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パラグアイ共和国


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パラグアイ共和国(パラグアイきょうわこく)、通称パラグアイは、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。 なお、パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なっている(パラグアイの国旗を参照)。

● 国名
正式名称はスペイン語で(レプブリカ・デル・パラグアイ)である。通称は 。グアラニー語表記は(テタ・パラグアイ)である。通称は 。 公式の英語表記は(リパブリック・オブ・パラグアイ)。 日本語の表記はパラグアイ共和国。同国の在日大使館が用いる正式片仮名表記はパラグァイ。日本では通常パラグアイ、パラグワイなどと表記され、漢字表記では巴拉圭、または巴羅貝となる。 パラグアイ(Paraguay)とは、もともとグアラニー語で「大きな川から」を意味する言葉であったという説が有力である。大きな川とはパラナ川のことである。そのほかにも「鳥の冠を被った人々」を意味するという説がある。

● 歴史


◎ 先コロンブス期
もともとこの地にはグアラニー人をはじめとするトゥピ・グアラニー系のインディヘナ諸集団が住んでいた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威はこの地までは及ばなかったため、多くの人々は原始的な共同体を築きながら生活していた。しかし、16世紀初頭以降、この地にもセバスティアン・カボットをはじめとするヨーロッパ人がラ・プラタ川を遡って渡来するようになる。

◎ スペイン植民地時代
1537年にブエン・アイレからの探検隊によりアスンシオンが建設されると、スペイン領となった。この建設はラ・プラタ川からアルト・ペルーへの陸路と存在すると思われた「銀の山」を探すためであり、かつポルトガルの領土拡張に対する防塞建設のための遠征の結果だった。 チャルーア人のようなラ・プラタ地域の狩猟インディヘナとは違って、粗放とはいえ農耕を営んでいたグアラニー人は文化程度も高く、スペイン人との同盟により敵対していたほかのインディヘナと対決することを決め、スペイン人もこれを受け入れたため両者の間に交流が生まれ、混血者(メスティーソ)も発生していった。 1617年にアスンシオンを中心とする総督領から、ブエノスアイレスを中心とするラ・プラタ総督領、サン・ミゲル・デ・トゥクマンを中心とするトゥクマン総督領が分離する。17世紀以降はイエズス会宣教師による先住民への布教活動が、農業活動なども含めて活発に展開された。現在も残るイエズス会布教所跡はこのときに建設されたものがほとんどである。イエズス会はブラジルのサンパウロからやってくる、バンデイランチと呼ばれた奴隷商人への抵抗のためにグアラニー人に武装させた。ポルトガル人奴隷商人によって多くのグアラニー人が奴隷となってブラジルに連行されたものの、この軍隊はしばしばポルトガル人を破ってスペイン植民地の辺境を防衛する役目を担った。ローマ教皇に直属し、以後スペイン王室や副王の役人も容易に口出しできなくなったイエズス会の伝道地は、原始共産主義的な様相を帯び、自主自立の独立国家のような存在として、その後もほかの地域のインディヘナが味わったような辛酸には至らず100年近く平和に存在し続けた。 1750年代以降は、グアラニー戦争により、バンダ・オリエンタル(現在のウルグアイに相当)からグアラニー人が撤退してきた。その後すぐ1768年のスペイン王室の決定によるイエズス会の追放によりイエズス会は南米から撤退することが決まり、当地のグアラニー人たちはスペイン・ポルトガルの直轄支配下に置かれることとなった。 1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離されるが、その後もパラグアイはあまり大きな発展もしないまま月日が流れていった。

