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ボスニア・ヘルツェゴビナは、東南ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエヴォ。ボシュニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家でもある。両地域にまたがるブルチコ行政区は中央政府が直轄している。
● 国名
正式名称は、ボスニア語・クロアチア語で Bosna i Hercegovina(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)、セルビア語で Босна и Херцеговина(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)。
公式の英語表記は、Bosnia and Herzegovina。
日本語の表記は ボスニア・ヘルツェゴビナ。
ボスナは、ボスニアの中心地を流れるボスナ川の水名に由来すると考えられている。言語学者アントン・メイヤーによると、ボスナという名前はイリュリア語の「Bass-an-as」に由来する可能性があり、これは「流れる水」を意味するインド・ヨーロッパ祖語の語根「bos」または「bogh」から派生したものであると考えられる。
ヘルツェゴビナという名前は「ヘルツォークの[土地」という意味であり、「ヘルツォーク」はドイツ語の「公爵」を意味する。これは、15世紀にこの地域を支配した「フムと海岸のヘルツォーク」サバ公に由来する。フムは、古くはと呼ばれていたバンにより征服された中世初期の公国の名称である。オスマン帝国の支配下に入ると、と呼ばれるようになり、行政区分上は、及び短命のに含まれており、その後、行政区画はボスニア・ヘルツェゴビナに再編された。
● 歴史
◎ 古代・中世
現在のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世の頃にはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、キリスト教のカトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。
◎ 近世(オスマン帝国統治時代)
15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国の(1580–1867、Bosnia Eyalet)や(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。
◎ 近代(オーストリア=ハンガリー帝国統治時代)
19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1831年に(1831–1833)。1875年にが起きると、この反乱を口火としてと露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や汎スラヴ主義を刺激。1914年にこの地で起きたサラエボ事件が、第一次世界大戦の引き金になった。
第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約によりオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。
◎ 第二次世界大戦
第二次世界大戦時、ナチス・ドイツと同盟する枢軸国はユーゴスラビアに侵攻。ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義組織チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。
◎ 社会主義時代
ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。
ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。
長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアのロック (音楽)やポップスの一大拠点となった。一方、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。
◎ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んでいた。
正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ。この3つの民族は互いに近い言語を使っていたものの、民族的アイデンティティや宗教を異にしていた。
1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中でを強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。アリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、マテ・ボバンの指導下、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。
2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。
1994年にはアメリカ合衆国の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定(デイトン合意)に調印し、紛争は終結した。
◎ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後
デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態も度々起こっている。国政に対して3民族が事実上の拒否権を持ち、大統領が輪番制であることもあって、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表が実質的な最高権力者となっている。
2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮しSFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUが編成した欧州連合部隊「アルテア」(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。アルテアは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点で約2,200名となっている。
2013年10月1日から10月15日に掛けて、独立後初の国勢調査が行われることになった(質問項目は主に誕生日、生まれた場所、職業、学歴など)。過去に2001年と2011年にも実施しようとしたものの、民族間の対立に伴い実現しなかった。国勢調査の実施は今後のEU加盟や政策立案のために必要不可欠ではあるものの、民族構成によって政府の主要ポストや公務員の数を振り分けるなど国の根幹に関わるため、政治利用されるばかりか危うい民族バランスの均衡が崩れる可能性もはらんでいる。事実、この国勢調査を利用し、各勢力が自民族に有利に働くため、教会・モスクにいる聖職者を通じて働きかけと称した誘導を行うといった事態も見受けられた。また各民族が働きかけた不正行為も明らかになった。一方で、民族の色分けや少数民族差別(主にユダヤ人やロマ)を嫌った人々によるコスモポリタニズムの胎動がどこまで進行しているのかもポイントになっていた。国勢調査の結果は11月10日まで行われる不正調査の報告と修正を経て、2014年1月に判明する予定とされ、非公式速報値では人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%となった。
