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大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年(昭和13年)1月9日 - 2020年(令和2年)4月10日)は、日本の映画監督。従四位、旭日中綬章。倉敷芸術科学大学客員教授、長岡造形大学造形学部客員教授、尚美学園大学名誉教授、文化功労者。
● 概要
広島県尾道市東土堂町生まれ。尾道市立土堂小学校、尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報学部情報表現学科名誉教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。2014年(平成26年)4月から長岡造形大学客員教授。
妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており(映画「ハウス」の発案者である他、出演もしている)、その夫は漫画家の森泉岳土。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる。
自主製作映画の先駆者として、CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師"。
● 来歴
◎ 生い立ち
父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。父方の祖父は日本で初めて睡眠療法を取り入れようとした人で、大林は子どもの頃、夢遊病を取り入れた心理療法を受けたことがあるという。父方の一族の男子は、歴代"大林〇彦"と、母方の一族の男子の名前は歴代"村上〇祥"と名前を付けられた。両方の家は親戚を含めて大人になったら男は全員医者、女は医者の妻と宿命付けられており、大林家の息子と村上家の娘が結婚して男子が生まれたら、大人になったら医者になるしか選択肢はなかった。
宣彦の生誕時に父は岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)の寮にいたが、母は初産で、尾道の母方の実家に帰り宣彦を産んだ。1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、宣彦はそのまま母方の実家・尾道の山の手で、18歳で上京するまで育つ。母方の実家は築100年以上の古くて大きな家で、男女合わせて30~40人が住む賑やかな家ではあったが、父親がいないこと、他の従妹とも年が離れていたため一人で遊ぶことが多かった。1~2歳の頃の楽しみは、庭のすぐ下を通過する山陽本線の蒸気機関車で、それはとてつもない恐怖体験だったという。戦前の尾道には外国船も寄港し、南蛮渡来の不思議な積み荷が届くと、港の人が「先生、これは何でしょうか?」と祖父の元に持ち込み、「わしにもよう分からんけ、蔵に入れとけ」と、蔵の中は古今東西のガラクタで溢れていた。2歳でその蔵にあったブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳で35mmフィルムに手描きしてアニメーションを作った。映画監督は、映画を観て監督という職業を志すが、大林の場合は映画を観るより作ることから先に始まった。この祖父をモデルに作った『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が制作された。自身を投影している主人公の名前「馬場毬男」は、イタリアの撮影監督・マリオ・バーヴァをもじったもので、遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の主人公名でもある。
大林の映画作りは、尾道の旧い家の子供部屋の闇の中から、一人こつこつと始まる。戦争で近所の親しかった人たちが次々と亡くなった。「幼少期に感じた死者の気配が映画づくりの原点。私が描くのは虚実のはざま。生きているのか死んでいるのか分からない人が登場する」と語る。少年期は特にアメリカ映画に強い影響を受けた。実家の持ち家の一つに新藤兼人が一時期住んでおり、毎週末通っていた映画館では“新藤おじさん”の隣で活動写真を見ていたこともあった。尾道の(当時あった)九つの映画館で上映される映画をすべて観ようと決意し、どうかすると(尾道時代に)千本近い映画を観ていたと思います」と話す。15歳のときに小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに福永武彦『草の花』を読み、感銘を受ける。いつかショパンのピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『さびしんぼう』で実現する。高校時代は手塚治虫に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、同人誌を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した。
◎ 自主映画作家として
医者になることを宿命付けられていたが、真剣に医者を目指す同級生は、地元の広島医科大学か京大、阪大を目指していた。地元で実家の医者を継ぐという選択のリアリティは関西圏までしかなかった。大林は進路に迷いがあり、この時点で医者になることは虚構になり始めていた。1955年、父に与えられた8ミリカメラを手に上京し、慶應義塾大学医学部を受験する。しかし試験の途中で抜け出して映画を見に行き、「医者にはならない、映画の世界に行くんだ」と決意。尾道に戻り、父に「医者にならない、映画を作りたい」と言ったら、何と父はそれを認めてくれた。父親は岡山医科大学を首席に近い成績で卒業して、将来を嘱望された研究者で、戦争で研究者のキャリアを断念し、戦後復員後、妻の実家の病院を継ぎ、地元の医師として一生を終えた人だった。また母親も世が世なら、東京に行って女優か作家になりたいと考えていたモダンな人で、母親も賛成してくれた。1年浪人する間、東京中の名画座で映画を見まくる。「1960年代までは、日本で観ることのできる世界中の映画を全部観ている」と話している。ある日、自転車で雑木林に導かれ、いつのまにかどこかの敷地に侵入し、小高い丘の上に成城大学があり、学園というのが洒落ているなという理由で成城大を受験する。尾道には海と島と山はあっても陸地やそれに連なる雑木林はなく、雑木林なんてヨーロッパ映画でしか見たことはなく、東京は異国のようだったと話している。慶應の医学部を目指していたから成城は遊びで受かるだろうと思い、合格発表は見ていないという。映画作りを仕事にしようと決意し、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学した。