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片山右京


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片山 右京(かたやま うきょう、男性、1963年5月29日 -)は、神奈川県相模原市出身のレーシングドライバー、登山家、自転車競技選手。KATAYAMA PLANNING株式会社 代表取締役。 神奈川県相模原市の名誉観光親善大使、白山ジオトレイル名誉顧問、大阪産業大学工学部客員教授。

● 来歴


◎ 生い立ち
東京都生まれ、神奈川県相模原市(南区)鵜野森育ち。相模原市立鹿島台小学校に通い、登山愛好家だった父の影響もあり、この頃から自転車や登山にいそしむ。将来は植村直巳のような地球をめぐる冒険をしたいと憧れていた少年だった。 中学・高校は、日本大学第三中学校・高等学校に進学。陸上部に入部し、長距離走の選手だった。大学の体育学部への進学を志望していたが、受験日直前にオートバイの転倒事故を起こし負傷。片山本人は体に無理をしてでも受験する気でいたが、負傷していることを親に知られそんな身体で受験は無理だとたしなめられ大学受験を断念する。日大三高では福王昭仁(元プロ野球選手)と立川志らく(落語家)が同期生だった。

◎ レースデビュー
たまたまガールフレンドの家のテレビに映っていた『モナコグランプリ』の映像で見た海沿いのコースを猛スピードで走っている光景を「別世界での出来事」に感じ衝撃を受け、レーシングカーが欲しいと衝動的に思ったのをきっかけに、三つの仕事を掛け持ちして資金を貯め、ようやくかなりぼろぼろの中古ツーリングカーを購入。
○ 1989年
亜久里の仲介もあり、由良拓也率いるムーンクラフト(フットワーク)に加入したが、同年の「ムーンクラフト・MC040」はマシンバランスが悪く、熟成不足のオリジナルシャーシでの参戦であったために、3戦でリタイアなど結果が出なかった。また同チームより国際F3000選手権にも遠征しスポット参戦したが、同様の理由から低迷した。このシーズンについて「僕にもっと開発能力があればオリジナルマシンでももっとやれたと思うし、由良さんも去年チャンピオンを取ったのに右京になったら調子が落ちたって思ってるかもしれない。」と悔しさを述べている、翌シーズンもティレルで走ることとなった(ベネトンにはジョニー・ハーバートが乗ることになる)。 後にこのシーズン印象に残る走りが出来た理由として、実姉が出産時の事故で他界したことと、自らが癌であると診断された事(後に誤診と判明)を挙げている。
・ 出走回数:16戦
・ 獲得ポイント:5
・ 予選最高位:5位(ドイツGP、ハンガリーGP)
・ 決勝最高位:5位(ブラジルGP、サンマリノGP)
○ 1995年
1995年は「今年の注目ドライバーはウキョウ・カタヤマだ」と、当時フランスのTF1で解説をしていたアラン・プロストに言わしめた。 右京はチームに「チームメイトはとにかく速いヤツにしてくれ」とオーダーしていたが、チームメイトにミカ・サロを迎えると、サロの母国のフィンランドの携帯電話メーカー「NOKIA」がメインスポンサーになり、サロが結果を出すにつれてチーム体制が急激にサロ寄りに変化してしまった(右京がオーバーステアを好むのに対して、サロはアンダーステア傾向のセッティングを希望しており、ドライビングスタイルが全く正反対なことも災いした)。また、油圧形式ダンパーのハイドロリンク・サスペンションを独自開発したが開発体制が脆弱で熟成できず、通常のサスペンションへ戻すといった混乱もあり低迷した。 そんな中、決勝レースでは上位につけることもありサンマリノGPではシューマッハが原因不明のトラブルでクラッシュするなど波乱の中、後半6位まで追い上げた他、ベルギーGPでは雨中でスリックタイヤのまま走行を続け、16番手から4位まで浮上。3位のマシンを7秒速いペースで追い上げたが、セーフティカーが導入されるとタイヤが冷えてしまいクラッシュした。ポルトガルGPではスタート直後の多重接触事故に巻き込まれ、引っくり返ったマシンがコマのように回転するという激しいクラッシュで病院に搬送された。次のヨーロッパGPはドクターストップにより欠場し、復帰後もしばらく後遺症に悩まされた。 不調の原因の一端は右京のトレーニング方法に問題があったとの話もある。右京は1994年の戦績を上回るべくシーズン前にハードなトレーニングを行ってきた。無暗に重い負荷を掛け筋力を増強する方法だった。当時の右京は「10 kgを10回上げるのと100 kgを一回上げるのは同じ」と考えていた。体が一回り大きく見えるほどに筋肉を付けたが、引き替えに敏捷性を奪う結果となった。また筋力が増したことにより酸素の消費量が増え、走り始め早々から酸欠状態に陥り腕が上がらなくなっていたと語っている。F1ドライバーに必要なのは300 km走りきる間、同じ動作を正確に繰り返す筋肉であり、筋肉の性質を考慮せずにトレーニングを行ったことは自分の首を絞める結果となった。 また、この年から担当のレースエンジニアがサイモン・パーカーからティム・デンシャムになった事で、仕事の進め方の細かい部分での行き違いがありエンジニアとの関係構築に時間が掛かっていた。
