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「四季の歌」(しきのうた)は、作詞家・荒木とよひさが1963年頃から1964年にかけて作詞作曲した楽曲である。人から人へ、口伝えによって広まり、日本で国民的人気の楽曲となった荒木の作詞家デビュー作。日本の歌百選の1曲。自然現象などを直喩として用い、友人・親・恋人といった身近な人を隠喩として用いながら、四季それぞれを愛する人の性格を表現する。キャッチーでシンプルなメロディと老若男女問わず歌える歌詞で、1970年代半ばに日本で大ヒットした。
● 概要
荒木とよひさは19歳時。スキー合宿のオフの最中、荒木はモーグルの開脚ジャンプで転倒して、右大腿骨を複雑骨折した。1963年頃から。
荒木が入院したのは春めき始める2月であった。荒木は大学スキー部の練習後、チームメイトたちとよくストーブを囲んで山の歌を歌った。東京の病院で夏・秋・冬が出来上がり、看護師・看護学生たちに「こんな歌をつくったんだけどどう?」と歌って聴かせ、これが口伝えで広まった。これが病院内に知れわたり評判になった。看護師たちは地域ボランティアのイベント等で歌い始めた。これが荒木の作詞家としてのデビューである。しかし、みんなに歌い継がれてきたということを大切にしたかったので入れ替えのままレコーディングされることになった。また、このうちの1人芹洋子は5年ほど前に「四季の歌」を知り、この歌を「私のテーマソングです」と紹介してずっと歌っていた。1976年の各社競作レコードによるセールスで顕著なのはキングレコードの芹洋子盤だった。抒情歌のアルバムからシングルカットされた。中国語の「四季の歌」が歌われるようになった。魯迅の弟・周作人によると、魯迅はハイネに傾倒していた。魯迅は、指導者毛沢東の『新民主主義論』(1940年)において英雄として讃えられ、「魯迅の方向こそが、中華民族新文化の方向である」とまで言われた。毛沢東と同時代の政治家郭沫若は、ハイネの翻訳家である。
1984年、中国の指導者胡耀邦は青年交歓活動として日本人青年3000人を中国に招待した。後に中国共産党中央委員会総書記習近平夫人となる歌手の彭麗媛は、その歓迎パーティーに参加して「四季の歌」を芹洋子と歌った。2人は日本語で歌った。この時の芹洋子は「日本の音楽の使者」として招待されている。このパーティーには、習近平の父親・習仲勲(当時、中央書記処書記)が参加していた中国式の赤い上着(ジャケット)を芹洋子の娘に直接渡した。このプレゼントのために胡錦濤連合会主席が芹親子の宿泊先で1時間待っていたことが芹洋子を感激させた。習近平総書記は2015年に日本からの観光交流訪中団3000人を招待した。彭麗媛は訪日の度に芹洋子を訪問しているという。
1989年、『NHK日本の歌ふるさとの歌』の「明日に残す歌100曲」に「四季の歌」が選出された。
1994年、NHKの第1回『家族で選ぶにっぽんの歌』に芹洋子が出演して「四季の歌」を歌った。この回にテレサ・テンも出演し、荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の「別れの予感」を歌った。
1999年、日本の郵政省は「わたしの愛唱歌シリーズ第8集郵便切手」として「四季の歌」を題材曲目にした80円切手を発売。イラストレーターの永田萠により四季の妖精たちが踊る様子が描かれ、「四季の歌」の譜面が春の前半4小節分掲載された。兄が遼寧省大連市で生まれ、自身は遼寧省瀋陽市生まれの菅原が、大連生まれの荒木をゲストに誘いこのコンサートは実現した。菅原は「四季の歌」を中心とする約10曲を大連大学の学生およそ1000人の前で熱唱した。6種類の通常貨幣と「男の子・女の子と四季をイメージするイラスト」をデザインした丹銅製銘板が、「四季の歌」の譜面と歌詞が書かれたブック型ケースに収納され、このケースは「四季の歌」のメロディのオルゴール仕掛けになっている。コンサートの名称は、はるみ、夏子、亜紀(あき)、冬美という四季のある4人の名前に因む。「四季の歌」では季節の歌手を主役にして、その主役に他の3人が歌いかけた。
