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蒲焼(蒲焼き、樺焼、椛焼。照り焼きの1種である。
江戸料理の1つであり、江戸の伝統的な郷土料理でもある。
また、同様の工程を取らずに同様の風味や外見がある蒲焼風の物をも称す(鶏肉をローストした鶏蒲焼など)。
● 概要
一般に「蒲焼」といえば「ウナギの蒲焼」を指すことが多いが、サンマやイワシ、ニシンの蒲焼きの缶詰も普及している。一方、高度成長期以前はナマズの蒲焼も多く食されたとされる。他の食材としては、ハモ、アナゴ、ドジョウ、ムツゴロウ、カワヤツメなどが使われる。変わり種としては、ナスやゆば、蛇類などがある。
ウナギの蒲焼は、江戸時代以前から存在したが、現在の蒲焼とは異なり、ウナギをぶつ切りにし、串刺しにして焼き、味噌や塩をかけて食べた(一説にその形がガマの穂に似ているため、「蒲(ガマ)焼き」と呼ばれるようになり、それが次第に訛り、「蒲焼」と呼ばれるに至った、とされる。詳細は「蒲焼#語源」参照)。
なお、蒲焼にすることが多いウナギやアナゴなどを、たれをつけないで焼いた料理を白焼という。
● 語源
「蒲焼」の語源については諸説ある。
◇蒲の穂
以前は(ウナギを捌かずそのまま)串刺しする調理法であり、それが蒲の穂に似ていたからこの名がついたとする説がある。
蒲の穂説をとる江戸期の書物には、橘守部『俗語考』、喜田川守貞『守貞謾稿』、久松祐之『近世事物考』が挙げられる。
はじめと名付けられたもの略形である、または「がま焼」か「かま焼」からさらに転訛した、とも解説される、黒川道祐(『雍州府志』)、菊岡沾涼(『本朝世事談綺』)らの文献でも提唱されている。
さばき方と焼き方など調理法は日本の各地域や店舗で大きく異なっている(後述を参照)。ウナギを扱う店舗では専用の包丁であるうなぎ裂きが用いられることも多いが、地域により江戸裂、名古屋裂、京都裂、大阪裂など包丁の形状も大きく異なっている。ウナギの蒲焼を焼く際には、細長いことから、開いた鰻に竹串などを予め打っておき横長の焼き台(串焼器)を用いて焼き上げることが多い。調理法の詳細については調理法を参照。
ウナギをさばいて焼き上げるまで長い時間がかかり、そのために客は蒲焼が出来上がるまでお新香をつまみながら酒を飲み待つスタイルがある(古典的なスタイルだが現在でも行われている)。
徳川家康時代に江戸湾の干拓によって多くの湿地が出来てウナギが住み着いた結果、労働者の食事(雑魚)として串に刺して蕎麦などと同様に屋台による立ち食いの簡単に提供される安価な軽食として食べられていた。ウナギを割いて骨を取り除き、串を打つという現在につながる調理方法は1700年頃に登場したが、味付けにはまだ味噌や酢を用いていた。下総国野田(現在の千葉県野田市)と銚子(現在の千葉県銚子市)で造られる関東醤油(濃口醤油)の普及にあわせ、醤油を使った蒲焼も登場した。タレの登場以前からウナギは食されていたが、調理法は塩焼きや味噌焼きであった。醤油を使った調理法で「醤油の掛け焼き」というものがあったが、その調理法ではウナギから染み出る脂のために醤油が弾かれてしまい、中まで味を染み込ませることができない。蒲焼の誕生には、醤油・みりん・酒・砂糖などの甘み調味料の普及と同時に、生きたウナギをさばく技術がなければ完成しなかったといわれている。
タレを使って蒲焼にするウナギは庶民に広がって江戸料理となったが、手間が掛かるものであり、
: 鰻屋でせかすのは野暮
: 蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む
などと言われるほどになった。
江戸に限らず全国でもウナギは収穫されたため、どこでも食べられた。1670年代に書かれた現在のガイドブックに当たる「東海道名所記」には、原宿と吉原宿の間にあった新田という場所がウナギの蒲焼の名所として挿絵入りで紹介されている。ウナギは皮が厚く、味がなかなか染みこまないという特性があったため、各地で調理法が試行錯誤された。関西ではウナギを腹から割き、骨を取り、串を打ち、焼いて醤油と酒のたれをつける手法が開発され、江戸でも採用されるに至った。
