ランキング21位
獲得票なし
ランキング13位
獲得票なし
ジョージア(、、カナ: サカルトヴェロ)は、ユーラシア大陸の南コーカサスにある共和制国家。首都はトビリシである。ヨーロッパとアジアの境にあり、東ヨーロッパと西アジアのいずれにも区分されることがある。北はロシア連邦、南東はアゼルバイジャン、南はアルメニアとトルコと接し、西は黒海に面する。
ロシア内戦中の1921年にグルジア民主共和国が赤軍に占領され、以後ソビエト連邦を構成するグルジア共和国とされたが、ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年4月に共和国として独立を回復した。
2008年、ロシア連邦が軍事侵攻し、ジョージア北部の南オセチアとアブハジアの「独立」を一方的に承認。日本は、侵攻を受けてロシアと国交断絶したジョージアの要請を受け、2015年4月までの国名呼称グルジア(, Gruziya)からジョージアへ変更した。
● 概要
ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。古来から数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながらキリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。一方で、温暖な気候を利用したワイン(グルジアワイン)生産の盛んな国としても知られている。
ジョージアは、かつてソ連の構成国の一つであったが、1991年に独立を果たした。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは、旧ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンの出身地でもある。
一方でロシア帝国とその後に成立したソ連の支配が長く続いたことから、独立後は様々な方面でロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼びかけに応じてアゼルバイジャンやモルドバとともにGUAMを結成し、2005年にはウクライナと共に(CDC)を発足して加盟、2009年には独立国家共同体(CIS)を脱退した。
1999年から欧州評議会のメンバーである。
なお、本項目では2015年4月以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」など、既に完全に定着したものについては「グルジア」を使用することとする。
● 国名
ジョージアにおける自称(エンドニム)は、サカルトヴェロ(、 ラテン文字転写 :Sakartvelo)であり、「カルトヴェリ人の地」を意味する。カルトヴェリ人の由来となった「カルトリ」は、ジョージア最古の文学作品『聖シュシャニクの殉教』(5世紀)にもみられる、ジョージア中心地域の古称である、1956年の日ソ共同宣言に前後して共産圏の報道に強みを持つラヂオプレスが「グルジア」を採用していたことなどから、徐々に「ジョルジア」に対して優位を占めるようになった。このロシア語名は一説に、英語名のと同じく中世にペルシャ語で使われていた「グルジュ」もしくは「グルジャーン」という呼称がアラビア語などを経由して十字軍時代にヨーロッパへ紹介されたのが由来とされる。スラヴ語圏でも13世紀ごろからこのグルジュに由来する呼称が見られるようになり、その後、キリスト教国であるジョージアの守護聖人「聖ゲオルギオス」の名に結びつけられていった、1994年にはジョージア国家警備隊と組織の間で相互協力協定(:en:Georgia–Georgia National Guard Partnership)が締結されている。
1995年のジョージア憲法採択以降は国名に「共和国」などの政体名を含まないのが正式名称だが、英語圏ではアメリカのジョージア州との混同を避けるため、国家を "Country of Georgia"、アメリカの州を "State of Georgia" と呼び分ける慣例がある。日本語でも同様に「ジョージア国」(ジョージアこく)と「国」を付加した呼称が使用される場合がある。また、ビートルズの楽曲『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』では、互いに無関係ながら英語では同一の名称で呼ばれる2つの地名に引っかけたジョークが歌詞に含まれていることで知られる。
1992年に日本と国交を樹立して以降、ロシアの首都モスクワを経由せずに現地の情報が直接入るようになったことから、特に主要民族たるカルトヴェリ人の間で根強い反露感情について日本でも広く知られるようになった。2000年代半ばには特許分野や一部のワイン輸入業者が「グルジア」の使用を取りやめて自主的に英語名の「ジョージア」を使用するようになった。しかし、2008年に勃発した南オセチア紛争を機に、ロシアとの敵対関係が決定的なものとなったことも後押しし、この時期から日本を含めて「グルジア」系統の外名を使用している各国に対して、個別に「グルジア」の使用取りやめと英語名の「ジョージア」(Georgia)採用が要請されるようになった。韓国では2010年にこの要請を受け入れて「그루지야(グルジヤ)」から「조지아(ジョージア)」へ外名を変更しているが、北朝鮮では現在も「그루지야(グルジヤ)」を使用している。かつてのソビエト連邦構成国では、リトアニアが2018年からリトアニア語の外名を "Gruzia" から "Sakartvelo" へ変更することを国会議長が表明している。
