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流れるような人情が心に響くから
山中 貞雄(やまなか さだお、1909年11月8日 - 1938年9月17日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画からトーキーへの移行期にあたる1930年代の日本映画を代表する監督のひとりであり、28歳の若さで亡くなった天才監督として知られる。兄姉は長男・作次郎、次男・市太郎、長女・トモ、三男・喜三郎、四男・定次郎、五男・喜与蔵(清弘)である。山中家は宝暦年間から若狭屋を名乗って質屋を営んだが、祖父の5代目作次郎(長男は代々作次郎を名乗った)の代には京都の土佐藩邸の掛屋を勤め、前藩主の山内容堂の御用使も命じられた。喜三右衛門も少年時代に小姓として土佐藩邸に出仕し、容堂に英語や酒のイロハを指南されるなどして可愛がられたが、明治維新後は家業を継がず、扇子の製造販売を行う「山中白扇堂」を立ち上げ、鮑貝を骨に貼り付けた螺鈿の扇子を海外に輸出して成功した。喜三右衛門は40代になると早々と隠居し、長男が7代目作次郎として家業を継ぎ、作次郎が幼い貞雄の父親代わりとなって面倒を見た。また、長女のトモは加藤家に嫁ぎ、息子で映画監督の加藤泰を生んだ。
1916年4月、山中は京都市立貞教尋常小学校に入学した。この頃には映画熱が強まり、小遣銭を貰うとその大半を映画見物に費やした。また、商業学校の映画愛好家たちと『ドリーム・ランド』と題した映画パンフレットを発行し、そこに『十銭白銅奇譚』という習作シナリオを連載した。
◎ 映画界入り
1927年、商業学校5年生の山中は映画監督になることを決意し、マキノ・プロダクション(マキノプロ)の若手スターで新進監督だった先輩のマキノ正博に手紙を出し、同社への入社を希望した。さらにマキノの自宅を訪れ、正博の父親でマキノプロを主宰する牧野省三と面談し、入社を認められた。同年3月、山中は第一商業学校を卒業したが、同校では卒業論文を書くという大学並みの制度があり、山中は「商品としての活動写真」という論文を提出した。それでも撮影所は忙しく、会社としてもこのまま山中を遊ばせるわけにはいかなかったため、山中は新人監督の小石栄一などの組についたりして助監督1年目を過ごした。
1928年、なかなか監督から声がかからなかった山中は、それを見かねたマキノ正博の組につくことになり、『蹴合鶏』『浪人街 第一話 美しき獲物』などでサード助監督を務めた。山中の初監督作品は、長谷川伸の股旅物の時代小説『源太時雨』を原作とした『磯の源太 抱寝の長脇差』である。山中は監督デビュー発表前の11月頃にシナリオを書き上げ、12月いっぱいかけて撮影を行い、翌1932年2月4日に封切られた。当時の寛寿郎映画はB級娯楽映画と見なされ、批評家たちはほとんど度外視していたが、この作品を偶然目にした映画批評家の岸松雄が衝撃を受け、『キネマ旬報』誌上に「われわれは此の映画によって、山中貞雄という一人の傑れたる監督をば新しく発見し得た」「近来になくスキ間のない傑作時代劇である」と絶賛の批評文を掲載した。これによって山中の名は一躍脚光を浴び、作品はキネマ旬報ベスト・テンで8位に選ばれた。
『磯の源太 抱寝の長脇差』の公開後、山中は寛プロのエース監督として1932年中に5本の作品を監督した。監督2作目の『小判しぐれ』(4月公開)も長谷川伸原作の股旅物で、再び岸に「ますます彼の芸術的未来を確信する」と高く評価された。岸とは同年夏に京都で初対面し、それ以来友人となった。3作目の『小笠原壱岐守』(6月公開)は幕末の老中の小笠原壱岐守を主人公にした政治ドラマで、超特作として作られた。もともとは仁科熊彦の監督作として予定されていたが、仁科が寛プロを退社したため山中が監督することになった。ここまでの3本は批評家や知識層から高い評価を受け、それまでB級娯楽映画会社と思われていた寛プロの作品の質が向上したと言われたが、それとは反対に子供中心の寛寿郎ファンには不評で、興行成績はあまり良くなかった。そのためもあり、この後に撮影した『口笛を吹く武士』(7月公開)、『右門捕物帖 三十番手柄 帯解け仏法』(9月公開)、『天狗廻状 前篇』(12月公開)の3本は、娯楽本位の作品へと転換した。同年9月には、伏見深草の歩兵第9連隊へ演習のため2週間入隊した。