● 政治
◎ 国家元首
デイトン合意以降、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治は国際的監視の下に置かれている。民族間の均衡を保つため、3つの主要民族から1名ずつ選ばれた代表者によって構成される大統領評議会による集団指導体制がとられている。大統領評議会の議長は8ヶ月ごとに輪番で交代し、議長は事実上の国家元首となる。
◎ 国際的監督
ボスニア・ヘルツェゴビナには、デイトン和平合意に基いて国際社会の監督機関として主要国の代表者からなる和平履行評議会(PIC)が設置され、同評議会の下に上級代表事務所(OHR)が置かれている(コソボにおける国際文民事務所(ICO)に相当)。上級代表事務所の長は上級代表(HR)であり、デイトン和平合意を実施するに際して必要と認められるときは、直接立法権、人事介入権を含む強力な内政介入権(ボン・パワー)を発動できるため、実質的に同国の最高指導者と言える。
◎ 議会
ボスニア・ヘルツェゴビナ、および同国のそれぞれの構成体ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦およびスルプスカ共和国には、それぞれ独自の議会がおかれている。また、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する10の県にも、それぞれ独自の議会が設けられている。
中央政府の議会は上・下院からなる二院制であり、上院の定数は15(各民族5議席)、下院の定数は42(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦28議席、スルプスカ共和国14議席)と民族別、国別に分かれた複雑なものとなっている。
◎ 選挙
中央政府とボスニア連邦では、2000年に実施された国政選挙によって、紛争勃発後初めて社会民主党を中心とする非民族主義政権が誕生した。しかし、2002年10月の国政選挙では非民族主義政権が伸び悩み、大統領評議会員選挙では3名とも民族主義政党出身者が当選するなど、結果的に民族主義勢力が伸張した。主要政党は民族ごとに結成されており、それぞれが民族的利益を主張するため、国政運営上の障害となっている。こうした現状に対して、民族融和や腐敗追放を掲げる政党や政治家も登場している。首都サラエボからの大統領立候補をセルビア人に認めてこなかった選挙制度について、欧州人権裁判所が2020年12月に違法との判決を下している。
◎ NATOおよびEUへの加盟構想
ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年5月22日に国際連合に加盟したが、その後の民族対立、内戦は悲惨であった。民族対立は完全に解消されたわけではないが、「欧州大西洋機構への統合」、即ち欧州連合(EU)及び北大西洋条約機構(NATO)加盟が民族を超えた共通の目的であり、ボスニア政府はこの目標に向かって国際社会の支援を得ながら諸改革に取り組んでいる。
2000年12月、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦共和国との間で正式な外交関係を樹立した。また警察改革や公共放送法の採択で進展があったため、EUは2005年11月7日に安定化・連合協定締結交渉の開始を承認した。なお、EU加盟は3民族の共通目標。
・ ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会
・ ボスニア・ヘルツェゴビナの政党
● 国際関係
◎ 日本との関係
○ 駐日ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館
・住所:東京都港区南麻布五丁目3-29 ガーデニアビル2階・3階
・アクセス:東京メトロ日比谷線広尾駅3番出口
○ 駐ボスニア・ヘルツェゴビナ日本大使館
・住所:サラエボビストリック9番地
● 国家安全保障
同国軍は陸軍、空軍及び防空軍の二軍種から成り立っている。軍事力は中央政府に統一されたが、連隊以下は民族別編成とされている。それぞれの県の下には、最小の自治体であるオプシュティナが置かれている。
ウナ=サナ県(Unsko-sanski kanton)
ポサヴィナ県(Posavski kanton)
トゥズラ県(Tuzlanski kanton)
ゼニツァ=ドボイ県(Zeničko-dobojski kanton)
ボスニア・ポドリニェ県(Bosansko-podrinjski kanton)
中央ボスニア県(Kanton Srednja Bosna)
ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県(Hercegovačko-neretvanski kanton)
西ヘルツェゴビナ県(Zapadno-hercegovački kanton)
サラエヴォ県(Kanton Sarajevo)
第十県(Kanton 10)
一方、スルプスカ共和国には県に相当する自治体はない。
オプシュティナはボスニア・ヘルツェゴビナで最小の自治体の単位であり、日本の市町村やイタリアのコムーネ、ドイツのゲマインデなどにほぼ相当する。それぞれのオプシュティナは独自の議会と市長、閣僚を持っている。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には79、スルプスカ共和国には62のオプシュティナがある。
◎ 主要都市
◇ ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
・ サラエヴォ
・ トゥズラ
・ ゼニツァ
・ モスタル
・ ビハチ
・ トラヴニク
・ キセリャク
・ ドボイ
・ ツァジン
・ ブゴイノ
・ ヴェリカ・クラドゥシャ
・ ネウム
◇ スルプスカ共和国
・ バニャ・ルカ
・ プリイェドル
・ ビイェリナ
・ ボサンスキ・ブロド
・ トレビニェ
◇ ブルチコ行政区
・ ブルチコ
● 経済
2013年の国内総生産(GDP)は約179億ドルであり。同年の一人当たりのGDPは4,620ドルである。
◎ 人権
● マスコミ
● 文化
ボスニア・ヘルツェゴビナは比較的小さな国だが、オスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国などの大国の一部になった事や複数の民族が混住してきた歴史から、豊富で多大な文化を持っている。
トラヴニク出身のイヴォ・アンドリッチはノーベル文学賞を受賞している。
◎ 食文化
◎ 文学
◎ 音楽
◎ 映画
◎ 芸術
◎ 建築
◎ 世界遺産
ボスニア・ヘルツェゴビナ2つの世界遺産が登録されている。モスタルにあるスタリ・モスト(古い橋)の周辺と、ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋で、ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。
「ボスニア・ヘルツェゴビナ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2023年12月2日4時(日本時間)現在での最新版を取得



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