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エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称エチオピアは、東アフリカのアフリカの角地域に位置する連邦共和制の。エチオピアは急速に発展している国であるが、世界的に見て貧困国である。
● 概要
エチオピアは人類の誕生の地と言われる。紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろ、ダモト(Dʿmt)王国が誕生し、1世紀にはソロモン朝のアクスム王国が成立。アクスム王国は高度な文明を持ち、交易で栄えた。4世紀ごろにはキリスト教を受容した。1137年にザグウェ朝がアクスム王国を滅ぼし、1270年にはザグウェ朝が倒されエチオピア帝国が成立、ソロモン朝が復活する。16世紀にはイスラム教勢力のアダル・スルタン国との戦いにより皇帝の権力は減少し諸公候が分立した。19世紀中頃、テオドロス2世がエチオピアの統一を達成した。メネリク2世が1896年のアドワの戦いでイタリアの侵略を退け、エチオピアはアフリカ諸国の中で植民地化されなかった国となった。
20世紀にはハイレ・セラシエ1世が即位し、1936年にイタリアの侵攻を受けたが、1941年に独立を回復。1974年、クーデターにより帝政は廃止され、軍・警察・領域警備軍から作られた暫定軍事行政評議会(デルグ)が政権を掌握。1987年にメンギスツ・ハイレ・マリアムは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。1991年にはエチオピア人民革命民主戦線が政権を掌握し、現在の連邦民主共和国が成立した。2024年にはBRICSに正式加盟した。エチオピアの産業基盤は多様で、農業、インフラ、サービス業、繊維産業などの産業が経済をけん引し、中国はエチオピアへの開発を進めたが)から。日本語での正式名称はエチオピア連邦民主共和国。革命後、エチオピア共和国を宣言。1987年、革命後の民政移管でエチオピア人民民主共和国を宣言。1995年に現在のエチオピア連邦民主共和国となったに誕生した。王国はエチオピア高原の北部に位置し、その勢力圏がナイル川からアラビア半島に及んだこともあった。高度な古代文明を保有しており、独自の文字や貨幣を作った。王国は世界に解放されていて、紅海を通ってペルシア、インド、エジプト、そして地中海の国々と交易をおこなった。アクスム王国にはエジプトからキリスト教が伝えられ国教とした。アクスムの王であるエザナは、333年ごろにキリスト教に改宗した。キリスト教は21世紀にいたるまでエチオピアの主要な宗教となっている。アクスム王国、そしてエチオピア帝国の王朝であるソロモン朝の初代、メネリク1世はソロモン王とシバの女王の子であるという伝説をもつ。
王国は環境破壊、気候の乾燥化、イスラム教勢力による交易ルートの消失によって衰退していく。1137年、のザグウェ朝にアクスム王国は滅ぼされた。ただ、当時の文化は受け継ぎ、王は首都ラリベラに11の教会を建設した(ラリベラの岩窟教会群)。1270年、アムハラ人貴族とエチオピア正教会の支援を受けたイクノ・アムラクはザグウェ朝を滅ぼし皇帝に即位する。
◎ ソロモン朝の復活
アムラクによって「復活」したとされる新は脆弱であったが、1314年に即位したはエチオピア高原の様々な場所に遠征し勢力圏を拡大した。帝国は中央集権的な体制ではなく、地方の支配者が皇帝に忠誠を誓う形で統治されていた。皇帝は「王中の王」であった。皇帝はエチオピア正教会と結びつき、エチオピア国内にアムハラ語とキリスト教が浸透した。エチオピアと呼ばれた帝国はアクスム王国と同じく、交易で栄えた。
◎ イスラムの進出・諸公候時代
ムスリム商人はエチオピアにおける交易ルートを掌握し、エチオピアの人々にイスラム教を広めた。エチオピアの東の交易ルート沿いにはイスラム教系のイファト・スルタン国、そしてアダル・スルタン国が成立、当時は西のエチオピアと共存関係にあった。