◎ 独立とカウディージョの専制統治
1810年5月25日、ブエノスアイレスにてが五月革命を起こし、ラ・プラタ副王領のスペインからの自治を宣言した際に、パラグアイ州はバンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバなどとともにブエノスアイレス主導の独立を認めず(マヌエル・ベルグラーノ将軍のを撃退した)、1811年に共和国としてラテンアメリカで最初に正式に独立を宣言した。こうした混乱の中で国土の狭かったパラグアイは比較的早く国がまとまり、1814年にホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア博士が執政官に就任し、1816年には終身執政官の職に就いた。 農民の支持を基盤にしたフランシアの長期独裁体制下では、政治的、経済的鎖国と土地の公有地化を進めた一方で、スペイン系白人(クリオージョ)の反乱を恐れたフランシアはグアラニー人とクリオージョの集団結婚を政策的に推進した。フランシアの政治は逆らうものは容赦なく追放し、処刑する恐怖政治に近いものであり、グアラニー人との混血やその他もろもろの要求を断った反対派のクリオージョ層は亡命したが、この時期の南米においてチリを除いたラテンアメリカ諸国が内戦を続けていたのとは対照的に、政治的には安定を保ち、義務教育が行われ、当時の旅行者が「パラグアイでは盗人も飢えた者もいなかった」との言葉を残すほどだった。対外政策も成功し、1838年にはアルゼンチンのミシオネス州を併合する。1840年にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、1844年にフランシア博士の甥のカルロス・アントニオ・ロペスが初代パラグアイ大統領に就任することで、国内情勢は再び安定した。カルロス・ロペスは前任者から続いた鎖国政策を解き、国家の保護の下の開放政策に転じて一躍パラグアイの近代化に取りかかった。 前任者の公有地化政策によりカルロス・ロペスの時代には国土の98%が公有地となっていたが、この土地制度を利用してマテ茶やタバコなどを栽培し、保護貿易によって莫大な黒字を上げた。カルロス・ロペスはこの貿易黒字を元手に鋳鉄や火砲を生産する工場を建設し、ヨーロッパに留学生を送り、1861年にはアスンシオンに鉄道が開通した。イギリスからの債務を負うことはなく、逆にイギリス人の技術者を雇って国家に役立て、パラグアイはラテンアメリカで唯一対外債務を負っていない国として自立的な発展を続けた。しかし、その治世の後半からはアルゼンチン、ブラジルからの圧力と内政干渉が激しいものになり、大事には至らなかったものの、ウルグアイの大戦争中に、ラ・プラタ川の封鎖をめぐってリトラル三州の反ロサス運動を支援していたことによって、アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスの軍と戦争したこともあり、こうした外圧を脅威に思って南米でもっとも強大な軍隊を組織した。

◎ 三国同盟戦争
1862年にカルロス・ロペスが死亡。長男のフランシスコ・ソラーノ・ロペス元帥が後を継いで大統領になると、1864年にブラジルとアルゼンチンの内政干渉に悩むウルグアイのブランコ党政権から救援を求められたことをきっかけに、ソラノ・ロペスはパラグアイと似たような立場で悩むウルグアイの救援を決意した。ロペスはブラジル領内に侵攻し、ラテンアメリカでもっとも凄惨な戦争となった三国同盟戦争が始まった。このときロペスは、アルゼンチンの反体制派の首領らの協力を得ることができず、アルゼンチンとウルグアイを味方につけることに失敗することとなった。そしてさらに、かねてからパラグアイの発展を好ましく思っていなかった イギリス資本の支援を受け、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが三国同盟を結ぶと、同盟軍はパラグアイに侵攻した。三方から攻められたパラグアイ軍は全滅するまで勇敢に戦い、アメリカ合衆国の公使がその勇気と愛国心を褒め称えたほどであった。途中でアルゼンチン北西部でロペスに共感したカウディージョのが反乱を起こすと、その鎮圧のためにアルゼンチン軍が離脱し、同国でが大統領を辞任したことによって、付き合いで参戦していたウルグアイ軍が離脱するという事態も起きたが、ブラジル軍は追撃を重ね、1870年3月、パラグアイ人の一団を率いて敗走中のロペス大統領は戦死し、パラグアイの敗北をもってこの戦争は終結した。パラグアイはブラジルとアルゼンチンに国土の4分の1にあたる14万kmを割譲し、開戦前の52万人の人口は21万人にまで減少した。成人男性に至っては3分の2以上(9割とも言われる)を失った。さらに敗戦とともにイギリスから借款が押しつけられ、パラグアイが誇った公有地を中心とした土地制度はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でもほかのラテンアメリカ諸国と同じように大土地所有制が確立した。こうしてパラグアイは国民のみならず、国土、関税率、工場、経済的独立のすべてを失い、これ以後50年にわたり国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は残っている。