● 荒木とよひさの人生と「四季の歌」
荒木とよひさの両親は中国・大連で荒木が生まれた後、第二次世界大戦後、熊本に引き揚げてから離婚し、荒木は父親を知らずに育った。荒木が祖母から聞いた話によると、普段の父親は大人しく礼儀正しいが、アルコールが入ると乱暴になり、刀を持ち出してみたり、喧嘩をしたり、女性を家に連れ込んだりという人だった。幼かった荒木は父親の顔も知らない。荒木の枕元にはトランクがあり、いつでも逃げられる準備がされていた。両親の結婚は恋愛によるもので、夫婦は大連に渡って映画館やアパートを経営した。母親は酒を嫌っていたが、酒が人生そのものだった。
荒木は熊本の大家族の中で小学生まで過ごした。小学生の頃の1953年9月、荒木は東京の母親のもとで暮らし始めた、母親、荒木、祖母の3人暮らしだった。母親は仕事で忙しく、息子の荒木は冬が来ると新潟・関温泉にある知人のところに行かされて冬を越した。その場所は新潟・関温泉のスキー宿「登美屋」である、悪仲間としょっちゅう学校をサボり街をブラついていた。このチンピラ高校生集団は下北沢の喫茶店に集合し、パチンコ、映画、ビリヤードなどグループごとに思い思い行動し、渋谷のストリップ劇場に繰り出したりもした。荒木はビリヤードが得意で、玄人らしき大人やヤクザと賭けで対戦し、時には終電まで勝負を続けて大概は勝った。「どうしようもない高校生」だった荒木は、悪さ・喧嘩で停学になり。退学した仲間もいた。大親友はハイミナールのクスリ遊びをしていた。しかし母親は荒木の行動を本人の自由に任せた。高校生の荒木は女の子とデートをする際には母親の言っていたことを試した。本気で好きな女の子とラーメンを食べて、そのような(本格中華のような晴れがましさがない)食事に付き合わせても笑顔でつゆまで綺麗に飲んだら良い娘という母親の話を試したのだが、女の子たちは誰一人つゆまで綺麗にはいかなかった。「秋刀魚の歌」は佐藤春夫の代表詩であり、叶わなかった結婚の悲哀なる歌である。1921年に文芸雑誌にて発表された。佐藤が友人・谷崎潤一郎の妻・千代(千代子)に恋をして結婚の約束をしたが反故になった時期にあたる。谷崎は妻の妹・せい子を好いて、妻を捨てようとしていた。佐藤は妻・香代子と離婚し、谷崎の妻・千代と再婚することになっていたが、千代との離婚を取りやめにした谷崎の都合で破談となった。佐藤は男1人になった。リーダー格が繰り返し朗読していると、「もうやめろよ、淋しくなるじゃねぇか」と誰かが言った。ある日、佐藤は谷崎の居ぬ間に小田原の谷崎宅で谷崎の妻と娘と団欒(まどい)をした。佐藤の郷里・新宮(和歌山)には、焼き秋刀魚に「青切りミカン」を絞るという風習がある。佐藤が常々、郷里のおいしいものを「一にめはり、二に秋刀魚」と言うほど秋刀魚は郷里の新宮に無くてはならない特産である。千代は秋刀魚に「青いミカン」の果汁を試みる。「愛が薄い父」を持つ谷崎の娘・鮎子は、「父ではない男」である佐藤に秋刀魚の腸をくれると言う。佐藤は「妻に背かれた男」であり、妻・香代子と佐藤の弟・秋雄が良い仲になってしまっていたことで既に香代子と離婚していた。千代と佐藤の再婚の件で、谷崎、千代、佐藤の3人は連名の挨拶状を知人らに送っていたが、谷崎のほうで、せい子との結婚がうまくいかなかったため、谷崎が撤回した。男1人になった佐藤が書いた詩が「秋刀魚の歌」である。そして心にまどいの情景を思い描いた。「淋しいだろ……男ってなぁ」、「焼きたてのサンマに、蜜柑の汁をかけて食べた幸福があって、今はなぁ、涙をしたたらせて食うはいずこの里のならいぞや、だぞ」とリーダー格の語る声が聞こえる。荒木は泣いていた。皆も「荒木が泣いてんじゃねぇか」などと言い、泣き始めた。