しかし、16世紀に入るとアダル・スルタン国のアフマド・グラニィがエチオピアに対して「ジハード」を宣言。アダル・スルタン国の皇帝、レブナ・デンゲルはオスマン帝国の支援の下エチオピアに侵攻、教会や修道院を破壊した。ヨーロッパの国でキリスト教国のポルトガルはキリスト教王国のエチオピアを支援し、加勢を受けたエチオピア軍はタナ湖の岬でグラニィを戦死させた。
アダル・スルタン国は撤退したが、エチオピア全土は疲弊した。エチオピアには諸侯が権力争いに明け暮れ、皇帝の権力は減少した。皇帝ファシリダスは求心力を回復させようと、タナ湖の北に首都ゴンダールを建設した。このころ、南方からオロモ人がエチオピア高原に進出し、オロモ人はキリスト教化・イスラム教化が進んだ。
◎ ソロモン朝の中興
19世紀中頃、諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世である。皇帝に即位する前はカッサ・ハイルと呼ばれ、武力によって諸公侯を制圧した。エチオピアの再興の基盤を作ったとも言われるが、イギリスとの戦いで敗北したため統治期間は13年間と短かった。
その後継者のヨハネス4世はスーダンのマフディーと戦い、ソロモン朝のもとにメネリク2世などの諸公候たちが団結した。3月9日、ヨハンネス4世は戦いの中で負傷し死亡する。メネリク2世はこの時期に勢力を広げ、ヨーロッパ諸国から手に入れた武器によって、ウッチャリ条約によってイタリアに皇帝として承認される。メネリク2世は19世紀の末にイタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、ヨーロッパ諸国はエチオピア帝国の主権を認めざるを得なくなったと同時に、アフリカ人たちに大きな勇気を与えた。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカで独立を守り切った国家となった。
1930年11月2日に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は、即位後エチオピア初の成文憲法となったエチオピア1931年憲法を大日本帝国憲法を範として制定した。1930年11月2日の皇帝ハイレ・セラシエの即位は、カリブ海のイギリス植民地、ジャマイカのマーカス・ガーベイの思想的影響を受けていた黒人の間に、ハイレ・セラシエを黒人の現人神たる救世主、「ジャー」であると見なすラスタファリ運動を高揚させ、アメリカ大陸の汎アフリカ主義に勢いを与えた。
◎ イタリア領東アフリカ
しかし、新帝ハイレ・セラシエ1世の即位とエチオピア帝国憲法の制定も束の間の平穏であった。ファシスト・イタリアの大統領ベニート・ムッソリーニは、1931年の時点で人口が4,200万人に達していたイタリア国内の過剰人口を入植させるための「東アフリカ帝国」の建設を目論み、1934年の「ワルワル事件」を経た後、「アドワの報復」と「文明の使節」を掲げて1935年10月3日にイタリア軍がエチオピア帝国に侵攻、第二次エチオピア戦争が勃発した。イタリア軍は1936年3月のマイチァウの戦いで毒ガスを使用して、近代武装した帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させた後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はジブチを経て英国ロンドンに亡命、1936年5月5日にピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が首都アディスアベバに入城した。
首都アディスアベバ陥落後、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され(イタリア領東アフリカ)、ファシスト・イタリアはイスラーム教徒のオロモ人を優遇し、キリスト教徒のアムハラ人を冷遇する分割統治策を採用した。その間も「黒い獅子たち」と呼ばれるゲリラが抗イタリアのレジスタンス運動を行った。
◎ イギリス軍政とソロモン朝復古独立