・ 出走回数:16戦
・ 獲得ポイント:0
・ 予選最高位:11位(ブラジルGP)
・ 決勝最高位:7位(ドイツGP)
○ 1996年
前年の広告面での成果が想定より悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退、チームは資金難となる(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)。 またこの年の右京とティレルとの契約がなかなか合意に達しない間にも新シャーシ(ティレル024)の開発は進行しており、既にチームと契約済みだったミカ・サロの体型(身長175cm)に合わせてコクピット形状が決められていた。その為、身長165cmの右京には大きすぎるコクピットになってしまい、対策としてシートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。トップチームへの移籍を見越してチームと95年の単年契約を結んだ事が結果的に仇となった。 その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切れ角にズレが生じてしまう事になった(右京はこの現象を「手アンダー」と呼んでいた)。敷金難から右京用のシャーシの製作が遅れたこともあり、シーズン中盤までこの現象に悩まされた。ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした「奇策」まで実行された(危険であるとして、FIAから即刻禁止を言い渡されている)。 夏からは翌年に向けシート交渉が活発化し、ケン・ティレルからは慰留されたが、同年限りでヤマハエンジンを失うことが決定しており、さらにチームメイトのサロ寄りの体制になったことに不満を抱いていたことから、ティレルと袂を分かつことが決定的となる。 4年仕事を共にしたヤマハエンジンは、97年からアロウズへ供給先を変更することを発表。これまでのヤマハとのつながりの深さから「片山もアロウズへの移籍が最有力か」との報道も多くされていたが、空席のセカンドドライバー(アロウズのナンバーワンドライバーには既にウィリアムズからチャンピオンのデイモン・ヒルの加入が発表済であった。)には、名前こそ明言しなかったが「日本人ドライバーを乗せることはない」とアロウズ代表のトム・ウォーキンショーが早々にアナウンスする事態となり、本人の「人間片山右京が終わるわけではない」との発言もあって、移籍か引退かの報道が過熱することとなった。この時点でシートの空席はすでに少なくなっており、スポンサーの絡みもあって、移籍するならばザウバーかミナルディの二択に事実上絞られることとなった。
・ 出走回数:16戦
・ 獲得ポイント:0
・ 予選最高位:12位(イギリスGP)
・ 決勝最高位:7位(ハンガリーGP)
○ 1997年
結局、97年シーズンはフラビオ・ブリアトーレがオーナーとなっていたミナルディに移籍することになった。ナンバーワンドライバーとして、またのんびりと家庭的なイタリアのチームを、闘う集団とするための立て直しのリーダーとして、チーム改革を期待されての移籍であった。 チームメイトはルーキーのヤルノ・トゥルーリ(第8戦からはタルソ・マルケスに交代)。このルーキードライバーに片山自身も惜しみなくアドバイスを送り、良好な関係を築いている。(シーズン序盤、トゥルーリが好走をすると、「右京のアドバイス通りに走った」とコメントするのが常であった。) この年はマシン性能から明らかなる苦戦が予想されていたものの、開幕戦のオーストラリアGPでは前年までと遜色ない予選15番手を獲得し、関係者を驚かせ健在ぶりを示した。しかし、シーズンが進むにつれ、他チームのマシン性能がアップデートされていくとミナルディの戦闘力不足はいかんともしがたく、F1参戦を通じて最多となるシーズン8戦で完走を果たしたものの、同じV8エンジンユーザーの古巣ティレルとのテールエンダー争いに終始した。チームからは働きを評価され翌年の契約延長のオファーをもらい、複数チームから移籍オファーもあったとされるが、「後進にF1シートを譲りたい」との理由で、日本GPにて同年限りでのF1引退を発表、最終戦をもって引退した。この決断の理由として「チームメイトのルーキー、ヤルノ・トゥルーリの急激な成長を目にして、自分にはすでに伸びシロが無くなっていたことを認識させられた」と述べている。 F1通算での入賞回数3回(当時は6位以内)はF1ドライバーとしてはごくごく平凡な記録であり、また入賞を記録したのも1994年シーズンのみであったが、その1994年シーズンの速さによって、日本人ドライバーがF1で優勝することをファンに現実的に感じさせてくれた初めてのドライバーであると言われる。F1通算出走回数は95戦。この95戦という記録は、引退から26年を経た2023年時点においても日本人ドライバーの中では歴代最多であり、遺した足跡は大きい。
・ 出走回数:17戦
・ 獲得ポイント:0
・ 予選最高位:15位(オーストラリアGP)
・ 決勝最高位:10位(モナコGP、ハンガリーGP)