日本政府に対しては、2014年10月の首脳会談で正式に「グルジア」の使用を取りやめて「ジョージア」へ外名を変更するよう要請が行われ、2015年に日本政府が使用する外名の根拠法となる在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(在外公館設置法)別表の改正案が、国会で衆参両院の全会一致による可決を経て、4月22日付けで公布・施行され、同日には外務省のサイトで外名変更の告知が行われた。日本政府が(政体などの変革を理由とする場合を別にして)外国政府から個別に外名の変更を要請されて受諾したのは、1986年(在外公館設置法の別表改正は2003年)にコートジボワールの外名変更要請(それ以前はフランス語名を意訳した「象牙海岸」を使用していた)を受け入れて以来2例目となる。
漢字表記には「グルジア」に由来する「具琉耳」と「ジョージア」に由来する「喬治亜」の2通りがある。台湾(中華民国)では「喬治亞」を採用しているが、中華人民共和国では格鲁吉亚(簡体字)、香港では格魯吉亞(繁体字)と、いずれも「グルジア」系統の外名が現在も使用されている。
● 歴史
◎ 原始・古代
近年、ジョージア国内では南東部のドマニシの洞窟から180万〜160万年前ごろの原人タイプの化石人骨が発見されている。出土人骨のデータから、従来東アジアで発見されていた原人よりも原始的な特徴を持ち、ユーラシア大陸で最古の年代が想定される。コムギやライムギについては、当地方は最も重要な種の発祥地と考えられている。石器の石材には主として地元産のフリントや黒曜石が用いられ、牛や豚などの牧畜を行い、ブドウを含む果樹の栽培も行われた。B・A・クフティンがトリアレティ(クヴェモ・カルトリ州)で調査した遺跡によれば、内陸部では紀元前2000年紀には遊牧を生業とする諸部族が生活し、部族の指導者とみられる人物の墳墓からは美麗に彫琢された金銀製の容器が副葬されるなど、当時の社会が首長に富と権力を集中させていた様相が確認されている。黒海とカスピ海をつなぐ地峡地帯には交易路が通り、地中海とペルシア地域を結ぶ貿易が盛んに行われていた。
コルキス王国東側の内陸部は、紀元前6世紀にオリエントを統一したアケメネス朝ペルシア、続いてセレウコス朝の一部となり、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてはイベリア王国(カルトリ王国)が成立した。これは、カッパドキア出身の聖ニノ(グルジアのニノ)の布教によって東グルジアの多くの人が入信したことによるといわれている。この王国は523年にキリスト教を受容し、562年には東ローマに併合された。グルジア文字(カルトリ文字)は4世紀から5世紀ごろにかけての時期に考案された、グルジア語を表記するために考案された独自の文字で、字形は異なるもののギリシア文字と同じ原理の文字体系をなしている。
イベリアは、一時ペルシア人の支配を受けたが、5世紀末には剛勇で知られるヴァフタング1世(ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権が回復され、トビリシの都市的発展が始まった。6世紀初頭、ヴァフタング1世の子の王が父の遺言に基づきムツヘタからトビリシへ遷都した。ラジカ王国がキリスト教を国教化すると、サーサーン朝は軍を派遣して527年から533年まで続くとなった。この王立学校はグルジアを代表する科学者、神学者、哲学者を擁し、トビリシ遷都後も17世紀に至るまでグルジアの文教の中心として栄えた。
タマル女王死後のグルジアはホラズム・シャー朝の軍による侵入を受け、さらにモンゴルのグルジア侵攻に晒された。1220年にはチンギス・カンの命を受けたスブタイとジェベはホラズムのムハンマド2世(アラーウッディーン・ムハンマド)を追撃している途上でカフカス地方を通過し、遭遇したグルジア軍はモンゴル軍に打ち負かされた。翌1221年、スベタイ・ジェベ軍2万がグルジア王国を再び攻撃。タマルの子は第5回十字軍への支援を取りやめ、国を挙げて抵抗したものの敗北した。ギオルギ4世は対モンゴル戦の負傷がもとで1222年に死去し、妹のルスダンが王位を継承した。
ルスダン治下の1225年、ホラズムの支配者ジャラールッディーン・メングベルディーがグルジアに侵入し、1226年、首都トビリシが占領されて略奪を受けた。1259年から1260年にかけて、ダヴィド6世に率いられたグルジア貴族たちがモンゴル勢力に叛旗を翻し、西部グルジアにの独立を勝ち取った。しかし、東部グルジアは引き続きモンゴル支配を余儀なくされた。モンゴル支配下では貢納は厳しかったものの一定の自治は与えられた。またモンゴル人たちは概して宗教に寛容で、イスラムやキリスト教ネストリウス派、ルーシとグルジアの東方正教会はむしろ民衆統治に役立てられた。交通上の変革としては、1260年以降、ジェノヴァ共和国と東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスとの条約によって黒海にジェノヴァ商船隊が乗り入れが実現した
1380年、西チャガタイハン国から自立したティムールが侵入、トビリシを占領して王と王妃は捕虜となった。一方のカルトリ王国では16世紀中葉にシモン1世らがペルシアに対して抵抗して以降は、サファヴィー朝の宗主権を認めた。サファヴィー朝の帝都エスファハーンの長官職は半ばグルジアの王子による世襲の職となっており、現在のイラク国境に近いシューシュタルの町は、グルジアの大貴族出身者の家系が約100年にわたって支配し続けた。このとき、カルトリ・カヘティ各地では人民の叛乱が起こった(英露の抗争は「グレート・ゲーム」を参照)。