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発。1940年6月10日、ナチス・ドイツと同盟していたイタリアは枢軸国側で参戦し、イギリスなど連合国と戦いを繰り広げた。エチオピアを占領していたイタリアは、イギリスとの間で東アフリカ戦線を戦ったが、アフリカ大陸におけるイタリアの勢力は退潮気味となった。間隙を縫うようにイギリス軍がエチオピアに侵攻。1941年4月6日には先遣部隊がアジスアベバに到達した。その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共にアディスアベバに凱旋した。英軍政を経た後、5月5日、ハイレ・セラシエ1世は首都に帰還。再び独立を宣言した。1942年1月にはアングロ・エチオピア協定を承認、イギリスに独立国として承認された。
戦後の1952年にエリトリアと連邦を組んで、エチオピア・エリトリア連邦が成立した。しかし、国内の封建的な諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した。
◎ 帝政廃止
1962年にはエリトリアをエリトリア州として併合した。1974年、帝政は廃止され、穏健派のアンドムを筆頭とした暫定軍事行政評議会(デルグ、PMAC)が結成される。
1976年に入ると年率50%に近いインフレーション、エリトリア解放戦線との戦闘、労働者の賃上要求ストライキが続発するなど国内は疲弊した。同年2月と6月には、旧支配部族層によるクーデターも発生したが軍事政権に鎮圧された。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長に就任するが、彼が執った恐怖政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦)。1987年に新憲法を採択、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。クーデターによって成立した軍事政権は民族自決権を否定した。軍事政権期、ティグレ人民解放戦線(TPLF)とオロモ解放戦線(OLF)が結成された。1991年7月、エチオピア平和民主暫定会議において暫定期間憲章が採択され、メレス・ゼナウィを中心とする暫定政府が成立。1995年、人民代表院選挙と地方議会選挙が行われ、暫定政府が発展解消。エチオピア連邦民主共和国が成立する。この制度は1995年に施行された新憲法に基づき、民族の自決権と地方分権を促進することを目的としている。新憲法によれば、一定の条件を満たせば各民族はエチオピアからの独立を選択でき、州は民族の居住地域、言語、アイデンティティ、住民の同意に基づいて設立された。
1998年5月、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展。2000年6月メレス首相は、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国際連合安全保障理事会は国際連合安全保障理事会決議1312号によりPKOである国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定した。
2011年、東アフリカ大旱魃が発生する。
2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレンが新首相に就任した。しかし、反体制派の活動が激化、辞任を余儀なくされる。1991年にエチオピア人民革命民主戦線が政権を握って以降、オロモ人の首相就任は初めてとなる。就任以降、対立構造のあった隣国エリトリアとの和解交渉を始め、2018年9月5日にはエリトリアの首都アスマラで、エリトリアとソマリアとの3カ国による「包括協力協定」に署名。さらに同年9月16日、サウジアラビアの仲介によりエチオピアとの間で「ジッダ平和協定」に署名した。2019年10月11日、エリトリアとの和平を成し遂げたことが評価され、アビィ首相にノーベル平和賞が授与された。
同年12月、アビィは新党繁栄党の結成を発表し、エチオピア人民革命民主戦線(ティグレ人民解放戦線を除く)と地方の有力政党が参加した。
