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園城寺


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園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山(ながらさん)。本尊は弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)。 2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財として日本遺産に認定される。 札所本尊真言(如意輪観音):おん ばらだ はんどめい うん ご詠歌:いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖

● 歴史
当寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。

◎ 円珍の登場
当寺の起源については次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は自らの念持仏である弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。そして、その子である大友皇子(弘文天皇)もまた天武天皇元年(672年)に壬申の乱のため25歳の若さで没した。その後、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のために天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする当寺をようやく建立することができたという。それとは別に、当寺は天武天皇元年(672年)頃に大友村主家によって創建されたともされる。 壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではあるが、朱鳥元年(686年)にはこの寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与えたという。「園城」という寺号は、大友与多王が自らの「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。現在の園城寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期や飛鳥時代に遡る古瓦や、崇福寺、穴太廃寺、南滋賀町廃寺と同じ形式の瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度の史実を反映したものと見ることができる。 当寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)に初めて園城寺長吏に就任し、その後の園城寺の発展の基礎を築いたのが智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)3月に讃岐国那珂郡(現・香川県善通寺市)に生まれた。 天正10年(1582年)6月、織田信長を本能寺の変で自害に追いやった明智光秀だったが、その後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、自害した。秀吉は当寺に本陣を置くと、ここで光秀の首実検を行ったという。 この後、当寺は天下人となった豊臣秀吉とも良好な関係を築いていたが、文禄4年(1595年)11月、当寺は突如として秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられた。慶長4年(1599年)2月に着工し、翌慶長5年(1600年)3月には完成している。七間四方、入母屋造、檜皮葺の和様仏堂。堂内は外陣、内陣、後陣に区切られ、内陣の中央五間は床を外陣より一段下げて四半瓦敷きにした天台宗本堂の古式を伝えている。建物全体は和様で統一され、木割太く、全体に低めで軒の出深く、重厚さの中に柔らかさを持つ、典型的な桃山形式の仏堂である。本尊は弥勒菩薩。用明天皇の時代に百済より渡来し、天智天皇の念持仏となり、園城寺草創の際に天武天皇が本尊として安置したと伝えられているものである。