ロシアは1810年には西グルジアのイメレティをも併合し、グルジア主要部は総じて簡単にロシアの一部になってしまった。ロシアはまた、1828年にはアルメニアを併合、さらに同年、ペルシアとの戦争の結果、アゼルバイジャン北部を支配下に置き、1829年にはグルジアのグリアを併合した。結局ロシアは、北カフカスを戦場とするコーカサス戦争(カフカス戦争)に1816年から1861年まで、45年の歳月を費やしている。これについては、当時のグルジア人たちがロシア人たちと共通の信仰(キリスト教)を持っていたばかりでなく、彼らがロシア統治に積極面を感じていたという指摘がある。また、開明的なミハイル・セミョノヴィチ・ヴォロンツォフ総督時代の1845年から1854年にかけては、グルジアの商業と貿易が急速に発展し、トビリシには劇場なども整備され、都市文化が開花した。また、1902年のバトゥミでのストライキは社会民主党の指導によるものであった。1903年、トビリシでロシア社会民主労働党カフカス連盟が組織され、カフカス諸都市の労働運動は組織化を一層強めた。トビリシやポティ、クタイシではストライキが起こり、トビリシとカルスでは軍部の反乱さえ起こっている。そこにはグルジア革命的社会主義者連邦派党も参加している。1992年1月6日、ズヴィアド・ガムサフルディア大統領は首都トビリシを脱出し。10月17日、国家評議会は自主解散し、統治機能は最高会議に引き継がれることとなった。1992年7月31日、国際連合に加盟した。その後は2003年まで、シェワルナゼが最高権力者であった。
○ バラ革命
2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘され、アメリカ合衆国が非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。これに対し、反対派の議員はボイコットした。議会前には2万5,000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。シェワルナゼ大統領は議会から逃亡し、11月23日には大統領を辞任した。代わって、野党「ブルジャナゼ・民主主義者」の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(ナルチェマシュヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシュヴィリ財務相、メナガリシュヴィリ外相など)を一掃した。
○ サアカシュヴィリ政権
旧野党勢力は、2004年1月4日に行われた大統領選挙では、野党国民運動のミヘイル・サアカシュヴィリ党首を統一候補として擁立した。しかし、労働党のナテラシュヴィリ党首が議会選挙のやり直しに反対し、伝統主義者連盟が離脱を表明するなどの動きもあった。ロシア連邦を後盾にアジャリア自治共和国を事実上中央政府から独立して支配してきたアスラン・アバシゼ最高会議議長が非常事態宣言を発令し、暫定政権に反対するなどの動きを見せた。結局、大統領選挙の結果はサアカシュヴィリの圧勝に終わった。これに反対する野党勢力も一転して選挙結果を受け入れ、アバシゼ議長は反対し続けたが、5月には最終的にロシアへ亡命して一連の混乱も収拾した。
3月28日に議会再選挙が行われた。結果は、国民運動が得票率75%で大多数の議席を獲得し最大与党に躍進した。一方、その他に議席獲得に必要な7%の得票率を超えられたのは新右派と産業党が連合して結成された右派野党だけであった。今回の選挙は独立後のグルジアで最も自由な選挙のうちの一つだったと考えられる。
2007年11月に与党サアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にグルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど政情不安は続き、これに対するサアカシュヴィリ政権の強硬政策はグルジアにおける民主主義の後退を位置づけるものとなった。
○ ロシア-グルジア戦争
2008年8月、南オセチア州を巡りグルジアとロシアの間において紛争が勃発した。
この紛争によってサアカシュヴィリの権力は強まると思われたが、逆に多くの戦死者を出して批判され、のちに紛争を「グルジアから仕掛けた」と発言するに及び、彼の求心力は弱まっている。
2009年4月9日、首都トビリシで、サアカシュヴィリ大統領に辞任を要求する大規模な反政府集会が議会前広場で主要野党(民主運動・統一グルジアなど)によって開かれた。その集会には、6万人に上る市民が集結した。要求の背景は、大統領の権力集中への批判とロシアとの軍事衝突を回避できなかった責任の追及などが挙げられている。なお、グルジアが求めていた北大西洋条約機構(NATO)加盟は現在棚上げされている。
2009年5月5日に軍部によるクーデター未遂事件が発生し、グルジア軍の高級将校ら数人が拘束された。グルジアはクーデター勢力がロシアの支援を受けていたと非難している。
○ サアカシュヴィリ政権の終焉とマルグヴェラシヴィリ政権