荒木は日大芸術学部に入学すると、映画を学んだ。荒木にとって映画は作詞活動の原点である。そこには映画を勉強・読書と同様に考えていた母親、荒木を幼少時から育てて映画や芝居を観に連れて行ってくれた祖母の存在があった。8ミリ映画の機材を中学生が取り揃えているなど、当時考えられない贅沢であった。母親がプロポーズに応じなかったのは息子である荒木少年がいたからだと祖母が付け加えた。しかし、荒木はギターは諦めず、入院中も手放さなかった。朝から読書にギターで曲作りであった。昼夜なく暇を持て余し、荒木は何百という数の歌を作詞作曲し、テレビ局・ラジオ局に送った。3年での松葉杖による歩行可能な状態になった荒木は、松葉杖姿にギターを背負い、紹介などを頼りにレコード会社やテレビ局に売りに行った。25歳の頃、母親や母親の知人の店でギター弾きを始め、そうしているうち広告代理店に勤める大学の友人が持って来たCMソングの仕事を引き受け、評判が良かったようで次々に仕事が舞い込んだ。その何年か後、「四季の歌」がレコードになった。レコード会社が「四季の歌」の作者を探していると、「おまえがつくったんだから」などと荒木は友人たちからデビューの後押しをされた、ある時期コンビを組んでテレサ・テンの歌を作ったこともある作曲家「M君」あるいは「タカシちゃん」と記述され、ここに荒木はハイネの比喩を用いた。すなわちこの作曲家は三木たかしである。荒木はわらべ「めだかの兄妹」(1982年12月)の作詞で三木と出会った。荒木と三木は出会った頃、銀座に行ってはブランデーの回し飲みをした。わらべメンバーの元恋人の死につながるスキャンダル写真流出事件の後に3人組から2人組になったわらべの「もしも明日が…。」(1983年12月)を再び荒木・三木のコンビで発表し、「めだかの兄妹」を上回るヒットとなった。荒木・三木コンビは翌年以降テレサ・テンの歌を発表し、「つぐない」(1984年1月)、「愛人」(1985年2月)、「時の流れに身をまかせ」(1986年2月)という、同じ女性を主人公にした3部作が皆ヒットした。荒木はしかし自分の唯一の代表作は「四季の歌」と思っている。ただ、荒木にしてみればハイカラで育ち良く知的なイメージの作曲家と違って作詞家というのは後ろめたい職業で、実際「四季の歌」の作者が自分であると人に言うと、不思議そうに「ヘエ……」、それだけである。自分は母親からカネも物も送ってもらっているのである。祖父の家は床上浸水になった。しばらくの間は東京に電報も届かなかった。7月、荒木と母親は熊本のデパートで食事をした。カレーライスと思って選んだ食べ物を食べていると、「ハヤシライスそんなに好きなの」と母親に言われて、このおいしい食べ物はハヤシライスというのかと、食べていたらいつの間にか泣いてしまい、母親の顔を見上げると母親も泣いていた。小学校の遠足の前日、銀座のデパートに水筒を買いに連れて行ってもらった。キャップに磁石が付いている水筒が、どうしても欲しかった。晩年、大腿骨骨折で寝たきりの母親に、遠足前日のバナナの叩き売りを話題にすると、母親は「あら、そんなことあった」と笑った。母親に会いに行ってバナナの話をするといつも「あら、そんなことあった」であったが、死去の何か月か前には、「うん?……」という反応しか返ってこなかった。母親は、息子に会うために髪をとかし、口紅を引きたかったのである、小間使いを雇う裕福な家庭で育ち、戦争を生き、離婚し、上京して水商売に身を置き、寝たきりになった母親からは本当は女優になりたかったと聞いた。「私は幸せだったよ、本当に。好きな事ばっかりしてきたからね……」、「でもあんたも幸せだよ、私以上に。何でもさせてあげたからね」、晩年の母親がよく言っていた、「あんたのお酒は、いいお酒で良かったよ」と言う母親は、別れた夫を思い出しているに違いなかった。母親との死別でチンピラはおしまいだと思ったが、作詞する時はチンピラ時代を書きたいと心がうずくのである。荒木によると幕末に新時代を切り開いたのは「若きチンピラたち」である。結局のところ、荒木はチンピラが辞められない。若者チンピラの輝きがなくともオヤジチンピラとして渋味でやっていくのである。荒木は、「あの事故がなければ、作詞家になっていたかわからない。母が僕を関温泉に送りださなかったらどうなっていたか」と語っているという数値がある。発売翌年の1977年オリコン年間シングルチャート48位。1975年後期にアルバム『四季の抒情』(キングレコード、SKD-312)で「四季の歌」を歌っている(編曲:青木望)。芹は5番を「ラララ」で歌う筆頭として知られている。