◎ 停滞とチャコ戦争
アルゼンチンとブラジル、特に経済的には前者の、政治的には後者の衛星国として再スタートしたパラグアイだったが、戦争の代償はあまりにも大きかった。1879年にはアルゼンチン軍が撤退し、1880年代にはとコロラド党が設立されたが、不正選挙が横行し民主主義からは程遠い状態にあった。軍事独裁政権の下で人口を補うために移民が導入され、スイス、ドイツ、イタリアなどから農業移民がやってきたが、その数は周辺国と比べるとはるかに少なかった。その後、20世紀に入ると自由党政権のもとで多少なりとも改革が行われたが、政情はいまだに不安定なまま、大量な石油の埋蔵があると仮説が立てられたグラン・チャコ地方をめぐって、次第にボリビアとの対立が大きくなっていった。 1932年、ボリビアがパラグアイに奇襲攻撃しチャコ戦争が始まった。パラグアイ軍は貧弱な装備ながらも辛うじてこの戦いに勝利し、1938年のブエノスイアレス講和条約では植民地時代からチャルカスとアスンシオンの間で争われていた、広大なグラン・チャコ地方の領有権を獲得する。しかし、この戦争による経済的な打撃と4万人にも及ぶ死者は社会を疲弊させ、その後、社会改革を求めて社会主義や国家社会主義を掲げた軍人が政治を動かしていくことになった。また、こうして生まれた政権はナショナリズムを称揚し、1936年にパラグアイ共産党などと結んで大統領になっていたチャコ戦争の英雄大佐によってフランシスコ・ソラーノ・ロペスの完全な名誉回復がなされた。しかし、フランコの急進的過ぎる改革は寡頭支配層に嫌われ、1937年には1年足らずで追放された。

◎ 1947年の内戦
フランコのあとはチャコ戦争の英雄エスティガリビア将軍が後を継ぎ、1940年にエスティガリビアが事故死すると将軍は第二次世界大戦を連合国側で参戦して乗り切ったが、民主化の要求のために部分的に民主主義的な改革を余儀なくされた。しかし、こうした政策は二月党とコロラド党の対立を招き、ついには1947年に内戦に至って結局軍は内戦に勝利したものの(パラグアイ内戦)、20万人以上のパラグアイ人が国外に亡命することになった。その後、大統領になったが政権を握り混乱を収めたが、フアン・ペロンの影響を受けた経済政策への批判に対応を誤り、軍部からのクーデターでチャベスは追放された。

◎ ストロエスネル時代
1954年にブラジル軍の後押しを受けたクーデターによりチャベスは追放され、アルフレド・ストロエスネル政権が誕生し、以後30年以上親ブラジル的独裁政権が続いた。軍とコロラド党を掌握して長期政権を可能にしたストロエスネルは、治安を回復し経済も成長したものの、一方で少数民族となっていたインディヘナの虐殺、反政府運動の弾圧などを重ね、一時はアメリカ合衆国からも経済制裁を受けた。ストロエスネルの時代に独裁体制は完成したが、1989年2月、突如としてストロエスネルの腹心だった将軍が決起し、チリ以外の周辺国の民政移管が完了したあとも権力を握っていたストロエスネルが市街戦を終えたあと失脚し、ブラジルに追放された。こうして35年に及んだ、ラテンアメリカでもまれに見る長期独裁は終わった。

