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ドミニカ共和国


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ドミニカ共和国(ドミニカきょうわこく)は、西インド諸島の大アンティル諸島のイスパニョーラ島東部に位置する共和制国家。首都はサントドミンゴ。 イスパニョーラ島は大アンティル諸島で2番目に大きな島であり、同島西部にあるハイチと国境を接する。モナ海峡を隔てて東にプエルトリコが、ウィンドワード海峡を隔てて西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔ててジャマイカが存在する。 同国は元々、米州で最初にヨーロッパ人が恒久的に定住した土地であり、その後のスペインの侵略拠点となった。ゆえにサントドミンゴは米州で最も早い1496年に建設された植民都市であり、それに従って米州で初の大学、大聖堂、要塞が建設された歴史を持つ。

● 国名
正式名称はスペイン語でRepública Dominicana(、レプブリカ・ドミニカーナ)。スペイン語に限らず、政体名を省略することは少ない。形容詞は Dominicano。 公式な英語表記は Dominican Republic。形容詞は Dominican、ドミニカ共和国は政体名を省略せず「ドミニカ共和国」と呼ばれている。なお、ハイチの植民地時代の名称はサン=ドマングで、サント・ドミンゴがフランス語に変化したものである。また同名のドミニカ国の由来はスペイン語で日曜日を意味するドミンゴであり、ドミニカ共和国との関連性はない。

● 歴史


◎ 先コロンブス期
紀元前4000年から1000年までの間に先住民アラワク族(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク族は消え去ったが、それでもドミニカの文化にはアラワク族の文化の影響が、特に食事、言語、家族構成、そしてモラルの中に見て取ることが出来る。なお、征服時にいたインディヘナの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。

◎ スペイン植民地時代
この島に1492年、クリストーバル・コロン(クリストファー・コロンブス)がヨーロッパ人として初めて上陸し、「スペインの島」と新たに名づけた。この語が後にピエトロ・マルティーレ・ダンギエーラによってラテン語化されて「イスパニョーラ」(Hispaniola)と呼ばれるようになった。その後二度の植民失敗の後、1496年にコロンブスの弟によってサント・ドミンゴが建設され、「新大陸」初のスペイン植民地となった。1502年にニコラス・デ・オバンドーが、イスパニョーラ島総督に就任した。翌年の1503年には、スペインが植民地との貿易を統括する通商院をセビヤに設置した。その年の12月には、エンコミエンダ制をイスパニョーラ島で公認した。先住民は金鉱山で酷使され、疫病の流行もあってラス・カサス神父の告発も虚しく彼らはほとんどと言っていいほど大勢が死に果ててしまった。サトウキビのプランテーションがカナリア諸島から導入されると、多数の黒人奴隷をアフリカから連れてきて足りない労働力を補った。1526年からベネスエラ全土がサントドミンゴのアウディエンシアの管轄下に置かれていた。イスパニョーラ島の統治は数世紀に渡って疎かにされた。 中にはイングランドのオリヴァー・クロムウェルの派遣したウィリアム・ペン遠征軍による侵略の失敗(:en:Siege of Santo Domingo (1655))などもある中、島西部が無人状態になったところに目を付けられてフランス人海賊が定住し、最終的に1697年のライスワイク平和条約により、イスパニョーラ島の西側はフランス領サン=ドマング(現ハイチ)、東側の3分の2がスペイン領サントドミンゴ(現在のドミニカ共和国)となった。 1717年、1739年にヌエバ・グラナダ副王領が設立されるとベネスエラの行政権はまず副王領に、そして1777年以降はに移管され、1786年にカラカスにアウディエンシアが設立されたことにより、司法権も完全に独立した。