◎ 収録曲
四季の歌(2分59秒)
:作詞・作曲:荒木とよひさ/編曲:青木望
赤い小さな乳母車(3分36秒)
:作詞:太刀川倫夫/作曲:山田友一/編曲:佐藤準
● 歌唱・演奏した主なアーティスト
・芦川よしみ(アルバム『わたしの四季 — 芦川よしみ 春夏秋冬 —』収録。ワーナー・パイオニア L-10057P。1976年11月25日発売。編曲:筒井広志)
・新垣勉(アルバム『願い 〜愛と平和の歌』収録。ビクターエンタテインメント VICC-60368。2003年11月21日発売)※テノールボーカル:新垣勉、伴奏:蓜島公二指揮による管弦楽団。
・alan:二胡演奏。
・石原裕次郎(アルバム『めまい』収録。テイチク GM-48。1977年4月発売。編曲:小谷充)
・五木ひろし(TV番組『トップスターショー・歌ある限り』第2回。1976年10月14日放送)※小柳ルミ子との競演。五木は2番と4番を歌った。
・伊藤咲子(アルバム『青春』収録。Toshiba Records TP-72231。1977年3月5日発売)
・いぬいゆみ(シングル。RCA JRT-510。B面は「さよならを言う前に」。1972年2月25日発売。編曲:横内章次)※オリコン週間チャート最高48位、セールスは10万枚。1976年のリバイバルヒットののち、10月25日に『夜のヒットスタジオ』に出演した。
・大石昌美:ハーモニカ演奏。
・岡田徹(アルバム『Music in the Air〜オルゴールで聴く日本の叙情歌』収録。ソニーミュージック MHCL-321。2003年11月19日発売)※オルゴール曲。
・オルリコ(アルバム『風ノ詩』収録。キング KICX-799。2011年6月22日発売。編曲:田代修二)※日本語。
・海上自衛隊東京音楽隊、三宅由佳莉(アルバム『シング・ジャパン ―心の歌―』収録。UCJジャパン UCCY-1082。2017年10月25日発売。編曲:川上良司)※川上良司1等海曹とデュエット。
・片山知子(シングル。LIBERTY / 東芝音楽工業 LTP-2643。B面は「気楽に行こうよ」。1972年発売)※作者不詳の歌としてリリースされる予定だったが、同時期いぬいゆみ盤のビクター(RCA)が作詞・作曲者に荒木をクレジットしたため片山知子盤も荒木の名が入った。シングルリリース後、1972年8月5日発売のファーストアルバム『四季の歌〜フォークとは私自身です』にも収録。
・川島由美(2014年の自己プロデュースCDアルバム『四季のうた』に収録)※ソプラノボーカル:川島由美(日大芸術学部卒、東京都公認ヘブンアーティスト)、ピアノ:菅谷圭(東京芸大卒、合唱・オペラ伴奏ピアニスト)、ギター:神谷昌紀(ICU卒、企業で働くギタリスト)。
・木山裕策(2020年アルバム『花 麗しき日本の愛唱歌』収録。キング KICS-3964、2020年12月16日発売。)
・小鳩くるみ(1994年のアルバム『愛しき歌』等に収録)
・小柳ルミ子(TV番組『トップスターショー・歌ある限り』第2回。1976年10月14日放送)※五木ひろしとの競演、晩年まで「四季の歌」を歌い続けた。2012年から毎年8月に開催されている「東日本大震災復興支援チャリティー 地球歌の日コンサート」に主催者代表として2014年の第3回目まで参加し、「四季の歌」をはじめとする唱歌を子供たちとともに歌った(2015年1月に菅原は急性骨髄性白血病であると診断されて療養生活に入り、第4回目の開催前に死去)。
・角聖子:ピアノ演奏。アルバム『ピアノがうたう日本のうた ベスト』(2010年)収録「四季の歌」は服部克久編曲。
・宗次郎:オカリナ演奏。
・ダーク・ダックス(アルバム『ダーク・ダックスのア・カペラ volume 1 美しい星』収録。キング SKA-34。1972年9月25日発売。編曲:服部克久)※4番の歌詞は根雪ではなく雪。5番の歌詞はない。ダーク・ダックスは、『四季の歌≪文部省唱歌集≫』(DARK DUCKS sing FOUR SEASONS)を1961年9月10日に発売しているが(キング LKF-1177)、これは四季に関する歌の集成アルバムであり、荒木とよひさ「四季の歌」ではない。