江戸中期には現代に受け継がれる江戸前の蒲焼が誕生する。江戸前寿司の誕生は江戸後期であり、当時「江戸前」といえばウナギの蒲焼を意味した。関東風の濃い口の醤油とみりんが特徴であった。割き方も関西では腹開きだが、江戸では背開きにした。これは江戸は武士の町であるため切腹を嫌ったものとも言われているが、腹開きが普通であった他の魚よりウナギは背開きの方が調理がしやすかったからではないかなど諸説ある。江戸では辻売りの屋台でよく、調理し焼いて売られた。ひと串16文(現在の価値で約320円)くらいであり、そば一杯とほぼ同価格であった。湿地を埋めて水路を張り巡らせて造った当時の江戸ではこの低価格が実現できるほどの大量のウナギの収穫があった。なおかつ、高カロリーで高タンパクなウナギは、肉体労働者の多い江戸では手軽な屋台売りのファストフードとして最適であった。江戸っ子は江戸前のウナギのおいしさに誇りを持っており、江戸前以外は「旅鰻」と呼んで格下に扱っていた。江戸後期には、屋台だけではなく店舗型の高級店でも扱われ始め、うな丼も登場。値段は200文(約4000円)であった。
1700年頃に出された『江戸名所百人一首』の絵札に深川八幡社と鰻売りの露天が描かれており、絵には露天の行燈に名物の大かばやきと記されている。
1723年(享保8年)出版の山岡元隣著『増補食物和歌本草』の中に、焼いたウナギは山椒味噌や醤油で食べることを勧める内容が記されている。ただし、この時点では現在のようにタレを付けて焼く調理法ではなかったとされる。
1728年(享保13年)に出版された『料理網目調味抄』の中に、醤油や酒を使ったものが記されており、味は現在の味に近かったとされている。1800年(寛政12年)に出版された『万宝料理秘密箱』の中にも醤油や酒を使ったものが見受けられ、タレを使った蒲焼の作り方が確立されたのは江戸時代中期以降とされている。
1750年頃には、露天の鰻屋は江戸の江東区深川付近でも数軒が営業していた。元禄の頃には江戸で鰻屋の商いが始まっていたとされ、文化・文政の頃に現代の和食が完成し、ウナギ・天ぷら・寿司などが大衆に流行した。その流行は、「江戸前大蒲焼番付」という蒲焼屋を紹介する本が発売されるほどであった。
1760年(宝暦10年)の『評万句合』という川柳には
:江戸前に のたをうたせる 女あり
という句があり、ウナギの蒲焼が存在していた。
1800年頃の江戸には関西風の鰻屋も存在した。参勤交代で江戸までお供した職人や料理人がそのまま江戸に定住し、そこで商いを始めたとされる。しかしその後、江戸における関西風の鰻屋は姿を消した。林鴻作著『産毛』の、京都四条河原(現在の京都府京都市下京区と中京区にまたがる四条河原町)付近での夕涼みを描いた絵の中に、露天で行う鰻売りが見受けられる。その掲げる行燈には「鰻さきうり・同かばやき」と記されている。
江戸時代後半には庶民の味覚として定着し、1829年(文政12年)、1832年(天保3年)の『曲亭馬琴日記』には、うなぎの蒲焼の切手(現在の商品券に相当)が流通していたことを示す記述も見られる。
中山道の宿場町、浦和(埼玉県)で町人が旅人に出したのが、今でいうウナギの蒲焼きの発祥とされることもあるが、上記のように江戸時代の様々な記録から異説もある。蒸すことにより仕上がりが柔らかくなり、脂が抜けるのでさっぱりとした味に仕上がる。
: 北大路魯山人は、『魯山人味道』において、うなぎの焼き方は地方の直焼きと東京の蒸し焼きがあるが、一も二もなく東京の蒸し焼きがよいと述べている。直焼きでは柔らかくなく脂がしつこいので、ご飯の間に挟んで蒸して脂をお米に吸わせる状態で提供されることがある。ヒネコ(2年物)などに蒸しを入れないと、ゴムのような食感となり脂臭い。初めて鰻丼を作ったのは、日本橋葺屋町の「大野屋」とされている。
◇ 関西風
: 関西風では、背開きではなく腹開きとし(漢方薬で消化を助けるとされる山椒を掛けるのは関東で始まった風習とされる)。また、おひつの御飯に細かい蒲焼を混ぜ込んで食べることもある(ひつまぶしも参照)。福岡では焼き上げてから蒸す「せいろ蒸し」として食べることも多い。
◎ ウナギ代用品の模索
ウナギ蒲焼は人気が高い半面、価格は高めで、さらにウナギは絶滅が危惧されている。この為、完全養殖は勿論、ウナギに近い味・食感を楽しめる、代替蒲焼用食材の発掘・開発が進められている。
一つはナマズを使うこと。食品スーパーを展開するイオンでは、ベトナム産パンガシウス科の蒲焼を販売しているほか、2016年からは近畿大学がウナギの味に近づけて養殖技術を研究したナマズの蒲焼を取り扱っている。
また、ウナギの近縁種であるアナゴ、他にサンマなどの代用も行われている。アナゴは代用品の中では食感が最も似ているとされる。
● 言葉
◇ おせせの蒲焼き
: 蒲焼のように世話をやく事
: いらぬおせせの蒲焼きやい-滑稽本『浮世床』
「蒲焼」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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