『天狗廻状 前篇』完成後の11月、山中は寛プロの親会社にあたる新興キネマへ転社した。この時、寛プロ時代から山中とコンビを組んでいたカメラマンの吉田清太郎と助監督の萩原遼も、山中と一緒に日活入りしているが、山中の月給400円にはこの2人の給料も含まれていた。
山中の日活入社第1作は、大河内傅次郎主演の『薩摩飛脚 剣光愛欲篇』(1933年)である。これは伊藤監督の『薩摩飛脚 東海篇』(1932年)の続篇であり、伊藤はこれを撮って日活を退社したため、山中にその続篇を撮る話が回ってきた。そういった経緯もあり、山中の『剣光愛欲篇』は伊藤の『東海篇』と比較されたが、伊藤と遜色ないどころか、それを凌いでいると評価された。
1933年4月には、念願の企画『盤嶽の一生』を監督することが決定し、大河内傅次郎の主演で5月に撮影を行った、批評家からは「内田吐夢の『仇討選手』や伊丹万作の『國士無双』と並ぶ風刺時代劇の傑作」(奥平英雄)や「この映画が山中貞雄個人としても空前の佳作であり、日本映画の一つの新しい凱歌であることには異議がない」(岸松雄)などと賞賛された。小津はその時の山中の印象について、「忙しい中を風邪心地で悠々一夜を明したその附合のよろしさ。その後姿に僕は誠に好ましいしぶとさを感じた」と述べている。梶原金八はいつも8人が全員集まって執筆したわけではなく、その都度手の空いている人たちだけが集まり、旅館に籠もったり旅行を楽しんだりしながら、旅先でみんなでアイデアを出し合ってシナリオを執筆した。シナリオの執筆や構成は常に山中が中心におり、山中が執筆に関与していない梶原金八作品はたった2本しかなかった。そのため八尋は「鳴滝組、梶原金八は山中を軸として回転していたと言っていい」と述べており、稲垣も「梶原金八のカラーは山中に拠って作り上げられた」と述べている。批評家からは、唄や音の効果的な使用や会話が自然であることなど、前作で見られなかったトーキーの表現技法が成功していると高く評価された。岸松雄は「山中貞雄は『国定忠次』によってトーキー作家としての真価を明らかにした。これは日本トーキーの一つの勝利である」と評し。そのため林不忘側から原作と内容が大幅に異なると抗議され、止むを得ずタイトルに「余話」を付け、本筋とは違う作品ということにして公開された。
山中と前進座の最初の提携作品は、長谷川伸原作の『街の入墨者』(1935年)で、山中が単独でシナリオを書き、1935年9月から10月にかけて撮影を行った。『街の入墨者』は前科者であるが故に世間から冷たい目を向けられる男の悲劇を描いた作品で、長十郎がその前科者、翫右衛門が彼をかばう義弟を演じ、前進座の女形の五代目河原崎国太郎を芸者役で起用するという野心的な試みも行われた。作家の川崎長太郎が「日本に於いて写実主義の映画と名をつけ得られる最初の作品」と賞賛したように、批評家からは「時代劇映画におけるリアリズムの到来を実感させる作品」と高く評価され、とくにリアリスティックな生活描写や自然な日常会話などを褒められたが、女形の起用は不評だった。キネマ旬報ベスト・テンでは2位に選出され、興行的にも成功を収めた。『怪盗白頭巾』は雲霧仁左衛門の物語をコメディ仕立てに映画化した作品で、それまでの山中作品と同様に明るい内容だったが、母を亡くしてからの作品は内容が多少暗いものになっていった。5月には大河内主演のお盆興行用映画『海鳴り街道』(1936年)のシナリオを梶原金八で執筆し、6月から8月にかけて撮影した。『海鳴り街道』も講談『天明白浪伝』中の稲葉小僧の物語を映画化した作品で、批評家からは「トーキーによって講談の世界を再構成したに過ぎない」と指摘され、その評価は山中作品の中で最も低かった。この前後には荻原の監督昇進のために『お茶づけ侍』(1936年)のシナリオを執筆し、さらに未完のシナリオ『荒木又右衛門』(1936年)を萩原の監督2作目にするため完成させた。一方、自分の監督作については、日活へ三好十郎原作の『斬られの仙太』の映画化を申し込んだが拒否され、その次に企画した邦枝完二原作の『浮名三味線』も実現せず、結局同年秋は1本も監督作を作ることがなかった。