・ダ・カーポ(1990年のアルバム『フォーク・ソング・ファンタジー〜青春の贈りもの』、2007年のアルバム『日本の歌ベスト30』等に収録)
・立川清登(シングル。ビクター KV-545。B面は「四季の歌」のカラオケ。1976年8月2日発売)※発売から1週間後、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』第405回(1976年8月9日)出演時に「四季の歌」を歌った(東京混声合唱団による合唱)。
・田中好子:キャンディーズ時代に「春」の1コーラスを歌ったことがあり、その時の田中は「友達」ではなく「恋人」と歌った。
・チェリッシュ(アルバム『ひまわりの小径』収録。ビクター SF-1027。1972年8月5日発売)
・ドリーミング(初出は1991年『アンパンマンがえらんだこどものうた〜おつかいありさん』)
・夏川りみ:2009年12月23日に牛牛とのコラボを上海でレコーディングした。この競演はアルバム『歌さがし〜アジアの風』(ビクター、2010年2月24日)に日本語版と中国語(北京語)版が収録された。1996年9月25日名古屋におけるライヴ。4分のドラム・ソロの後、ギター演奏が加わり、およそ2分後、「四季の歌」の主旋律をギターが演奏して曲は終わりを迎える。ギターは「四季の歌」1コーラス(全8小節)のメロディを2回繰り返し、一部分として1回目の音色が微妙に高いことを認識することが出来る。ソングライティングはウリ・カッシュ、ローランド・グラポウ、荒木とよひさの3人の名前がクレジットされている。John Hullによるライヴミックス。ビクター VICP-60365、1998年9月18日発売(日本国内シングル「ヘイ・ロード」)。「もしもし〜四季の歌」は後に2002年のアルバム『トレジャー・チェスト』限定版(Limited Edition)ボーナスディスクに収録された他、アルバム『ベター・ザン・ロウ』の2006年増補版(Expanded Edition)ボーナストラックに収録された。
・平林龍(アルバム『夢のあとに』収録。Lindenbaum RMCD-1101。2014年4月21日発売)※テノールボーカル。このアルバムには「君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜」も収録している。
・フォレスタ(DVD『FORESTA 日本の歌名曲選〜BS日本・こころの歌より〜』収録。BS日本-BNDB0008。2008年5月21日発売)
・古坂るみ子(アルバム『朗読で聴く昭和の流行歌』収録。キング KICG-5022。2004年8月4日発売)※シャンソン歌手・古坂るみ子(文学座座員)による朗読。
・ミュージカル・アカデミー(シングル。クラウン。B面は「四季の歌」のインストゥルメンタル。1976年発売)
・森昌子(アルバム『日本のうた〜森昌子15周年記念』収録。ポニーキャニオン D80A-0157。1986年1月21日発売。編曲:あかのたちお)
・横森良造:アコーディオン演奏。
・和田弘とマヒナスターズ(2002年のアルバム『和田弘とマヒナスターズ』等に収録)
・ジェロ(シングル「嘘泣き」c/w。ビクター VICL-36577。2010年6月16日発売。編曲:鈴木豪)※歌詞は1972年のオリジナル版。
・MUCC(アルバム『COVER PARADE』収録。2006年6月6日発売)
・ロイヤル・ナイツ(シングル。日本コロムビア GK-501。B面は「草原」)
◎ 引用作品
