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松山城(まつやまじょう)は、岡山県高梁市内山下にあった日本の城(山城)。別名高梁城(たかはしじょう)。各地にある同名の城との混同を避けるため、一般的には備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)と呼ぶことが多い。 日本100名城の一つ。現存天守12城の一つでもあり、この中で唯一の山城である。臥牛山山頂(標高487m)から南稜線にかけて遺構が残っており、そのうち一つである小松山城跡に現存天守(標高430m)がある。

● 概要
城のある臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の城下町から約1,500m、1時間ほどの道のりがある。この城は戦に備えて建設された「詰の城」であり通常はあまり使われていなかったと思われる。 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。 備中(岡山県西部)は小藩に細分化され、倉敷のような幕府の直轄地もあったので備中松山藩の石高は6万石ほどであった。 城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。

● 歴史・沿革


◎ 鎌倉時代 - 安土桃山時代
仁治元年(1240年)、秋庭三郎重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。 城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。 元亀元年(1570年)には元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つために出撃した際に、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀2年(1571年)2月に穂井田元清の協力の下で庄高資を討ち、松山城を奪還した。天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。

◎ 江戸時代
近世を通じ、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、江戸幕府が城番(小堀正次・政一)を置いた。この頃、麓に御根小屋が築かれた。 元和3年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3000石で立藩するが、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。 翌寛永19年(1642年)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681年) - 天和3年(1683年)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693年)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。 水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。松山城下で浅野・大石主従はよろしくない評判となった記録が残る。のちに水谷家は勝美の弟・水谷勝時が3000石の旗本(勝英の代に500石が加増)として再興され明治に至る。 元禄8年(1695年)、安藤重博が6万5000石で入封するが、正徳元年(1711年)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。 慶応4年1月18日(1868年2月11日)、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者・山田方谷の決断で無血開城した。

◎ 近現代
明治6年(1873年)、廃城令が公布され、御根小屋は取り壊された。山城は新政府によって7円(現在の約5万円)で商家に売却された。しかしあまりにも不便な場所にあることから山上の建物は解体されずに放置・荒廃が進み、天守はツタが生い茂り崩壊寸前、天守脇にあった八の平櫓にいたっては倒壊した。昭和初期、高梁中学校教諭の信野友春が山城を調査しその詳細な記録を『備中松山城及其城下』に著し刊行する。信野の著書を契機に山上の建物が修復の機運が高まり、修復のために高梁町によって1万8000円の予算が組まれた。昭和5年(1930年)より二重櫓、天守の順で修理がなされた、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(68番)に選定された。

● 天守
松山城の天守は、構造などは不明であるが毛利氏時代から、小堀氏が城番で入城する慶長の間にはすでに存在していたと考えられている。現在見られる天守は、天和元年(1681年)に2代水谷勝宗が造営したとされるが、慶長5年(1600年)に小堀政次、政一が建てたものを、2代水谷勝宗が改修し、現在のような姿になったともいわれる。 現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から渡櫓を経て天守へ至った。腰板張りで1重目の唐破風出窓や2重目の折れ曲がり出窓など、縦連子窓を多用し、1重目屋根には、西面に千鳥破風、北面・東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられている。本丸とは離れた位置にある雲海展望台(雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台)から見ることができる。
・時期:9月下旬から4月上旬の早朝、特に10月下旬から12月上旬は可能性が高い。12月から2月末までは積雪になる事もあるので注意。時間は明け方から午前8時頃まで。
・条件:風がなく、よく晴れて、寒暖差(前日の日中と当日朝の気温差)が大きい事。

◎ 猫城主
猫城主として「さんじゅーろー」がいる。元々は2018年7月1日に引き取られた飼い猫だったが、同月14日の平成30年7月豪雨の際にベランダから失踪した。その1週間後に当城にて発見されて、世話されているうちに城に居着くようになり「城主」の呼び名が浸透した。高梁市観光協会が元の飼い主を探していたところ、同年10月中旬に見つかったが、城に居着いてしまったことから観光協会に譲渡が決まった。被災から激減していた観光客数は「さんじゅーろー」人気でV字回復していたものの、同年11月4日にも再度失踪し、同月23日に発見されて以降は獣医師の元でのルールを決めた上で猫嫌いな訪問者にも配慮することとした。2018年12月16日には正式な猫城主として「再入城の儀」を行った。(備中松山城 猫城主 さんじゅーろー(高梁市観光協会))

「松山城 (備中国)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年10月13日8時(日本時間)現在での最新版を取得

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