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河合 奈保子(かわい なおこ、1963年〈昭和38年〉7月24日 -)は、日本の女性の歌手、シンガーソングライター、アーティスト、作曲家、女優。娘は元歌手のkaho。身長160cm。血液型はO型。
● 人物
所属事務所は芸映プロダクションで、レコード会社は日本コロムビアに所属していた。1980年代の歌手・アイドルの1人である。本名は「かわい なほこ」だが、芸名では「かわい なおこ」と読ませている。
シングル売上記録は『エスカレーション』『スマイル・フォー・ミー』『夏のヒロイン』『けんかをやめて』(オリコンチャート)の順。
歌唱の他、ピアノ、ギター、マンドリン、シンセサイザーを演奏し、自作曲(作詞作曲)も発表した。雑誌のグラビアやアイドル水泳大会に登場していた。
1996年2月1日、記者会見でヘアメイクアップアーティスト・金原宜保との婚約を発表し同年2月6日に婚姻届を提出した。その約半年後に産休と翌1997年の第一子出産を契機に、芸能活動を完全停止した。夫との間に2児あり。このうち第二子のkahoは、2013年11月27日にソニー・ミュージックから『Every Hero/Strong Alone』でデビューし、音楽活動をしていた時期があった。
現在はオーストラリアに在住している。
● 略歴
◎ デビューまで
大阪市住吉区(現在の住之江区)粉浜西出身。1963年7月24日、浪速区日本橋の愛染橋病院において会社員の父親の長女として誕生(2400グラムの未熟児)した。誕生時、両親は大阪府枚岡市(現在の東大阪市)に居住していた。1歳時の8月には大阪府八尾市に引っ越し、2歳時の10月には東京都世田谷区に転居した。3歳年下の妹がいる。
幼児のころ父親の職業に転勤が多く、幼稚園は東京都調布市の染地幼稚園、大阪府箕面市の箕面自由学園幼稚園、大阪府東大阪市の若宮保育園の3施設に通った。NHK紅白歌合戦に初出場した際は、転落事故からの復帰直後で、かつ事故現場のNHKホールだったが、本人によればリハーサルは恐怖感が先に立ったものの、本番の出番寸前に不安や緊張が全て消えたという。
1983年12月6日より盲腸の摘出手術で東京・渋谷病院に入院し、同年12月14日に退院した。12月18日まで休養し、翌12月19日の『夜のヒットスタジオ』で復帰を果たした。
歌唱中、マイクロフォンは左手で持つことが多かった。
ライブコンサートは1980年代の後半まで行われた。1983年から1988年まで7月24日の誕生日に東京よみうりランドのEAST野外ステージで行われたバースデイライブなどが行われ、EASTライブは6回全てが映像ソフト化されている。
父親は大の阪神タイガースファンであったが、1985年3月25日に神奈川県立県民ホールで行われた横浜大洋ホエールズのファン感謝デーにゲストとして出演した。イベントでは自身の持ち歌2曲と、選手とのデュエットコーナーで『もしかしてPART2』を関根浩史と共に披露した。
この時期のチーフプロデューサーは芸映の香川洋三郎が務めた。
◎ アイドル以外の仕事へ
1984年発表のアルバム『DAYDREAM COAST 』では録音から制作に参加し、それを契機に音楽の制作面にも関与する。1985年、ベストアルバム『NAOKO 22』のボーナストラックという形で自作曲を発表し、コンサートでも次第に自作曲の割合が増え、1986年には初の全作曲オリジナルアルバム『スカーレット』を発表した。
1984年7月からMBSラジオ『MBSヤングタウン』(ヤンタン)火曜日のメインパーソナリティを務める。嘉門達夫らとの共演で、1989年2月まで約4年7か月にわたり出演した。当時既にスターの仲間入りをしていた河合とどう接したらいいか、嘉門ら共演者も最初は困惑気味だったという。いつまでもちやほやしてても仕方ないということで、嘉門が1つギャグを振ったらアイドルスターらしからぬリアクションをしてきたということで、ヤンタンのノリにすぐに溶け込み、嘉門のツッコミにボケ的なリアクションで返すといったコンビネーションが出来上がった。
1987年4月のKBS京都の交通安全キャンペーン「かたつむり大作戦」のキャンペーンソングの歌詞募集の選考に関わり、その詩に自ら作曲した『やさしさの贈り物』を「かたつむり大作戦」の会場KBSホールから歌唱した。またこの時期はテレビドラマやミュージカルにも積極的に出演した。1985年のアニメ映画『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』では主題歌と共に声優として出演。1989年には、ミュージカル『THE LOVER in ME 〜恋人が幽霊』に出演し、同作品では作曲も担当した。テレビドラマでは、『さすらい刑事旅情編』(テレビ朝日)、『ママじゃないってば』(TBS)に出演した。1988年に岐阜市で行われた「ぎふ中部未来博」で、メインパビリオンであるスカイマックス未来館の館内環境音楽を担当した。
