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、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリアと国境を接し、南東はインド洋に面する。
首都のナイロビはアフリカ大陸有数の世界都市で、国際連合環境計画と国際連合人間居住計画の本部が置かれている。
● 国名
正式名称はスワヒリ語で「Jamhuri ya Kenya」、英語では「Republic of Kenya」。日本語での表記はケニア共和国。通称「ケニア」。「ケニヤ」とも表記する。国名はアフリカ大陸で二番目に高いケニア山(5,199メートル)に由来する。
● 歴史
◎ クシ語系の民族移動
紀元前2000年ごろに北アフリカからケニア地域へクシ語系の民族移動が行われた。
◎ バンツー系の民族移動
紀元前1000年までに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した(:en:Bantu expansion)。
◎ アラブの進出とスワヒリ文明の勃興
7、8世紀ごろにはアラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。10世紀までに、ケニア沿岸部にはバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え始めた。1418年ごろに明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び、奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。
◎ オマーン帝国
1828年にはオマーン帝国のスルタンであるサイイド・サイードがモンバサを攻略した。
◎ イギリスの進出
19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888年には沿岸部が(IBEA)により統治されるようになった。1895年にイギリス領東アフリカが成立。1895年から1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1896年のアングロ=ザンジバル戦争で敗れたスルタンがザンジバル・スルタン国(1856年 - 1964年)に根拠地を移した。1902年、ウガンダもイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。1920年には直轄のケニア植民地となる。
◎ 政治運動の始まり
1921年6月10日、によってキクユ青年協会(YKA)が設立され、政治運動が始まった。1924年にYKAの政治活動が禁止されると、らによって(KCA)が結成された。
1940年、第二次世界大戦でイタリア領東アフリカとの戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。のちにマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたためである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟(Kenya African Study Union、KASU)が設立され、1947年にジョモ・ケニヤッタが加わり(KAU)に改組された。
◎ マウマウ団の乱
1952年 - 1956年ケニア土地自由軍(KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、グレンデールのホウィック男爵の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952年 - 1959年)であった。
◎ 独立とケニヤッタ政権
反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にKADUが結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ2つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、James Gichuru、ジャラモギ・オギンガ・オディンガ、が率いるKANUが主導となる。
1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行し、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中の当時「アフリカ社会主義」を掲げて親ソビエト連邦の姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。のちにKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタ政権下でケニアは経済成長を遂げた。
◎ モイ政権
1978年のケニヤッタ死去後、ダニエル・アラップ・モイが第2代大統領に就任した。1982年8月、が起きた。
1991年に複数政党制を導入。ムワイ・キバキはKANUを飛び出して民主党(DP)を結成。2000年、モイがケニヤッタの息子、ウフル・ケニヤッタをKANUの後継者とし、:en:The National Allianceと改組された。
