。実効支配下を含めた面積は約604,107 km2(うち、西サハラ部分が190,100 km2)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査)。
地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。
● 国名
正式名称はアラビア語で、المملكة المغربية(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka l-Maghribiya:アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ)。通称、المغرب(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。
公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、Maroc。
公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、Morocco。
日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子など。
アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。
アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。
トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。
● 歴史
◎ アル=アンダルスのイスラーム化
先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州のマウレタニア・ティンギタナとなった。
ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。
788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。
しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にを攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。
◎ 18世紀まで
1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナースィルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。
マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。
マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。
サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年にアルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。
1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。
◎ フランス資本の定着まで
続くは、鎖国政策を採った。しかし、1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、で敗れた。1856年にはイギリスと不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。
1873年、新たなスルタンとしてが即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入するなど、軍事力を強化した。後継の息子(アブデルアジズ4世)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。
1904年の英仏協商でモロッコを狙っていたイギリス・フランス両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得した。なお、これが1905年に英仏協商に反対していたドイツ帝国が、タンジール事件を起こした原因であった。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したものの、最終的にはドイツが妥協した。1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領にされ、で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。
フランス領モロッコの初代総督には、将軍が就任した。将軍は政情不安なフェズから、ラバトへと遷都した。1913年にドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店が、ソシエテ・ジェネラルに売却された。1919年に北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。1920年にアブド・アルカリームが、スペイン領モロッコのリーフ地方で反乱を起こし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。
1936年に駐モロッコスペイン軍が将軍の指導下で共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が、反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスがヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。
モロッコは1956年にフランスから独立した。スペインはセウタ、メリリャ、イフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王に即位し、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。