◎ 東京時代
『海鳴り街道』の不評により、山中はスランプに陥ったと見なされるようになった。秋山によると、この頃の山中は「わいもうあかんね」と吐露するほど苦悶していたという。それと同時に梶原金八も、鳴滝組が目指した時代劇の新形式や内容がパターン化し、その存在理由が薄れて行き詰まりが見えてきたことに加え、萩原が監督に昇進したり、滝沢が東京へ活動拠点を移したりするなどして、メンバーが散会し始めていた。そんな中、すでに東京の空気に触れていた山中も、行き詰まりを打開しようと東京へ出たがるようになった。滝沢によると、山中は小津や清水などと深く交際すればするほど東京行きへの気持ちが強まり、「東京へ出んとあかん」と口癖のように言っていたという。
1936年8月、前進座が映画製作の提携先を日活から東京のP.C.L.映画製作所(東宝の前身会社のひとつ)へ移転した。滝沢によると、山中は子供のようにはしゃぎ、見るもの、聞くものすべてが楽しそうだったといい、「東京はええわ。東京へ出て来てよかった。俺は、二度と京都へは帰らん」と言ったという。
◎ 日中戦争と死
1937年7月、『人情紙風船』の撮影中に盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。山中はスタッフたちと召集の心配をしていたが、同年8月25日の『人情紙風船』の封切り当日、撮影所で完成試写を終え、芝生で雑談をしていた山中のもとにも召集令状が届いた。すでに上海は中国軍が退却したあとであり、第16師団は南京攻略戦のため南京を目指して大陸内奥へ侵攻した。山中の第3小隊も戦闘部隊として泥まみれになりながら悪路を行軍し、常熟、無錫、常州、金壇、句容を経て、12月9日には南京城外の紫金山に到達し、山頂へ突撃するため最前線に立った。2月19日、第16師団が北支那方面軍第一軍に編入されたことで、山中は部隊とともに句容を出発して河北省へ向かい、3月から4月にかけて河北裁定作戦や占領地の粛正作戦に参加し、その間の4月1日には軍曹に昇進した。9月7日頃には病状が落ち着いて経過良好となりつつあったが、9月17日午前6時半頃に突如病状が悪化し、同日午前7時に死亡した、稲垣は「山中の死は全映画人が悲しんだ」と述べている。訃報は信陽市にいた小津のもとにも届き、山中の死が「とても信じられない」と述べている。山中の「時代劇の小市民映画」は、小市民映画の代表的監督で親交のあった小津安二郎作品の影響を受けており、その題材やスタイルを受け入れて創造したものである。
このような山中の「時代劇の小市民映画」の作風が確立し始めたのは『風流活人剣』辺りからであり、筈見はその主人公である長屋に住む失業浪人の中に現代人の憂鬱と無気力が反映されていると指摘している。それ以後の『国定忠次』『丹下左膳余話 百萬両の壺』『街の入墨者』『河内山宗俊』『人情紙風船』などの作品は、江戸時代の庶民たちの生活、とくに長屋の住人たちの生活や人間群像を描き、そこに小市民映画的な特性を与えており、映画史研究者の山本喜久男はそれらの作品群を「長屋もの」と呼んでいる。しかし、『風流活人剣』以前の作品である『磯の源太 抱寝の長脇差』『小判しぐれ』などの流れ者のヤクザを主人公にした股旅物にも、現代の小市民の感情や思想が反映されており、小市民映画的なスタイルが見られることが指摘されている。