映画学科がある大学は珍しかったが、学生が映画を作るわけではなく、理論を教えるだけ。この頃はまだ学生たちが映画を作るという時代ではなく、映研も日本大学しかまだなく、大変特殊な存在だった。当時ボードレールに憧れていた大林は、入学試験中にポケットからウイスキーの小瓶を出して飲みながら答案を書いていたところ、試験官の教員から「良き香りがいたしますな」と言われ「先生も一献いかがですか」と勧めると、相手が「頂戴いたしましょう」と応じたため、試験中に試験官と酒を酌み交わすことになったという。大学時代は東宝撮影所の裏にあった早坂文雄の子息が経営するアパート新樹荘に住んだ。大林の隣が東陽一の部屋で、もう一つ隣の部屋に平田オリザの父が住んでいた。大学では講義に全く出ず、赤いスカーフを首に巻いて片手に8ミリカメラを持ち、一日中グランドピアノの前でシャンソンを弾きながら、聴きに来る女学生たちを1コマずつ撮っていた。その中の一年後輩の女学生がのちの妻で、雑木林で思わず「僕と結婚しない?」と言ったら、翌日彼女は「昨日の返事はハイです。結婚のことは、この18年間考え尽くしていますから」と言い、そのまま手をつないで講堂を出て大林のアパートに行き、半同棲を始めた。当時はまだ「同棲」という言葉はなく、近所の人は兄妹が一緒に住んでいると思っていたという。両親は大学を卒業したら、東宝や東映に就職するのだろうと考えていたが、当時の大手映画会社は、エリートしか入れない時代で、東大か京大、早稲田ぐらいを卒業してないと入社試験も受からないと大林自身東京に来てから知った。そのため映画会社に就職して映画監督になるという選択はあまり現実的ではなく、ヌーヴェルヴァーグの影響を受け、これからは売れない作家が映画も撮る時代に来るぞ、と考え、8mmで個人映画を作ってアプレゲールになると意気込んだ。この頃、富士フイルムのようなフィルム会社がコンテストを始めたり、ようやく8ミリ関係の雑誌ジャーナリズムも刊行され始めた。在学中から8mmで作品を発表。1957年、文化祭のために福永武彦の詩集の映画化「青春・雲」発表。初恋を幻想的に描く二作目「絵の中の少女」(1958年)のヒロイン役が妻である。当時はまだ自主製作映画という概念はなかったが、その先駆者として、早くから名前を知られた。1960年に大学を中退。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた高林陽一と飯村隆彦の3人しか日本にいなかったという。最初に自主映画を有料で公開しようとしたのはこの3人で、彼等は月刊『小型映画』のコンテスト落選組だったが、高橋徳行同誌編集長は、いつも落選している個性的な応募者を会わせたら面白いのではないかと考えて、編集長の計らいで会った3人はたちまち意気投合した。これが日本の戦後自主制作・自主上映映画の端緒となる。最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり、映画が上映される前に3〜5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた。経堂や祖師ヶ谷大蔵の商店街の短編を作ったことがあるという。当時のTVの台頭とコマーシャル(CM)には既に興味があった。自分たちの作品をもっと人に見てもらおうと画廊で映画を掛けたら反響が大きく、その後新宿アートシアター(ATG)や池袋人世坐など、大きな映画館で掛けるようになったため8ミリから16ミリに転換した。1963年に初の16mm作品、藤野一友との共作『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。
1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、高林陽一、金坂健二、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。高林が『砂』で、飯村が『ONAN』など揃って受賞したことで、マスコミが実験映画運動に関心を持ち出し、草月が海外の実験映画を上映したりした。『尾道』(1960年)、『中山道』(1961年)、『喰べた人』(1963年)、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』(1964年)、『遥かなるあこがれギロチン・恋の旅』(1968年)や、日本のカルト映画の草分け『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ。「今、個人映画は、ハリウッド映画をめざす」と話した。同作はロジェ・ヴァディム監督の1960年『血とバラ』のオマージュで、全国五分の三の大学で上映された。本作を観てアングラ演劇から映画の道に移った若者も多かったという。いつしか個人映画の教祖的存在となる。但し「僕の作ったアンダーグラウンド映画は、少しもアンダーグラウンドではなく、まさに個人映画の『ザッツ・エンターテインメント』みたいなものだった」と述べている。原正孝(原將人)は麻布高校の文化祭で『いつか見たドラキュラ』を知り合いから借りられ、自身の作品『おかしさに彩られた悲しみのバラード』と二本立てで上映し、『いつか見たドラキュラ』を徹底的に研究し、『おかしさに彩られた悲しみのバラード』を大幅に直して、第1回フィルムアートフェスティバル東京に出品してグランプリを取り、監督デビューすることが出来たと話している。また1965年に初めてCMロケでアメリカに渡った際に、ロスとサンフランシスコで「ジャパニーズ・アンダーグラウンド・ムービー」というフェスティバルがあり『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』が一本立て上映されていたという。1970年の高林陽一初の35mm監督作品『すばらしい蒸気機関車』の音楽を担当し、公開当時のプレスシートに「音楽は前衛映画作家として著名な大林宣彦氏」と記載がある。
◎ CMディレクターとして