◎ ハイチの占領
その後、スペイン領内では停滞が続いていたが、フランス革命の影響を受けて1791年にサン=ドマングで起きていたハイチ革命の波及や、フランス革命戦争最中の1795年にバーゼルの和約が結ばれた結果、イスパニョーラ島全島がフランス領(=サン・ドマング領)となるが、幾度かの変遷を経て1801年にサン・ドマングの軍人トゥーサン・ルーヴェルチュールの攻撃により最終的に占領され、黒人奴隷が解放された。トゥーサンはイスパニョーラ総督として島を統治するつもりでいたが、ナポレオン軍の侵攻により、トゥーサンが捕らえられ、獄死すると、ハイチ革命の新指導者デサリーヌは1804年にフランス軍を破ってハイチと改名し、サン=ドマングと共にサント・ドミンゴもハイチの一部として独立した(ハイチはアラワク族の言葉で山がちな土地を意味する)。 しかし、1809年にサント・ドミンゴは再びスペインの支配下に戻り、その後の1814年、パリ条約で再び東側は正式にスペイン領となるが、折からシモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、らによってラテンアメリカで進められていた解放戦争の中で、サント・ドミンゴのクリオージョにも独立の気運が高まり、1821年11月30日にとして独立した。この政権はシモン・ボリーバルの指導するコロンビア共和国への加入を求めたが、王党派と独立派での間で内戦になり、その隙を突かれて1822年1月には再び隣国ハイチのジャン・ピエール・ボワイエに占領された。

◎ 再独立と再植民地化
しかし、ボワイエの独裁とハイチの植民地支配に反発する勢力は次第に大きくなっていき、ボワイエが失脚した後の1844年2月27日、(Matías Ramón Mella)、(Francisco del Rosario Sánchez)に率いられた革命軍がハイチ人を一掃し、翌1845年ハイチより独立してドミニカ共和国となり、将軍が初代大統領に就任した。 しかし、相次ぐハイチとの戦争に耐えられなくなると、保守派の利害を代表したサンタナは1861年に再度スペインに併合を申し入れ、自身はサント・ドミンゴ総督に就任した。しかし、この屈辱的な措置はドミニカ国民を激怒させ、ハイチ人と結んだドミニカ人自由派がスペイン人に対する独立戦争を激化させ、結局1865年に独立を再び果たした。しかしハイチの脅威は大きく今度は二度に渡ってアメリカ合衆国への併合を求め、グラント合衆国大統領も乗り気だったものの、合衆国上院に拒否された(この事情は中米連邦崩壊直後のエル・サルバドルや同時期のキューバとも似ている)。1875年にようやくハイチとの平和条約が結ばれ、独立国家としての道を歩むことになった。

◎ 独立国家として
1882年から黒人のウリセス・ウーロー大統領が独裁を開始した。ウーローは黒人という立場でありながらも、白人寡頭支配層の反目を突いて大統領に就任した。しかし、拙劣な政策を積み重ね、政権末期の外債はとても一国では支払えない程の膨大なものとなっていた。ウーローは1899年に暗殺され、以降しばらく混乱状態が続いた。

◎ アメリカ軍政期
1906年にドミニカ共和国は、ウーロー大統領後の混乱収拾と列強に対する債務返済のため、アメリカ合衆国が50年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。この時期ハイチも対仏賠償や各国への債務が返せず財政難と混乱が続いた。第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特にドイツ帝国)が手を伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国は米軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者(カウディージョ)の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。1924年の選挙でが大統領に選出され、同年7月にアメリカ軍は撤退した。

◎ トルヒーヨ時代
1930年2月にクーデターを起こしたラファエル・トルヒーヨ将軍は、同時期のラテンアメリカでも最も完成された独裁統治を敷いた。トルヒーヨは富を独占し、個人崇拝を徹底させ、首都名も1930年のハリケーンからの復興時にサント・ドミンゴで迅速な救助を行ったトルヒーヨを称えて、サント・ドミンゴからトルヒーヨ市(シウダー・トルヒーヨ)に改名され、国内最高峰の山もトルヒーヨ山と改められた。トルヒーヨ体制を「ドミニカ第三共和政(Third Dominican Republic)」「エイジ・オフ・トルヒーヨ(トルヒーヨの時代)」と呼ぶ事もある。 ドミニカ共和国を白人化する構想を持っていたトルヒーヨは、1937年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し、1日で17,000人から35,000人が殺された(パセリの虐殺)。ドミニカ共和国はハイチに75万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され反共的な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがず、当時のラテンアメリカで最も強固な独裁制はその後も続き、1959年には革命直後のキューバから上陸したドミニカ人革命ゲリラ部隊を殲滅することにも成功した。 しかし、1960年にOAS総会でトルヒーヨ非難決議が採択されると1961年には反トルヒーヨ勢力の高まりにより、トルヒーヨ本人は暗殺され、トルヒーヨ一族もバミューダに亡命し、首都名もシウダー・トルヒーヨからサント・ドミンゴに戻された。