・ 鐘楼(重要文化財) - 慶長7年(1602年)再建。金堂の左手前にあり、近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる梵鐘(滋賀県指定有形文化財)を吊る。この梵鐘は音色の良いことで知られており、日本の音風景100選に選ばれNo.58「三井の晩鐘」として登録されている。また、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている。この梵鐘は慶長7年(1602年)に長吏准三宮道澄が弁慶の引摺鐘の跡継ぎとして鋳造したもので、乳(鐘上部に付けられる突起)が合計百八個あり、近世以降多く造られる百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘として在銘最古とされている。
・ 天狗杉(大津市指定天然記念物) - 樹齢約千年。相模坊道了が、同郷の了庵慧明が相模国に最乗寺を建立したと聞くと天狗に変化し、この杉の頂部から相模国に飛び立ったという。
・ 閼伽井屋(あかいや、重要文化財) - 金堂の西に接して建つ小堂で、格子戸の奥にある岩組からは霊泉が湧出している。この泉は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたことから御井や三井と呼ばれ、それがもととなって当寺は御井寺、次いで三井寺と呼ばれるようになった。現在の建物は、この霊泉の履屋として慶長5年(1600年)に金堂と同じく高台院によって建立された。桧皮葺で、三間二間の向唐破風造。随所に桃山風の装飾を施した優美な建造物である。また、正面上部の蟇股には左甚五郎作の龍の彫刻があり、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れていたので甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んだという伝説がある。
・ 庭園「閼伽井石庭」 - 日本最古の庭園だとされている小さな石庭。
・ 熊野権現社 - 熊野権現を祀る。平治元年(1159年)に白河天皇の皇子・行慶大僧正によって三井修験道の鎮神として創建された。その後、三間社流造の社殿として応永5年(1398年)、文亀元年(1501年)、慶長6年(1601年)と度々建て替えられている。現在の建物は天保8年(1837年)の再建である。
・ 智証大師像 - 石像。
・ 教待堂 - 教待和尚を祀る。
・ 光浄院 - 金堂の北方に位置する子院。
 ・ 客殿(国宝) - 勧学院客殿より1年あとの慶長6年(1601年)に元光浄院の住持であった山岡景友により再建される。規模、意匠など勧学院客殿と似る。桁行七間、梁間六間、一重入母屋造、正面軒唐破風付の総杮葺き。内部の一之間、二之間の障壁画および襖絵は狩野山楽や狩野派の筆によるもので重要文化財に指定されている。寝殿造りの流れをくむ主殿造とされる。広縁の奥には付書院、出書院と呼ばれる造り付けの机を設けた上段の間が突出しており、このような小部屋を持つ書院は光浄院客殿のみとされる。
 ・ 庭園(国の名勝・史跡) - 客殿に南面して広がる池泉観賞式庭園。池が客殿の広縁の真下まで食い込み客殿と一体化した、池上建築に似た構成を取る。池中に石橋を架けた亀島や夜泊石を設け、山畔には立石を組んだ枯滝を配する。
 ・ 護摩堂 - もとは十八明神社の拝殿で、ここに移築したもの。
 ・ 表門
・ 霊鐘堂 - 昭和初年に古鐘堂の古材をいかして改築されたもの。霊鐘「弁慶の引摺鐘」(重要文化財、奈良時代)を安置している。藤原秀郷(俵藤太)が三上山の百足退治の礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したとの伝承が残されている。その後、山門との争いで弁慶が奪い比叡山へ引き摺り上げて撞くと、「イノー・イノー」(関西弁で「帰りたい」の意)と響いたため、弁慶が怒って鐘を谷底へ投げ捨てたという。鐘に付いた傷跡や割れ目はその時のものと伝えられている。文永4年(1267年)に比叡山延暦寺より当寺に戻された。また、「弁慶の汁鍋」という大鍋も置かれている。
・ 三重塔(重要文化財) - 鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。奈良県の比蘇寺(現・世尊寺)にあった東塔を慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)に徳川家康が当寺に寄進したもの。1層目の須弥壇には、木造釈迦三尊像が安置されている。軒深く、三重の釣合いよく、相輪の水煙など、中世仏塔の特徴をよく表している。
・ 善法院 - 境内最西にあった子院。かつての円満院宮の院家。