◎ ル・マン24時間レース
その後、1998年からはトヨタよりル・マン24時間耐久レースにワークス参戦し、特にトヨタ・GT-One TS020を駆った1999年の同レースは、優勝車BMW V12 LMRを終盤にファステストラップの連続で追い詰め、結局タイヤバーストで惜しくも2位に甘んじたが、その走りは内外のレース関係者に深い印象を残した。 しかも、バースト時の速度は約204 mph(=328 km/h)であったが、二車線しか無い公道区間にもかかわらずスピンすることなく体勢を立て直すなど、まさに「カミカゼ・ウキョウ」の健在とその実力が未だトップレベルにあることを証明するレースとなった。

◎ その他のカテゴリー
その後は、同じく関係の深いトヨタ系チームから全日本GT選手権や、ダカールラリー、アジアクロスカントリーラリーなどにも参戦した。他にも、F1現役時代から、FJ1600やフォーミュラ・トヨタなどのジュニアフォーミュラや、F3を中心に活動するレーシングチーム「ル・ボーセ・モータースポーツ」を、F3時代からの担当メカニックだった坪松唯夫と運営した(2019年に活動終了)。また、2007年11月からスタートしたスピードカー・シリーズにも参戦していた。 2011年はグッドスマイルレーシングとStudieが運営するチームにTeamUKYOが参加、スポーティングディレクターに就任した。2012年も継続してスポーティングディレクターを務めると共に、チームが2台体制になったのに伴い4号車の監督を兼務した。2014年からはグッドスマイルレーシングがエントラントとなり体制変更を受けてチーム監督に就任した。

◎ 登山
F1現役当時から登山を趣味としており、北米キリマンジャロなどに登頂。幼少期、元々は父親の影響で登山家・冒険家を志していたという。F1引退後は登山をライフワークと位置づけ活動。2001年にはチョ・オユー登頂に成功。2002年にはエベレスト登頂にチャレンジしたが、途中断念した。2006年にはマナスルの登頂に成功した。 2007年にはガッシャーブルムII峰に遠征。天候不順により登頂を断念した。この遠征中に、竹内洋岳を含むドイツ隊の5人が雪崩に巻き込まれる事故が発生。酸素ボンベの提供などの救援活動に従事している。 2009年12月17日、南極大陸のヴィンソン・マシフ登頂に挑戦するための訓練として、自身が経営する片山プランニングの社員2名と共に富士登山中に遭難した。翌19日の正午過ぎ6合目付近で男性2人の遺体が発見され、行方不明となっていた社員2名と確認された。同日に記者会見が行われ、片山の事務所は同月25日から予定していた南極行きの中止を発表。片山自身も以降の登山活動を自粛していたが、警察の捜査終了後、翌年3月24日より再開した。 これを受けて日本山岳協会理事長の尾形好雄は「冬の富士山で一番怖いのは突風であり、風によって滑落、転倒するのが冬富士の遭難の典型」と指摘している。また、「無理はせず、強い風が吹けば引き返すのが当たり前」と発言している。