山中や梶原金八は「髷をつけた現代劇」を志向するために、従来の時代劇映画とは異なる登場人物を造形した。従来の時代劇映画の主人公は英雄豪傑や封建的な侍の忠義を尽くす人物や、伊藤大輔作品に代表されるような仰々しく怒号を叫喚するニヒルで反抗的な人物である場合が多かった。山中や梶原金八はそれに対するアンチテーゼとして、長屋の住人のような庶民や、侍の忠義にとらわれない浪人やヤクザなど、市井のどこにでもいるような人物を主人公にし、それも明るくて現代人と同じような人物として描いた。映画評論家の佐藤忠男は、山中作品の登場人物のタイプは、才気や度胸があり、人情やユーモアをわきまえた粋な人物であると指摘し、そのような描き方で「時代劇の登場人物に現代に生きている人間と同じデリケートな感情を通じさせた」と述べている。山中はそれまで反逆的な悲劇の英雄として描かれてきた国定忠治や丹下左膳のような人物でさえも、『国定忠次』『丹下左膳余話 百萬両の壺』で市井の庶民と同じような人物に変容して描いている。例えば、『磯の源太 抱寝の長脇差』で主人公が喧嘩相手のもとへ走って行くシーンでは、「矢切一家に」「助ッ人一人」「常陸の国は」「茨城の郡」「祝の生まれ」「磯のッ」「源太郎だ」という主人公の名乗りを表現した分割字幕と、土手の上を走る主人公の移動撮影の画面を交互につないでおり、映画評論家の滋野辰彦はそれによって斬新なスピード感とスッキリとした快いリズムが作り出されていると指摘している。
『小判しぐれ』の分割字幕と画面の組み合わせは、山中の映画話術の有名な例であり、加藤泰は「今日なお無声映画を語る場合、その時代劇映画を語る場合、伝説的にさせなって語り継がれる名場面」と述べている。それは江戸を追われた主人公が川へ飛び込み、その時に主人公の笠が流れて行くというシーンで、「流れて」「流れて」「此処は」「何処じゃと」「馬子衆に問えば」「此処は信州」「中仙道」という民謡風の細分された字幕を、美しい山野や街道などのショットと組み合わせることで、時間経過や空間の変化を表現するという方法である。また、『国定忠次』では宿屋の女中の運ぶ食膳が、泊り客たちの人物紹介と物語展開へのスムーズな導入の役割を果たし、『森の石松』では石松が常に弄んでいる一文銭が、石松の博打好きの性格を端的に表していることが指摘されている。演出のための絵コンテを書くことはなく、頭の中で絵を描きながら演出した。山中の演技指導は、俳優に根本的な指示を出すだけで、具体的に「こういうふうにやれ」とか「ああいうふうにやれ」とは言わず、あとの細かい所は俳優の思うままにやらせてみて、それがよければOKを出すというやり方だった。内田吐夢は「山中ほど人に愛され、親しまれ、信頼された男は稀であろう。誠実で嘘がなく、しかも味がある」と述べている。
山中は極端な寂しがり屋で、人懐っこいところがあった。そのためもあって山中の語録は少なく、遺書を除くと自分の半生を回顧したり、自作を回顧したりする言動をほとんど残さなかった。
◎ ペンネーム
山中は助監督時代に「社堂沙汰夫(しゃどうさだお、社堂慶太郎または啓太郎だったとする説もある)」というペンネームを名乗った。社堂というペンネームは英語のシャドウ(影)からとったものであるが、呼びにくかったため、周りからは「社汰やん」「社堂やん」もしくは「沙堂やん」と呼ばれた。シナリオライターとしてデビューしてからは本名の山中貞雄で活動したが、助監督時代を過ごしたマキノプロの所員たちは、社堂の本名が山中貞雄であることを知らなかったため、『磯の源太 抱寝の長脇差』で監督デビューすると、この評判を聞いたマキノプロの人たちから「寛プロに山中貞雄って素晴らしい監督が現れたそうやぜ。山中貞雄ってどんな人や、沙堂紹介しろよ」と言われたという。滝沢英輔によると、山中はいつも映画のことばかり考えていて、戦地からの手紙にも必ず映画のことが書いてあったという。そんな山中がとくに好んだのが野球とラグビーだった。野球では六大学野球が大好きで、東京帝国大学投手の梶原英夫のファンだった。