 ・ 庭園跡(国の名勝・史跡) - 1934年(昭和9年)に国の名勝・史跡に指定されたが、1941年(昭和16年)の豪雨による土砂崩れで埋没した。しかし、指定は解除されていない。重森三玲が作成した実測図が残る。
・ 覚勝院 - 子院。
・ 微妙寺 - 別所。正暦5年(994年)に現在の長等公園の山上に慶祚阿闍梨によって創建された。湖国十一面観音菩薩霊場第1番札所。
 ・ 本堂 - 安永5年(1776年)再建。1979年(昭和54年)に現在地に移転。
・ 水観寺 - 別所。長久元年(1040年)に明尊大僧正によって創建された。西国薬師四十九霊場第48番札所。園城寺境内の道を挟んだ向かい側には三尾神社があり、正面に三尾神社の西門がある。
 ・ 本堂(滋賀県指定有形文化財) - 明暦元年(1655年)再建。1988年(昭和63年)に現在地に移転。
 ・ 護法善神堂(千団子社、大津市指定有形文化財) - 享保12年(1727年)再建。園城寺の守護神である護法善神(鬼子母神)像を祀る。
 ・ 唐門(大津市指定有形文化財) - かってはこの前に拝殿があった。
 ・ 表門(大津市指定有形文化財)
・ 財林坊 - 護法社の預坊。
 ・ 本地堂(大津市指定有形文化財) - 享保19年(1734年)に現在地に移築。
 ・ 客殿 - 享保12年(1727年)再建。文政年間(1818年 - 1831年)に唐破風の向拝が増築されている。随所に古い手法を残す室町時代の建築で、中世の食堂の形式をよく伝えている。
 ・ 弁財天社 - 八臂弁財天を祀る。天和3年(1683年)に唯覚坊周舜によって建立される。その後文久元年(1861年)に再建されて、1932年(昭和7年)に妙厳院慶純の発願により修復された。
 ・ 弁天池
・ 大門(重要文化財) - 仁王門とも呼ばれる。三間一戸、入母屋造、檜皮葺の楼門。もとは近江国の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった室町時代の宝徳4年(1452年)に建てられた仁王門であるが、豊臣秀吉によって伏見城に移築されていた。それを慶長6年(1601年)に徳川家康が当寺に寄進したもの。大門の両脇には運慶作と伝えられる仁王像が安置されている。組物などに群青、緑などの彩色があり、蟇股や木鼻などの彫刻文様、斗栱など組物には室町中期の特色がよく表れている。
・ 円満院 - 大門の北方に位置する。円満院門跡とも称し、かつては天台宗寺門派三門跡の一つであった。江戸時代の初期に現在地に移転する。寛和3年(987年)村上天皇の第三皇子・悟円法親王によって創建された。江戸時代の画家円山応挙ゆかりの寺としても知られる。宸殿(重要文化財)は、慶長年間造営の御所のうち、東福門院の御局といわれる建物を移築したもので、仁和寺の金堂などと共に江戸時代初期の寝殿造宮廷建築の遺作として重要なものである。宸殿にあった障壁画の「住吉社頭図」6面(重要文化財)と「風俗図」4面(重要文化財)は1974年(昭和49年)・1975年(昭和50年)に文部省買上げとなり、現在は京都国立博物館に所蔵されている。その他、円満院には円山応挙の「七難七福図」をはじめ7件の重要文化財が所蔵されていたが、現在はいずれも寺外に流出している。太平洋戦争後に天台寺門宗から独立した。
○ 唐院
参道より一段高く塀に囲まれた一郭が唐院であり、東を正面として一直線上に四脚門、灌頂堂、唐門、大師堂、長日護摩堂などが立ち並ぶ。豊臣秀吉による破却後の再興に当たり、慶長3年(1598年)と最も早く再建された。唐院という名称は、智証大師円珍が唐から帰国後の天安2年(858年)に持ち帰った経典や法具類を納めるために、清和天皇より仁寿殿を下賜され、伝法灌頂の道場としたのに由来する。現在は、円珍の尊像を祀った大師堂を御廟とし、園城寺で最も神聖な浄域とされている。
・ 大師堂(重要文化財) - 宝殿ともいう宗祖智証大師の廟所。慶長3年(1598年)再建。三間二間、宝形造、桧皮葺。堂内には木造金色不動明王立像(重要文化財)と二躯の木造智証大師座像(国宝)が安置されている。
・ 長日護摩堂(滋賀県指定有形文化財) - 寛文6年(1666年)に後水尾上皇の寄進で再建された。三間四方、一重、宝形造、本瓦葺。本尊は不動明王で、長日護摩供を行う道場である。
・ 四脚門(重要文化財) - 唐院の正門。寛永元年(1624年)再建。承応4年(1655年)の修理に際し本柱の前後に控柱を立て、切妻造、檜皮葺の四脚門の形式に改められた。なお、唐院は長らく現在護法善神堂がある場所にあったが、慶長の再興期に現在地に移っている。
・ 庫裏
・ 表門