1998年8月7日には、首都ナイロビの在ケニアアメリカ合衆国大使館がアルカーイダによって攻撃されるアメリカ大使館爆破事件が発生し、数千名の死傷者を出した。
◎ キバキ政権
2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織「(NARC)」が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。しかしキバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族であるキクユ人優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(のちにODMに発展)に分裂する。改革派の中心はライラ・オディンガであった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月にケニア議会で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に国民投票を行ったが、改正案は国民投票により否決され、ムワイ・キバキ大統領は閣僚の交代を余儀なくされた。
◎ ケニア危機
そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎討ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムやリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1,000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。
国際連合事務総長コフィー・アナンにより翌年1月に行われた調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する(2007年-2008年のケニア危機)。
連合政権はその後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日、国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化など、より制度的な民主化を促進するとみられる(ケニア共和国憲法 (2010年)、:en:Constitution of Kenya、:en:Kenyan constitutional referendum, 2010)。
◎ 東アフリカ大旱魃
◎ ウフル・ケニヤッタ政権
2013年3月のでウフル・ケニヤッタが当選、4月に就任。2013年9月21日にケニアショッピングモール襲撃事件が発生し、ソマリアで活動していたアル・シャバブが犯行声明を出した。
2017年8月の大統領選挙でケニヤッタが再選されたが、最高裁はこれを無効とした。これはアフリカで選挙結果が法的に無効にされた初めてのケースである。同年10月にやり直しのが執行されたが、野党候補のライラ・オディンガがボイコットしたためケニヤッタが圧倒的多数で再選された。
◎ 2022年大統領選挙
2022年8月9日に実施された大統領選挙について、選挙管理委員長は同月15日、副大統領のウィリアム・ルトが50.49%の得票で勝利したと発表した(オディンガの得票率は48.85%)。オディンガは翌16日、選管委員の半数が疑義を呈しているなどとして、委員長が発表した選挙結果の受け入れを拒否と法的対抗手段をとることを表明した。
● 政治
大統領制をとる。ケニア議会は224議席、任期5年、一院制のからなっていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。
2022年に創設された内閣筆頭長官は行政(中央政府)の代表者として立法(議会)との渉外・調整も担当する。韓国における国務総理(首相)職に類似するが、ケニアでは副大統領が大統領欠位時の代行者であると憲法で既定されているため、権限が限られる。
◎ 政党
初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より複数政党制が導入された。
● 国際関係
◎ 日本との関係
・ 在日ケニア大使館汚職事件 - 2009年に大使館用地購入を巡る汚職疑惑事件が起こり、翌年、外務大臣が辞任した(のちに復職)。日本政府から好立地で無料の大使館用地の提示があったにもかかわらず、東京都目黒区の敷地を大使館用地として市井価格より高い金額で現金購入したことが問題となった。
・ 在留日本人数 - 681人(2022年10月時点)
・ 在日ケニア人数 - 897人(2021年06月時点)後にカウンティ政府が設立された。カウンティ政府には中央から多くの権限が委譲され、必要な予算・職員も従来の地方行政区や中央から配置・配転された。カウンティ政府法によって各カウンティの下にはサブ・カウンティ(sub-county)、区(ward)、村(village)などの下位行政区分が設置されている。サブ・カウンティは国会議員(290名)を選出するための選挙区(constituency)に対応している。
◎ 2013年以前の行政区分
新憲法施行以前の行政区分は州(Mikoa, Province)が設置されていた。
◎ 主要都市