2012年10月の選挙の結果、ロシアとの関係改善を目指す野党連合「グルジアの夢–民主主義グルジア」が勝利し、同連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。そして、2013年10月27日に行われた大統領選挙で、「グルジアの夢」が推薦したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補が圧勝し、サアカシュヴィリ大統領の後継者のダヴィト・バクラゼ候補は惨敗した。
これにより、強固な反露・親欧米政策を推し進めてきたサアカシュヴィリ体制は終焉を迎えたが、欧州連合(EU)加盟を目指す方向性は変わっておらず、2014年6月27日、EUと連合協定を締結し、2016年7月1日、正式に連合協定を発効した。
2018年にはフランス生まれの元フランス外務省職員で元はサアカシュヴィリの盟友で同政権で外相を務めたサロメ・ズラビシュヴィリが無所属で大統領に選出された。ウクライナ戦争以降、西側諸国と歩調を合わせて対露強硬路線を求める親欧米派のズラビシュヴィリ大統領に対して対露制裁に不参加と中立的立場を貫く与党との対立を引き起こしているが、大統領職は名誉職に過ぎず政治的な実権は無く現政権はサアカシュヴィリ政権の終焉以来続いている中立姿勢を堅持している。
2024年10月26日、議会選挙の投開票があり、公式発表では与党「ジョージアの夢」が過半数議席を獲得。しかし野党や国際監視団は、この投開票の結果について不正や暴力が幅広く行われていたと指摘。サロメ・ズラビシヴィリ大統領も、今回の投票は認められないと述べ、ロシアが選挙に介入したと主張した。一連の批判について、BBCのインタビューを受けたイラクリ・コバヒゼ首相は、自由で公正な選挙だったとして「不規則な事態は、あらゆる場所で、どの国でも起きる」と述べた。
11月28日、「ジョージアの夢」が2028年末までEU加盟交渉を停止し、EUからの資金援助も拒否すると表明。同日夜、首都トビリシでこれに対する抗議デモが行われ、参加者が警察と衝突する事態となった。
ズラビシヴィリ大統領は、今回から直接選挙ではなく議会の議員などによる間接選挙で行われる12月14日の大統領選挙について、不正な選挙で選ばれた議員が新たな大統領を選ぶことはできないとして、同月中旬に任期が切れた後も大統領としてとどまる意向を示した。その後も自身の正当性を訴え続けたが、12月29日、「ジョージアの夢」のミヘイル・カベラシヴィリが大統領に就任した。
◎ 年譜
・ 4世紀 - キリスト教を国教化。
・ 6世紀 - 10世紀 サーサーン朝ペルシア帝国、東ローマ帝国、イスラム帝国(アラブ人)の支配下となる。
・ 11世紀 - 成立。
・ 13世紀 - 14世紀 タタール、ティムールによる侵攻。
・ 16世紀 - 18世紀 西部がオスマン帝国、東部はサファヴィー朝ペルシアの支配下となる。
・ 1783年 - によりグルジア東部はロシア帝国の保護領となる。
・ 1801年 - ロシア帝国、グルジア東部を併合。ロシアはその後、併合を繰り返していく。
・ 1878年 - 露土戦争の結果、アジャリアがロシア帝国に併合。現在のグルジアにあたる領域がすべてロシア帝国の版図に入る。
・ 1918年5月 - 前年のロシア革命を受けグルジア独立宣言(グルジア民主共和国)。
・ 1922年 - アルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を形成、ソビエト連邦に加盟。
・ 1936年 - スターリン憲法により、独立した連邦構成共和国となる。
・ 1989年8月 - 南オセチア紛争始まる。
・ 1990年8月 - アブハジア紛争始まる。
・ 1991年4月9日 - 独立宣言。
一方、ロシアにとってジョージアはカスピ海産原油パイプラインの存在など、中央アジアの原油を確保するうえで密接な関わりがあり、南の玄関口である黒海へ連なる要衝に位置する重要な国家と位置づけている。またチェチェンとの対立を抱えるロシアにとって、チェチェンの周辺国の一角を成すジョージアと手を結ぶことは、ロシア南部における安全保障の観点からも非常に有効と見ていた。
◇民族問題
こうした流れに加えて、ジョージア国内の民族問題も両国の対立に拍車をかけている。コーカサス地方は古くから多数の民族が入り乱れる不安定な地域であり、近代に成立したにすぎないジョージア人という民族意識はいまだ不安定で、ジョージア国民の間でも地方対立が絶えない状況下にある。最大勢力であるジョージア人(カルトヴェリ人)の中でもミングレリア人(ミングレリア)、スヴァン人(スヴァネティ)、ラズ人やアジャリア人(アジャリア)は民族意識が強くあり、ジョージア人とは区別する場合もある。
また、カルトヴェリ人とはまったく異なる北西コーカサス語族系のアブハズ人(アブハジア)、イラン系民族のオセット人(南オセチア)、アルメニア人(ジャワヘティア)、アゼルバイジャン人、チェチェン人など多数の非ジョージア民族を国内に抱えている。ジョージア政府の反露政策はカルトヴェリ人民族主義と密接に結びついており、これらの地方民族への弾圧が強まっている。これらの国の中には、言語の保護など多民族共生の向きが強いロシアの庇護を受けることで自民族の文化を守ろうとする動きがあり、ロシアもジョージアへの牽制から積極的に支援する立場にある。とりわけ南オセチアでは、北オセチアを統治するロシアへの併合を求める運動が活発化している(ただし、ロシア政府は国家承認はしつつも、併合は望まないとしている)。対するジョージアは自民族中心主義(エスノセントリズム)・反ロシア路線の双方から一連の動きに激しく反発した。