◎ 北院

・ 新羅善神堂(しんらぜんじんどう) - 新羅社。かつての北院の中心堂宇・鎮守社。園城寺の中心伽藍から北へ500メートルほど離れた場所にある。付属建物の全てを総称した名称でもある。
 ・ 新羅善神堂(国宝) - 本堂。園城寺の鎮守神である新羅明神を北院の鎮守として祀る。「堂」と名が付くが、建築様式的には流造(ながれづくり)の神社本殿である。現存の建物は貞和3年(1347年)、足利尊氏の寄進によるもの。新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際に船中に現れた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を園城寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。かつては新羅社や新羅明神と呼ばれていたが、明治時代の神仏分離によって名称を新羅善神堂に改めた。
 ・ 二童子社 - 般若童子、宿王童子を祀る。
 ・ 火御子社 - 火御子を祀る。
 ・ 中門
 ・ 庫裏
・ 法明院 - 境内最北にある子院。園城寺唯一の律院。園城寺の律院として江戸時代中頃に義端和尚によって創建された。明治時代に日本美術の普及啓蒙に功績のあったアメリカ人アーネスト・フェノロサが長く滞在し、フェノロサやウィリアム・スタージス・ビゲローともゆかりがあることで知られる。
 ・ 本堂
 ・ 祖師堂(開山堂) - 18世紀中頃の建立。義瑞性慶をまつる。
 ・ 聖天堂
 ・ 庫裏
 ・ 書院 - 円山応挙、池大雅らによる障壁画がある。
 ・ 客殿
 ・ 庭園 - 園城寺最大規模の池泉回遊式庭園。庭園は2段に分かれた構造となっている。
 ・ 弁天社
 ・ 茶室「時雨亭」
 ・ 鐘楼
 ・ 桜井敬徳の像 - 当時の住職。1901年(明治34年)にビゲローによって寄進される。
 ・ 桜井敬徳の墓
 ・ 町田久成の墓
 ・ アーネスト・フェノロサの墓
 ・ ウィリアム・スタージス・ビゲローの墓
 ・ ジェイムス・ホートン・ウッズの供養塔
・ 弘文天皇陵(長等山前陵) - 弘文天皇(大友皇子)を祀る。1877年(明治10年)に陵墓指定された。宮内庁の管轄。
・ 源義光の墓 - 新羅三郎の名で知られる。
・ 後西天皇皇子永悟法親王墓 - 現在は宮内庁の管理下にある。
・ 後水尾天皇皇子道寛法親王墓 - 現在は宮内庁の管理下にある。