詰将棋は問題を解くために夜を明かすことがよくあるほど凝っていた。映画評論家の松井寿夫は、監督3作目の『小笠原壱岐守』の映画評で「僅か3本の作品で堂々映画第一線に乗り出して来て映画批評家に瞠目された者は彼を措いて外にはいないであろう」と評している。映画評論家の大塚恭一は、1933年に山中を「日本映画界全体の最も有望な監督の一人」と呼んだ。そんな山中は小津安二郎と並ぶ1930年代の日本映画界の代表的監督と見なされ、その若さや才気、評価の高さによって「天才監督」「不世出の映画作家」と呼ばれた。詩人で映画評論家の北川冬彦は、山中を「韻文作家」と呼び、画面と画面の組合せにより生じる「意味」よりも、リズムや流動美などの「音」を重視する作家であると批判的に評価している。
映画監督の新藤兼人は、山中を尊敬する映画監督と呼び、『盤嶽の一生』を見て映画界入りを志したと述べている。市川崑と黒木和雄は山中を好きな監督に挙げており、とくに黒木は山中を主人公にした劇映画『ロングロングアゴウ』を長年構想していた。1995年にキネマ旬報が発表した映画人選出による「日本映画オールタイムベストテン」では、『人情紙風船』が4位、『丹下左膳余話 百萬両の壺』が9位に選ばれ、同時に発表された「日本映画監督ベストテン」では山中が9位に選出された。2009年に同誌が発表した「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」でも、『丹下左膳余話 百萬両の壺』が戦前作品で最高位となる7位に選出された。
● 作品
◎ 監督作品
『山中貞雄作品集 全一巻』の「山中貞雄監督作品目録」と『監督山中貞雄』の「山中貞雄年譜」。そのうえ『丹下左膳余話 百万両の壺』の現存フィルムは、戦後再公開時にGHQの検閲でクライマックスのチャンバラシーンがカットされた不完全版であり、後にそのカット部分はわずか約20秒の玩具フィルム(ただし音声は欠落している)で発見された。2020年、国際交流基金と各映画会社の共同事業として、現存する3本の4Kデジタル修復版が作られ(『丹下左膳余話 百万両の壺』は玩具フィルムで欠落部分を補った最長版として作られた)、同年の第33回東京国際映画祭の日本映画クラシックス部門で上映された。
数秒から数分程度の断片フィルムだけが現存する作品は複数本存在する。京都のおもちゃ映画ミュージアムには、『鼠小僧次郎吉 中篇 道中の巻』(50秒)、『国定忠次』(不明)、『関の弥太ッペ』(40秒)の玩具フィルムが所蔵されている。国立映画アーカイブは『小笠原壱岐守』(52秒)と『風流活人剣』(104秒)の玩具フィルムと、応援監督作品『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』(77分)の不完全版フィルムを所蔵しており、プラネット映画資料図書館は『海鳴り街道』(68秒)の玩具フィルムを所蔵している。また、マツダ映画社が所蔵し、山中の現存フィルムやスチル写真を集めた『嗚呼 山中貞雄~山中貞雄作品集~』(1985年編集)には、『磯の源太 抱寝の長脇差』『関の弥太ッペ』に加えて『薩摩飛脚 剣光愛欲篇』の断片映像が含まれていると『監督山中貞雄』の「山中貞雄年譜」による。
◇単独での執筆作品
◇ 梶原金八名義での執筆作品
◎ その他の作品
● シナリオ・発言集
・ 『山中貞雄シナリオ集』上下巻、竹村書房、1940年2月・9月。※装丁は小津安二郎。
・ 『山中貞雄作品集』全3巻・別巻、実業之日本社、1985年2月 - 1986年11月。
・ 『山中貞雄作品集 全一巻』実業之日本社、1998年10月、ISBN 978-4408102856。
「山中貞雄」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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