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ツイストは、世良公則を中心に結成された日本のロックバンド。ロックをメジャーにした最初のロックバンドである。
● 名称の由来
ローリング・ストーンズのような音楽を演奏するならブラック・ミュージックを理解しておいた方が良いと思い、メンバー全員でサム・クックの「Twistin' the Night Away」を聴いていると「Twisting' Twisting'」と歌っており、「twist=ひねくれ」でもあるのでバンド名を「Twist」にしようと全員で決めたと世良は述べている。
● 経歴
◎ アマチュア期
前身バンドは世良が地元・広島県福山市の高校2年のとき加入したFBIバンドである。当時はビートルズやディープ・パープルのカバーをするバンドが多かったが、FBIバンドはローリング・ストーンズやフェイセズを主にカバーし。在学中に音楽コンテストの関係者から「ボーカルがヘタ」との指摘を受け、それまでベースの担当だった世良がボーカルに交代。今日のようにカラオケもなく、歌う場も限られ、世良はそれまでは自分が歌がうまいとは気付かなかったという、ヤマハポピュラーソングコンテストに出場。10月、「あんたのバラード」がポプコン本選会でグランプリを獲得。世良公則&ツイストのグランプリ以降、ロック系の楽曲が増えた。世良公則&ツイストがこの後、大きな人気を得たことで、ポプコンの名が世間に知らしめられ、ポプコンはスターの登竜門として華々しくなっていった。11月の第8回世界歌謡祭でもグランプリを獲得、12日後の11月25日にキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)/AARD-VARKレーベルからシングル盤「あんたのバラード」を発売した。このような経緯から世良自身は「バンドとしての愛着は(旧)ツイストの方にあった」と述べている。
◎ 世良公則&ツイスト期
デビュー曲「あんたのバラード」では、静かなピアノのイントロから一転する世良のあまりにもワイルドなボーカルスタイル、ド派手なアクションは、多くの人の度肝を抜いた。これらは、それまで洋楽ロックのコピーが多かった日本ロック界に新鮮な息吹を吹き込むものだった。「あんたのバラード」(オリコン最高6位)、「宿無し」(最高3位)、「銃爪 (ひきがね)」(最高1位)、「性」(最高5位)、「燃えろいい女」(最高3位)と、立て続けに大ヒットを飛ばし一世を風靡した。ロックバンド・ミュージシャンが、シングルヒットを続けるのはそれまで前例が無かった、それまでの日本のロックミュージシャンと違い、初めて『ザ・ベストテン』などのテレビのランキング番組や歌謡番組、「月刊明星」「月刊平凡」等のアイドル雑誌、「セブンティーン」「プチセブン」などのティーン雑誌やテレビに頻繁に登場・出演した。これがロックとは無縁だったファンを獲得することとなり、それまでのロックバンドにはなかった女性ファンを開拓して、新たな潮流を生み出すきっかけを創り出した。先輩ミュージシャンからは「テレビなんかに出やがって」と反発され、英語のロックに対する"遠慮"が蔓延していた時代に、日本の音楽シーンにとって大きな衝撃だった。
世良公則&ツイストの活躍が特に目立ったのが1978年1月から始まった『ザ・ベストテン』だった。特に3枚目のシングル「銃爪」は1978年の9月から11月まで同番組で10週連続1位と、3ヶ月の間1位に居座り。画面からはみ出す程のイキのいいパワーが視聴者を魅了した、番組立ち上げ期に彼らの出演がなければ『ザ・ベストテン』が伝説になることはなかった。番組プロデューサー・山田修爾は、「間違いなくツイストは『ザ・ベストテン』初期の功労者のひとりである」と述べている、女子中・高生を中心に爆発的人気を得たのは、1977年10月にデビューした原田真二と翌11月にデビューした世良公則&ツイストであった。特に1978年後半には、世良公則&ツイストは人気やレコードセールスの点では完全に他の二人に水をあけ、歌謡曲を含めてもトップスターになった。