◎ 民政移管以降
ロドリゲス将軍が臨時大統領になると、ロドリゲス将軍はそれまでの路線を改めて民主化政策をとった。こうして1993年5月には が大統領就任。パラグアイに39年ぶりに文民大統領が誕生したが、パラグアイの民主主義は前途多難であった。 1996年4月、ワシモシ大統領は、軍の政治力を削ぐために、軍の実力者で軍部の政治介入を公言して憚らない を解任し、オビエドは6月には逮捕された。しかし、1998年8月にはオビエド派である 大統領が就任し、同月大統領権限でオビエドを釈放した。 釈放されたオビエドは暗躍を重ね、1999年3月23日、 副大統領がオビエド派によって暗殺されたとみられる事件が発生したあと、オビエドとクーバス大統領が亡命した。この後を受けて同月、 大統領が就任するも、2000年5月にはまたもクーデター未遂事件が発生した。その後、2003年4月にニカノル・ドゥアルテ・フルートス 大統領が就任した。 2008年4月に大統領選挙が行われ、野党連合「(APC)」の進歩派フェルナンド・ルゴが、与党コロラド党の、元陸軍司令官を破って当選した。開票率92%の段階で、ルゴ40.83%、オベラル30.71%、オビエド21.98%であった。ルゴの選挙母体APCは、中道右派の自民党と左派連合が同盟を結んでいる。1947年から軍政時代も含めて61年間続いたコロラド党の支配は終わった。 2012年6月にはフェルナンド・ルゴへの議会による弾劾により大統領職を追われた。これはルゴ氏支持者からはクーデターであると非難されている。同時に副大統領であった真正急進自由党のフェデリコ・フランコが大統領に昇格。そして、2013年4月に行われた大統領選挙ではオラシオ・カルテスが勝利し、再び右翼政党であるコロラド党支配の時代へと回帰した。 2018年4月、オラシオ・カルテスが大統領選挙でマリオ・アブド・ベニテスに敗れる。これに伴い任期満了を待たずに上院議員へ転任しようと辞任することを宣言して混乱を招くも、同年8月までの任期を全うした。 同月、マリオ・アブド・ベニテスが大統領に就任した。 2023年4月に行われた大統領選挙では、元財務相のサンティアゴ・ペニャが大統領に選出され、同年8月に大統領に就任した。

● 政治
国家元首である大統領は、行政府の長として実権を有する。任期は5年で再選禁止。2013年より大統領職にあったオラシオ・カルテスは、2018年の大統領選挙に向けて再選を可能とする憲法改正手続を進めていたが、大規模な反対運動が起きたため撤回された。 選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や罷免により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、大統領が閣議を主宰する。 議会は、両院制。上院は全45議席を全国区で選出、代議院(下院)は全80議席を県単位の18選挙区に分けて選出する。両院とも議員の任期は5年で、大統領選挙と同じ日に選挙が行われる。前回投票は2023年4月30日に行われ、政党別の獲得議席数は以下の通り。
◇上院
・ 国民共和協会(通称:コロラド党):23
・ 左派系政党連合:12
・ (PCN):5
・ :2
・ :1
・ 大戦線(グアスー戦線):1
・ Yo Creo運動:1
◇代議院(下院)
・ 国民共和協会(通称:コロラド党):48
・ 左派系政党連合:23
・ 国民十字軍党:4
・ 最愛なる祖国党:1
・ 国民交流党:2
・ Yo Creo運動:2 伝統的に、パラグアイの国政史上ほとんどの期間が、かつてシモン・ボリーバルが語ったように独裁か無政府状態のどちらかの状態であったが、ストロエスネルの失脚以降は多少風向きも変わってきているようである。しかし、それでも依然として軍の政治力は強く、問題になっている。

● 軍事
パラグアイ大統領はパラグアイ軍の最高司令官を兼任する。兵員は約2万人。徴兵制(15 - 49歳)が敷かれており、男性の国民は兵役の義務を有する。 西部グランチャコのにアメリカ空軍の基地が存在する。 国防予算(2000年):8,300万ドル(一人頭15ドル)

◎ 陸軍
パラグアイ陸軍。兵員は1万5,000人。国内の治安維持や災害救助などの任務が多い。

◎ 海軍
パラグアイ海軍。兵員は3,600人。海軍は国境の川の防備が任務である。

◎ 空軍
パラグアイ空軍。兵員は1,700人。規模、稼動機ともに多くない。

● 国際関係
メルコスール加盟国の1か国で、ブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどの近隣諸国と友好関係を維持している。 20世紀前半には背後にイギリス資本を抱えたアルゼンチンの、20世紀後半からは背後にアメリカ資本を抱えたブラジルの影響を強く受けてきた。 2005年5月から、グランチャコのにアメリカ空軍が駐留しており、これはボリビアのサンタクルス県の自治運動にアメリカ合衆国が介入するためだとみなされているため、この駐留アメリカ軍の存在は近隣諸国との間での外交問題となっている。