2020年8月に北部ティグレ州において総選挙が延期したことを契機に州与党ティグレ人民解放戦線(TPLF)との軋轢が増し、2020年11月にはTPLFが政府軍の基地を攻撃したとして開戦を宣言し、政府軍による空爆を含めた攻撃を開始した。戦闘によって市民にも多数の被害が出ており、11月9日に州西部の町で600人近い市民がされた。戦火の拡大に伴い多数の難民が発生し、隣国スーダンへは11月14日から2日間で約2.5万人が流入。またTPLFは政府への協力を理由に、隣接しているアムハラ州と隣国エリトリアの首都アスマラの空港にロケット弾攻撃を実施し、近隣地域にも影響・被害が広がっている。ティグレ州以外でも各地でなど民族系反政府勢力が国軍と戦闘を続けており、内戦の様相を呈している。
2021年に体制を整えなおしたTPLFは反攻に転じて北部各州を占拠。南下しながら首都への攻撃も示唆したため、エチオピア政府は同年11月2日に国家非常事態宣言を発出した。12月下旬からはTPLFは北部ティグレ州に撤退し、2022年2月15日、エチオピア人民代表議会は国家非常事態宣言の解除を可決した。11月2日、両者がプレトリアで和平協定に調印。
● 政治
◎ 統治機構
エチオピアは民族連邦制の特徴を持った共和国である。国家元首で象徴的な大統領は、上下院により選出される。行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において下院議員の中から選出される。民族集団には最低1議席与えられ、州の人口100万人ごとに1議席追加される。
司法組織は連邦最高裁判所を頂点とし、下層に連邦高等裁判所、連邦第一審裁判所が位置づけられる。その他の主要政党は民主正義の統一党(UDJ)、エチオピア民主統一軍(UEDF)など。
● 国際関係
エチオピアは国際連合の現加盟国であり。2024年にはエジプトなどと共にBRICS加盟国となった。
◎ エリトリアとの関係
かつてエチオピアの領土(エリトリア州)であった北の隣国エリトリアとの関係では、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) がティグレ人民解放戦線 (TPLF) とともに反メンギスツ闘争を戦い抜いたこともあり、1991年のエリトリア独立当初の関係は良好であったが、1998年に武力衝突に発展した(エチオピア・エリトリア国境紛争)。2000年に国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が派遣され調停に当たったもののUNMEEは2008年に撤退した。2018年7月9日、エリトリアの首都アスマラにおいて、エチオピアのアビィ・アハメド首相とエリトリアのイサイアス・アフェウェルキ大統領が20年ぶりの首脳会談を行い、長年にわたる戦争状態を終結することで合意。戦争状態の終焉や経済・外交関係の再開、国境に係る決定の履行を内容とする共同宣言に署名した。
2020年にエチオピアのティグレ州で起きたティグレ紛争では、TPLFは隣国のエリトリアがエチオピア政府軍を支援しているとしてエリトリアの首都アスマラの空港を攻撃しており、人権団体などはティグレ州でのエリトリア軍の虐殺行為を非難して国連やG7もティグレ州からのエリトリア軍の撤退を要求するもエリトリア・エチオピア両国はティグレ州にエリトリア軍が展開している事実を否定していたが、2021年3月23日にアビィ・アハメド首相はこれを認めて翌4月にエチオピア政府はエリトリア軍の撤収を発表した。
◎ ソマリアとの関係
東の隣国ソマリアとの関係では、ソマリアがかつて大ソマリ主義を掲げていた関係で問題を抱えている。国内にソマリ人居住地域のオガデンを抱えるエチオピアは、その帰属をめぐって1977年にソマリアとオガデン戦争を起こした。メンギスツ政権は、キューバ軍の直接介入とソ連軍の軍事援助を得たこともあって、1988年に勝利した。
1991年にソマリアのモハメド・シアド・バーレ政権が崩壊しソマリアが無政府状態となった後、2006年にイスラム原理主義組織のイスラム法廷会議がソマリア首都モガディシュを制圧し国土統一の動きを見せると、隣国に於けるイスラーム主義過激派の伸張を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。同年12月24日、エチオピアはソマリア暫定連邦政府を支援してソマリア侵攻を開始した。