◎ 南院

・ 三尾神社 - 三尾社。かつての南院の中心堂宇・鎮守社。本殿(重要文化財)は応永33年(1426年)に再建された。園城寺の地主神である三尾明神(伊弉諾尊)を南院の鎮守として祀る。元は園城寺西方の琴緒谷(普賢堂の東側)に三尾社(上三尾社ともいう)として鎮座していたが、明治時代になり神仏分離によって園城寺から独立し、1876年(明治9年)に御旅所であった現在地に遷座する。旧社地は現在は三井寺霊園琴谷苑となっている。
・ 三尾影向石 - 三尾明神がこの磐座の上に降臨したという。三井寺霊園琴谷苑の入り口横に残されている。
・ 普賢堂 - 子院。かつての三尾社の預坊。隣接して三尾社が建てられていた。
 ・ 本堂 - 園城寺の地主神である三尾明神の本地仏・普賢菩薩を祀る。
 ・ 庫裏
 ・ 庭園 - 池泉観賞式庭園。
・ 村雲橋 - 円珍がこの石橋を渡ろうとした時、自らが学んだ唐・長安の青龍寺が焼けているのを察知した。さっそく円珍は真言を唱えて閼伽水をまくと、橋の下から一条のムラ雲が湧き起り西に飛び去った。その後、青龍寺から火災を鎮めてくれたことへの礼状が届いたという。以来、この橋は村雲橋と呼ばれるようになったという。
・ 勧学院 - 唐院の南隣に位置する子院。
 ・ 客殿(国宝) - 延応元年(1239年)に講学のための学問所として建立された。現在の客殿は文禄4年(1595年)の豊臣秀吉による闕所で破却された後、慶長5年(1600年)に豊臣秀頼が施主となり、毛利輝元の寄進で再建されたもの。桃山時代の書院造建築の代表作とされる。桁行7間、梁間7間、一重入母屋造、正面軒唐破風の総藁葺。内部は三列八室からなり、南列の一之間と二之間には狩野光信作の障壁画(重要文化財)が飾られている。一之間は金地著色で大床壁貼付の滝図を中心に四季花図が、二之間には素地著色の花鳥図二十四面が描かれている。そもそもは鎌倉幕府第9代執権北条貞時の菩提を弔うために幕府の支援で房海僧正が創建したもの。
 ・ 庭園 - 池泉観賞式庭園。
 ・ 護摩堂 - もとは法蔵。
 ・ 石造宝塔(重要美術品)
 ・ 表門
・ 総門 - 元和7年(1621年)再建。薬医門。当寺は多くの僧兵を擁したことから外周には濠を構え、石垣で枡形をつくり厳重な山門が設けられていた。
 ・ 門番所 - 総門に接続している。
・ 毘沙門堂(重要文化財) - 観音堂の麓にある堂。元は別所・尾蔵寺の南勝坊境内に元和2年(1616年)に建立されたもの。1910年(明治43年)に上三尾社の近くに移されたが、1956年(昭和31年)に現在地に移築される。一間二間の宝形造、桧皮葺。
・ 十八明神社 - 別名「ねずみの宮」。白河法皇の時代、法皇から当寺の頼豪阿闍梨に皇子誕生を祈願するよう勅命が下った。まもなく祈祷の験あって皇子が誕生すると、頼豪はその賞として当寺の念願である大乗戒壇建立の勅許を得た。ところが延暦寺の横暴な強訴によって勅許が取り消されてしまった。これに怒った頼豪は21日間の護摩を焚くやそのまま壇上で亡くなってしまった。しかし、その強念が八万四千のネズミ(鉄鼠)となって延暦寺へ押し寄せ、堂塔や仏像、経巻を喰い荒らした、という話が太平記に記述されている。当社は頼豪が化けたネズミ(鉄鼠)を祀る。また、当社は北にある比叡山延暦寺の方向を向いて建っている。天保7年(1836年)に再建。しかし、創建は貞観17年(875年)に円珍によって建立されたものという。日吉大社にはそのネズミを封じ込めたものであるという鼠社がある。十八明神社の地下には琵琶湖疏水が流れている。
・ 行者堂 - 子院。役行者を祀る。元は西国三十三所観音霊場の第14番札所の観音堂に属する不動堂で天明6年(1786年)に再建されたもの。1878年(明治11年)に西南戦争出征記念碑の建設にあわせて天神山に移されたが1900年(明治33年)に現在地に移築される。その際に名称を行者堂に改めた。
・ 本寿院 - 子院。慶長年間(1615年 - 1624年)に松養坊浄眼によって再興された。建物は文久2年(1862年)の再建である。2014年(平成26年)には改修が行われ、翌年春に休憩所「本寿院 ながら茶房」に改められた。