◎ 自転車
2000年代に入ってからは自転車関連の事業も手がけ、ロードレースに選手として参加。2006年のシマノもてぎレース2時間エンデューロ2人クラスで初めてながら4位に入る健闘を見せる。2008年のエタップ・デュ・ツールでも日本人最高位で完走を果たした。他にオリジナルマウンテンバイクの開発や、今中大介のインターマックスとも提携している。さらに2005年からは女子自転車競技チーム「チーム・エレファント」の監督も務めた。 2009年より活動を開始した宇都宮ブリッツェンにもドライバー・スタッフ(当初はメンタル・アドバイザー)として参加。2010年のジャパンカップ・クリテリウムにおいて、宇都宮ブリッツェンの選手としてデビューする。2011年は「宇都宮ブリッツェン・TeamUKYO」のチーム名義でJBCF(実業団)Jエリートツアーに参戦した。 2012年には宇都宮ブリッツェンを離れ、新たにTeamUKYOとして国際自転車競技連合 (UCI) 登録のコンチネンタルチームを設立、自ら監督を務める傍ら右京自身も「TeamUKYO Reve」(Reveはフランス語で「夢」の意)のチーム名義で引き続きJエリートツアーに参戦している。 2018年には全日本実業団自転車競技連盟 (JBCF) の理事長に就任。 2020年6月に全日本実業団自転車競技連盟 (JBCF) の理事長を退任、理事を辞職。 2020年11月、翌年開始のジャパンサイクルリーグのチェアマンに就任。 2021年7月 - 2021年8月に開催された、東京オリンピック・パラリンピックの自転車競技のスポーツマネージャーを務めた。

◎ その他の活動
現役時代には子供番組「ウゴウゴルーガ」にゲスト出演。F1引退後はフジテレビのF1中継番組「F1グランプリ」に解説者のひとりとして出演し、熱い語り口を聞かせている。また、am/pmなどのテレビCMや様々なバラエティ番組、ドラマ『水戸黄門』に出演するなど、タレントとしての活動も行っている。自身をメインパーソナリティーとする、ラジオやテレビのレギュラー番組も持っている。 前述の富士山登山中の遭難事故により、2009年12月18日より全てのTV・ラジオ番組の出演を無期限で休止していたが、翌年3月23日に復帰することを発表した。現在は引き続きフジテレビCSのF1中継の解説者を務め、2014年9月より開幕するFIAフォーミュラE選手権のテレビ朝日のテレビ中継の解説者を務めた。

● 年表

・ 1983年 - 筑波FJ1600Bクラスデビュー
・ 1984年 - 鈴鹿FJ1600Aクラスチャンピオン
・ 1985年 - 全日本F3(チーム:ハセミモータースポーツ)(マシン:ハヤシ322日産)最高位4位、1FL シリーズ6位
・ 1986年 - フランス フォーミュラ・ルノー参戦
・ 1987年 - フランス フォーミュラ・ルノー参戦 フランスF3 スポット 参戦
・ 1988年 - 全日本F3000参戦(チーム:BA-TSUレーシング)(マシン:マーチ87B&ローラT88/50無限)最高位5位 シリーズ11位
・ 1989年 - 全日本F3000(チーム:フットワーク)(マシン:ムーンクラフト040&041無限)最高位7位。国際F3000スポット参戦 同チーム同マシンにより参戦。
・ 1990年 - 全日本F3000(チーム:ヒーローズ)(マシン:ローラT90/50無限&DEV)最高位2位、1FL シリーズ5位
・ 1991年 - 全日本F3000(チーム:ヒーローズ)(マシン:ローラT90/50&T91/50DEV)2勝、2PP、2FL シリーズチャンピオン
・ 1992年 - F1参戦(チーム:ラルース)(マシン:ベンチュリLC92ランボルギーニ)最高位9位、トヨタTS010にてルマン24時間レース出場 決勝15時間後/192周回目にエンジントラブルでリタイヤ
・ 1993年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル020C&021ヤマハ)最高位10位
・ 1994年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル022ヤマハ)最高位5位 シリーズ17位
・ 1995年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル023ヤマハ)最高位7位
・ 1996年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル024ヤマハ)最高位7位
・ 1997年 - F1(チーム:ミナルディ)(マシン:ミナルディM197ハート)最高位10位、F1引退表明。
・ 1998年 - ルマン24時間耐久レース参戦(チーム:トヨタ・チーム・ヨーロッパ)(マシン:トヨタTS020 GT-ONE)総合9位
・ 1999年 - ルマン24時間耐久レース参戦(チーム:トヨタ・チーム・ヨーロッパ)(マシン:トヨタTS020 GT-ONE)総合2位
・ 2000年 - JGTC(GT500)参戦(チーム:NISMO)(マシン:日産・スカイラインGT-R(R34))シリーズ11位 非選手権セパン戦で優勝。
・ 2001年 - JGTC(GT500)TeamUKYOを設立(マシン:トヨタ・スープラ)
・ 2002年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア JGTC(GT500)(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・スープラ)シリーズ27位 シーズン中下田隼成にシートを譲り降板。
・ 2003年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア ルマン24時間耐久レース(チーム:KONDO Racing)(マシン:童夢S101無限)総合13位
・ 2004年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア
・ 2005年 - ダカールラリー参戦(チーム:トヨタ車体)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)総合30位、クラス3位。 大阪産業大学工学部交通機械工学科の客員教授に就任。交通機械工学を講義する。アジアクロスカントリーラリー参戦(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)
・ 2006年 - アジアクロスカントリーラリー参戦(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)バイオディーゼル燃料を利用して完走。総合14位
・ 2007年 - ダカールラリー参戦(チーム:TeamUKYO ECOプロジェクト)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)使用済み天ぷら油をリサイクルして燃料としたディーゼル車にて完走。総合68位、クラス19位
・ GP2アジアシリーズとの併催で2007年冬より新たにスタートするストックカーレース、スピードカーシリーズへの参戦を発表。F1時代からの友人であるジャン・アレジやジョニー・ハーバートから熱心に誘われ、実際にテストをしてみてから本人が決断したとのことで、久々にサーキットレースへの復帰を果たす。
・ 2009年 - 南米移転後のダカールラリー参戦(チーム:TeamUKYO ECOプロジェクト、マシン:トヨタ・ランドクルーザープラド)。ステージ5でエンジンオーバーヒートによりリタイア。