軍事力に勝るエチオピア軍は28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの。2024年現在、1万人のエチオピア軍が駐留している。エチオピア帝国はエリトリア解放戦線への援助を取り下げた中国から巨額の融資を受けた。1974年の軍事クーデターで皇帝を打倒したメンギスツは中ソ対立を起こしていたソ連に接近して隣国ソマリアのバーレ政権への中国の支援を批判したが、国交は続けて一定の経済協力は維持した。メンギスツを打倒した1991年のメレス・ゼナウィ政権からは本格的に関係回復し、アフリカ連合(AU)本部は中国の費用全額負担で寄贈され、エチオピア初の環状道路と高速道路などエチオピアの道路の7割を中国は建設したとされや初の工業団地、初の人工衛星の打ち上げ、アディスアベバ・ライトレール、グランド・エチオピア・ルネサンス・ダム、ジブチ・エチオピア鉄道とボレ国際空港の近代化、伝音科技の携帯電話工場、全土の通信網の整備など中国からの様々な援助を受け入れ、このことからエチオピアは「アフリカの中国」と呼ばれることもある。また、エチオピアの大統領を務めたムラトゥ・テショメは中国に留学した経歴を持っていた。
エチオピアは、中国側からインフラ投資を通じて一帯一路のモデル国家として称賛を受けている国であるが、2018年時点の国の債務額は国内総生産(GDP)の59%にも及んでおり、その大半は中国からの融資とみられている。政府は、より多くの中国企業の国内進出と対中国の債務の軽減を模索している。
● 国家安全保障
エチオピア国防軍(ENDF)は、地上部隊と空軍(エチオピア空軍、ETAF)で構成される。エチオピア国防軍(ENDF)は、サハラ以南アフリカで最大の規模で、最も経験豊富な軍隊である。しかし、ティグレ紛争では多くの死傷者と装備の損失を被った。現在は、隣国や国内の複数の武装集団に対する防衛を行っている。国土は北緯3度から13度8分、東経33度から48度に位置する。大地溝帯には多くの温泉がある。形成されたのは紀元前500万年から1000万年前の時期である。この西側には高度5000メートルに達する火山や深い渓谷が存在するが、全体的には大規模な高原が形成されている。
大地溝帯の東側には、エチオピア高原と分離しているソマリア高地が存在している。中央部には肥沃なエチオピア高原と呼ばれる台地があり、農業や畜産業などが行われる。西部にはアムハラ高地と呼ばれる高原がある。エチオピア北部にはタナ湖を源流とする青ナイル川が流れている。2014年時点で淡水の資源量に対して採取は低水準で、2013年時点でエチオピアは水貧困に陥っている。エチオピアの人口に対してナイル川周辺に約4割の人口が住んでいる。主要産業は農業で、多くは農業に使われる。しかし、上流のエジプトやスーダンと対立している。
エチオピアの気候は四季がなく、海抜からの差によって気温が変化する。山岳部に位置するアディスアベバは年間降水量1100ミリで、オガデン地方やダナキル低地では年間降水量0から200ミリ程度である。標高が高い地域ほど雨量が多くなる。
◎ 自然
エチオピア高原は、多くの動植物が長い間隔離され、それによって独自の進化を遂げた。この隔離状態はさまざまな種の多様性を生み出し、エチオピアの固有種が誕生する土壌となった。しかし、21世紀に入ると、エチオピアの人口爆発と地球全体での気候変動が、生態系に影響を与えている。これらの要因は、生物多様性に対する脅威となっており、固有種や個体数を減少させるリスクを増大させている。生物多様性は、地理的な特性、地形、そして地質学的要因の組み合わせによって支えられている。エチオピアには、高地だけでなく、森林、沼地、砂漠、半砂漠、草原、低木地帯など、様々な標高帯の生態系が広がっている。
エチオピアはアフリカ最大の家畜人口を有しており、特に高原では土地利用に関する圧力が高い。エチオピアの人口の85%と家畜の75%が高原で生活している。そのため、1990年から2020年までの間に、エチオピアの自然再生可能な森林面積は約16%減少した。さらに、過去10年間において、エチオピアの年間森林伐採率はアフリカで最も高い水準である。その結果、土壌劣化と干ばつが多発している。中央の権力は州に移譲され、中央省庁は政策の立案だけをする機関となったと言われる。