・ 宝寿院 - 子院。かつては最楽坊と称し、慶長年間(1615年 - 1624年)に宝寿坊法印良玉によって再興された。建物は安永7年(1778年)の再建である。現在は三井寺を宗家とする三井古流煎茶道の本部となっている。
・ 万徳院 - 子院。
・ 法泉院 - 子院。聖護院門跡院室。かつて花王院という名で琴緒谷にあった時、水が枯れて困っていた。そこで泣不動尊(今は清浄華院にある)として知られる證空阿闍梨の不動明王に祈ったところ、一夜にして霊水が湧き出たことから法泉院へと名称を改めた。
・ 上光院 - 子院。文禄4年(1595年)に園城寺が闕所となった際にも存続がゆるされた。元々は北院にあったがやがて中院に移り、近代に入って南院の現在地に移っている。
・ 円宗院 - 子院。
・ 龍泉院 - 子院。
・ 妙厳院 - 子院。慶長18年(1613年)に安養院正玄法印により中興された。慶長3年(1598年)の坊領は20石2斗8升。宿坊「和空三井寺」でもある。
・ 勧持院 - 子院。
・ 三井寺文化財収蔵庫 - 2014年(平成26年)10月開館。鉄骨鉄筋コンクリート造、平屋建。桃山障壁画の最高傑作と称される狩野光信筆の四季花卉図など国宝・勧学院客殿の障壁画39面をはじめ智証大師ゆかりの仏像や密教絵画など重要文化財13件53点が展示、収蔵されている。
・ 両願寺 - 蓮如上人ゆかりの堅田源兵衛の首を祀る。現在、建物はカフェとなっている。
・ 長等神社 - 新日吉社または新宮社ともいう。かつての園城寺の鎮守社。楼門は市指定有形文化財。園城寺の鎮守である山王権現を祀る。明治時代になり神仏分離によって独立し、1883年(明治16年)に名称を長等神社に改める。
・ 小関地蔵堂 - 大津市内で最大の地蔵菩薩坐像が祀られていたが、現在は大津市歴史博物館のロビーに安置されている。
・ 近松寺 - 別所。延喜4年(904年)に天台宗の学匠・安然和尚による創建。長等公園の東側にある。近江西国三十三観音霊場第4番札所、江州三十三観音第3番札所、びわ湖百八霊場第5番札所。
 ・ 本堂(大津市指定有形文化財) - 享保元年(1716年)再建。本尊は智証大師作と伝えられる如意輪観世音菩薩像(重要文化財)で、33年に一度しか開帳されない秘仏である。堂内には本尊の脇侍である愛染明王像(重要文化財)、毘沙門天像が安置されており、また、本堂再建の様子を描いた絵馬が多数奉納されている。
・ 庫裏
・ 書院 - もとは文禄5年(1596年)に豊臣秀次の生母・日秀尼により創建された村雲御所瑞龍寺の書院で、19世紀に再建されたもの。瑞龍寺が1961年(昭和36年)に京都から秀次ゆかりの滋賀県近江八幡市にある八幡山城跡に移転する際に当寺が譲り受け、1965年(昭和40年)に移築したもの。
・ 鐘楼(重要文化財) - 文化11年(1814年)再建。元々は「童子因縁の鐘」が下がっていたが、太平洋戦争中の金属類回収令によって供出された。現在は重要文化財の朝鮮鐘を模した鐘が吊るされている。
・ 百体堂(重要文化財) - 宝暦3年(1753年)建立。堂内には、中央正面に本尊の如意輪観音像を安置し、中央に西国三十三所・向かって右に坂東三十三箇所・左に秩父三十四箇所のそれぞれの札所の本尊を模した計百体の観音像を祀る。入口の横には大津絵「鬼の寒念仏」が掛けられている。
・ 観月舞台(重要文化財) - 脚下に足代を組んだ懸造の舞台。嘉永2年(1849年)建立。江戸時代から琵琶湖を展望できる景勝地、観月の名所として有名で多くの文人墨客が訪れている。琵琶湖疏水、大津市街、琵琶湖の景観を眺望できる。
・ 絵馬堂(重要文化財) - 寛政13年(1801年)再建。観音霊場として絵馬の奉納が多いことに対応するための、六本の柱が露出した吹放の建物。
・ 手水舎(大津市指定有形文化財)- 1881年(明治14年)再建。
・ 大津そろばん記念碑 - 展望台にある。
・ 西南戦争出征記念碑
・ 地蔵堂(大津市指定有形文化財) - 文政2年(1819年)再建。世継ぎ地蔵が祀られる。長等神社から観音堂へと登る石段の中程に建つことから「中阪地蔵」と呼ばれている。