◎ ボッシュ維新政権とドミニカ内戦
1962年、30年ぶりに大統領選挙が行われ、1963年にはのが大統領に就任した。ボッシュはケネディに憧れ、改革に燃える政治家として「ボッシュ憲法」と呼ばれた1963年憲法を施行し、土地改革を含む社会改革の実践を始めようとしたが、同年ボッシュは寡頭支配層と結びついた軍事評議会のエリアス・ウェッシン大佐によるクーデターによって追放されてしまった。こうして軍事評議会に推薦された実業家のが新大統領になり、1963年憲法を廃止し、国会を停止した。こうした反動政治は国民の期待を大きく裏切り、ドミニカ共和国は再び不安定な状態に陥った。 しかし、1965年4月24日、立憲派(ボッシュ派)の大佐をはじめとする陸軍軍人が中心になり、1963年憲法の復活を求めてクーデターを起こし、翌25日カブラル大統領を逮捕した。立憲派はボッシュの復帰を求めて首都サント・ドミンゴを占拠したが、地方に逃れて首都を包囲した軍事評議会のウェッシン空軍大佐との戦いが始まった。こうしてが起こり、さらに翌4月26日には、ジョンソン合衆国大統領は「合衆国市民を保護し、ドミニカを共産主義から保護するために」アメリカ海兵隊の投入を決定した。4月27日に立憲派は首都の市民に武器を引き渡し、抵抗する構えを見せるが、翌28日に海兵隊が40年ぶりにドミニカに上陸。29日にはラテンアメリカ諸国の抗議も虚しく 第82空挺師団が降下した(ドミニカ侵攻)。4月30日に国連の調停で統一暫定政権が成立し、米州平和軍(ブラジル軍1,130名、ホンジュラス軍250名、パラグアイ軍184名、ニカラグア軍160名、コスタリカ憲兵21名、エルサルバドル軍3名)が治安維持部隊として派遣され、最終的に海兵隊は35,000人に増派され、立憲派軍を鎮圧した(パワー・バック作戦)。こうして首都だけで4000人の死者を出してようやく内戦は終結した。

◎ ドミニカ内戦以降
翌1966年の形式的な選挙により、から「トルヒーヨの未亡人」とまで呼ばれたほどのトルヒーヨ派だったホアキン・バラゲールが大統領になると、バラゲールは軍部と財界の支持を背景に強権政治を行い、死の部隊を駆使してボッシュ派の暗殺を続け、ドミニカの政治はトルヒーヨ時代に逆行してしまった。1978年から1982年まではドミニカ革命党のが大統領に就任したが、財政状況は悪化を続けた。1982年から1986年までは が大統領になったが、経済状況の悪化を背景に国際通貨基金の要請によって財政緊縮政策が進んだ。 1986年の選挙では80歳のバラゲールが勝利し、観光業、ニッケル、在外ドミニカ人による送金を柱にドミニカ共和国の経済は回復に向かった。1992年にはコロンブスのアメリカ大陸到達500年記念祝賀への反対運動が起きた。1994年の大統領選挙も「不正」をめぐって紛糾したが、1996年の選挙ではのレオネル・フェルナンデスが大統領に就任した。2000年5月の大統領選挙では社会民主主義を掲げたドミニカ革命党のが大統領に就任したが、汚職によって支持を落とした。2004年の大統領選挙ではドミニカ解放党のレオネル・フェルナンデスが再び勝利した。 その後、2012年の大統領選挙でフェルナンデスの後継として出馬し、当選した(ドミニカ解放党)が大統領として2020年8月まで勤めた。現大統領は2020年の大統領選挙で当選し2020年8月16日に就任したルイス・アビナデル(現代革命党)である。

