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名護屋城(なごやじょう)は、佐賀県唐津市〈旧東松浦郡鎮西町・呼子町〉、東松浦郡玄海町(肥前国松浦郡名護屋)にあった日本の城。太閤豊臣秀吉が文禄の役を始める前に築かせた。現在、国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。
● 概要
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣副城があったが、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。
城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。
秀吉の死亡後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。
・ 大正15年(1926年)11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。
・ 昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。
・ 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された
明治時代頃の県の古地図には、すべて名護屋の地名は“名古屋城”、“名古屋浦”、“名古屋村”と表記されており、特に正式な公文書では名古屋と書くのが通例だったのが、大正からは“名護屋”と変化している。この元の地名の名護屋は、秀吉の出身地の名古屋と音が同じだったため築城場所に選んでいる。最初は名古屋城とは先に完成した肥前名古屋城の方を指した。秀吉死後に家康の江戸時代が始まるとすぐに城を破壊されて城自体はなくなり、いち早く江戸の将軍自ら尾張に音の同じ名古屋城が築城され、段々と尾張名古屋城は名古屋城としてあまりにも有名になった。ここに住む者達はその抵抗はあったか不明だが、歴史的経緯や地名はずっと慣れた名古屋の書き名を使い続け、一部の人の中で名古屋城は2つ混在しつづけ、徳川家が築城した尾張名古屋城による知名度の高まりで尾張名古屋城の認知度が全国的に一般的に波及しつつも、県地域の人々によって名古屋という地名の継承が守られ続けた。一方で、秀吉のいた時の出身故郷の名古屋は人口も少ない村だったが、明治の廃藩置県によって県名の名古屋県や愛知県庁所在地の名古屋市を設置し、名古屋というと国内のみならず世界でも通用する地名度と人口は爆発的に増えて押しも押されぬ巨大都市へと急成長して有名になりすぎた名古屋城への遠慮や、更には陸軍省の所管となった後に宮内省の所管となり名古屋離宮として大地震被災後も宮内庁によっって国費を投じて文化財として永久保存が決定しそのため修復される(後には旧国宝第一号に設定となる)など、天下人の城よりも更に上の天皇所有の城となったことへの配慮など、そのようなことをきっかけに意思の変貌があったとされ、当時を知る人の時代も変わり、拘りの消失や、同じ名称の混同や誤解を避けて利便性の重視を選んだことで、大正の頃からは元の名護屋の地名に直し(戻し)、現在の名称としてすべて一斉に統一するようになったと考えられる。
黒澤明監督による『乱』(昭和60年(1985年)公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。
● 名称
史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称として「肥前名護屋軍事都市遺跡」という名称を提唱している。
● 歴史・沿革
◎ 背景
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州の役で島津義久を降した後、天正18年(1590年)、小田原の役において奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降し、徳川家康を関東に移封して天下統一を成し遂げた。国内統一の途中においてすでに秀吉は世界に目を転じており、九州平定以来、「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と明征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬の宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球や呂宋や高山国(台湾)にも使者を出した。
◎ 築城
宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元那古野と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった波多親はこれに反対したため不興をかった。また甥の内大臣豊臣秀次に関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。
10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった。『松浦古事記』によれば、20万5,570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7,985兵で陣立てされた。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった。
◎ 作事衆
築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を長谷川宗仁が担当した。
その後、1976年から数十年にかけて行われた発掘のデータと狩野派の絵師、狩野光信による「肥前名護屋城図屏風」を基に、西和夫神奈川大学名誉教授による監修の下、天守や本丸の設計図を書き起こしCG化。2015年にタブレット端末等を用いて再現CGを見ながら名護屋城跡を散策できる「バーチャル名護屋城」のサービスを開始した。
● 関連施設
・佐賀県立名護屋城博物館が隣接している。
「名護屋城」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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