◎ 五別所
園城寺には別所と呼ばれる有力な別院が5か寺存在した。
・ 微妙寺 - 正暦5年(994年)、南院の現在の長等公園、大津大神宮の西南一帯に慶祚阿闍梨によって創建される。現在の本堂は安永5年(1776年)の再建であるが、1979年(昭和54年)に現在地の中院に移転する。
 ・ 観音堂
 ・ 札所鐘楼
 ・ 百体堂
 ・ 観月舞台
 ・ 絵馬堂 (彫刻)
・ 木造如意輪観音坐像(観音堂安置) - 木造漆箔。10世紀末頃の作。西国三十三所観音霊場14番札所の観音堂の本尊である。秘仏で、開扉は33年に1度と天皇即位の翌年とされている。
・ 木造愛染明王坐像(観音堂安置)
・ 木造護法善神立像(護法善神堂安置)
・ 木造黄不動尊立像(唐院安置) - 木像彩色、玉眼。唐院大師堂の向かって右の厨子に安置される。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。原本である黄不動の画像をもとに、鎌倉時代に彫像として慶派の中心仏師によって造られた像と見られる。
・ 木造吉祥天立像 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 木造十一面観音立像
・ 木造千手観音立像 - 旧如意寺本尊。奈良国立博物館寄託。
・ 木造智証大師坐像 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 木造不動明王坐像 - 長和3年(1014年)、盛忠作銘。奈良国立博物館寄託。
・ 木造訶梨帝母倚像 (絵画)
・ 絹本著色新羅明神像
・ 絹本著色天台大師像 2幅 - 大阪市立美術館寄託。
・ 絹本著色不動明王像 - 大阪市立美術館寄託。
・ 絹本著色不動明王二童子像 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 絹本著色不動明王八大童子像
・ 絹本著色釈迦十六善神像 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 絹本著色涅槃像 - 大阪市立美術館寄託。
・ 絹本著色尊星王像 - 大阪市立美術館寄託。
・ 絹本著色多聞天像
・ 絹本著色閻魔天像
・ 絹本著色水天像 - 大阪市立美術館寄託。
・ 絹本著色黄金剛童子像
・ 絹本著色両界曼荼羅図 2幅 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 絹本著色尊勝曼荼羅図 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 絹本著色八大仏頂曼荼羅図
・ 光浄院客殿障壁画 25面 紙本金地著色松に滝図(床間貼付1)、紙本金地著色菊花図(上段床間1、同障子腰4)、紙本墨画列仙図(襖4、帳台構3)(以上広間)、紙本著色花鳥図(襖12)(次の間)附:著色杉戸絵4面(唐獅子図2、松梅図2)
・ 勧学院客殿障壁画 15面 金地著色滝図(床間壁3)、梅、檜及花卉図(襖4)、桜、杉及花卉図4面(襖4)、檜及花卉図(戸襖4)(一の間)
・ 勧学院客殿障壁画 24面 紙本著色松に山鳥、鴨、鴛鴦図及竹に雀図(襖16)、竹に雀及芦に鷺図(戸襖8)(二の間) (工芸品)
・ 金銅孔雀文磬 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 銅鐘 大平年間(遼)銘 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 梵鐘(弁慶の引き摺り鐘) - 金堂近くの霊鐘堂に所在。「三井の晩鐘」の鐘とは別のものである。無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘である。総高199.0センチメートル。伝承では、俵藤太こと藤原秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だといわれ、その後比叡山と園城寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による園城寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。
・ 梵鐘(朝鮮鐘) - 高麗時代の太平12年(1032年)の作。総高77.2センチメートル。 (書跡、歴史資料)
・ 大蔵経(文和三年正月廿三日足利尊氏願経) 592帖 - 奈良国立博物館寄託。
・ 紙本著色園城寺境内古図 5幅
・ 園城寺尺 2枚 - 琵琶湖文化館寄託。
 ・ 唐院預竹計 応永三十一年四月十九日香実房領納(附 包紙(長禄二年四月二十七日授与記))
 ・ 唐院預尺 応永三十三年三月十五日写
・ 元版一切経 2892帖 典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。