主要な都市はナイロビ(首都)、モンバサ、キスムがある。
● 経済
ケニアは東アフリカ地域経済の中心として発展し、サファリパークやビーチ・リゾートなどの観光資源に多くの観光客を集めている。
同国の主要産業は農業であり、国内総生産(GDP)の約30%を占めている。また、農業部門はケニアの輸出総額の65%を占めている。農業部門は雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たしており、正規雇用に占める割合は約18%(2005年)ほどであるが。さらにケニアの人口の約8割の人々が農業によって生計を立てている。
2010年代には欧州向けの紅茶、花卉の輸出が増加した。自然条件(起伏に富んだ国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成により欧州連合(EU)向け花卉の最大の供給源である。さらに2020年代にはアボカドの輸出も好調さを見せている。 しかし、2020年の輸出額が6.8655億ケニア・シリング、輸入額が20.187億ケニア・シリング。
・主要な輸出品:紅茶(輸出額全体の21.1%)、園芸作物(16.9%)、コーヒー(4.6%)、衣料品・アクセサリー(4.3%)、たばこ・同製造品(3.5%)
・輸入品:産業用機械、自動車、原油、鉄
・主要な輸出先:ウガンダ(輸出額全体の13.0%)、タンザニア(8.9%)、英国(7.8%)、オランダ(6.0%)、アラブ首長国連邦(5.5%)
・主要な輸入元:インド(14.2%)、中華人民共和国(12.2%)、アラブ首長国連邦(10.9%)、サウジアラビア(4.9%)、米国(4.8%)
○ 日本との貿易
対日輸出額は4,600万ドル、対日輸入額は9億1,100万ドルである。
◎ 格差
ケニアの経済は、極端に富が一部に集中している。5300万人の人口の0.1%以下が、その他の99.9%よりも多くの富を所有している。
● 交通
● 国民
◎ 人口
2009年の国勢調査によると、ケニアの総人口は3,861万0,097人(男性:1,919万2,458人,女性:1,941万7,639人)である。また、CIAワールドファクトブックによる推計では2014年7月時点の総人口は4,501万0,056人である。
◎ 民族
ケニアの主要な民族の人口は、以下の表の通りである。
1
キクユ 6,622,576 17.2
2
5,338,666 13.8
3
4,967,328 12.9
4
ルオ 4,044,440 10.5
5
カンバ 3,893,157 10.1
6
ソマリ 2,385,572 6.2
7
キシイ 2,205,669 5.7
8
ミジケンダ 1,960,574 5.1
9
メルー 1,658,108 4.3
10
988,592 2.6
ケニアには全部で42の民族が存在していると言われるが、上表の通り上位5位までの民族でケニアの総人口の約3分の2を、上位10位まででその約9割を占めている。また、その他にアジア系、ヨーロッパ人、アラブ人などが少数存在する。ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった。人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「インド系(印僑)」も、政治経済に大きな影響力を保っている。
南部からタンザニア北部にかけて、遊牧民であるマサイ族も存在する。
◎ 言語
○ 公用語・国語
2010年に制定された憲法では、ケニアの国語(National Language)はスワヒリ語、公用語(Official Language)はスワヒリ語および英語と定められている。司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある。
○ 民族語
ケニアには英語やスワヒリ語の他に60以上の言語が存在しており、大きく分けてニジェール・コンゴ語族のバンツー諸語、ナイル・サハラ語族のナイル諸語、アフロ・アジア語族のクシ諸語がある。
・ニジェール・コンゴ語族 バンツー諸語
・キクユ語(話者数約660万人)、ルイヤ語(約510万人)、カンバ語(約390万人)、キシイ語(約220万人)、メルー語(約170万人)
・ナイル・サハラ語族 ナイル諸語
・カレンジン語(約480万人)、ルオ語(約400万人)、(約100万人)
・アフロ・アジア語族 クシ諸語
・ソマリ語(約240万人)
○ シェン
シェン(Sheng)とは、1970年代以降に生まれたスワヒリ語や英語、いくつかの民族語の混合言語・スラングであり、主に首都ナイロビで若者を中心として話されている。
◎ 婚姻
結婚時に改姓すること(夫婦同姓)もしないこと(夫婦別姓)も可能。
◎ 宗教
宗教は、キリスト教のプロテスタントが47.7%、カトリック教徒が23.5%、その他のキリスト教徒が11.9%、ムスリムが11.2%、伝統宗教の信徒が1.7%、ヒンドゥー教徒が0.1%、その他が1.5%、無宗教が2.4%となっている。
◎ 人権
● マスコミ
● 文化
◎ 食文化
◎ 文学
小説においては英語で書いた『』(1964)でケニア独立戦争を描いたあと、キクユ語のみで創作することを新たに宣言したグギ・ワ・ジオンゴ、『猟犬のための死体』(1974年)のメジャ・ムアンギ、『スラム』(1981年)のトマス・アカレ、ケニア土地自由軍の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990年)で知られるサムエル・カヒガなどが著名な作家の名として挙げられる。