1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「120秒フィルムフェスティバル」を企画。紀伊國屋ホールは8ミリには対応できず、16ミリでしか上映できないため、フィルムの値段が跳ね上がるから2分の16ミリ作品を作った。電通のプロデューサーは、この"2分"という触れこみに惹かれてこのイベントに参加し、ここで上映された2分バージョンの『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』を観て、大林をCMディレクターに誘った。まだ日本に横文字文化のない時代、コマーシャルは"広告"で、当時まだまだ宣伝はチンドン屋、CMは"おトイレタイム"と蔑視されていた時代。アンデパンダンで最初に名刺を差し出した電通の人は「電通という会社でコマーシャルを撮っている者です」と言った途端、さっと1メートルぐらい後ろに下がった。「どうしたんですか?」と聞いたら「先日、映画監督にそう言ったら『俺に物売りをやれというのか』と蹴とばされたんです」と言った。続く言葉は「これから言うことで、僕を殴らないで下さい、広告をやってみませんか」だった。日本はテーマ主義の国で、テーマのないCMのようなものは作家がやるべきじゃないという考えで、CMは恥ずかしい場所だった。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人で、飯村隆彦も薬のCMを1本だけやったが、すぐに撤退し、高林陽一も大林のCMの手伝いを少ししたが、「性に合わない」と結局CMには関わらなかった。当時は、電通のプロデューサーと、傾きかけた映画界のカメラマンとが組んでCMを撮っていた。当時の電通本社は、東京銀座8丁目土橋の東京高速道路の下にあった木造の貧相な二階建て。初めて遊びに行った日に、味の素の清涼飲料水のキャップを送ると景品が貰えるというCMを撮っていたが、あまりにヘタで「僕が撮ってあげるよ」と代わりに大林が撮ったCMが以降7年間放送された。それで「何でもいいから、遊びに来て下さい」という話になった。電通の小田桐昭プロデューサーの「僕は生涯を懸けてコマーシャルを世界に誇れるジャーナリズムにしてみせようと思っています」という言葉に感銘を受け、本格的にテレビコマーシャルの世界に踏み込む。まだ広告はアートでなかった時代で、クリエイターとは扱われず。電通と大林でスポンサーの所に行くと出入りの写真屋さんの扱い。スポンサーの企業に行っても表玄関からは入れず、裏口から入って「写真屋さん、ご苦労様」と言われ、仕事が終わると鮭の切身定食を御馳走になってまた裏口から帰っていたという。当時はその電通などの広告代理店がTVCMを独占する前夜で、CMディレクターを専門にやろうという人間はまだいなかった。こんな事では未来がないと考えた電通等が「CMに演出家を付けてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える」と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった。1964年、セイコーのテレビコマーシャル(CM)を皮切りに、草創期のテレビCMにCMディレクターとして本格的に関わる。電通の大林起用の狙いは、高額のギャラを大林に払い、高級外車に乗ってみせるようなスタア演出家を似て任じてもらい、CMディレクターを花形職業にすることで、CM界に優秀な人材を集め、業界全体の活性化を狙ったものだった。小田桐から「できればスポーツカーに乗って、隣のシートに金髪のモデルを乗っけて、『朝日ジャーナル』と『平凡パンチ』を座席に置いて、青山あたりを乗り回して欲しい」と言われた。何の業界でも当時は貧しさが美徳で、腕を買うといってもお金の話はタブー視されていたから、その話を聞いて「面白い業界だな」と感心した。ギャラの基準もまだなく、ギャラは最初の1本が4,000円、2作目が8,000円、3作目で1万5,000円、4作目が4万円と、ギャラは瞬く間に跳ね上がったというが、1965年ぐらいに1本50万円ぐらいになった後は、回りが追いつき以降はほとんど変わらなくなったという。また当時の電通はギャラを貰うために経理に半日並ばないと貰えず、半日並んでギャラを貰うなら、別の撮影をした方がいいと半分はギャラを貰っていないと話している。当時はまだコマーシャルに対するモノづくりのフォーマットが全然なく、演出は全部任せてもらえた。高度経済成長期の始まり、テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、特撮もどんどん出来、自由に撮らせてもらえた。大林にとってCMはスポンサー付きの個人映画、映像実験室とも言え、非常に楽しいものだったという。CMのギャラを資金源に8ミリ作品を製作し続けた。CM業界で助監督を使うシステムを作ったのは大林。当然助監督にギャラは出ないため、大林のギャラで助監督やスタッフを養成した。阪本善尚は大林がCM業界に引っ張り込んだ人である。
高度経済成長の波に乗り、急成長したCM業界で、一日一本のペースでCMを作り続け、TVCMという分野の礎を築き、「CM界の巨匠」の異名を執った。大林が学生の時には東宝撮影所は連日夜間撮影で空が赤くなっていたというが、60年代半ばからは映画斜陽で東宝撮影所の映画用セットやスタジオは空いていた。大林は毎日のように東宝撮影所でCMを撮ったという。大林の手がけたCMで最も有名なのが、日本で初めてハリウッドスターを起用し、あまりのヒットに丹頂が社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」で、本作は男性に香りを着けさせようという、これまでの日本にない新しいライフ・スタイルの導入・定着に貢献した。体臭を消すのがそれまでのシネアルバム120_64}}、特に化粧品の香りはヨーロッパ指向だったため、アメリカの匂いのする男の体臭を売るという画期的なCMでもあった。ブロンソンのシネアルバム120_64}}。当時の西村彦次丹頂社長にブロンソンの写真を見せたら「何だ、こりゃ」と言われた。ブロンソンはまだ映画通しか知らない役者で、西村社長から当然「アラン・ドロンにしてくれ」と言われた。「こういう男の顔が、男の体臭に似合うんだ」と説得しても「分かった。だけどもう少し美男子じゃダメか」となかなかOKが取れず、しつこく説得を繰り返し、西村社長が、若き大林に仕事を任せるに当たり、大林夫婦を食事に招待した折り、極自然に夫人にサラダを取り分ける大林に感銘を受け、「この人物なら、我が社の広告を任せていい」とようやく決心したと言われ、西村から後で「自分もオヤジから引き継いだ会社で、会社は潰してもいいから、最後に一つだけ世間に良い仕事を残して潰れるならそれでいい。この作品は賭けですが、良い仕事をして下さい」と伝えられた。トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうしてインディアン役者の売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドのエージェントの反対を押し切り、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させた}}。ギャラは信じられないほど安かった。一世を風靡した「う~ん、マンダム」とつぶやく名ゼリフは大林の発案だという。このCMはホリプロと制作することになり、堀威夫とアメリカに行った。ホリプロとのCM制作のプロデューサーが笹井英男で、ホリプロとの付き合いはここから始まる。