◎ 外資と君主と実効支配
1961年にハサン皇太子が、父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年にが制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国など西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカの失踪事件が、パリで起こった。1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。
一方で、内政は安定しなかった。例えば、1971年7月に士官学校校長と士官らが、夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わった。さらに翌1972年には、ハサン2世の信任が厚かった将軍が、国王の搭乗していたボーイング727旅客機に対して撃墜未遂事件を起こした。これを受けてハサン2世は、ウフキル将軍との排除を行った(Years of Lead)。
1958年のシントラ協定でタルファヤを、1969年のフェズ協定でシディイフニを回復した後、モロッコはスペインが支配する南部の残りの領土からの撤退を交渉した。1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。そして同年のマドリッド協定でサキアアルハムラとウエドエダハブ地域を獲得した。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったものの、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言した。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したのに対して、モロッコは実効支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したものの、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題として残っている。
1992年に憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。同年から直接投資受入額が急伸した。2002年にが起こり、スペインとの間で緊張が高まったものの、アメリカ合衆国の仲裁で戦争には至らなかった。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、自由主義的な改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2019年までプラス成長を続けている。
世界金融危機が最も顕在化した2008年10月に、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した。
2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により、7月に憲法改正を実施した。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。
2016年7月17日に、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を目指すと表明した。2016年9月には加盟申請を行った旨を明らかにした。そして2017年1月31日に、エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議で、アフリカ連合への再加入が承認された。
2018年5月1日に、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラ(レバノンのイスラム教シーア派組織)が、アルジェリア経由で支援を与えている事を理由に挙げた。なお、イランとは2009年~2014年にも断交していた。
2021年8月24日にアルジェリア政府は、カビリー地方の独立運動や国内の山火事にモロッコが関与しているとして、モロッコとの国交断絶を宣言した。
議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である。2007年に行われた下院選では、保守系のイスティクラル党(独立党とも)が52議席を獲得して第1党、イスラーム主義の公正発展党が46議席で第2党、選挙前の最大勢力であった左派のは大きく議席を減らし、38議席になった。
2011年の憲法改正後、2011年11月25日に実施された下院選挙では、定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第1党となった。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。この2011年の選挙以降は、それまで国王任命であった首相が、選挙で多数議席を獲得した政党から選出されている。
合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にも、モロッコ・アフガンやAQIMなどの非合法イスラーム主義組織が存在する。しかし、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。
● 軍事
モロッコには18ヶ月の徴兵期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立ジャンダルメから構成される。国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。
2003年のカサブランカでのテロのような例外を除いて、軍の派遣は稀である。国際連合は小規模な監視部隊を、多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。
なお、赤道ギニアなど数か国に、元首の警護や軍事教練などを目的として、少数の将兵を派遣している。
● 地方行政区分