◎ 音楽
◎ 映画
◎ 世界遺産
ケニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が3件存在する。
◎ 祝祭日
1月1日 元日 New Year's Day
3月or4月 聖金曜日 Good Friday 移動祝日
3月or4月 イースター・マンデー Easter Monday 移動祝日
5月1日 メーデー Labour Day
6月1日 マダラカデー Madaraka Day 独立前の自治獲得記念(1963年)
10月10日 フドゥマデー Huduma Day 2019年まで Moi Day
10月20日 マシュジャアデー Mashujaa Day 旧称のケニヤッタ・デーから2010年に独立の英雄を祝う日へと名称・趣旨を変更
12月12日 独立記念日 Jamuhuri Day 1963年12月12日
12月25日 クリスマス Christmas Day
12月26日 ボクシング・デー Boxing Day
・ 10月10日に指定されていたモイデーは2010年に廃止されたが、2017年に復元され、2019年12月に閣議を経て、フドゥマデーへ改名された。
● スポーツ
ケニア国内では、陸上競技とサッカーが最も人気のスポーツとなっている。とりわけ陸上競技の長距離走の人気は高く、隣国エチオピアと並んで世界屈指の強豪国として知られている。2008年北京五輪・男子マラソンの金メダリストサムエル・ワンジルをはじめ、オリンピックや世界陸上などでは優勝者を輩出している。
◎ サッカー
ケニアではサッカーも盛んであり、1963年にプロサッカーリーグのが創設された。ケニアサッカー連盟(FKF)によって構成されるサッカーケニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。アフリカネイションズカップには6度出場しているものの、いずれの大会もグループリーグで敗退している。
ケニア人の著名なサッカー選手として、マイケル・オルンガが特にアジア諸国においては知られており、2020年Jリーグ得点王および最優秀選手賞(MVP)を受賞し、翌年にアル・ドゥハイルSCに移籍したのち、AFCチャンピオンズリーグ2021では得点王に輝いている。さらに2021-22シーズンのカタール・スターズリーグにおいても、25ゴールを挙げ得点王となった。またオルンガの他にも、マクドナルド・マリガがイタリアのセリエAで活躍し、さらにマリガの弟であるビクター・ワニアマは、イングランドのプレミアリーグでプレーした。
● 著名な出身者
・ バラク・オバマ・シニア - エコノミスト
・ グリンダ・チャーダ - 映画監督
・ トマス・アカレ - 作家
・ ムワイ・キバキ - 元大統領
・ ワンガリ・マータイ - 政治家
・ エリウド・キプチョゲ - マラソン選手
・ ダニエル・ジェンガ - マラソン選手
・ ポール・テルガト - マラソン選手
・ キャサリン・ヌデレバ - マラソン選手
・ エリック・ワイナイナ - マラソン選手
・ ダグラス・ワキウリ - マラソン選手
・ サムエル・ワンジル - マラソン選手
・ ウィルソン・キプケテル - 陸上選手
・ ピーター・コエチ - 陸上選手
・ ウィリアム・シゲイ - 陸上選手
・ ウィリアム・タヌイ - 陸上選手
・ リチャード・チェリモ - 陸上選手
・ ポール・ビトク - 陸上選手
・ デニス・オリエク - 元サッカー選手
・ マクドナルド・マリガ - 元サッカー選手
・ ヨハンナ・オモロ - 元サッカー選手
・ ローレンス・オルム - 元サッカー選手
・ ビクター・ワニアマ - サッカー選手
・ アユブ・マシカ - サッカー選手
・ マイケル・オルンガ - サッカー選手
◎ バラク・オバマ
ケニア人のバラク・オバマ・シニアとアン・ダナムの間に生まれたバラク・オバマが、アメリカ合衆国初の黒人大統領に就任した。オバマは同国では育てられていないが、過去にケニアを数回訪問している。両親は既に故人であるが、生存している祖母サラ・オバマの元には大統領就任の際、国外を含む10以上のメディアが押し寄せたと伝えられている。
ムワイ・キバキ大統領(当時)は、ジョン・マケイン候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。更に祝意を表するため、11月6日を国民の祝日にすると宣言した。オバマという姓はルオ族の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカ独自の姓が現れたのである。またオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母はイギリス人の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人でもある。
「ケニア」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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