大林の手がけたCMは他に、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「ホンダ・ロードパル」のソフィア・ローレン、「カネカ・フォンテーヌ」「ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「フォンテーヌ」のCMソングにはフランシス・レイを起用した。「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スター、「AGF・マキシムコーヒー」のカーク・ダグラス、マンダム・フーズフーのデヴィッド・ニーヴン、キャサリン・ヘプバーン、アイススケートのジャネット・リン(カルピス)等の起用で、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった。海外スターの起用、海外ロケ、映画のような特撮の導入等は、それまでの日本のCMにない画期的なものであった。当時はまだCMをアメリカで撮影するなんて考えられもしなかった時代、「CMならハリウッドスターを使えるぞ」という"アメリカ映画ごっこ"のようなもの、企業のお金を使った大林個人の夢の実現であったという。ブロンソンの「マンダム」の前に1本だけ、有名ではない外国人俳優を使ったCMがあったが、外タレCMブームはブロンソンの「マンダム」からである。CM撮影での初の渡米は1966年、電通社長の指示で大林を含めたスタッフ4人で行ったという。オイルショック前の1970年初頭はほとんど海外ロケで、1年の内、10か月以上海外生活であった。
日本のCMでは、東陶機器(TOTO)のホーローバスのCMで高沢順子に言わせて流行語になった「お魚になったワ・タ・シ」は、コピーライターという職業が無い時代に大林が考えたコピーである。『さびしんぼう』を気に入られた黒澤明から、1989年CM演出を指名され、NEC「オフィスプロセッサ」「夢にわがままです」を手掛け、CM出演した黒澤に初めてサングラスを外させた。これが縁で1990年、黒澤監督の『夢』のメイキングビデオ(『映画の肖像 黒澤明 大林宣彦 映画的対話』)を撮った。この他、山口百恵・三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、遠藤周作の「日立ヘアカーラ」、山村聰の「トヨタ・クラウン」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウン・「ピッコロ」、ワンサカ娘」、花王石鹸「ハイター」、長門裕之・南田洋子の「カルピス」、10年間で製作したテレビCMは3000本を越え、国際CM賞も受賞。テレビCMを新しいフィルムアートの一つとして世の中に認識させ、画期的な映像表現で、日本のテレビCMを飛躍的に進化させた。当時は勿論、大林は一般レベルでは全くの無名だったが、大林の作ったフィルムは、日本で一番多くの人に見られていたのである。アメリカでのCM撮影の際に、アンダーグラウンド映画のスタッフと親しくなり、『イージー・ライダー』の編集にも大林は関わっているという。2013年、小林亜星等と共に全日本シーエム放送連盟(ACC)第3回「クリエイターズ殿堂」入り。
当時はメイド・イン・ジャパンは粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、毛染めのCMを製作するに当たり、その商品を使って茶髪になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている。また、自身も九州電力のCMに出演した事がある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある石上三登志とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。
手塚治虫は「幸運にも大林監督のディズニーランドのPR映画に出演させて貰い、真夜中から明け方にかけて、静まりかえったディズニーランドの中で人形の撮影をした。外来者禁制のディズニーランドの裏の様子を見ることができた。思いもかけず手品のタネを見れた」と話している。
盟友・高林陽一が1975年にATGの1,000万映画として、劇場用の35ミリで『本陣殺人事件』(大林は音楽として参加)を撮ったことは大きな刺激になった。まもなく東宝から「『ジョーズ』のような映画は撮れませんか?」と言われたのが『HOUSE』の制作スタートとなる。
◎ 商業映画に進出
1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラー・ファンタジーを、ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない。子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される。1990年代に流行した「美少女ホラー」と直接的にはリンクしないとはいえ、その"祖"と評価もされる。1976年6月には馬場毬男名義による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされたが製作開始とはならず。大林は作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のようなことを始めた。オーディションで選んだ平均年齢当時18歳の7人のアイドルに水着を着させて大磯ロングビーチでキャンペーンをやるなど、プロモーションに2年を要して、様々なイベントを仕掛け、その後の"アイドル映画"の方向性を作った。ニッポン放送「オールナイトニッポン」枠で生放送されたラジオドラマ『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった。更にラジオドラマに続き、コミック化、ノベライズなど、大林が主導して「メディアミックス」を仕掛けていき、これらが功を奏して知名度が上がって話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなって、ようやく本体の映画化が決まった。大林は『HOUSE』のイラスト入りの大きな名刺を作り、会う人ごとに渡していたが、角川春樹もそれを見て「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けており、これも先駆と評価される。