・コヨーテ:このダンスグループは韓国語(IPA プルコッ)という曲名で「四季の歌」のメロディを引用した曲を発表している。英語タイトルは「Spark」。日本語タイトルは「火花」もしくは「花火」。この曲の作者は、キム・ヒョンジョンやチョ・ソンモらの曲作りにも参加している作曲家イ・ヨンミン。「火花」は2004年のアルバム『KOYOTE.6』(EMI EKLD364)2曲目に収録された。この曲は2004年にMBCの音楽番組『Music Camp』(생방송 음악캠프)で1位を2回獲得した。アルバム『KOYOTE.6』では荒木とよひさの名前がクレジットされていなかったので盗作疑惑に発展した。作曲家イ・ヨンミンによると、「四季の歌」のメロディ部分はイ・ヨンミンが幼い頃に口にしていたメロディを使用し、彼はこのメロディが「四季の歌」という日本の歌であることは知らなかった。
● パロディ
・過去、「桃屋のつゆ」のテレビコマーシャルで、本楽曲をモチーフとしたものが放映された。ただしこのときのCMソングは「四季の歌」ではなく、「ハッピーバースデートゥーユー」の替え歌だった。松茸ご飯、鍋物など季節の料理を題材にしている。
● 君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜
「君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜」(きみだけをみつめてる〜しきのうた2012〜)は、「四季の歌」50周年特別企画の新曲である。
「四季の歌」は1972年のリリースから50年の節目となる2012年に新曲「君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜」として次の50年に歌い継がれるべくリメイクされた。オリジナルの「四季の歌」をモチーフにして、旧メロディに新メロディを追加。歌詞は新しく制作された。この新曲「四季の歌2012」は荒木とよひさと松本俊明のコラボレーション作品であり、荒木による作詞・作曲に松本が補作曲として参加した。
「四季の歌2012」は、2012年6月20日にオムニバスCDアルバムがリリースされた。このCDはオーディションで選ばれた5組のアーティストによるそれぞれの「四季の歌2012」が収録されている。
◎ 収録曲
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 mammy Sinoヴァージョン [4:40
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 ユー・ジソン(URs)ヴァージョン [4:38
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 茅野由衣ヴァージョン [3:53
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 井深みゆきヴァージョン [4:16
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 M3ヴァージョン [4:08
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 mammy Sinoヴァージョン(オリジナルカラオケ) [4:41
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 ユー・ジソン(URs)ヴァージョン(オリジナルカラオケ) [4:38
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 茅野由衣ヴァージョン(オリジナルカラオケ) [3:53
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 井深みゆきヴァージョン(オリジナルカラオケ) [4:16
君だけを見つめてる〜四季の歌2012〜 M3ヴァージョン(オリジナルカラオケ) [4:06
※M3とは、山口市在住の家族3世代(國吉磨寿美、田中みづえ、田中めぐる)の3人組によるユニット。
「四季の歌」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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