しかし、80以上の民族で構成されるエチオピアで、この制度を厳格に運用することは難しく、さまざまな矛盾が生じている。例えば、6民族にしか民族名を冠した連邦州の設立が認められていないことが挙げられる。また、多くの州憲法が特定民族の優位性を認めており、州内の他の民族は二等市民の扱いを受けることが多い。さらに、複数民族が混住する地域での州境設定が土地をめぐる民族間対立を激化させる要因となっている。州は特別警察や民兵を保有し、それが紛争を加速させている。2020年6月と2021年11月と2023年8月に新たな州が追加された。
アディスアベバ(自治区)
アファール州
アムハラ州
ベニシャングル・グムズ州
中部エチオピア州(2023年8月創設)
ディレ・ダワ(自治区)
ガンベラ州
ハラリ州
オロミア州
シダマ州(2020年6月創設)
ソマリ州
南エチオピア州(2023年8月創設。エチオピアはアフリカでは最大の対中サービス貿易額であり、中国に対して貿易黒字を維持している。エチオピアの産業基盤は多様化し、農業、インフラ、サービス業、繊維産業などの産業が経済をけん引した。
エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)による政権掌握後、土地制度の改革が進められてきた。1995年の新憲法では政府はすべての土地を所有することとなったが、農産物流通などが自由化された。EPRDFは、採算性の悪い公営企業は売却する方針を固めている。アビィ・アハメド政権下ではその動きが加速している。
◎ 農業
オオムギ、テフ、トウモロコシ、コムギ、マメ類、ソルガム、根茎類、 コーヒー、ミレット、野菜が主に生産されている。特に、エチオピアの高原地帯でのコーヒーの生産がさかんで、コーヒーの生産は世界5位。栽培は小規模な農家が多い。エチオピアは花弁の生産もさかん。2015年現在、農業人口は全体の半数以上を占める。
食料は時々不足し、外国の援助に頼っている。社会主義時代は軍備が優先され、エチオピアは飢餓がよく起きた。しかし、エチオピア農業省によると小麦やトウモロコシの生産量が増えてきており、主な食料の自給は達成したとされる。エチオピアの食料の輸入関税は低水準なため、国内の大手企業は外国産の小麦を使う場合がある。採掘される鉱石の中で金と白金のみが大きな経済的な価値を持つ。資源は鉱業・石油・天然ガス省が管轄である。ケンティチャ鉱山は現在操業中であるが、金とタンタルの採掘のみ採掘が許可されている。粘土と石灰石の鉱床、岩塩の層が広範囲で確認される。2022年、ソマリ州では天然ガスが発見され、鉱業・石油・天然ガス省が商業的な価値を認定した。しかし、鉱業の国内総生産における割合は少ない。エチオピア商品取引所において、鉱物資源取引は採掘地域の不安定さから見送られている。また、地下資源としては地熱が豊富である。
◎ 情報通信
通信は国営の1社が独占しているが、2006年からZTEやファーウェイといった中国企業がエチオピア全土の通信網整備を担ってきた。
◎ 通貨
ブル(birr)。また舗装も幹線道路(1万6600メートル)の内4000キロメートルに過ぎず、舗装の老朽化が進んでいる。橋の老朽化も深刻である。また、アフリカ各国の航空会社の出資にかかわっている。
● 国民
◎ 民族
エチオピアは80以上の異なった民族が存在する多民族国家である。最大の勢力はオロモ人で34.4%を占め、次にアムハラ人が27.0%となっている。その他、ティグレ人、ソマリ人、シダモ人、グラゲ族、オメト族、アファル人、ハディヤ人、ガモ人、コファ族、コンソ人が主な民族である。また、「ベタ・イスラエル」と呼ばれるユダヤ人が存在するが、その大多数はイスラエルの「帰還法」に基づき、1980年代から1990年代にかけてイスラエルへと移住した。