◎ 国の名勝・史跡

・ 光浄院庭園
・ 善法院庭園(現在は埋没している)

◎ 重要美術品

・ 勧学院石造宝塔
・ 石室(伝慶祚阿闍梨入定窟)
・ 護法社石造橋 - 大津市指定有形文化財でもある。

◎ 滋賀県指定有形文化財

・ 唐院長日護摩堂
・ 水観寺本堂
・ 木造金剛力士立像 2躯
・ 絹本著色智証大師像 - 琵琶湖文化館寄託。
・ 梵鐘 - 三井の晩鐘で有名な鐘。
・ 鰐口(水観寺所有) - 琵琶湖文化館寄託。

◎ 大津市指定有形文化財

・ 園城寺護法社 6棟、1基
 ・ 護法善神堂 附:棟札 3枚
 ・ 唐門
 ・ 表門
 ・ 石造橋 - 重要美術品でもある。
 ・ 本地堂 附:棟札 1枚
 ・ 預坊表門
 ・ 門番所
・ 札所伽藍 3棟 
 ・ 絵馬堂
 ・ 手水舎
 ・ 地蔵堂
・ 近松寺本堂 附:阿弥陀堂・渡廊下
・ 銅造孔雀文磬 2面
・ 園城寺境内出土瓦 4点
・ 銅造千手観音菩薩立像(近松寺安置)
・ 紙本墨画山水図 襖絵10面 円山応挙筆(法明院所有)
・ 紙本墨画幽居図 襖絵8面 池大雅筆(法明院所有)

◎ 大津市指定天然記念物

・ 天狗杉

◎ その他

・ 算額 文政11年4月 - 堀池主計義竜他5名奉納 観音堂内に掲額。
・ 石碑「籠手田安定頌徳碑」 - 1902年(明治35年)建立。
・ 大津市歴史博物館が寺所蔵の地蔵菩薩坐像(室町時代前期)をエックス線で調査したところ、頭内部に納入品が包まれた紙が収められていると発表した。足利尊氏または足利義詮の遺髪ではないかと推測されている。
・ 東京国立博物館所蔵の智証大師諡号勅書と円珍関係文書は、江戸時代までは智証大師関係文書典籍とともに園城寺に伝わっていたが、明治維新前後に寺から離れて北白川宮の所有に移り、第二次世界大戦後に国有財産化した(後にいずれも国宝に指定)。

● 前後の札所

◇ 西国三十三所 : 13 石山寺 - 14 園城寺 - 番外 元慶寺
◇ 西国薬師四十九霊場 : 47 善水寺 - 48 園城寺別所水観寺 - 49 延暦寺
◇ 近江西国三十三観音霊場 : 3 石山寺 - 4 園城寺別所近松寺 - 5 園城寺 - 6 生源寺
◇ 江州三十三観音 : 2 泉水寺(廃寺) - 3 園城寺別所近松寺 - 4 園城寺 - 5 生源寺
◇ 湖国十一面観音菩薩霊場 : 1 園城寺別所微妙寺 - 2 盛安寺
◇びわ湖百八霊場 : 5 園城寺別所近松寺 - 6 園城寺 - 7 盛安寺
◇ 神仏霊場巡拝の道 : 146 石山寺 - 147 園城寺 - 148 西教寺

● 所在地

・ 滋賀県大津市園城寺町246

● アクセス

・ 京阪石山坂本線 三井寺駅より徒歩約10分。
・ 京阪石山坂本線 大津市役所前駅より徒歩約12分。
・ JR東海道本線(琵琶湖線) 大津駅より京阪バス三井寺バス停下車すぐ。
・ JR湖西線 大津京駅より京阪バス三井寺バス停下車すぐ。

● 周辺

・ 三尾神社(隣接)
・ 長等神社(隣接)
・ 三橋節子美術館
・ 大津港
・ 皇子山陸上競技場
・ 近江神宮
・ 藤尾神社

「園城寺」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2025年6月1日11時(日本時間)現在での最新版を取得

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