● レース戦績


◎ 全日本F3選手権

1985年 オートルックハセミモータースポーツ ハヤシ・321 (R1)
ハヤシ・322 (R2-R7) 日産   SUZ
  FSW
  SUZ
  TSU
  NIS
  SUZ
  SUZ
 6位  38


◎ フランス・フォーミュラ3選手権

1986年 オートルック・レーシングプロジェクト デュケン・VG4 アルファロメオ 55 / 64  NOG  ALB  MAG  PAU  LAC  ROU   LEC
Ret   ALB
Ret   BUG
Ret   LED
17   CET
14     NC 0
 1987年 オートルック RGプロジェクト デュケン・VG5 トヨタ    23   ALB
17   NOG
DNQ   MAG
DNQ  DIJ   LEC
15   PAU
10  ROU               NC   0
AA Sport ラルト・RT31 VW GX                 LEC
10  LAC  NOG  BUG  LED  CET


◎ 国際F3000選手権

1989年 フットワーク・フォーミュラ ムーンクラフト・MC041 無限・MF308 23    SIL
DNQ    VLL
Ret    PAU
DNQ    JER
18   PER   BRH   BIR   SPA   BUG   DIJ NC 0


◎ 全日本F3000選手権

1988年 BA-TSU RACING TEAM    SUZ
11    FSW
Ret    NIS
Ret    SUZ
7    SUG
5    FSW
8    SUZ
12    SUZ
Ret       11位 2
1989年 Footwork FORMULA    SUZ
9    FSW
Ret  NIS    SUZ
Ret    SUG
Ret    FSW
15    SUZ
18    SUZ
7       NC 0
1990年   CABIN RACING with HEROES    SUZ
Ret    FSW
3    NIS
5    SUZ
Ret    SUG
12    FSW
5    FSW
2    SUZ
3    FSW
Ret     SUZ
DSQ   5位 18
1991年    SUZ
1    AUT
4    FSW
9    MIN
Ret    SUZ
1    SUG
6    FSW
2    SUZ
2    FSW
C    SUZ
10    FSW
2    1位    40