かつてエチオピア帝国を建国したのはアムハラ人であり、以後もアムハラ人がエチオピアの政府の中枢を握ってきたが、1991年のメンギスツ・ハイレ・マリアム軍事政権の崩壊によって政権はメンギスツ政権を打倒したエチオピア人民革命民主戦線の中核をなすティグレ人の手に渡った。とはいえ公用語はアムハラ語であり、アムハラ文化は他民族にも現在でも影響を与えている。
また、新政権は民族ごとに州を新設し、各民族語による教育を認めたため、最大民族であるオロモ人の勢いが強くなっている。
◎ 言語
エチオピアの言語はアフロ・アジア語族(セム語派、オモ語派、クシ語派)が主であるが、ナイル・サハラ語族も話されている。憲法では全ての言語が平等という観点から公用語を定めていないが、連邦政府の作業言語はアムハラ語と定められている。2020年3月にはアファル語、オロモ語、ソマリ語、ティグリニャ語の4言語が作業言語に追加され、事実上の公用語は5つとなっている。
◎ 教育
エチオピアの教育制度は、初等教育8年・中等教育4年・高等教育で構成される。義務教育はなく、初等教育・中等教育の就学率は低い。また、地域間格差(アファール州とソマリ州は識字率が特に低い)や男女格差(拡大傾向)も激しく、均等で良質な教育が受けられていない。教員は全州で不足している。初等教育ではアムハラ語や現地語が使われるが、中等教育では英語が使われる。識字率は2017年現在、51.8パーセント。
◎ 保健
エチオピアは低所得国の中でも保健行政の面で模範とされている。1997年のエチオピア人の平均寿命は50歳であったが、2009年には60歳台に達し、2014年には64歳になった。乳幼児の死亡率も大幅に減少し、インドと同等の水準に達している。これらの成果は、後に世界保健機関の事務局長になるテドロス・アダノムのリーダーシップによる、農村部での保健インフラの整備によるものであると分析されている。
● メディア
2010年以来、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)政権は独立系メディアを弾圧してきた。ジャーナリストや記者は脅迫を受けたり、逮捕された。エチオピア政府はテレビ・ラジオ局のほとんどを掌握しており、政府の立場に沿った報道を繰り返していた。また、政府から独立した民間メディアも政府の意に沿った報道をしなければいけなかった。独立した民間メディアは自己検閲に走った。2010年から2014年までに、少なくとも60人のジャーナリストが国外亡命した。
2018年に首相に就任したアビィ・アハメドは、前政権との決別を宣言し新たな政策を実行した。その一つが、改革を推し進めジャーナリストなど多くの政治犯を解放したことである。しかし、2021年現在、ジャーナリストなどの投獄が相次いでおり、政治犯の解放は成果を上げていないと言われる。エチオピア暦はナイル川の水の増減が元で、1年が13か月ある。30日の月が12回、5日の月(パゴウメン)が1回で構成される。
◎ 食文化
エチオピアの主流の文化であるアムハラ文化において、主食はテフなどの穀粉を水で溶いて発酵させ大きなクレープ状に焼いたインジェラである。代表的な料理としてはワット(カレーのような辛いもの)、クックル(エチオピア風スープ)、トゥプス(焼肉・炒め肉・干し肉)などがある。辛い料理が多い。エチオピア正教の戒律によりツォムと呼ばれる断食の習慣があり、水曜日と金曜日を断食の日とし、午前中は全ての食事を、午後は動物性タンパク質を取らない。四旬節(2月~4月)のツォムは2ヶ月の長期に亘り、復活祭により断食明けとなる。同様に戒律を理由として、ユダヤ教やイスラーム教のように、豚肉を食べることは固く禁じられている。これらの文化は基本的にアムハラ人の文化であるが、アムハラ人がエチオピアの実権を握ってきた期間が長かったため、国内の他民族にも普及している。
これに対し、南部においては、エンセーテといわれるバナナの一種からとれるデンプンを主食とする文化がある。エンセーテは実ではなく、葉柄基部と根茎に蓄えられたデンプンを主に食用とするもので、取り出した後に数週間発酵させたのちパンや粥にして食べる、コーヒーは広く常飲されている。また、複数の人でコーヒーを楽しむ「ブンナ(コーヒー)・セレモニー」という習慣がある。エチオピアで生産されるコーヒーの消費の半分がエチオピア。14世紀からエチオピアのコーヒー豆は、イエメンのモカから輸出されたため「モカ・コーヒー」として一部がブランド化した。