● 政治
ドミニカ共和国の政体は、行政、立法、司法が独立した一般的な民主主義体系をとっている。大統領は組閣を行い、立法府により制定された法を執行する。また、国防軍の最高指揮官でもある。大統領及び副大統領の任期は4年であり、直接選挙によって選出される。選出の際は、立候補した大統領候補と副大統領候補の組に対して投票を行う。 立法府は、両院制の議会によって構成されている。上院の定員は32名、下院は150名である。大統領選挙は4で割り切れる年に行われ、議会の選挙はそれ以外の年に行われている。 ドミニカ共和国は中華民国(台湾)を承認していたが、2018年5月1日に中華人民共和国と国交を樹立したことにより中華民国が断交を発表した。

● 国家安全保障
ドミニカ共和国大統領は軍の最高指揮権を持つ。ドミニカ共和国軍は44,000人の現役兵から構成されているが、実際に軍務に服しているのは24,000人程度で、それ以外の要員は非軍事部門で活躍している。 国家警察は約32,000人でありこのうちの15,000人が通常の警察業務にあたっている。国家警察は内務省の傘下であるため軍の機構ではないが、それでも軍と警察の任務に重なる部分は存在する。現在、国家警察の約半分が、軍事部門と酷似した部門において、伝統的な警察の任務から出た領域で勤務している。 このため、重複している人員約15,000人が軍と警察の中間的業務を担っている。

● 地方行政区分
ドミニカ共和国は31の州(provincia)に分けられる。加えて、首都サント・ドミンゴは首都地区(Distrito Nacional)として独立している。州は郡、市町村などの地方行政区にさらに分けられる。 アスア州 バオルコ州 (シエラ・デ・ネイバ) バラオナ州 ダハボン州 ドゥアルテ州 (サン・フランシスコ・デ・マコリス) エリアス・ピーニャ州 (コメンダドール) エル・セイボ州 (サンタ・クルス・デル・セイボ) エスパイジャト州 (モカ) アト・マジョール州 インデペンデンシア州 (ヒマニ) ラ・アルタグラシア州 (サルバレオン・デ・イグエイ) ラ・ロマーナ州 ラ・ベガ州 マリア・トリニダー・サンチェス州 (ナグア) モンセニョール・ノウエル州 (ボナオ) モンテ・クリスティ州 モンテ・プラタ州 ペデルナレス州 ペラビア州 (バニ) プエルト・プラタ州 エルマナス・ミラバル州 (かつてのサルセド) サマナ州 サンチェス・ラミレス州 (コツイ) サン・クリストバル州 サン・ホセ・デ・オコア州 サン・フアン州 サン・ペドロ・デ・マコリス州 サンティアゴ州 サンティアゴ・ロドリゲス州 (サン・イグナシオ・デ・サバネタ) サント・ドミンゴ州 バルベルデ州 (マオ)
D.N.


◎ 主要都市

・サントドミンゴ(Santo Domingo) - 首都
・サンティアゴ・デ・ロス・カバリェロス(Santiago)
・サンペドロ・デ・マコリス(San Pedro de Macorís)
・プエルト・プラタ(Puerto Plata)
・ラ・ロマーナ(La Romana)