◎ F1

1992年 ヴェンチュリー LC92    RSA
12    MEX
12    BRA
9    ESP
DNQ    SMR
Ret    MON
DNPQ    CAN
Ret    FRA
Ret    GBR
Ret    GER
Ret    HUN
Ret    BEL
17    ITA
9    POR
Ret    JPN
11    AUS
Ret   25位 0
  1993年   ティレル 020C    RSA
Ret    BRA
Ret    EUR
Ret    SMR
Ret    ESP
Ret    MON
Ret    CAN
17    FRA
Ret    GBR
13                   28位   0
021                      GER
Ret    HUN
10    BEL
15    ITA
14    POR
Ret    JPN
Ret    AUS
Ret  
1994年 022    BRA
5    PAC
Ret    SMR
5    MON
Ret    ESP
Ret    CAN
Ret    FRA
Ret    GBR
6    GER
Ret    HUN
Ret    BEL
Ret    ITA
Ret    POR
Ret    EUR
7    JPN
Ret    AUS
Ret   17位 5
1995年 023    BRA
Ret    PAC
8    SMR
Ret    ESP
Ret    MON
Ret    CAN
Ret    FRA
Ret    GBR
Ret    GER
7    HUN
Ret    BEL
Ret    ITA
10    POR
Ret   EUR    PAC
14    JPN
Ret    AUS
Ret 20位 0
1996年 024    AUS
11    BRA
9    ARG
Ret    
DSQ    SMR
Ret    MON
Ret    ESP
Ret    CAN
Ret    FRA
Ret    GBR
Ret    GER
Ret    HUN
7    BEL
8    ITA
10    POR
12    JPN
Ret   17位 0
1997年 ミナルディ M197    AUS
Ret    BRA
18    ARG
Ret    SMR
11    MON
10    ESP
Ret    CAN
Ret    FRA
11    GBR
Ret    GER
Ret    HUN
10    BEL
14    ITA
Ret    AUT
11    LUX
Ret    JPN
Ret    EUR
17 24位 0


◎ 全日本GT選手権

1999年 TOYOTA Castrol TOM'S    鈴木利男 トヨタ・スープラ GT500   SUZ
3  FSW   SUG
11   MIN
2   FSW
15   TAI
15   TRM
10   15位 28
2000年 NISMO    ミハエル・クルム 日産・スカイラインGT-R GT500  TRM   FSW
2   SUG
11   FSW
6   TAI
11   MIN
Ret   SUZ
4   11位 31
2001年 TOYOTA TEAM CERUMO WITH UKYO    近藤真彦   トヨタ・スープラ GT500   TAI
12   FSW
14   SUG
13   FSW
14  TRM   SUZ
Ret   MIN
13   NC 0
2002年 TOYOTA TEAM CERUMO    近藤真彦 GT500   TAI
15  FSW   SUG
9  SEP  FSW  TRM  MIN  SUZ 27位 2


◎ 全日本GT選手権 (ノン・チャンピオンシップ)

1996年   TOYOTA Castrol TEAM     関谷正徳   トヨタ・スープラ GT500    CEN
4  
1997年 GT500    TRM1
Ret    TRM2
5
1999年 TOYOTA Castrol TEAM TOM'S     鈴木利男 GT500    AUT
Ret  
2000年 NISMO     ミハエル・クルム 日産・スカイラインGT-R GT500    SEP
1  
2001年 TOYOTA TEAM CERUMO WITH UKYO     近藤真彦 トヨタ・スープラ GT500     SEP
11  


◎ ル・マン24時間レース

1988年    クラージュ・コンペティション    ポール・ベルモンド
フランソワ・ミゴール    クラージュ・C22-ポルシェ   C1   66   DNF   DNF
1992年    トヨタ・チーム・トムス    ジェフ・リース
デビッド・ブラバム    トヨタ・TS010   C1   192   DNF   DNF
1998年     トヨタ・モータースポーツ    鈴木利男
土屋圭市     トヨタ・GT-One   GT1   326   9位   8位
1999年    鈴木利男
土屋圭市   LMGTP   364    2位    1位
2002年    ペスカロロ・スポール    エリック・エラリー
ステファン・オルテリ    クラージュ・C60-プジョー   LMP900   144   DNF   DNF
2003年    KONDO Racing    近藤真彦
福田良    童夢・S101-無限   LMP900   322   13位   8位


◎ 全日本ツーリングカー選手権

1989年 IDEMITSU RACING
With Footwork FORMULA    村松栄紀 JTC-3 ホンダ・シビック   NIS
4   SEN
Ret   TSU
Ret   SUG
3   SUZ
1   FSW
8