アルコール飲料としては、タッジ、テラ、アラキがある。タッジは甘い蜂蜜酒で、テラは伝統的な洋ビールである。
◎ 文学
現代の著名な作家としては、『扇動者たち』(1979年)のサーハレ・セラシェの名が挙げられる。
◎ 音楽
国教のキリスト教に関連した音楽が発達しているが、同時に古くから民間に伝承されてきた民謡とのかかわりも深い。アズマリはアムハラ人によるミュージシャンのことで、冠婚葬祭や宴会の余興、教会の儀式などに用いられている。山羊の皮を張った胴と馬の尾の弦から作られた弦楽器マシンコの伴奏で歌われる。もう一つのラリベロッチは門付の芸人を指す。彼らは朝早く家々の玄関で祝福の内容を歌い、金や食料をもらう。いずれも独自の歴史と習慣をもった音楽家集団で、エチオピアの音楽を支えている。
ポピュラー音楽に於いては、日本の演歌によく似た、こぶしの効いた音楽様式が存在する。メンギスツ政権期にはアステレ・アウェケ、ティラフ・ゲセセ、ビズネシュ・ベケレ、ヒイルート・ベケレ、アレマイヨ・エシャテなどが活動していた。
◎ 映画
エチオピアの映画産業は成長を見せている面があるものの、映画の普及においては多くの問題に直面している点が目立つ。
◎ 世界遺産
エチオピア国内には、2024年現在、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が10件、自然遺産が2件存在する。
◎ 祝祭日
1月7日
エチオピア正教会のクリスマス
Ledet
1月19日
2月2日
イード・アル=アドハー
Eid-ul-Adha
3月2日
アドワの戦い記念日
移動祭日
エチオピア正教会の聖金曜日
移動祭日
エチオピア正教会の復活大祭
Fasika
5月2日
Mulud
5月5日
愛国の日
5月28日
軍政終結記念日
9月11日
エチオピアの元日
9月27日
十字架挙栄祭(マスカル)
11月14日
ラマダンの終わり
Eid-al-Fitr
● スポーツ
◎ サッカー
エチオピアでも他のアフリカ諸国同様にサッカーが最も人気のスポーツであり、1944年にサッカーリーグのエチオピアン・プレミアリーグが創設された。によって構成されるサッカーエチオピア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには11度出場しており、自国開催となった1962年大会では初優勝に輝いている。
◎ 陸上競技
エチオピアはオリンピックの陸上競技でメダルを多く獲得している。高原は「自然のトレーニング場」と呼ばれ、心肺機能を育み、陸上競技で有利に立てる。アベベ・ビキラが有名で、2回金メダルを獲得した。マモ・ウォルデ、ゲザハン・アベラ、ファツマ・ロバは、いずれも金メダリストのエチオピア人である。
◎ オリンピック
エチオピア国内で最も人気のあるスポーツはサッカーであるが、エチオピアが最も強いスポーツは陸上競技、特にマラソンなどの長距離走である。オリンピックでは通算金メダル23個・銀メダル12個・銅メダル23個を獲得しているが、これは全て陸上競技によって獲得したものである。
● 著名な出身者
・ テドロス・アダノム - 世界保健機関(WHO)事務局長
・ ティムニット・ゲブル - 人工知能研究者
・ アベベ・ビキラ - 陸上競技選手
・ デラルツ・ツル - 陸上競技選手
・ ファツマ・ロバ - 陸上競技選手
・ エルバン・アベイレゲッセ - 陸上競技選手
・ マモ・ウォルデ - 陸上競技選手
・ メセレト・デファー - 陸上競技選手
・ ハイレ・ゲブレセラシェ - 陸上競技選手
・ ケネニサ・ベケレ - 陸上競技選手
・ シレシ・シヒネ - 陸上競技選手
・ タリク・ベケレ - 陸上競技選手
・ - サッカー選手
・ - サッカー選手
「エチオピア」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2024年12月14日19時(日本時間)現在での最新版を取得
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