2006年9月27日・28日には、ジョージア国内に駐在していたロシア軍将校6名が、ジョージア軍によりスパイ容疑で拘束された。ロシア政府が抗議としてジョージアに対するビザ発給停止や国境線の封鎖などの報復をとる事態が発生している。さらに2008年には、ジョージア軍が南オセチアに展開するロシア軍主体の停戦監視部隊に攻撃を仕掛け、兵器を強奪する行為を起こした。ジョージア政府は「ロシア軍の停戦部隊は独立派を支援しており公平ではなく、EU部隊との交代を行うべき」と発言しているが、ロシア軍駐留に関しては当のEU側も賛同する意向を示している。
◇南オセチア紛争
2008年8月7日、ジョージア政府は南オセチア自治政府に対して、自治権を剥奪するとともに軍部隊を南オセチアとアブハジアに侵攻させ、同時にオセット人を虐殺した。しかし、南オセチアとアブハジア側に立って参戦したロシア軍の前に、ジョージア軍は一方的な敗北を喫し、8月15日に停戦が決定した。
停戦後、ロシアはジョージア国内に駐屯しつつ、議会でアブハジアと南オセチアの独立を承認する決議案を採択、メドヴェージェフ大統領がこれを正式に了承した。ジョージア側はこれに抗議する形で8月28日、議会にてロシアとの外交関係を断絶するよう求める決議を全会一致で採択した。8月29日、バシャゼ外務次官はロシアのアブハジア自治共和国と南オセチア自治州の独立承認に対し、ロシアとの外交関係を断絶すると発表した。
◇2022年ロシアのウクライナ侵攻
2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ジョージア世論でウクライナに同情的でロシアへの反感が強まっているが、一方でジョージア政府は対ロシア経済制裁には参加せず、経済制裁やロシア政府の言論統制などを嫌ってロシアから出国する人々をビザなしで受け入れている。こうしたロシアに融和的な姿勢をとる与党グルジアの夢=民主グルジアの創設者は、ロシア政府と親しいオリガルヒのビジナ・イヴァニシヴィリで、現在もジョージアの政治に大きな影響力を持っている。これにはロシアとの直行便を停止している欧州諸国や、サロメ・ズラビシュヴィリ大統領を中心とする親EU派が強く反対しており、抗議デモが起きている。また、ジョージア軍団に代表されるように一部のジョージア国民は義勇兵としてウクライナでの戦闘に参加している。
○ 日本との関係
◎ 軍事
現在、同国軍は陸軍と、国家警備隊で構成されている。
以前は海軍および空軍も存在していたが、上述の紛争によって壊滅したことから国境警察ならび沿岸警備隊と陸軍へ編入される形で統合しているため、どちらも現存しない。
● 地理
東ヨーロッパ。独立当初から一貫して欧州連合(EU)への加盟を志向しているのをはじめ、ヨーロッパオリンピック委員会(EOC)に加盟するなど、政治やスポーツ関連の国際組織では東ヨーロッパに区分されることが多い。こうした事情はトルコやキプロス、イスラエルなどに近いものと言える。
アジアに区分される事例としては、tz databaseで"Asia/Tbilisi"としてタイムゾーン(UTC+4)が設定されているジョージア時間が挙げられる。また、アジア開発銀行には「地域内メンバー」として加盟している。
◎ 地理概況・地勢
東経40 - 47度、北緯41 - 44度に位置するジョージアは、コーカサス山脈を中心に国土の大部分が山岳地帯である。最高峰はシュハラ山(標高5,201メートル)。200キロメートル離れたカズベギ山(標高5,074メートル)が第2の高山で、唯一の火山である。この間に2,100もの氷河がある。コーカサス山脈に沿ってロシア連邦と723キロメートルの国境を接し、クラスノダール地方、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア共和国、イングーシ共和国、チェチェン共和国などロシアの民族共和国と接する。そのためジョージアは古くから紛争の影響を受けやすく、アブハジア自治共和国、南オセチア自治州、パンキシ渓谷など中央政府の支配権の及ばない地域がある(下表参照)。特にチェチェン共和国と接するパンキシ渓谷は、チェチェン人ゲリラの巣窟となり中央政府の統治が行き届かない時期も存在した。
ジョージアは中部のリヒ山脈によって東西に分けられ、東部は歴史的にイベリアと呼ばれた一方、西部はコルキスと呼ばれていた。また山脈は、北部地域のスヴァネティを分けている。またこれらの山脈を源としてリオニ川やクラ川(ムトゥクヴァリ)などの主要な河川がある。クラ川の源流域やチョロフ川の流れる一帯が歴史的な西南ジョージア(メスヘティ)であり、統一王朝発祥の地として知られる。クラ河岸に古都ムツヘタ、現首都トビリシなど、東ジョージアの諸都市が発展した。
アブハジアにあるボロニア洞窟は世界で最も深く、深度2,140メートルに達する。
◎ 気候
山岳地帯が多いため、国土面積のわりに気候は多様である。標高5,000メートルを超えるコーカサス山脈がロシアからの寒気団を遮断する役割を担っているため、国土の大半は比較的温暖で、ケッペンの気候区分の温暖湿潤気候に属する(かつてのソ連邦構成国の中では唯一、柑橘類を収穫できた)。黒海沿岸部は最も温暖で、その気候を生かしたグルジアワインの生産地として有名である。山岳地帯は多雨地帯で、降水量は4,000ミリ以上、冬場の積雪は2メートルに達する。首都トビリシなどが位置する東部はより大陸性気候に近くなり、年間降水量は400 - 1,600ミリメートル程度と、西部に比べると比較的乾燥していて、冬の寒さはより厳しくなる。
◎ 各州・各共和国の概況
