ランキング57位
獲得票なし
ランキング41位
獲得票なし
石黒 昇(いしぐろ のぼる、1938年8月24日 - 2012年3月20日)は、東京都出身の日本のアニメ監督、演出家、アニメーター。アニメ制作会社アートランドの創業者であり、死去時には会社分割によって新設されたアニメーションスタジオ・アートランドの取締役会長であった。また、代々木アニメーション学院の講師も務めていた。
● 来歴
小学生時代、手塚治虫の『新宝島』に魅了されて漫画を描き始め、高校3年生の頃(1956年)に『宇宙の放浪児』(石黒昇流名義、新生漫画社刊)で貸本漫画家としてデビュー。若木書房の短編誌『迷路』などに「ダイヤモンド小僧の冒険」シリーズやSF作品を発表していた。その一方で、中学3年生の頃に見たミュージカル映画『錨を上げて』で映画の面白さに目覚め、高校時代は映画漬けの日々を送る。
1957年に日本大学芸術学部映画学科に入学。当時、遠藤政治、つげ義春、永島慎二らと親交を持ちながら漫画家として活動を続けていたが、その頃に起こった劇画ブームによって貸本漫画が衰退し始めたことや自身のスランプにより、漫画家への道を断念。漫画家生活に見切りをつけると、今度は仲間たちとハワイアンバンドを結成し、キャバレー回りを始めた。一方、アニメーターの上梨壱也(現・上梨一也)と知り合ったことで刺激を受け、大学では仲間たちと8mmフィルムで切り抜きアニメを自主制作する。また憧れの人物だった手塚治虫の虫プロダクションが大学近くにあり、出入りするようになった。結局、日本大学には7年間在籍し、1964年に卒業するとアニメーターへの道を進んだ。
フジテレビの子会社のアニメ制作会社テレビ動画(現・フジテレビ・エンタプライズ)に入社。自主制作アニメの経験のおかげもあってすぐに原画を任されるようになり、『がんばれマリンキッド』で初めて絵コンテを担当した。テレビ動画から大西プロへ移ると、スタジオがグロス請けした虫プロの『鉄腕アトム』の原画を担当する。その後、大西プロを離れ、仲間たちと1966年に動画技術研究所を、1969年にJAB(ジャパン・アート・ビューロー)を結成したが、どちらも解散。以後はフリーの演出家・絵コンテマンとして『ど根性ガエル』など多数の作品に関わる。
1974年から放送が開始されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』でアニメーションディレクターを担当。アニメの実制作の経験がないまま監督になった漫画家の松本零士を補佐し、全話の演出を担当した。作品は映画化もされて大ヒットを記録し、SFアニメと日本アニメ史においてエポックメーキングな作品となった。
1978年9月、有限会社アートランドを設立。
1982年、テレビシリーズ『超時空要塞マクロス』のチーフディレクターを務める。『ヤマト』に続いて作品はアニメ史に残るヒットを記録した。またテレビアニメに比べて制作期間に余裕があるため、石黒がアニメ制作と経営とを両立することが可能になった上に、コンスタントに安定した仕事があることでアートランドの経営状況も改善していった。。アニメーターとしてはエフェクトアニメーションを得意とし、日本のアニメ界にその技術を広く知らしめた。そしてその3人に金田伊功を加えたアニメーターが核となり、日本アニメにおけるエフェクトアニメーターを実写の特技監督や特撮監督のようなポジションに位置付けてアニメ業界を引っ張っていった。虫プロ制作のテレビアニメ『ワンサくん』で譜面に合わせて絵コンテを描いたミュージカルシーンが音楽経験を持つプロデューサーの西崎義展に気に入られ、ミュージカルシーン専属の演出になった。そして、同作のスタッフとともに西崎のプロデュースする『宇宙戦艦ヤマト』に参加することになった。『銀河英雄伝説』でも、同じく音楽に強いプロデューサーの田原正聖(現・正利)や音響監督の明田川進とともに宇宙戦艦の艦隊戦シーンのBGMにクラシック音楽を使用する演出を行った。
無類のSF好きだった。『宇宙戦艦ヤマト』には様々なSF関係者が多数参加しているが、最終的な画作りやビジュアル面における石黒のSF的発想力の影響力は特に大きかった。
● 参加作品
◎ テレビアニメ
◎ 劇場アニメ
◎ OVA
● 著書
・
● 出演
・ インターネットラジオ『ハラショー』 - 「談話室オヤカタ アーカイブ」第180回・第181回(2008年)
「石黒昇」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2024年9月21日9時(日本時間)現在での最新版を取得
好き嫌い決勝
好き嫌い準決勝
好き嫌い準々決勝
好き嫌い7位決定戦
好き嫌いTOP10圏内確定戦
映画監督の無作為ピックアップ
Powered by