モロッコの行政区分は、12の地方と、51の第2級行政区画で構成されている。この行政区画は西サハラおよびサハラ・アラブ民主共和国の実効支配地域を含む。
◎ 主要都市
2021年時点で、人口100万人を超えていた都市が2つ存在する。一方で、2020年時点でも、都市人口率は63.5パーセントと低い。
・ カサブランカ - モロッコ最大の都市で、2021年時点での人口は、314万人である。映画でも名を知られている。加工貿易のための特区が設けられている。さらに、金融業のための特区も設けられている。
・ ケニトラ - 2021年の時点での人口は、36.7万人である。スペイン=モロッコ間は、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境界に当たる。アフリカプレートが年間0.6 cmの速度で北進したため、アトラス山脈が生成したと考えられている。アトラス山脈の南には山脈の全長にわたって巨大な断層が続く。このため地球上では比較的、地震の発生が多い地域である。記録的な大地震は隣国アルジェリアに多いものの、リスボン大地震と同時期の1755年11月19日に発生した地震や1757年4月15日の地震では、いずれも死者が3000人に達した。1960年2月29日の地震は被害が大きく、死者は1万5000人だった。
主要河川は、地中海に流れ込む、大西洋に流れ込む、など10本程度ある。とレリス川は、サハラ沙漠に向かって流れ降る。ドラア川もサハラ砂漠に向かって流れるが、この川は雨量が非常に多い場合にはサハラを横断して大西洋に注ぐ場合がある。エジプト、スーダンを縦断するナイル川を除くと、モロッコは北アフリカでは最も水系が発達している。さらに、山脈による充分な高低差も存在する。これらの理由で、降水量が比較的少ないのにも拘らず、総発電量の約6パーセントを水力発電でまかなってきた。
◎ 気候
年間を通じて、大西洋上に海洋性熱帯気団が居座っており、常に北東の向きの風が卓越している。2023年の時点で、既にモロッコの総発電量の約7%( アフリカ第二位の割合)が風力発電で占められていた理由の1つが、ここにある。
モロッコ沿岸を北から南の方向へと、寒流のカナリア海流が流れる。さらに、モロッコの内陸部に連なるアトラス山脈が、海からの湿気を遮るために、山脈を境界として気候が変わる。
ケッペンの気候区分によると、アトラス山脈より北は地中海性気候 (Cs) に一部ステップ気候 (Bs)が混じる。基本的に夏に乾燥する気候である。アトラス山脈やリフ山脈の標高の高い場所では、冬季に積雪が見られる。アトラス山脈の南斜面はそのままサハラ沙漠につながっており、北部がギール砂漠、南部がドラー砂漠と細分される。気候区分は、砂漠気候 (BW)である。
モロッコ最大の都市であるカサブランカの気候は、1月の気温が12.4 ℃、7月が22.3 ℃で、年間降水量は379.7 mmである。冬季の降水量は100 (mm/月)に達するのに対し、夏季には1 mmを下回る。首都ラバトの気候もカサブランカとほぼ同じである。
◎ 植生
大西洋沿岸、地中海岸と内陸部のオアシスを除き、植生はほとんど見られない。森林を形成しているのはコルクガシであり、特に大西洋岸に目立つ。アトラス山脈の北側斜面は、常緑樹林が広がる。植生は、オーク、セイヨウスギ、マツである。アトラス山中からさらに南のステップには、ナツメや低木などが疎らに見られる。ただし、栽培樹木であるオリーブは自然の樹木の分布に当てはまらず、国土全体に植えられている。固有種としてアカテツ科のアルガンノキ(Argania Spinosa)が知られ、アルガンオイルを採取する。ただし、アルガンノキの分布域は狭く、スース川流域に限られる。
国土の北部を中心に、約12パーセントを森林が占める。また国土の18パーセントを農耕地が占め、農耕地の5パーセントは灌漑によって維持されている。一方で、アトラス山脈の南側は、沙漠地帯が目立つ。
● 経済
カサブランカはモロッコ最大の経済都市であり、アフリカ有数の世界都市である。
IMFの統計によると、2015年のモロッコの国内総生産(GDP)は、約1031億ドルである。国民1人当たりのGDPは3079ドルと、アフリカ諸国では比較的高い水準にあり、アジアなどの新興国に匹敵するレベルである。アフリカでは経済基盤も発達している方だとされる。
モロッコの主要な貿易相手国としては、地理的に近い先進国のフランスとスペインが挙げられる。モロッコ自身は先進工業国とは呼べないが、衣料品などの軽工業のほか、石油精製や肥料などの基礎的な諸工業が発達している(以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations Industrial Commodity Statistical Yearbook 2001年を用いた)。かつて宗主国だったフランスだけでなく、欧米諸国の企業が、自動車や鉄道・航空機部品などの工場を増やしている。これはモロッコがアフリカでは政情・治安が安定していると判断され、インフラストラクチャーが整備されており、50以上の国・地域と自由貿易協定(FTA)を締結していて輸出がし易いという背景がある。その他ヨーロッパ連合諸国に出稼ぎ、移住したモロッコ人による送金も外貨収入源となっている。
なお、カサブランカやタンジールやケニトラには、加工貿易用のフリーゾーンが設けられている。カサブランカには金融フリーゾーン(カサブランカ・ファイナンス・シティ)もある。モロッコ以外のアフリカ諸国へ進出する外国企業への税制面の優遇措置も導入し、アフリカ・ビジネスの拠点(ハブ)になりつつある。
また、モロッコは羊毛の生産や。また、皮革製品の製造も行われている。
観光資源も豊かで、観光収入は22億ドルに達する。
◎ 鉱業・電力
エネルギー資源に関しては、原油と天然ガスが少し産出する程度で、産油国とまでは言えない程度である。一方で、鉱業の分野では、合金として幅広い用途を有するコバルト、また亜鉛も産出するものの。また、鉛も比較的有力な鉱産資源である。これ以外にも、ニッケル、鉄、銅、銀、金の採掘も行われている。
◎ 農業