● 地理
ドミニカ共和国はハイチと共に大アンティル諸島で二番目に大きいイスパニョーラ島に位置し、およそ島の2/3の面積を占め、カリブ海ではキューバの次に大きい。ドミニカには三つの山脈と、その間に位置する四つの平野があり、それぞれがハイチから続く中央山脈、セプテントリオナル山脈、オリエンタル山脈となっており、中央山脈とセプテントリオナル山脈の間の裾野には同国で最も肥沃なシバオ平野が広がる。その他、北部には北部山脈、西部にはネイバ山脈、南西部にはバオルコ山脈、東部には東部山脈など全土にわたって大小の山脈が走っている。各山脈の谷間には、落差の大きい壮大な滝が多く、特に中央山脈内にあるアギアス・ブランカスはアンティル諸島最大の91メートルの落差があり、観光名所の一つとなっている。 最高峰はドゥアルテ峰 (3175m)であり、これはカリブ海諸国での最高峰でもある。また同国最大の湖エンリキージョ湖はカリブ海での最大の湖でもある。かつてコロンブスがこの地に上陸した時は、世界で最も美しい風景だと称えた。

◎ 河川と湖
国内最高峰のドゥアルテ峰から85km程南西には標高マイナス40mの塩湖エンリキージョ湖が存在し、これはカリブ海でも最も低いものである。ただし、これ以外は余り大きな湖には恵まれていない。ドミニカ共和国の55ある湖の内、アラワク族の名づけたものは45個に達する。ハイチとの国境河川であるアルティボニート川は全長321キロメートルある。ジャケ・デル・ノルテ川は308キロメートルあり北部の穀倉地帯のなかを走る。他には各山脈から湖や海岸に向かって流れる多数の中小河川がある。いずれの河川も農業用水や生活用水として使われるが、治水が十分でないので数年に一度は洪水による甚大な被害をもたらす。

◎ 気候
気候は熱帯のサバナ気候(Aw)に属すが、標高と海岸からの距離によって高山性か海洋性かに分かれる。その受ける影響によって気候の地域差がはっきりする。国内の日中の最高気温は、年間を通じてほとんどの都市で30度を超える。しかし、海岸沿いの都市では海洋性を帯びているため過ごしやすい。標高の高い高原都市では気温の割合に少しひんやりとした風が山から下りてくる。 ドミニカ共和国は、北半球にあるため、雨季は夏季(5月から11月)であり、6月から11月はハリケーンが飛来する。この時期には年間平均2〜4個の熱帯低気圧が発生する。12月から3月は北大西洋寒気団の影響を受ける。北部と東部で最も多く雨が降り、西部で最も少なくなる。年間平均降水量は1346mmだが蒸発が激しい。例を挙げると北部のサマナでは2500mm以上、南西部のバラオナでは625mmといった具合である。 年平均気温は32℃を超えることは稀であり、季節風の影響ですごしやすい。しかし、中央山脈の高原都市コンスタンサのような都市では、冬季(12月や1月)の気温が氷点下に達することもある。しかし、日本ほどの季節差はない。

◎ 環境問題
ブラックスミス研究所によると、サント・ドミンゴから20kmも離れていないバホス・デ・アイナは世界でも十指に入る程汚染された土地となっており、そのことからの小児への影響が危惧されている。

● 経済
IMFの統計によると、2013年のドミニカ共和国のGDPは613億ドルである。一人当たりのGDPは5,882ドルで、これは隣国ハイチと比べれば遥かに高いものの、世界平均の60%弱ほどの水準である。 農業が主要産業であり、農産品の輸出と、観光が外貨の獲得源となっている。農村人口は全人口の70%を占めており、約12%の大地主が77%の耕地を所有する。主な農産品である砂糖の輸出額は、全体の半分を占めている。ユダヤ人はヨーロッパでのナチスによる迫害から逃れたものが、1930年代後半になってからようやくドミニカ社会に現れるようになった。

◎ 教育
6歳から13歳までの7年間の初等教育が無償の義務教育である。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は87%である。全体的に、教育レベルは低い。子供がいる家庭に、日本のように勉強机や本棚がある家庭は珍しい。 主な高等教育機関としてはサント・ドミンゴ自治大学(1538年)、マドレ・イ・マエストラ・カトリカ大学(1962年)、サンティアゴ工科大学(1974年)などが挙げられ、サント・ドミンゴ自治大学はアメリカ大陸で最も古く建設された大学である。