● 人物
キャリア初期は資金に苦しみ、主戦場であった筑波サーキット近辺の自動車工場で住み込みでアルバイトに明け暮れながらレースに参戦するという日々だった(住み込みならば部屋代がかからず、レース資金も稼げ、お下がりのレーシングパーツを入手できることもあったため)。主戦場が鈴鹿サーキットになった時には、白子の浜辺にブルーシートを設け野営し、トレーニングを兼ねランニングをしながらサーキットへ行きレースをしていた。1988年に帰国してからは、やはり憧れの存在であった高橋徹(1983年死去)のカラーデザインにアレンジを加え蛍光赤ラインを入れたものに変更、以後このデザインで定着しF1でも使用していた。 F1マシンに初めて「乗った」のは1987年日本GPの木曜日で、帰国し鈴鹿のピットを訪れていた右京がAGSのピット前でタイヤ交換練習をしていたクルーに無理を言ってJH22のコクピットに乗せてもらった。そのコクピットはロベルト・モレノ用のシートで、小柄なモレノのシートが同じく小柄である右京に非常にフィットし、ミラーで見える大きなリヤタイヤに驚くとともに、絶対F1で戦うぞという闘志が沸いたという。 ティレル在籍中の1994年に、ベネトンへの移籍話が持ち上がったことがあり、後年のインタビューでは詳しい経緯を語っている。それによると、ベネトンのフラビオ・ブリアトーレから紙とペンを突きつけられ、「ここに今すぐサインをしろ。これで来年からは我々の仲間だ」と迫られたという。右京は逡巡したが、応援してくれている人々やメインスポンサーである日本たばこ産業の意向を確認しなければと思い、「ちょっと待ってくれ。」と即答を拒んだ。直後に会ったミハエル・シューマッハに「よう来年からよろしく」と肩を叩かれ、「それが、まだサインしていないんだ」と答えると、「なぜだ?こんなチャンス悩む必要があるのか?」と驚かれたという。「今から考えれば、あの時迷わずにサインをしていたら、運命は違っていただろうね。まぐれでも1、2回優勝できたかもしれない」と無念さをにじませている。 このベネトンへの移籍に関しては、ティレルとの契約を破棄することから生じる違約金がネックであり、片山の個人スポンサーと移籍先となるベネトンのメインスポンサーは共にJT(マイルドセブン)で共通してはいたが、逆に共通していたからこそJTからの理解を得ることが難しかった部分があった。JT側としては、それまで4台のマシン(ティレル2台とベネトン2台)にマイルドセブンのロゴが入っていたのが、片山がベネトンに移籍するとティレルのマシンに入っていたロゴが無くなってしまうことになり、支払うスポンサー料が変わらないにもかかわらず、広告掲載の台数が2台減ってしまう現実があった。また、ベネトン側も違約金までは捻出してはくれず、最終的に移籍を断念したというのが事実のようである。翌年、片山が座るかもしれなかったベネトンのシートでジョニー・ハーバートが2勝を挙げたこともあり、移籍が実現しなかったことを惜しむ声がある。 ヨーロッパのファンから「ぜひ漢字のサインを」と頼まれ、「どうせ『片山右京』と書いたところで、分からないだろう」と、面白がって『広東風炒飯』『餃子四個』などと書いたことがある。またティレル在籍中には、マーク・ブランデルとでたらめな言葉で会話して「マークが日本語をしゃべってる?」と周囲を驚かせるいたずらをしばしば行っていたほか、F1デビュー年だった1992年のチームメイトは前年に「スプレー事件」で逮捕され騒動となったベルトラン・ガショーだったが、「最初、ああいう事件になっちゃったりしたし怖い奴なのかなと思ってたけど、常識人だし根はすごくいい男でしたよ。僕が落ち込んでたら励ましてくれたり、ミーティングの時におまえあのスプレー持ってないだろうな?とか悪い冗談言っても全然怒らなかったですから」など、母国語以外の言葉で「悪いジョーク」を言う一面がある。同年のあるグランプリで木曜日にドライバー数名が呼ばれ開かれる公式記者会見で欧州の記者から「新しい英語のジョークを覚えたんだって?」と質問され、ニキ・ラウダとスネークというブラックジョークを披露し、同席したドライバーと記者陣を驚かせた。