大林が商業映画に進出すると報じられたとき、多くのジャーナリズムも大林が本来、映画を志向していることを知らなかった。『宝島』1977年5月号には「個人映画とCMという、いわば映画の本流(というものがあるとしての話だが)からずいぶん外れたところで数多くの仕事をしてきた人が、いったい映画のことをどんな風に考えているのか興味を持って、東宝・砧撮影所へインタビューへ出かけた」と書かれている。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる。他に先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの、自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューという事例は画期的であった。当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった。企画としては1975年に東宝の会議を通っていたが、撮影所の助監督経験のない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちが猛反対し、その後2年の間、塩漬けにされた。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した。日本映画の斜陽によって1977年の新人監督の登用は、ピンク映画以外では大林一人だった。大林が商業映画デビューしたこの年が一つのターニングポイントとなり、この流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た。大森は「大林宣彦の名はパイオニアだった。それに続くように翌年、ただの大学生だった私もまた松竹で『オレンジロード急行』を撮る幸運を得た」と話している。市川は「芸大を受験し続けていたけど、どうしても駄目で。僕も予備校の仲間とミニフィルムを作ったりしていた。当時は大林さんが自主制作で注目されていた。そこから美大入学ではなく、CM制作会社に入るという選択をした」と述べている。西河克己は「企業外から出たハシリは大林君ですね。森田芳光が二番手ですね。成功例ということであればですけど」と述べている。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時東宝営業部長(のち社長、会長)だった松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる。松岡は大林に「恐るべき無内容」「しかしこれをわたしたちが考える良い脚本に直したら映画がつまらなくなる、よってこのまま撮ってくれ」とつけ加えたといわれる。しかしながら「あれは正規の映画ではない」と公言する人も多く、映画マニアからは酷く叩かれもした。『リング』、『呪怨』などのプロデューサー・一瀬隆重は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている。
ぴあは1977年12月に「第1回ぴあ展」を開催し、その企画の一つ「20代で出発った作家達」として、バスター・キートンや、ルイス・ブニュエル、ジャン・ヴィゴ、ケン・ラッセル、ロマン・ポランスキー、小津安二郎、稲垣浩、マキノ雅弘、大島渚、若松孝二ら、国内外の46人の映像作家が20代で撮った47本を特集上映した。『ぴあ1977年11月号臨時増刊号』では、その46人の映画作家を紹介しているが、五十音順でもないのに冒頭に商業映画デビューしたばかりの大林を取り上げている。この「20代で出発った作家達」という企画が「ぴあフィルムフェスティバル」に発展するが、ぴあとしても大林のような映像作家がこのイベントから出て来て欲しいと願っていたものと考えられる。1979年には、同フェスティバルの前身「OFF THEATER FILM FESTIVAL '79」のプロデューサーを松田政男、寺山修司とともに務めた。
大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMやコミックスの影響が濃い自主映画やテレビから生まれた才能の輩出によって支えられている。大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる。『HOUSE』で同年、ブルーリボン賞新人賞を受賞。『HOUSE』が一定の成功を収めたことから、大林のもとには、アイドルを使った映画製作の依頼が来るようになった。
『HOUSE』は2009年頃から欧米で再発見されてコアな人気を集めているという。近年ではアメリカニューヨーク近代美術館(MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された。ニューヨークの単館系の劇場でもよく上映されるという。
◎ 尾道三部作
1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作として多くの熱狂的な支持を集めた。1984年にはロケ地巡り目的で、20万人以上の若い観光客が訪れたといわれる。"尾道三部作"という言葉は大林映画のファンが作った言葉である(さびしんぼう (映画)エピソード)。
これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「お子様ランチ」「おもちゃ箱」と酷評されることもあった初期作品に比べると、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がるフィルム・コミッションの先駆け、また2022年今日のアニメ作品の聖地巡礼(アニメツーリズム)の先駆けとなったと評価されている。
◎ アイドル映画
大林はこれまで主に、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行い、「アイドル映画の第一人者」とも称される。特に1970年代〜1980年代に手掛けた作品は「70年代アイドル映画」「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される。2015年2月に、ももいろクローバーZ主演・本広克行監督の『幕が上がる』と新垣結衣主演・三木孝浩監督の『くちびるに歌を』が公開された際に、「アイドル映画」「アイドル&女優が輝く映画」などと特集が組まれたが、大林はその先駆者として各メディアでフィーチャーされた。本広は『幕が上がる』は「大林さんの映画を真似ているところが多い」と話している。『日経エンタテインメント』2015年3月号の特集「アイドル&女優が輝く映画」では、その系譜の始まりに1981年の『ねらわれた学園』が据えられた。同作は、大作路線を続けた角川春樹が一転、若者向け「アイドル映画」を手掛けた第1弾で、1979年の『金田一耕助の冒険』で意気投合した角川と大林は「誰もやらないような映画を作ってやろう」という目論見から薬師丸ひろ子主演で本作を企画した。また角川から大林に「薬師丸ひろ子をアイドルにしてやってくれませんか」との依頼があり、本作で薬師丸はアイドルとしての地位を確立させた。