◎ 保健


● 治安
同国はラテンアメリカ諸国の中では治安が比較的良い方だとされているが、それでも旅行者を標的にした犯罪は後を絶たない。また、ドミニカ共和国はコロンビアからのコカインの輸出中継地である。

● 文化
ドミニカ共和国の文化はアラワク族の文化、西アフリカから移入された黒人の文化、スペイン人の文化の影響を受けている。近年は政情が安定しない隣国ハイチから逃れてくる人も多く、そうしたハイチ人の文化がドミニカ共和国の文化に更なる多様性をもたらしている。

◎ 食文化
ドミニカ共和国の料理はタイノ人、スペイン、アフリカの影響によって成立している。代表的なものとしてモフォンゴなどが挙げられる。主食の米に、油と塩を多用する。塩水と油で炊いた米に、更に炊き上がったらサラダ油をたっぷりとかけてツヤツヤにする。 昼食がメインで、昼食はガッツリと摂る 。おかずも油や塩がよく利いていて、高カロリーなものが多い。このような食生活が現地人の身体に及ぼす影響は大きく、ドミニカ人の体型によく現れていると言える。

◎ 文学
文学では、マヌエル・デ・ヘスス・ガルバンの『エンリキージョ』(1882年)が特筆される。

◎ 音楽
1840年代にメレンゲが生まれた。生まれた当初は田舎の野蛮な音楽という位置づけだったが、地道に伝承、発展が続けられ、1930年代以降にはメレンゲをこよなく愛した独裁者トルヒーヨによって国民文化として保護され、現在の地位に至っている。 1920年代の占領統治時代にアメリカ軍の兵士向けにメレンゲが発達し、が生まれ、1950年代にはが生まれた。 現在ではニューヨーク生まれのサルサも人気であり、在米ドミニカ人の活躍により、ドミニカ音楽の合衆国市場への進出も盛んである。

◎ 世界遺産
ドミニカ共和国国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件存在する。

◎ 祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
  1月1日   元日   Año Nuevo  
  1月6日   公現祭   Epifanía, Santos Reyes Magos  
  1月21日   アルタグラシアの聖母   Virgen de la Altagracia  
  1月26日   フアン・パブロ・ドゥアルテの日   Día de Juan Pablo Duarte  
  2月27日   独立記念日   Independencia Nacional de la República Dominicana  
  3月か4月   聖金曜日   Viernes Santo  
  5月1日   メーデー   Día del Trabajador  
  5月17日   国際コンタドールの日   Día del Contador de las Américas  
  8月16日   民族維新の日   Restauración Nacional  
  9月24日   メルセデスの聖母   Vírgen de las Mercedes  
  11月6日   憲法記念日   Día de la Constitución  
  12月25日   クリスマス   Navidad  


● スポーツ
19世紀以降アメリカの強い影響を受けたドミニカ共和国では、野球が圧倒的な人気を誇っている。野球以外ではソフトボール、ボクシング、バスケットボール、バレーボールが比較的盛んである。その反面、世界的にメジャーなスポーツの代表格であるサッカーは認知度が低い。 オリンピックには1964年東京オリンピックより参加しており、2021年東京オリンピックまでに金メダル3個を含む12個のメダルを獲得している。2004年アテネオリンピック男子400mハードルにて、フェリックス・サンチェスがドミニカ共和国初の金メダルを獲得している。なお、冬季オリンピックには参加経験がない。