● ドライビング

・ マシンセッティングの好みはオーバーステア寄りのセッティングを好み、コーナー入口ではワイドなラインかつハードブレーキングで入り路面に食いつかせ、アクセルを踏みこんでスライドさせながらコーナーを立ち上がっていくスタイルであった。しかし1990年から所属したヒーローズレーシングの田中弘監督からは「その走り方だと日本のレースでは勝てないよ。」と指摘され、日本の高性能のタイヤを活かすためにタイヤの負担を減らし、アクセルを踏み込み過ぎず、効率よくタイヤを活かすための頭を使った走りを求められた。このため本来の「踏んでしまう」スタイルを自制する必要があり、全日本F3000で結果を残すために走行スタイルを「日本式」にアジャストした。
・ しかし1992年からF1デビューすると、F1用のグッドイヤータイヤの特性からすると「日本の走り方では全くタイムが出ない」ため、コーナー出口でのトラクションの掛け方を変える必要があった。それは自分本来の走り方に戻す方向であったが、「日本の走り方が身に染みついちゃって、簡単に元に戻らないんですよ(笑)」と1992年モナコGP後に述べている。その席では「もともと横Gを掛けて乗るのが好きなんだけど、日本でそういう走り方をすると田中監督にすぐ叱られましたね。日本でグッドイヤーに向いてる走り方をして、コーナーを外から思い切り入って横Gを掛けると、日本のタイヤはコーナーの中でタイヤがつぶれる動きになるんです。コーナー出口ではそれが反発する動きになって、オツリみたいな感じでマシンをふらつかせてしまう。僕の90年とか、ジョニー・ハーバートが日本で苦労したのもそのせいなんですよ。」と走り方の違いを語っている。
・ティレルでチームメイトのミカ・サロは右京のスタイルについて、「良いドライバーなのは間違いない。ただ、マシンテストのときは、僕とはドライビングのスタイルが極端に違っていたのでセッティングの共有は全くできなかった。僕よりもブレーキング・ポイントがすごく深くまで入るワイルドなスタイルだ。右京のセッティングの好みはオーバーステア気味の仕上がりだけど、僕はオーバーステアが嫌い。こんな感じで共通点がほとんど無いので、走った後のマシンの感想も違ってしまう。これは開発するハーベイ・ポスルスウェイトにとって困った問題だったかもしれないね。」と語っている。 このほか、ドライビングの悪い癖を直し、サーキットの走行時間を増やしたいという理由から、現役レーサーとしては珍しくドライビング・コーチについて練習していた。長年の付き合いである先輩・鈴木亜久里は「右京はフォーミュラはいいけど、ツーリングカーだと速くないよね(笑)」と右京本人に話したのに対して「その通りでございます」と返答している。

● 出演


◎ テレビ

・ トップランナー
 ・ 1999年7月23日NHK総合テレビで放送。
・ 課外授業ようこそ先輩
 ・ 2001年9月23日「君の体は心が動かす」NHK総合テレビで放送。
・ 自転車つれづれ旅日和
 ・ 2011年10月4日からBS-TBSで放送。
・ Car散歩〜車で巡るちょっと贅沢な休日旅〜
 ・ 2013年4月からBSフジで放送。
・ 片山右京の02POSITION
 ・ 2013年4月からテレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ放送で放送。

◎ テレビドラマ

・ 水戸黄門 第32部第11話「紅花咲かせた豪傑女医」(2003年10月27日) - 松平忠雅 役

◎ ラジオ

・ TOYOTA Presents 片山右京のShall We Drive?〜ドライブしようよ〜
 ・ 2005年10月より2009年3月までTBSラジオ他JRN各局で放送されていたラジオ番組。
・ feel the mind〜最上の出会い〜
 ・ 2009年4月6日から2011年4月までTBSラジオ他JRN各局で放送されていたラジオ番組。富士山遭難事故のため、事故当日(当日は放送休止)から翌年4月まではつなぎ番組および辰巳琢郎が代理パーソナリティを務めた。
・ NEXCO中日本 DRIVE ON THE HEART
 ・ TOKYO FMのラジオ番組。NEXCO中日本管轄エリアのJFN各局で放送。富士山遭難事故のため出演休止、そのまま降板(後任は永井大)。
・ 玉川美沙 ハピリー
 ・ 文化放送の番組。「片山右京・玉川美沙 Radio Koguuu(レディオ・コグー)」のコーナーに出演(2012年4月〜)
・ 片山右京 DREAM REVIEW
 ・ 文化放送の番組。(2018年4月〜)

◎ テレビCM

・ 日本たばこ産業(1992年-1993年)
・ トヨタ・カローラレビン(1993年)
・ am/pm(1996年-1997年)
・ 横浜ゴム(2018年-2019年)
・ ミロク情報サービス(2020年-)

◎ ゲーム

・ 『ヘブンリーシンフォニー』(メガCD)では、F1選手として登場した。
・ 『F1GP』(3DO)では、F1選手として登場した。

「片山右京」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年5月3日23時(日本時間)現在での最新版を取得

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