アブハジアと南オセチアについては、内戦の結果、事実上ジョージアより独立しており、2015年10月時点で4か国(ロシア連邦、ベネズエラ、ニカラグア、ナウル)によってそれぞれ、主権国家「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」として承認されている。
ジョージア
トビリシ
7.0万km2
430.5万人
・ ジョージア人(グルジア人) 83.8%
・ アゼルバイジャン人 6.5%
・ アルメニア人 5.7%
・ ロシア人 1.5%
・ オセット人
・ クルド人
・ キリスト教
・ グルジア/ジョージア正教 83.9%
・ アルメニア使徒教会 3.9%
・ カトリック教会 0.8%
・ イスラーム 9.9%
アジャリア自治共和国
バトゥミ
2,900km2
39.3万人
・ ジョージア人(グルジア人) 93.4%
(大部分がイスラームを
信仰するアジャール人)
・ ロシア人 2.4%
・ アルメニア人2.3%
イスラーム
ジョージアの直轄統治
アブハジア自治共和国
スフミ
8,665km2
24.0万人
・ アブハズ人 50.7%
・ アルメニア人 19.2%
・ ジョージア人(グルジア人) 17.4%
・ ロシア人 9.1%
キリスト教、スンナ派イスラーム
事実上ジョージアより独立
(4カ国が国家承認)
南オセチア自治州
ツヒンヴァリ
3,900km2
5.1万人
・ オセット人 64.3%
・ ジョージア人(グルジア人) 25.0%
・ ロシア人 2.8%
・ アルメニア人 1.2%
オセット人はキリスト教(正教)主体
事実上ジョージアより独立
(4カ国が国家承認)
◎ 環境
同国は環境汚染などの深刻な汚染問題を抱えている一面がある。ジョージア国は他の旧ソ連構成国と同様、環境への影響をほとんど考慮せずに実施された重工業化を進める経済政策が元で、ソビエト時代よりも深刻な環境悪化に見舞われている。
1990年代後半から2000年代初頭にかけて、生産量と経済発展が低かったことから産業廃棄物は大幅に減少していたが現在、産業廃棄物処理施設が整えられていないために、発生した廃棄物は適切な処理をせず自然環境下へそのままで廃棄されている。また、1980年代にソ連構成国として機能していた当時のジョージア国では年間最大30,000トンの農薬が使用されてきたため、過剰なまでの農薬と肥料の使用は土壌汚染を強めてしまう結果となった。
さらに土地の侵食により、かなりの量の農地が失われた他、管理が不十分な埋め立て地へ都市ごみが処分されたり 同国の山地に2.5トン以上の有害化学物質が今も埋められたままとなっているなど、環境保全における姿勢が整っていない点から、国内各地からは「早く対策を立てて実施しなければ土壌の悪化がますます酷くなる」旨の意見ならび危険性を指摘する声が多数上がっている。
大気汚染は主要都市に見受けられ、特に巨大な製鉄所が存在しその他の金属加工ならび化学薬品の生産を進めているルスタヴィで問題となっている。交通も、大気汚染の大きな要因と一つとなっている他、クラ川と黒海は産業廃棄物でひどく汚染されている現状が続く。加えて水質汚染と水処理不足がもとで、ジョージア国においては消化器疾患の発生率が高いことが指摘されている。
なお、は、同国における農地の35%が劣化していると発表している。
● 地方行政区分
行政区画は、2つの自治共和国(アブハジア、アチャラ)を含む11の地方(レギオニ)からなり、さらに66の地域(ライオニ)に分かれる。国内には、北西部にアブハジア(首都:スフミ)、南西部にアジャリア(首都:バトゥミ)の2つの自治共和国があるが、アブハジアはジョージア政府の統制は及んでおらず、事実上、独立した状態となっている。
また、シダカルトリ地区とその周辺は歴史的に南オセチアといわれるオセット人多住地域である。ソビエト連邦に属したグルジア・ソビエト社会主義共和国時代にはシダカルトリ地区北半とその周辺を領域とする「南オセチア自治州」が置かれていたが、ソ連邦解体による独立後は消滅。1992年のオセチア紛争以降、オセット人が自治権を要求して中央政府非公認で再び「南オセチア自治州」を樹立した。同自治州が独立の意向を明確にした後は「南オセチア共和国」(首都:ツヒンヴァリ)と名乗っており、アブハジアと同様に一部の地域を除きジョージア政府の統制は及んでいない。
◎ 主要都市
・ トビリシ - 首都
・ クタイシ
・ スフミ - 港湾都市
・ バトゥミ - 港湾都市
・ ムツヘタ
・ ボルジョミ
・ テラヴィ
・ ポティ - 港湾都市(貿易港、軍港)
・ ガグラ - 観光都市
● 経済
国際通貨基金(IMF)の統計によると、2013年のジョージアの国内総生産(GDP)は161億ドルである。一人当たりのGDPは3,597ドルで、世界平均の約40%未満の水準にある。
ジョージア経済は伝統的に、黒海観光、柑橘類、茶やブドウの生産を中心としてきた。ソビエト連邦時代には黒海沿岸は有数の保養地になり、観光業が盛んだった。また、ブドウなどを利用してワインやコニャック製造などの食品加工業。マンガンや銅の採鉱と、これに付随して金属、機械類、化学薬品や織物を生産する工業部門も発達していた。
