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蛭子山古墳(えびすやまこふん)または蛭子山1号墳は、京都府与謝郡与謝野町字加悦・明石にある古墳。形状は前方後円墳。蛭子山古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定され、舟形石棺は京都府指定有形文化財に指定されている。
網野銚子山古墳(京丹後市網野町)・神明山古墳(京丹後市丹後町)と合わせて「日本海三大古墳」と総称される。
● 概要
京都府北部、丹後半島付け根の加悦谷の東縁部、中位段丘上に築造された大型前方後円墳である。台地上ではこの1号墳含む古墳8基が分布し、これらは「蛭子山古墳群」と総称される。これまでに5次の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は145メートルを測り、丹後半島では網野銚子山古墳(京丹後市網野町、201メートル)・神明山古墳(京丹後市丹後町、190メートル)に次ぐ第3位の規模になる。墳丘各段には埴輪列が巡らされているほか、墳丘外表には川原石の葺石が認められる。埋葬施設としては後円部中央において3基が認められており、そのうち中央の第1主体では舟形石棺および銅鏡・大刀などが発見されている。
この蛭子山1号墳は、古墳時代前期後半の4世紀中頃の築造と推定される
古墳域は1930年(昭和5年)に2号墳・3号墳と合わせて「蛭子山古墳」として国の史跡に指定された。
● 遺跡歴
・ 1927年(昭和2年)3月7日、北丹後地震に伴い後円部中央に地割れ。埴輪列の発見。
・ 1929年(昭和4年)
・ 墳頂にあった蛭子山神社の再建工事中、埴輪出土と舟形石棺の発見。次いで石棺の開蓋・引き上げ(第1次調査)。
・ 11月、京都府調査会の西田直二郎・佐藤虎雄による調査。
・ 12月、京都府調査会の梅原末治による考古学的調査(第2次調査)。
・ 1930年(昭和5年)7月8日、「蛭子山古墳」として国の史跡に指定。
・ 墳丘長:145メートル(見かけ上は170メートル)
・ 後円部 - 3段築成。墳丘主軸と直交方向にやや楕円形をなす。
・ 直径:約100メートル
・ 高さ:約16メートル
・ 前方部 - 3段築成。
・ 幅:約62メートル
・ 高さ:約11メートル
● 埋葬施設
埋葬施設としては、後円部中央に次の3基が認められている。
◇ 第1主体
: 中央。南北主軸の舟形石棺直葬。墓壙底面に礫を敷き、その上に花崗岩(加悦谷産)製の刳抜式舟形石棺を据える。
◎ 京都府指定文化財
・ 有形文化財
・ 舟形石棺 蛭子山1号墳出土(考古資料) - 2019年(平成31年)3月29日指定。
● 考証
蛭子山1号墳は、前述(概要節)のように丹後半島において網野銚子山古墳(京丹後市網野町)・神明山古墳(京丹後市丹後町)に次ぐ第3位の規模になる。これら3基は日本海側で圧倒的に規模が大きいことから、「日本海三大古墳」と総称される。蛭子山1号墳は、三大古墳のうちで3番目の規模であるが最も早い築造であり、当時としては丹後半島で最大規模になるほか、この地域において段築・葺石・円筒埴輪の3つを備えた古墳としても初期の部類とされる。
弥生時代末期から古墳時代前期にかけての丹後半島では、日本海交易により一定勢力が伸長したといわれる。上記の三大古墳では、いずれも丹後型円筒埴輪という丹後半島特有の在地性埴輪の使用が見られ、蛭子山1号墳の舟形石棺も在地色の強い様式になる。このような丹後地方の勢力(タニハ勢力)を独自的な勢力と見て「丹後王国」と呼称する説もあるが(「丹後王国論」参照)、古墳の墳形自体はヤマト王権特有の前方後円形をなし、弥生時代までと異なり古墳時代以降ではヤマト王権への強い従属性を示している。なお三大古墳の後の5世紀に入ると、タニハ勢力の主要地は南の雲部車塚古墳(兵庫県丹波篠山市)に移り、丹後地方では大型古墳は築造されなくなる。
● 現地情報
所在地
・ 京都府与謝郡与謝野町字加悦・明石
関連施設
・ はにわ資料館 - 与謝野町立古墳公園に併設。蛭子山古墳群・作山古墳群等の出土品を保管・展示。
周辺
・ 作山古墳群 - 国の史跡。
・ 白米山古墳 - 国の史跡。
「蛭子山古墳」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2025年3月25日11時(日本時間)現在での最新版を取得
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