このため『ねらわれた学園』は「アイドル映画」時代の開幕を告げる作品と評される。同作はSFのジャンルに入れられるが、アイドルが恐怖に巻き込まれるスリリングな展開と独特の陰のある映像は、その後の「アイドル・ホラー」に大きな影響を与えたとも評され、その嚆矢ともいわれる。1983年、角川から「尾道で原田知世の映画を撮って下さい」と託された筒井康隆原作のジュブナイル『時をかける少女』では、合成やコマ落としなどの映像テクニックを最大限に駆使して幻想的な作品世界を描出、のちに定着する"映像の魔術師"、"大林ワールド"といった代名詞はここから始まった。この時期に日本テレビ「火曜サスペンス劇場」向けに円谷プロで撮った「麗猫伝説」は、アングラ映画すれすれの映画詩ふうな作品であり、これを常識を破ってテレビ用に製作できたあたりに当時の大林ブランドの強さと絶好調の自信が示されている。1984年、原田知世主演で撮った『天国にいちばん近い島』は映画は酷評されたが、それまであまり知られていなかったニューカレドニアブームを起こした。1980年代の日本映画は、大林宣彦と相米慎二の時代とも評される。アイドルを度々脱がせることから"昭和の脱がせ屋"などと異名をとるが、「着せてないだけ」と答えている。女優を手加減なしに自身の追求する映像を撮ったこれらは「アイドル映画」の皮をかぶった「作家映画」と見る向きもある。2014年に『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』を著した中川右介は「盟友関係にあった角川春樹と大林宣彦の二人が、70年代後半から80年代にかけての日本映画界を牽引していたという図式が明確に把握できた。そこであの本では『角川春樹』を主人公とし、副主人公に『大林宣彦』を置いた」、「あの時代個人名で『〇〇映画』と呼ばれていた監督は『大林映画』だけだったのではないか」と述べている。
長い自主映画製作キャリアから培ったスキルは撮影、編集、演技のみならず作曲や演奏にも及び、監督デビューよりも2年早く高林陽一監督の『本陣殺人事件』で音楽監督をつとめ印象的なメロディを提供している(自作での音楽監督兼任はそれほど多くない)。出演作品はそれほど多くないが、発声のきちんとしたプロ級演技は『俗物図鑑』(内藤誠監督)などで垣間見ることができる。
◎ 1980年代 - 1990年代
「同じことは二度としない」と公言している通り、大林のフィルモグラフィは1作ごとに異なる実験が行われている。『瞳の中の訪問者』(1977年)は、手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』最初の実写化であるが、『HOUSE』以上に趣味性を前面に押し出し、漫画そのものを実写で描こうとして、原作そのままのメイクで宍戸錠を登場させるなどで、「こんな人間がどこにいる」と手塚を憤慨させたといわれる。「アイドル映画」などを挟みながら、一転して純文学に挑んだ福永武彦原作の『廃市』(1984年)は、大林自身「超ローバジェット映画」と表現している。寓話性を強調するため、台詞を棒読みさせたり、フラットな構図を採用したり、誇張したメーキャップを施したりするなどで、モノクロ版とカラー版の二種類を製作し同時に劇場公開した『野ゆき山ゆき海べゆき』(1986年)、1988年の各映画賞を独占した大人のファンタジー『異人たちとの夏』、NHKと組んでNHK初のハイビジョンテレビドラマと劇場用映画を同時に撮影した「尾道新三部作」『ふたり』(1991年)、演出、撮影、録音の大胆な実験を試みた『北京的西瓜』(1989年)。本作は天安門事件の影響で中国ロケが中止になった抗議に意図的に37秒間の空白を挿入した。『北京的西瓜』で試みた実験をさらに推し進め、複数の16mmカメラを手持ちで回し、リハーサル無し、NG無し、メイクも照明も最低限で一気呵成に撮り上げたフィルムを異常なハイテンションで編集した青春映画の傑作『青春デンデケデケデケ』(1992年)、タブー視されていた水との合成にあえて挑み、全編の9割をハイビジョン合成するなど、当時の最先端技術を導入した『水の旅人 -侍KIDS-』(1993年)、吉永小百合に「あなたのシワが撮りたい」と口説いて、吉永がノーメイクに近いナチュラルメイクで挑んだ、型破りの"小百合映画"『女ざかり』(1994年)。本作は1時間56分の本編をスーパー16mmカメラを多用し、1000カットに及ぶ短いカット繋ぎで構成した。宮部みゆきの小説世界を100名以上の俳優全員にノーメークで演じさせ、テレビのワイドショーの手法を使って完璧に映像化した『理由』(2004年) など、映画界に新風を吹き込む野心作を連打した。
1993年に自身が初めて俳優として出演した月9ドラマ「あの日に帰りたい」では、主演の工藤静香と菊池桃子のフィルムの制作も行った。
◎ 2000年代以降
2000年代に入ると尾道を舞台にした映画は無くなり、代わって、大分や長野、新潟、北海道芦別、佐賀県など、その町の伝統や歴史を題材にした映画を製作している。大林はこれを「ふるさと映画」と称しており、地域における映画製作の道筋を拓いたと評価される。独特の語り口でトークも上手く、生放送では喋り過ぎて放送事故寸前まで時間が押すこともあったという。自主映画作家時代からマスメディアにしばしば登場した。各地の講演に招かれることも多く、コメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多かった。
2004年(平成16年)春の褒章に於いて紫綬褒章を受章。
2009年(平成21年)秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという。
2013年に手掛けたAKB48の長尺のミュージック・ビデオ「So long 」は物議を醸した。2013年12月27日 朝日新聞デジタルに 「特定秘密保護法が成立した6日、僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とのコメントを寄せる。2010年代以降の4本は、反戦を明確に打ち出した作品になった。
2016年、第18回極東映画祭(イタリア)にて、マルベリー賞(生涯功労賞)を受賞。
(2017年12月公開の映画『花筐/HANAGATAMI』のクランクインを控えた)2016年8月に肺癌が判明、ステージ4まで進行しており医師より当初「余命6か月」、後に「余命3か月」の宣告を受ける。同年8月から10月にかけて佐賀県唐津市で行われた撮影と続く編集作業に並行して抗がん剤治療を継続。
2017年4月のスタッフ向け試写会において病状を公表。抗がん剤治療が奏効したことで病状が改善し、同年5月時点で「余命は未定」となったとしている。