独立前後からの内戦などの混乱により経済は壊滅的な打撃を受け、GDPは1994年には1991年の34.9%にまで低下したが、IMFと世界銀行の支援の元で市場経済の導入が進められ、1995年以来GDPは増加に転じ、一方でインフレを抑制し本質的な経済収益を得た。しかしジョージア経済は、徴税の失敗により大幅な財政赤字を経験し続けた。さらにエネルギー不足に苦しんだため、1998年に配電事業を民営化し、これによりエネルギー事情は確実な改善が見られた。政府は長期的な経済回復に対する望みを、ポティとバトゥミなどの重要な港湾を通る国際的な輸送回廊の開発にかけている。膨らむ貿易赤字、腐敗の問題や不安定な政治状況は、経済情勢を短期的に不透明にさせている。しかしながら、復活した投資は、2000年に、経済成長におそらく6%以内の拍車をかけたと思われる。
自国内で供給できるエネルギーはほとんどが水力発電のみで、天然ガスや石油を含むエネルギーの大部分はアゼルバイジャンから輸入する。
ジョージアはアゼルバイジャンにとって原油と天然ガスの重要な輸出ルートである。バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)および並走するサウス・コーカサスパイプラインを通って大量の原油がトルコ地中海沿岸に達し欧州へ輸出される。また、ジョージアへの原油供給パイプラインには、ほかにバクー・スプサパイプラインがあり、スプサにはアゼルバイジャンが黒海から輸出する基地がある。
ジョージア政府は外国からの観光客誘致に力を入れている。2017年に同国を訪れた旅行者は約600万人と、10年間で6倍に増えた。キリスト教会堂など歴史的建築物の修復、94か国・地域を対象とした入国ビザ免除などが奏功している。
● 交通
◎ 道路
◎ 鉄道
◎ 航空
◎ 航空宇宙産業
航空宇宙産業においては、ジョージアの航空宇宙開発および製造会社である『トビリシ航空機製造会社(Tbilisi Aircraft Manufacturing:TAM) Management』(TAMM)において近代化改修型双発ジェット攻撃機『Su-25KM スコーピオン』を開発・製造している。
※『航空産業』の記事作成に関しては『トビリシ航空機製造会社(Tbilisi Aircraft Manufacturing:TAM) Management』(TAMM)公式英語版サイトの公式情報を参照しました。
● 国民
◎ 民族
同国は多民族国家である。住民の多くはカルトヴェリ人(ジョージア人、正教徒)(86.8%)となっている。その他アルメニア人、ロシア人、アゼルバイジャン人、オセット人、アブハズ人、ギリシャ人、ユダヤ人などがいる。
ギリシャ人には、もともとアナトリア半島の黒海沿岸地域に居住し、20世紀初頭のトルコ革命に伴う混乱時に隣国グルジアへ避難してきたポントス人などが含まれる。また、アジャリア自治共和国のアジャール人など、イスラム教を信仰しているジョージア人も存在する。「グルジーム」と称されるユダヤ人は1970年代には10万人を数えたが、大半がイスラエルに移住し、現在では1 - 2万人程度まで減少している。
政府は移民を受け入れ経済成長を目指している。ジョージア内務省によると、2022年1月から11月までの期間にロシアから移住した人は11万人以上にのぼる。一方、ロシア国内に住むジョージア系移民は100万人を超えている。
◎ 言語
公用語はカルトヴェリ語族のグルジア語(71%)で、次いでロシア語(9%)、アルメニア語(7%)、アゼルバイジャン語(6%)となっている。その他、アブハズ語、オセット語、グルジン語なども使われている。また、統計上では同じカルトヴェリ語族としてグルジア語話者に含まれることも多いスヴァン語、メグレル語、ラズ語も使われているなど、多言語国家となっている。
反露感情が強い国民とされるが、実際にはソ連時代に普及したロシア語は広範に使われており、独立以降のグルジア語統制への反発などから一部地域では異民族間の共通語として機能している。
◎ 宗教
宗教比率は、キリスト教グルジア(ジョージア)正教会に所属する正教徒が75%、イスラム教徒(ほとんどがスンナ派)が11%。
◎ 婚姻
婚姻は、改姓しない夫婦別姓、どちらかの配偶者の姓に統一する(夫婦同姓)、複合姓を用いる、のいずれの選択も可能である。
◎ 教育
教育制度は3-6-3制で、旧ソ連の10年制から12年制に移行した。6歳から17-18歳までは義務教育となっている。12学年のうち、1-3学年が初等教育、4-9学年が前期中等教育、10学年以降が後期中等教育にあたる。上述の南オセチア・アブハジアおよびその周辺地域における領域問題の事情から、同地域エリアではジョージア政府の統治が及んでおらず、不測の事態が発生する恐れが指摘されている。近年は観光客を狙った犯罪が多発しやすくなっており、物乞いする子供による窃盗や声かけによる強盗事件が発生していることから、ジョージアを訪れる外国人へ注意が呼びかけられている。
◎ 人権
2005年に(FCPNM)を批准している。これに対しNGOのは、2008年に「FCPNMのいくつかの条項がジョージア国議会による完全な実施から免除されている」と指摘しており、具体的には「文化・教育・行政上の問題におけるマイノリティの言語での完全な表現に関する規定が侵害された」と主張している。
● メディア
テレビ、雑誌、新聞は国営をはじめとする公企業と私企業の双方によって展開されている。憲法は言論の自由を保障している。ジョージアのメディアは市場経済圏への移行にともなう変化が進行している。主要紙は『レゾナンシ』『ジョージアン・タイムズ』などであり、放送局は国営テレビ・ラジオや民営の「ルスタビ2」などがある。通信社としてはインタープレスがある。一部では、国営放送への支配からの自由を求める闘争が継続的に行われている。
国民の世帯の大部分はテレビを所有しており、多くは最低1つはラジオを持っている。多くのメディア企業は首都トビリシに本社を置いている。