◎ 野球
19世紀後半にアメリカから伝わり、事実上の国技として扱われている。MLBに多くの選手を輩出している世界屈指の野球大国であり、以降、までに789人の選手がメジャーリーグでプレーした。国内に通年のプロリーグがなく、MLBが設立した野球アカデミーで選手育成をしている。国外リーグの選手がプレーする場としては、夏季にマイナーリーグ(MiLB)のルーキー級であるドミニカン・サマーリーグが、10月に入ると、MLBやMiLBなど海外でプレーしているドミニカ人選手を中心に6チームが参加するリーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ラ・レプブリカ・ドミニカーナ(LIDOM)が開催される。このウインターリーグを勝ち抜いたチームは、カリビアンシリーズでメキシコ、プエルトリコ、ベネズエラの各ウィンターリーグ優勝チームと対戦する。 日本のプロ野球でも、のラモン・サントスを皮切りに、現在に至るまで多くのドミニカ共和国出身の選手が在籍してきた。また広島東洋カープが人材発掘のため、同国内にカープアカデミーと呼ばれる育成施設を設置している。 野球ドミニカ共和国代表は1992年バルセロナと2020年東京のオリンピック2大会に出場し、東京大会では銅メダルを獲得した。の第3回WBCでは全8試合で勝利して大会史上初となる完全優勝を果たし、大会MVPには同国からロビンソン・カノが選出された。目覚ましい活躍を魅せる一方、ステロイドに代表される薬物問題が暗い影を落としている。近年はMiLBでも多数のドミニカ人選手が禁止薬物使用で出場停止処分を受けており、ドミニカ人選手の間での薬物蔓延が問題視されている。また、ドミニカ共和国の多くの少年が、メジャーリーガーとなって名誉と豊かな暮らしを手に入れることを夢見ているが、彼らにとってはMLB球団のセレクションに合格する・合格しないは死活問題であるため、筋肉増強剤に手を出す者までいる。さらにミゲル・テハダやアルフォンソ・ソリアーノのように、メジャー球団との契約を有利にするために年齢を低く偽る選手も存在する。

◎ バスケットボール
ドミニカ共和国からは1988年のを皮切りに2023-24シーズンまで10人のNBAプレイヤーを輩出している。ティトの息子であるアル・ホーフォードはドラフト全体3位でアトランタ・ホークスに指名され、NBAオールスターゲームに4度選出されている。国内では2005年よりプロリーグであるが開かれている。 バスケットボールドミニカ共和国代表はオリンピックの出場こそないものの、ワールドカップ(旧世界選手権)にはこれまで4度出場しており、2019年大会は全参加32ヶ国を対象にした「パワーランキング」で29位かつアル・ホーフォードらNBAプレイヤー不在の中、グループGにてドイツを破る番狂わせを演じ初の1次ラウンド突破を果たした。パンアメリカン競技大会は2003年に銀メダル、アメリカ選手権は2011年に銅メダルを獲得している。

◎ サッカー
によって構成されるサッカードミニカ共和国代表は、首都・サントドミンゴにあるをホームスタジアムとしている。これまでに、FIFAワールドカップおよびCONCACAFゴールドカップには未出場である。カリビアンカップには2度の出場経験を有するが、2大会ともにグループリーグ敗退という結果に終わっている。 ドミニカ共和国の世界的に有名なサッカー選手としては、オリンピック・リヨンやレアル・マドリードでプレーしたマリアーノ・ディアスが存在する。しかしマリアーノは同国代表としては、2013年に行われたハイチ代表との親善試合の1試合にのみ出場して以降、本人がスペイン代表入りを望んでおり、それ以降は招集に応じておらず、同国におけるサッカーの低迷は長期化の気配が濃くなっている。

● 自然災害
熱帯地方特有の自然の災害である毎年雨季に襲来するハリケーンと勢力の強い熱帯性低気圧は、その多くが東または南東で生まれ接近しながら発達してくる。最近100年間では、大型ハリケーンといわれる風速49メートル以上のハリケーンの上陸が5回、それ以下のレベルのハリケーンと強い熱帯性低気圧の接近や上陸は毎年起こっている。国土を東西に横断し、強風とともに長時間の豪雨を伴う。毎年人的及び物的被害が甚大である。 1946年8月4日、マグニチュード8.1の地震で約10メートルの津波が観測されたにもかかわらず、ドミニカには地震は起こらないと多くのドミニカ人が勘違いをしている。活断層も多くあるのに、それらの情報が人々に行き渡っていない。

「ドミニカ共和国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年10月8日0時(日本時間)現在での最新版を取得

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