2018年夏に、『あの、夏の日 とんでろ じいちゃん』以来約20年ぶりに尾道市をメインのロケ地として、戦争と広島の原爆をテーマとした映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を撮影、2019年10月28日に開幕する第32回東京国際映画祭「JapanNow部門」で組まれる大林監督特集で初上映された。本作で2018年度毎日芸術賞特別賞を受賞。
2019年3月24日、第33回高崎映画祭の授賞式(会場:高崎市の群馬音楽センター)に出席。監督を務めた『花筐/HANAGATAMI』が特別大賞を受賞し登壇。
2019年春公開を目指し全編熊本ロケでの映画化が決定していた『つばき、時跳び』は、体調不良を理由にクランクイン前の同年7月に辞退。監督補に指名していた熊本市出身の行定勲監督に引き継がれ、2021年に映画化される予定だった。
2019年7月27日、広島県広島市で開催された国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道〜大国の暴走を許さない」(朝日新聞社、広島市、広島平和文化センター主催)に登壇し東ちづると対談した。
2019年9月30日、広島国際映画祭2019「ヒロシマ平和映画賞」に『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が受賞したことが発表された。同年11月24日に同映画祭会場で『海辺の映画館―キネマの玉手箱』上映、大林監督トークショー、および、「ヒロシマ平和映画賞」授賞式が行われた。
2019年10月25日、東京国際映画祭が、永年の国内外を含めた映画界への貢献が目覚ましい方々へ贈る“特別功労賞”を、大林に授与することを発表、同年11月1日に同映画祭会場でワールドプレミア上映された『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の舞台あいさつ、Q&Aセッション、東京国際映画祭特別功労賞の贈呈式が行われた。11月4日の『花筐/HANAGATAMI』上映後の舞台あいさつは体調不良のため欠席。
2019年10月29日、同年度の文化功労者に選ばれ、母校である尾道市立土堂小学校が記念して校舎に垂れ幕と横断幕を掲げた。
2020年4月10日の封切りを予定していた『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、公開延期されることが3月31日に発表された。
4月10日19時23分、肺がんのため、東京都世田谷区の自宅で死去。。死没日をもって従四位叙位、旭日中綬章追贈。
● 主な監督作品
◎ 自主映画作家時代の作品
・ ポパイの宝島(1944年/35mm/1分) - 手描きアニメーション
・ マヌケ先生(1945年/35mm/3分) - 手描きアニメーション
・ キングコング(1952年/35mm/2分) - 人形アニメーション
・ 青春・雲(1957年/8mm/30分) - 福永武彦などの叙情詩をイメージして映像化した作品
・ だんだんこ(1957年/8mm/11分) - 踊る少女のシルエットなどを使ったリズミカルな映像作品
・ 眠りの記憶(1957年/8mm/30分) - 真実を知るのは罪、幸福は夢の中にあるということをテーマにした作品
・ 絵の中の少女(1958年/8mm/30分) - 過ぎた時間は戻らない、後悔をテーマにした文学的な作品(現・恭子夫人も出演)
・ 木曜日(1960年/8mm/18分) - ある木曜日の男女の青春をスケッチ風に描いた作品
・ 中山道(1961年/8mm/16分) - 映画仲間と中山道のことをいろいろと考え、旅をしながら撮ったレポート的な作品
・ T氏の午後(1962年/8mm/25分) - 高林陽一氏のとある一日をコマ撮りで撮影した作品
・ 形見(1962年/8mm/17分) - 父親の墓参りに行った母と子が見た幻想的な世界を描いた作品
・ 尾道(1963年/8mm/17分) - ふる里を大胆なカッティングでスケッチ風に描いたドキュメンタリー
・ 喰べた人(1963年/16mm/23分) - 食欲旺盛な客を見て倒れたウエイトレスの幻想世界を描いたシュールな喜劇作品
・ Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道(1964年/16mm/14分) - 映画への夢と憧れを描いた切ない作品
・ EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ(1966年/16mm/38分) - スタッフも出演者も多く、映像テクニックも駆使した、本格的な映画
・ CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅(1968年/16mm/70分) - 回顧展用のもの、個人映画製作に区切りをつける作品
・ てのひらの中で乾杯/キリンビールのできるまで(1969年/16mm/25分) - キリンビールのPR用に製作されたミュージカル仕立ての短編映画
・ 海の記憶=さびしんぼう・序(1970年/16mm/20分) - 映画「さびしんぼう」を企画して製作
・ オレレ・オララ(1971年/16mm/20分) - 篠山紀信が写真集「オレレ・オララ」制作時に撮影したリオのカーニバルの写真を大林が16ミリムービーカメラで再撮して映画化した作品
・ ジェルミ・イン・リオ(1971年/16mm/?) - 日立シェーバーのPR用映画
・ スタンピード・カントリー(1972年/16mm/35分) - 日立のCF製作のときに撮られた記録映画
・ ハッピー・ダイナノサウルス・アルバム(1972年/16mm/15分) - カナダの美しい湖に集まった人たちを撮った作品
◎ 映画
:
・ EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ(1967年3月8日公開) - 16ミリ自主映画
HOUSE ハウス(1977年7月30日公開 東宝) - 兼製作
瞳の中の訪問者(1977年11月26日公開 ホリプロ/東宝) - 兼出演(テニスの審判)
ふりむけば愛(1978年7月22日公開 東宝)
金田一耕助の冒険(1979年7月14日公開 東映)
ねらわれた学園(1981年7月11日 東宝)
転校生(1982年4月17日公開 松竹)
時をかける少女(1983年7月16日公開 東映) - 兼潤色/編集
廃市(1984年1月2日公開 ATG) - 兼プロデューサー/企画/編集/作曲
少年ケニヤ(1984年3月10日公開) - 兼編集
天国にいちばん近い島(1984年12月15日公開 東映) - 兼潤色/編集
さびしんぼう(1985年4月13日公開 東宝) - 兼脚本/編集
姉妹坂(1985年12月21日公開 東宝)