アトラス山脈よりも北側の大西洋沿岸地域や地中海沿岸地域では、ある程度の降水量が見込めるため天水に頼った農業が可能である。農業従事者は429万人(2005年)である。国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計(2005年)によると、世界第7位のオリーブ(50万トン、世界シェア3.5%)、第9位のサイザルアサ(2200トン)が目立つ。世界シェア1%を超える農作物は、テンサイ(456万トン、1.9%)、オレンジ(124万トン、1.5%)、トマト(120万トン、1.0%)、ナツメヤシ(6万9000トン、1.0%)がある。主要穀物の栽培量は乾燥に強いコムギ(304万トン)、次いでジャガイモ(144万トン)、オオムギ(110万トン)である。
中南部ケアラ・ムグーナ(「バラの谷」)で栽培されているローズウォーター用のバラなど花卉農業も行われている。
畜産業はヒツジ(1703万頭)、ニワトリ(1億4000万羽)を主とする。
◎ 工業
モロッコは世界的に見て硫酸の製造の盛んな地域であり、2004年の製造量は、950万トンであった。また、古い邸宅を利用したリヤドと呼ばれる「モロッコ独特の宿泊施設」も知られている。
モロッコ政府としても観光立国を掲げ、人材や観光地の育成に注力している。2015年の観光客数は在外モロッコ人の割合が増加傾向にあるが、約1018万人を数えた。
◎ 日本との関係
・ 在留日本人数 - 350名(2018年10月,在留邦人統計)
・ 在日モロッコ人数 - 637名(2019年06月,在留外国人統計)。
1999年にマイクロクレジット法が成立し、政府やNGO団体の協力により受益者が増えている。
◎ 民族
歴史的に、条件の良い平野部の土地を中心にアラブ人が暮らし、アトラス山脈の住民の大半がベルベル人である。2/3がアラブ人、1/3がベルベル人あるいはその混血がほとんどと言われる事が多いが、実際は両者の混血が進んでいる。また過去に存在したベルベル人の独立問題などもあり(リーフ共和国)、モロッコ政府としては、あくまでも両者はモロッコ人であるという考え方の元で、敢えて民族ごとの統計を取るなどの作業は行われていない。
モロッコのアラブ人には、イベリア半島でのレコンキスタや17世紀のモリスコ追放によってアンダルシアから移住した者もおり、彼等の中には現在でもスペイン風の姓を持つ者もいる。
ユダヤ人はモロッコ各地の旧市街に存在するメラーと呼ばれる地区に古くから居住していたが、イスラエル建国以来イスラエルやカナダなどへの移住により減少傾向が続いており、1990年時点で1万人以下である。その他にもブラックアフリカに起源を持つ黒人などのマイノリティも存在する。
◎ 言語
アラビア語とベルベル語が公用語である。このようにモロッコ全体で見れば非識字率は約50%程度だが、農村部の女子に至っては非識字率が90%近くにまで達する。
主な高等教育機関としては、アル・カラウィーン大学(859年)や(1957年)などが挙げられる。
◎ 保健
○ 医療
医療機関の質は悪くないが、医療サービスの質はあまり良いとは言えない。
○ 性転換手術
世界中の少なからぬ国において、モロッコという国名から「性転換」手術をイメージする人々が、特に1970年産まれ以前の世代では少なからず存在している。
これは男性から女性への性転換手術、現在で言う性別適合手術の技法が、モロッコのマラケシュに在住していたフランス人医師ジョルジュ・ビュルーにより開発された事に起因する。ビュルーが手法を確立した1950年代後半以降、フランスの有名なキャバレー「カルーゼル」に所属していた多くの「性転換ダンサー」がビュルーの手術を受けたため有名になり、一時期は世界中から「女性に生まれ変わりたい」という願望を抱く男性が大量にマラケシュのビュルーの所へと押し寄せた。
日本もその例外ではなく、1960年代に3回にわたって行われた「カルーゼル」のダンサー(いわゆる「ブルーボーイ」)の日本公演が、この性転換手術の存在が知られる1つのきっかけとなり、その後、有名な例では、芸能タレントのカルーセル麻紀や、俳優の光岡優などが、モロッコに渡航しビュルーの執刀による手術を受けた。特に日本においては1973年以降のカルーセル麻紀に関する各種報道の影響で「性転換手術」=「モロッコ」のイメージが広まり、その影響は長らく残った。
なお、ビュルーは1987年に死亡し、今日では性転換を希望する人は手術してくれる病院・医師の数が豊富なタイ王国で受けるのが主流となっている。
○ 妊娠中絶
モロッコで妊娠中絶は、法的に認可されていない。ウィミン・オン・ウェーブ(オランダの医師が1999年に設立した団体)が、モロッコで望まぬ妊娠をしている女性を船に乗せて、公海上で中絶手術をする目的で2012年にモロッコに入港しようとしたが、モロッコ海軍に阻止されて追い返されたモロッコ海軍、「人工妊娠中絶船」の入港阻止 CNN.co.jp 2012年10月5日(金)12時53分配信。同船の医師は、モロッコでは違法に実施される危険な中絶処置のために、年間90人のモロッコ人女性の命が失われているとし、安全に中絶処置が実施される必要性を訴えた。
● 文化
◎ 食文化
モロッコで主食としている作物は、コムギである地域が目立つ。ただし、地域によって特色も見られる。例えば、モロッコは漁業が重要な産業の1つであり。また、乾燥地帯の多い土地柄で、水が貴重な地域も有り、水を節約すべく蒸し煮を行うためのタジン鍋を多用する、フェスのオレンジとレモンなどの多くの材料はモロッコ産である。
◎ 文学
モロッコ文学はアラビア語、ベルベル語、フランス語で書かれる。アル=アンダルスで発達した文学もまた、モロッコ文学に位置づけられる。ムワッヒド朝下のモロッコは繁栄の時代を経験し、学術が栄えた。ムワッヒド朝はマラケシュを建設し、同時に書店を設立し、これが後世の者に「史上初の書籍市」とも評された。ムワッヒド朝のカリフであったアブー・ヤアクーブは、本の収集をこの上なく好んだ。彼は偉大な図書館を設立し、その図書館は最終的にカスバとなり、公立図書館となった。中世においてタンジェ出身のイブン・バットゥータはアフリカ、アジア、 ヨーロッパに巡る大旅行の体験を述べた紀行文学『大旅行記』(『三大陸周遊記』、1355年)を著した。
近代モロッコ文学は1930年代に始まった。モロッコがフランスとスペインの保護領だった事は、モロッコの知識人に他のアラブ文学やヨーロッパとの自由な接触の享受による、文学作品の交換と執筆の余地を残した。