歌謡曲とニューミュージックの全盛期に於いて「ロックも売れる」ことを初めて証明したバンドであった。ロックの楽曲が最初に売れたのはダウン・タウン・ブギウギ・バンドのシングル「スモーキン・ブギ」(発売は1974年12月)、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975年6月)であるが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド自体が"ロック"として見られておらず(宇崎竜童談)、また当時は歌謡曲、演歌、フォークが強く、他にロック系の後続がなくロックはメジャーにならなかった。
"ロックのメジャー化"は、最も商業的に成功した世良公則&ツイストを筆頭とした「ロック御三家」と、マスメディアを拒否しながら、1978年に出したシングル「時間よ止まれ」と2枚のアルバム『ゴールドラッシュ』、『LIVE後楽園スタジアム』を全てヒットチャート1位にし、自伝本『成りあがり』のベストセラー、長者番付でロック系ミュージシャンとして初めて1位となった矢沢永吉や、「ロック御三家」より、ほぼ一年遅れで世に出たサザンオールスターズ、この年の年末から翌1979年にかけて大ヒットを出したゴダイゴ、甲斐バンドら、この時代誰も予想だにしなかったロック系のヒットラッシュからで、これらの大ヒットは音楽マーケットに大きな革命を起こした。J-POPシーンの盛況は、商売にならなかったはずのロックが商売になり始めた77~78年に始まったとも評される、「ロック御三家」が「日本のロックをメジャーに押し上げた」とする文献もある。『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』は「歌謡曲と演歌、ニューミュージックで占められていたチャート上位にロック勢が顔を出すことなど、とても考えられないというのが普通の時代。そんな状況に風穴を開けた代表的存在が世良公則&ツイスト」。
なぜこの時期、日本のロックが売れたかと言えば、「ロック御三家」が出る前、1976年から1977年にかけてベイ・シティ・ローラーズやキッス、スージー・クアトロやランナウェイズら、英米のロックバンド・ミュージシャンが日本で売れて、日本のマスメディアにも大量露出した。スージー・クアトロは「サケロック大関」と日本酒のテレビCMもやった。こうした影響もあったかもしれない。
◎ ツイスト期
1978年暮れの「第20回日本レコード大賞」は最優秀新人賞を辞退した。それまでもニューミュージック系歌手のテレビ拒否は珍しくなかったが、賞レースに関しては出演はしないまでも賞自体は受けていた。ましてやブラウン管でおなじみのツイストが賞レースを拒否したことは大きな物議を醸した。
デビュー時から世良の人気が突出し、バンドながら雑誌類では世良一人での露出も多かった。
1979年、春の全国ツアー終了後、太刀川が脱退し松浦善博が加入。1979年4月に出した2枚目のアルバム『ツイストII』もオリコン1位を獲得(二週連続)。資生堂の'79 夏キャンペーンイメージソング「燃えろいい女」(1979年4月発売、最高位3位)も大ヒット、SOPPO(1979年10月発売、最高位6位)もヒットし、この年の第30回NHK紅白歌合戦にも出場した。「ロック御三家」で2年連続出場したのはツイストだけで、この年、いずれも初出場だったサザンオールスターズ、ゴダイゴと共に出場。ロック系歌手の出演はこの3組だけであった。
● 再結成
1981年12月の最初の解散後
◎ ライブビデオ
ツイスト
1st
1981年
TWIST ALIVE
1980年9月14日大阪万博広場でのライブを収録。
2nd
1993年6月25日
VHS
ZVHS061
よっしゃ。'93復活ライヴ
1993年5月22日NISSIN POWER STATIONでのライブを収録。
◎ タイアップ
燃えろいい女 資生堂 '79 夏キャンペーン・ナツコの夏 イメージソング
LOVE SONG 日本航空 '80 沖縄キャンペーン イメージソング
● NHK紅白歌合戦出場歴
1978年(昭和53年)/第29回 初 あんたのバラード 07/24 庄野真代
1979年(昭和54年)/第30回 2 燃えろいい女 06/23 岩崎宏美
◇注意点
・ 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
「世良公則&ツイスト」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2023年5月29日3時(日本時間)現在での最新版を取得
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