◎ 中華民国(台湾)との関係
ストロエスネル政権時代の反共産主義政策が体制崩壊後も続き、南米で唯一、中華民国と国交を有しているが、近年は経済面から中華人民共和国との国交樹立を検討しているとも言われる。中華民国の承認国の中では、面積規模で最大である(人口規模だとグアテマラが最大となる)、駐韓国パラグアイ大使館が対中華人民共和国外交業務を兼任している。駐日パラグアイ大使館が対香港とマカオ外交業務を兼任している。 2020年、パラグアイで新型コロナウイルス感染症が拡大。2021年3月、パラグアイで中華人民共和国関係者を名乗る業者がCOVID-19ワクチン提供の条件として中華民国との断交を要求してきたが、その後、中華民国がパラグアイのワクチン獲得に協力している。 2022年9月28日、『フィナンシャル・タイムズ』は、マリオ・アブド・ベニテス大統領が台湾に対して、外交関係を維持するために10億ドルを投資するよう要請していると報じた。 2023年8月15日に行われたサンティアゴ・ペニャの大統領就任式では、中華民国の副総統頼清徳が出席。頼副総統は「パラグアイと台湾は地理的に遠く離れているが、66年以上続く友情が変わることはない」とSNSに投稿し、今後も両国関係が深まることに期待を示した。また日本海外移住振興会社は1959年からイタプア市に農業移住地を開拓した。 1993年にパラグアイ人によって創設された、NIHON GAKKO(日本学校)がある。 経済面では、日本の矢崎総業、常石造船、住友電装など製造業が進出している。パラグアイの国内市場は小さいが、人件費が安いうえ、簡素な税制、メルコスール(南米南部共同市場)によりブラジル、アルゼンチンに原則として無関税で輸出できるといった利点がある。中南米で左派政権が増えた2000年代において、鉱物・エネルギー資源が乏しいパラグアイは外資誘致により経済成長を図る政策を選んだことも背景にある。 「パラグアイは日本から見て、地球のちょうど反対側にあって、おそらく日本から一番遠い国の1つである。また、一番知られていない国の1つかもしれない。しかし、もっとも親日的な国の1つである」という評価がある。 2011年3月11日の東日本大震災後に日系パラグアイ人農家を中心に「100万丁豆腐プロジェクト」として100万丁分の原料の大豆、製造加工費を日本へ支援した。また東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故を理由にパラグアイに移住する日本人が増えている。 2016年9月10日、パラグアイで日本人移住80周年式典が開かれ、日本からは眞子内親王が出席した。 2018年12月3日、安倍晋三が日本の総理大臣として初めてパラグアイ(とウルグアイ)を訪問し、マリオ・アブド・ベニテス大統領と会談、日本が医療機器を供与することなどで合意し、インフラ協力に関する文書の署名式に出席した。これについてMBS、BSN、TBSは「両国(パラグアイとウルグアイ)とも日本からの移民の多い国で、このうち、ウルグアイのバスケス大統領との会談では、牛肉の相互輸出を解禁することなどを確認しました」と報じた。

● 地方行政区分
パラグアイの地方行政は、首都と17の県(departomentos)とに区分される。括弧内は県庁所在地。 アルト・パラグアイ県 Alto Paraguay (フエルテ・オリンポ) アルト・パラナ県 Alto Paraná (シウダー・デル・エステ)このほかプレシデンテ・フランコ市 アマンバイ県 Amambay(ペドロ・フアン・カバジェーロ)このほかカピタン・バド市 アスンシオン首都圏 Departamento de Asunción (アスンシオン) ボケローン県 Boquerón (フィラデルフィア) カアグアスー県 Caaguazú (コロネル・オビエド) カアサパー県 Caazapá (カアサパ) カニンデジュー県 Canindeyú(サルト・デル・グアイラ) セントラル県 Central(アレグア) コンセプシオン県 Concepción (コンセプシオン) コルディリェラ県 Cordillera(カアクーペ) グアイラー県 Guairá(ビジャリカ) イタプーア県 Itapúa (エンカルナシオン) ミシオネス県 Misiones(サン・フアン・バウティスタ) ニェーンブク県 Ñeembucú (ピラル) パラグアリー県 Paraguarí(パラグアリ) プレシデンテ・アジェス県 Presidente Hayes(ポソ・コロラド) サン・ペドロ県 San Pedro(サン・ペドロ・デ・ウクァマンディジュ)

◎ 主要都市
主要な都市はアスンシオン(首都)、シウダー・デル・エステがある。

● 地理
パラグアイはパラグアイ川によって、東西に東パラグアイ (Paraguay Oriental) と西パラグアイ (Occidental Paraguay) またはチャコと呼ばれる地域に分かれる。東部は国土の40%、人口の97%近くを有し、丘陵と平原が交錯する地形で、森林と肥沃な大地からなり、アマンバイ山脈がブラジルとの国境を形成している。
・ 出生率:31.3‰(1995年度から2000年度)
・ 死亡率:5.4‰
・ 人口増加率:2.3% (projected 1999-2015, UNDP)