● 文化
◎ 食文化
○ ワイン
葡萄の産地で、ワイン発祥の地の一つとされる。セミスイートの赤ワイン、フヴァンチカラ(Khvanchkara)が有名である。スパークリングワインは、ツクリアラ(Cqriala)と呼ばれる。フヴァンチカラ(セミスイート赤ワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少性が高い。
キャビアと合わせることで知られるフランスのシャンパーニュの中でも著名な、ルイ・ロデレール社のクリスタルは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のために造られたが、ボトルの形状がよく似たゴールデンというツクリアラ(スパークリングワイン)がジョージアに存在する。2006年以来、ロシア連邦はジョージアとモルドバへの経済制裁の一環としてグルジアワインを輸入を禁止していた(:en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)が、2013年にイヴァニシヴィリ政権の成立に伴い解除された。
◎ 文学
◎ 音楽
◎ 芸術
◎ 映画
◎ 建築
◎ 世界遺産
ジョージア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。
・ ムツヘタの歴史的建造物群 -(1994年)
・ ゲラティ修道院 -(1994年、2017年縮減)
・ 2017年まではバグラティ大聖堂も構成資産であった。
・ 上スヴァネティ -(1996年)
◎ 祝祭日
1月7日 クリスマス グルジア(ジョージア)正教会のクリスマス、ユリウス暦の12月25日。
3月3日 母性の日
3月8日 国際女性デー
4月9日 国民団結の日 1989年にトビリシで反ソ暴動が発生した日
5月9日 戦勝記念日 独ソ戦でのドイツ降伏を記念。
5月12日 聖アンドレイの日 伝承によれば使徒聖アンデレがキリスト教を最初にジョージアに伝えたとされる。
5月26日 独立記念日 1918年に独立宣言をした日
8月28日 生神女就寝祭 ユリウス暦8月15日
10月14日 スヴェティツホヴェリ教会の日
11月23日 聖ゲオルギオスの日 「啓蒙者」ゲオルギオスはジョージアの守護聖人。
◎ スポーツ
ジョージア国内ではサッカー、バスケットボール、ラグビーユニオン、レスリング、柔道、重量挙げが最も人気のあるスポーツ競技である。ジョージアの身体教育は歴史的で有名であり、古代イベリアのトレーニング技法を見たローマ人たちがジョージア人の肉体的素質に強く関心を惹かれたことが知られている。
19世紀時代に有名であったほかのスポーツとしては、馬を用いた球技ポロや、ジョージアの伝統的球技があった。これらの競技者は、次第にラグビーユニオン競技へと移行していった。
◇サッカー
サッカー人気は世界標準であり、FIFAワールドカップの時期には老若男女がサッカー談義に花を咲かせ、何もなくても子どもたちは街角でサッカーに興じる光景をよく見かける。ソビエト連邦時代もジョージアを含むコーカサス地域はサッカーの盛んな土地柄として知られており、首都のトビリシに所在するFCディナモ・トビリシは実績、名声ともにジョージアを代表する伝統的なサッカークラブである。
2001年から約10年間、ACミランで活躍したカハ・カラーゼは長らくジョージア人の憧れであった。近年では、SSCナポリに所属しているフヴィチャ・クヴァラツヘリアが有名である。
◇バスケットボール
バスケットボールもまた、ジョージアにおいて著名なスポーツの一つであった。、、といった旧の著名な選手らがジョージアに所属した。ジョージアのは、1962年にヨーロッパ最高峰リーグFIBA欧州チャンピオンズカップで優勝した。
これまでに5人のNBA選手を輩出しており、ジェイク・サカリディス、ニコロス・ツキティシュビリ、そしてゴールデンステート・ウォリアーズ所属のザザ・パチュリア。その他の著名なバスケットボール選手としては、ユーロリーグで2度の優勝を果たしたや、ユーロリーグ所属の、ヴィクトル・サニキゼがいる。また、バスケットボール男子代表は2011年以降、3大会連続で欧州選手権の予選を突破している。
◇レスリング
レスリングは、ジョージアにおいて歴史的に重要なスポーツの地位にあり続けている。歴史家の中には、グレコローマンレスリングには多くのジョージア的要素が組み込まれていると考える人もいる。ジョージアでは、多くのレスリング・スタイルが普及しており、もっとも普及したスタイルのひとつとしてはカヘティ・スタイルが挙げられる。今日ではあまり行われていないスタイルも、過去には数多く存在していた。たとえばジョージア北東部の地方には、異なる3種類のレスリング・スタイルが存在している。
◇モータースポーツ
コーカサス地方で最初かつ唯一のサーキット競技は、ジョージアにて行われており、は1978年に竣工した。その後、2,000万ドルの費用をかけて改築し、2012年に再オープンしている。サーキットはFIA分類でグレード2の要件を満たし、現在はシリーズと、大会を開催している。
● 著名な出身者
「ジョージア (国)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2025年2月4日10時(日本時間)現在での最新版を取得
好き嫌い決勝
好き嫌い準決勝
好き嫌い準々決勝
好き嫌い7位決定戦
好き嫌いTOP10圏内確定戦
国の無作為ピックアップ
Powered by