彼のオートバイ、彼女の島(1986年4月26日公開 東宝) - 兼編集
四月の魚(1986年5月31日公開 ジョイパックフィルム) - 兼企画/脚本/編集
野ゆき山ゆき海べゆき(1986年10月4日公開 ATG) - 兼編集/音楽
漂流教室(1987年7月11日公開 東宝東和) - 兼潤色
日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群(1988年3月29日公開 アートリンクス) - 兼脚本/編集
異人たちとの夏(1988年9月15日 松竹)
北京的西瓜(1989年11月18日公開 松竹) - 兼編集
ふたり(1991年5月11日公開 松竹 原作:赤川次郎) - 兼編集
私の心はパパのもの(1992年6月13日公開 東北新社/ギャラクシーワン) - 兼編集
彼女が結婚しない理由(1992年6月13日公開 東北新社/ギャラクシーワン) - 兼編集
青春デンデケデケデケ(1992年10月31日公開 東映) - 兼編集
・ 第16回日本アカデミー賞優秀監督賞
はるか、ノスタルジィ(1993年2月20日公開 東映) - 兼脚本/編集
・ 第17回日本アカデミー賞優秀編集賞
水の旅人 -侍KIDS-(1993年7月17日公開 東宝) - 兼編集
・ 第17回日本アカデミー賞優秀編集賞
女ざかり(1994年6月18日公開 松竹 原作:丸谷才一) - 兼脚本/編集
あした(1995年9月23日公開) - 兼編集
三毛猫ホームズの推理〈ディレクターズカット〉(1998年2月14日公開 PSC、ザナドゥー) - 兼編集
SADA〜戯作・阿部定の生涯(1998年4月11日公開 松竹) - 兼撮影台本/編集/
・ 第48回ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞
風の歌が聴きたい(1998年7月17日公開 ザナドゥー) - 兼脚本/編集
麗猫伝説 劇場版(1998年8月16日公開 PSC) - 兼編集/作曲
あの、夏の日 〜とんでろ じいちゃん〜(1999年7月3日公開 東映) - 兼脚本
マヌケ先生(2000年9月30日公開 PSC) - 総監督/原作/脚本/編集
淀川長治物語・神戸篇 サイナラ(2000年9月30日公開 PSC)
告別(2001年7月14日公開)
なごり雪(2002年9月28日公開 大映) - 兼脚本/編集
理由(2004年12月18日公開 アスミック・エース) - 兼脚本
転校生 -さよなら あなた-(2007年6月23日公開 角川映画) - 兼脚本/潤色/編集/撮影台本
22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語(2007年8月18日 角川映画) - 兼脚本
その日のまえに(2008年11月1日公開 角川映画) - 兼撮影台本
この空の花 -長岡花火物語(2012年4月7日公開) - 兼原作/脚本/撮影台本/編集
野のなななのか(2014年5月17日公開) - 兼脚本/撮影台本/編集/脚色
花筐/HANAGATAMI(2017年12月16日公開、製作:(一社)唐津映画製作委員会/(株)PSC) - 原作:檀一雄「花筐」、脚本:大林宣彦・桂千穂
海辺の映画館―キネマの玉手箱(2020年4月10日公開予定延期 → 2020年7月31日公開) - 兼脚本
つばき、時跳び(2020年)- 企画
◎ テレビドラマ
・ 人はそれをスキャンダルという 第1回(1979年11月21日放送 TBS)
・ 可愛い悪魔(1982年8月10日放送 日本テレビ『火曜サスペンス劇場』)
・ 麗猫伝説(1983年8月30日放送 日本テレビ『火曜サスペンス劇場』)
・ 恋人よわれに帰れ LOVER COMEBACK TO ME(1983年9月23日放送 フジテレビ)
・ 私の心はパパのもの(1988年11月30日放送 日本テレビ『水曜グランドロマン』)
・ ふたり(「第一部 草の章」1990年11月9日「第二部 花の章」11月16日に前後編2週連続で放送 NHK『子どもパビリオン』枠)
・ 彼女が結婚しない理由(1990年12月26日放送 日本テレビ『水曜グランドロマン』)
・ はるか、ノスタルジィ(1992年10月25日放送 WOWOW)
・ 三毛猫ホームズの推理(1996年9月放送 テレビ朝日)
・ マヌケ先生(1998年1月24日 中国放送/TBS) - 原作・総監督
・ 三毛猫ホームズの黄昏ホテル(1998年2月21日放送 テレビ朝日) - 兼脚本
・ 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ(1999年11月7日放送 テレビ朝日『日曜洋画劇場』)
・ にっぽんの名作・朗読紀行「忍ぶ川」(2000年3月8日放送 NHKBShi) - 演出
・ 告別(2001年2月24日放送 BS-i) - 兼脚本
・ 理由(2004年4月29日放送 WOWOW『ドラマW』)
・ 理由(日テレヴァージョン)(2005年11月8日放送 日本テレビ『DRAMA COMPLEX』)
◎ ミュージックビデオ
・高橋幸宏「A FRAGMENT」(1984年)
・KAN「BRACKET」(1987年)
・坂上香織「レースのカーディガン」(1988年)
・CANCION「嘘つき。THE MOVIE」(2004年)
・松原 愛「ふたりの時計」「東京枯れすすき」(2011年)
・AKB48「So long 」(2013年)
● その他の主な作品
・ すばらしい蒸気機関車(1970年10月10日公開 高林陽一監督) - 音楽
・ 最後の蒸気機関車(1975年1月11日公開 高林陽一監督) - 音楽
・ 本陣殺人事件(1975年9月27日公開 高林陽一監督) - 音楽
・ 新・木枯し紋次郎(1977年10月5日〜1978年3月29日放送 東京12チャンネル) - タイトル
・ 親子ねずみの不思議な旅(1978年3月11日公開 フレッド・ウォルフ/チャールズ・スウェンソン監督、日本ヘラルド映画) - 歌詞
・ 愛の嵐の中で(1978年4月29日公開 小谷承靖監督、東宝) - 出演
・ ピンクレディー/ジャンピング・サマーカーニバル (1978年、LIVE演出/35mm)
・ ホワイト・ラブ(1979年8月4日公開 小谷承靖監督、東宝) - 出演
・ いい旅チャレンジ20,000 km 清水港線・旅の表情 (フジテレビ、1980年5月3日、演出TV/16㎜)。真野あづさはこれが初の本格的テレビ出演。
「大林宣彦」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2023年12月7日8時(日本時間)現在での最新版を取得


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