1950年代から1960年代にかけて、モロッコにはポール・ボウルズ、テネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・S・バロウズのような作家が滞在して作品を仕上げていった。モロッコ文学は、のようなアラビア語作家や、タハール・ベン=ジェルーンのようなフランス語作家によって発達した。現代の文学においては、モロッコ出身のフランス語文学者として、モハメド・シュクリ、、そして1987年に『』でゴンクール賞を獲得したタハール・ベン=ジェルーンなどが挙げられる。また、アラビア語モロッコ方言やアマジーグでなされる口承文学は、モロッコの文化にとって不可欠の存在である。
◎ 音楽
モロッコ音楽は、アラブ起源の楽曲が支配的である。ただし、その他にもベルベル人のやアフワーシュ、黒人の(「ギニア」に由来)、イベリア半島のイスラーム王朝からもたらされ、と呼ばれて高度に体系化されたアル=アンダルス音楽など、多様な音楽の形態が存在する。
◎ 建築
モロッコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件存在する。
◎ 祝祭日
モロッコには下記のモロッコの祝日に加えイスラム教の祝日も存在する。モロッコの祝日は毎年同じ日に祝られるが、イスラム教の祝日はイスラム暦によって決められるため移動祝日である。
1月1日
元日
رأس السنة الميلادية
1月11日
独立宣言記念日
ذكرى تقديم وثيقة الاستقلال
1月14日
イェネイヤー
ينّاير
ベルベルの新年
5月1日
メーデー
عيد الشغل
国際労働者の日
7月30日
即位記念日
عيد العرش
厶ハンマド6世が即位した日
8月14日
ダフラ=オウィド・エッ=ダハブ日
استرجاع إقليم وادي الذهب
ダフラ=オウィド・エッ=ダハブ地方の解放を記念する日
8月20日
革命記念日
ثورة الملك والشعب
1953年にフランスの植民に対して勃発した抗議運動が発生した日。この抗議運動により独立を果す。
8月21日
ムハンマド6世国王誕生日
عيد الشباب
11月6日
緑の行進記念日
عيد المسيرة الخضراء
1957年のこの日、西サハラの返却を求め35万人が緑の行進に参加しデモ活動行った
11月18日
独立記念日
عيد الاستقلال
1956年にフランスとスペインから独立した日
● スポーツ
◎ サッカー
モロッコ国内でも、他のアフリカ諸国同様サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツであり、1956年にサッカーリーグのボトラが創設されている。王立モロッコサッカー連盟(FRMF)によって構成されるサッカーモロッコ代表は、FIFAワールドカップには6度出場しており2022年大会ではアフリカ勢初のベスト4に進出した。アフリカネイションズカップでは、1976年大会で初優勝を果たしている。
近年ではFIFAクラブワールドカップの2013年大会・2014年大会・2022年大会がモロッコで開催されており、開催国枠で出場したラジャ・カサブランカが2013年大会で準優勝に輝いている。ビッグクラブに在籍したモロッコ人選手としては、メディ・ベナティア、ハキム・ツィエク、ヌサイル・マズラウィ、アクラフ・ハキミが存在する。
◎ テニス
男子テニスは、1986年に当時の国王ハサン2世の名を冠したモロッコ初のATPツアー大会、ハサン2世グランプリが開催されるようになってから、次第に同国でもテニスが盛り上がりを見せるようになった。1990年代に入るとユーネス・エル・アイナウイ、カリム・アラミ、ヒチャム・アラジという3人の男子選手が同時期に現れ、同国初の国際的なプロテニス選手として大活躍した。
1961年に参戦したデビスカップでも当初は長らく弱小国であったが、上記3人の活躍と共に次第に強くなっていき、彼らが全盛期を迎えた1990年代後半から2000年代前半には、最上位カテゴリのワールドグループに通算で5回の出場を果たし、テニス強豪国の一角を占めるまでになった。ただ3人の引退に伴う2000年代後半以降は低迷したものの、2010年代にシングルスランキングで100番台に乗せてきた、レダ・エル・アムラニのような若手も現れ始めている。
女子テニスにおいても、2001年からラーラ・メリヤム王女の名を冠したWTAツアー大会、SARラ・プリンセス・ラーラ・メリヤム・グランプリを開催している。しかし、その一方で国内女子選手の育成は殆ど進んでおらず、2011年時点ではグランドスラム出場や、ツアーレベルに到達した女子選手は1人として現れておらず、世界レベルとは未だ隔たりがある。
フェドカップの同国代表も、大会参戦開始は1966年と中東諸国の中でも最も早かったが、この年の出場後の1995年に再び参加するまで、30年近く国際舞台の場に出なかった。その後も断続的な参加を続けた程度に過ぎず、2010年時点までの通算参加年数はわずか9年に留まっている。
◎ 陸上競技
陸上競技のうち男子中距離走と長距離走は、同じアフリカ大陸のエチオピアやケニアと並んで世界屈指の強さを誇る。概してオリンピックや世界陸上においては、800 mと1500 mで世界一を輩出した事例が多い。さらに1980年代の男子中長距離界を席巻したサイド・アウィータとヒシャム・エルゲルージは、とりわけ日本の陸上競技ファンや関係者の中で有名であり、エルゲルージの出した1500 mと1マイル、2000 mの世界記録は未だに破られていない。
◎ 格闘技
モロッコの著名な格闘家では、K-1とIT'S SHOWTIMEの元ヘビー級王者であるバダ・ハリがおり、かつてK-1世界ヘビー級王者戴冠後に「モロッコは世界的に自慢できる物が無い国なんだ。だから俺がK-1世界王者として活躍する事によって、世界中の人々に "モロッコ?ハリの母国だよね" と言ってもらえるようにしたい。"世界王者" という部分が重要なんだ」と語った。
● 著名な出身者
「モロッコ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2023年12月5日18時(日本時間)現在での最新版を取得


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