1989年から1990年には、ザ・ジェントル・ウインド名義のセッションアルバム『Tears of Nature』、『Gentle Voice』で全作曲を担当すると共に、キーボード奏者兼バックグランドボーカルとして参加し、ミッキー吉野らと共演したこともあった。
1995年には、1988年以来7年振りに全国ツアーコンサートを開催したが、現時点でこれが最後のライブツアーとなっている。
日本作曲家協会に所属していた。
◎ 結婚・芸能活動完全停止
1996年2月1日、記者会見でヘアメイクアーティスト・金原宜保との婚約を発表した。同年2月6日に結婚した。その後も約半年間はテレビ出演などの活動を続けていたが、同年夏頃に妊娠で休止へ入り、翌1997年の第一子出産を契機に芸能活動を完全に停止した。
2005年6月、芸映プロ公式ウェブサイトの所属タレント一覧から項目が削除されたが、このとき芸能事務所から所属に関する発表はされなかった。
2006年4月26日、iTunes Music Store限定で自作ピアノ作品集『nahoko 音』を発表した。同年11月28日にはCD化もなされ、同時に公式ウェブサイトを開設した。
2008年12月21日付の竹内まりやのブログ「Pholog」に6年ぶりに再会した記事が写真付きで掲載された。
2009年10月19日放送のSUPER SURPRISEにおいて既に芸映に所属していない事が報じられた(引退状態)。
2010年4月、楽曲提供した池田泉州銀行のCMが関西地区で放映された。
2010年10月26日発売の光文社発行の雑誌「FLASH」2010年11月9・16日号で「独占取材」という形で、オーストラリアでの近況についての記事が掲載された。この中で自身の現在のことと将来のことに関して「今は専業主婦がメインだが、音楽活動が出来ることになれば皆さんの前できちんとご挨拶できたら良いです」という旨のコメントを寄せている。
2018年5月16日、かつての所属事務所・芸映の先輩歌手で、自身が芸能界デビューのきっかけともなった西城秀樹が63歳で死去したことを受け、海外から「余りにもショック過ぎて、言葉が出ません。秀樹さんにただただ、多くの感謝の気持ちをお伝えしたい想いで一杯です。」と、久々に公の場で追悼のコメントを発表した。
2018年11月25日、NHK-FM『今日は一日“竹内まりや”三昧』で、竹内まりやへの40周年お祝いメッセージが、21年ぶりに本人の肉声で放送された。
● エピソード
◎ 特徴
・ デビューの年の秋に開かれたファーストコンサートでは、直前まで不安定さが懸念されたものの、本番では歌踊り共に無難にこなした 。
・ デビュー当初からライブや歌番組、特に賞番組において感情を表に出して歌えなくなることはほとんどなかった。この点に関して本人は「泣くと歌が歌えなくなるから」と答えている。
◎ その他
・ デビュー間もないころの『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)1980年4月号p.315のインタビューで「太ってるから水着は本当に恥ずかしい」と話しているが、デビュー当時から河合を撮り続けた写真家の黒坂了司によれば、「水着撮影を嫌がったり、胸を気にすることはなかった」とのこと。
・ 元巨人選手の斎藤雅樹が、高校時代から河合の熱烈なファンであった。しかし斎藤はなかなかサインを手に入れることができず、三越日本橋本店のサイン会でようやく入手したという。
・ サンミュージック所属(当時)の岡田有希子は彼女のファンで、河合奈保子の肖像画(油絵)を中学1年の時に描いて学校で金賞を獲った。
・ テレビや雑誌等で好きな食べ物を聞かれると「お好み焼きとたこ焼き」と答えていた。
・ 小学生の頃の夢は保母さんになる事だった。タイムカプセル用にテープへの録音も行われ「近所の小さい子がお姉ちゃんと慕ってくれるのが嬉しい。だから保母さんになりたい。」と将来の夢を語っていた。
・ 芸映友の会ファンクラブ発表のテレフォンガイドでは1982年夏のツアースケジュールなど、本人がアナウンスした回があった。
・ 2016年9月17日に行われたトリビュートイベント「〜再会の夏〜 奈保子ファンミーティング in SARAVAH東京」ではバックコーラスを務めたMILKの元メンバーも参加してい
「河合奈保子」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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