◎ 言語
スペイン語、グアラニー語が公用語であり、94%の国民はグアラニー語を話すことができ、スペイン語も75%の国民によって話されている。また、全人口の約2.5%に当たる16万人がドイツ語を話す。

◎ 宗教
宗教はローマカトリックが90%だが、メノニータ、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)なども存在する。宗教選択は自由である。

◎ 教育
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は94%である。 おもな高等教育機関としては、国立アスンシオン大学(1889年)などが挙げられる。

● 文化
スペイン人の父とグアラニー人の母を祖先に持つものが現在のパラグアイ国民の大多数であり、それゆえパラグアイの文化はこの2つの文化と伝統を根に持つ。現在のパラグアイ人の80%以上が両言語のバイリンガルである。

◎ 食文化
パラグアイ人にも近隣諸国の国民と同様にマテ茶を飲む習慣があるが、パラグアイ人は好んでテレレを飲む。肉食の傾向が強いパラグアイ人は血圧を下げるためや、ビタミンの補給、発汗作用のためにも飲んでいる。マテ茶はグアラニー人から受け継がれてきた飲み物であるが、テレレそのものはチャコ戦争のころに生まれたようである。またマンジョーカと呼ばれるイモや、マンジョーカを原料にしたチパというパンを食べる習慣がある。

◎ 文学
パラグアイ出身の著名な作家としては、ガブリエル・カサクシアや、『汝、人の子よ』(1960)、『至高の存在たる余は』(1974)で1989年にセルバンテス賞を受賞したアウグスト・ロア・バストスの名が挙げられる。

◎ 音楽
グアラニアと呼ばれるアルパを使ったフォルクローレが盛んであり、ほかのラテン音楽によくあるようなアフリカ的な要素はあまり感じられない、哀愁を帯びた曲調が特徴的である。著名な音楽家としてはフェリックス・ペレス・カルドーソやアパリシオ・ゴンサレスが有名である。日本でもルシア塩満、上松美香などがプロのアルパ奏者として活躍している。

◎ 世界遺産
パラグアイ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産として、1993年に登録されたラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群が存在する。2010年現在では国内唯一の世界遺産である。

◎ 祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
  1月1日   元日   Año Nuevo  
  3月1日   英雄の日   Día de los Héroes  
  移動祝日   聖木曜日   Jueves Santo   2012年は 4月 5日(木)
  移動祝日   聖金曜日   Viernes Santo   2012年は 4月 6日(金)
  5月1日   メーデー   Día del Trabajador  
  5月14日   独立記念日   Día de la Independencia   2012年に復活
  5月15日   独立記念日   Día de la Independencia  
  6月12日   チャコ休戦の日   Dia de la Paz del Chaco  
  8月15日   アスンシオン建設の日   Fundación de Asunción  
  9月29日   ボケロン戦勝記念日   Día de la batalla de Boquerón  
  12月8日   カアクーペの聖母   Virgen de Caacupe  
  12月25日   クリスマス   Navidad  


● スポーツ


◎ サッカー
パラグアイでも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1906年にプロサッカーリーグのリーガ・パラグアージャが創設された。主なクラブとしては、オリンピア、セロ・ポルテーニョ、リベルタ、グアラニーなどが挙げられる。著名な選手としては、ロケ・サンタ・クルス、ルーカス・バリオス、ミゲル・アルミロンなどが存在する。 パラグアイサッカー協会(APF)によって構成されるサッカーパラグアイ代表は、これまでFIFAワールドカップには8度出場しており、2010年大会ではラウンド16で日本代表と対戦し、スコアレスのままPK戦にまでもつれ込んだ激闘を制し初のベスト8に進出した。さらにコパ・アメリカでは、1953年大会と1979年大会で2度の優勝経験をもつ。なお、代表チームはグアラニー人に因んで、Los Guaraníes(グアラニー)の愛称で呼ばれている。

● 著名な出身者

「パラグアイ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年4月26日6時(日本時間)現在での最新版を取得

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