ランキング131位
獲得票なし
ランキング94位
獲得票なし
鈴木 亜久里(すずき あぐり、1960年9月8日 -)は、元レーシングドライバーで実業家、株式会社アルネックス代表取締役。東京都板橋区出身。身長:180cm。 血液型A型。
中嶋悟に次ぐ日本人2人目のF1フルタイムドライバー。
● 経歴
◎ 生い立ち
東京都で生まれる。父親の鈴木正士(愛称:ジャッキー)はフランス領マルティニーク出身のフランス人と日本人の間に生まれたハーフで、亜久里自身はクォーターになる。名前の"亜久里"は、根本進の漫画『クリちゃん』に登場する兄弟(「アッちゃん」と「クリちゃん」)が由来である。
父・正士(1936-2011)は神戸生まれで愛媛県新居浜市、千葉県市川市で育ち、習志野市の東邦大学付属東邦高等学校卒業後、日本大学芸術学部で演劇を学び、日大応援団長も務めたのち、ホンダ航空で整備に携わった。レーサーの浮谷東次郎とも親交があり、浮谷から教わったレーシングカートの普及に携わることになる。1973年にカートショップ「ビック」を設立し、日本自動車連盟のカート委員も務めた、トヨタ系の舘が日産系セントラル20のオーナーで舘の親友である柳田春人(柳田真孝の父)を紹介した。
○ グループA/グループC
その縁で亜久里は1984年に日産のF3エンジン開発を任され、1985年、ワークス活動を再開した日産(ニスモ)のワークスドライバーに抜擢される。全日本ツーリングカー選手権(グループA)にニスモからスカイラインRSターボで参戦、また全日本耐久選手権(グループC)にも柳田とのコンビでローラ・T810/日産で参戦することになった。亜久里はそのキャリアで初めて参戦資金を気にしないでレースに専念できることになった。
翌1986年、テスト中の事故で死去した萩原光の後任に指名され、ニスモにとって初挑戦となるル・マン24時間レースに星野一義・松本恵二とのトリオで初挑戦(結果はリタイア)。この年はグループAにてシリーズチャンピオンを獲得。カートからフォーミュラカーに進んだが、初タイトルを取ったカテゴリーはツーリングカーレースとなった。
○ F2/F3000
またこの頃オイルの輸入業によって資金を得たことで、富士GCシリーズ参戦の機会を得た。そこでの走りがヤマハエンジンの名チューナーとして名を馳せた松浦賢、ムーンクラフトの由良拓也の目に留まり、1986年の全日本F2最終戦からムーンクラフトのシートを獲得する。
1987年、新装となった全日本F3000選手権に参戦。大手運送会社のフットワークという大口スポンサーを掴んだことに加え、上述の松浦とのつながりからヤマハがコスワースDFVをベースに開発したコスワース・ヤマハOX77エンジン(5バルブ仕様)のワークスとなったことで勝てる体制を得て、1987年にはシリーズ2位、翌1988年には星野一義とのチャンピオン争いに勝ちシリーズチャンピオンを獲得した。この88年には日本のF3000とスケジュールがぶつからない日程の国際F3000選手権にもスポット参戦で挑んだが、レイナードとローラのシャーシが優勢だったヨーロッパにマーチ・88Bでの参戦だったことで予選を通過するのがやっとだった。その状況でポー市街地コースを劣勢のマーチシャーシで予選通過したこと、決勝日朝のウォームアップ走行で6位のタイムを出したことで欧州のメディア陣から注目を浴びた。エイドリアン・レイナードやゴードン・コパックなど現地にいたマシンデザイナーたちも「マーチで予選を通過するとは思わなかった」と、そのアタックを讃えた。
◎ F1時代
○ F1デビュー
既にザクスピードと契約し翌1989年のF1デビューを決めていた亜久里であったが、1988年10月30日決勝の日本GPに、中耳炎により急遽欠場となったヤニック・ダルマスの代役としてラルースチームからスポット参戦という思わぬ形でF1デビューを飾る。
この時、亜久里はフジテレビF1中継のゲスト解説者として鈴鹿入りする際の東海道新幹線内でF1参戦決定を知らされ、急遽後発のスタッフに自身のヘルメットを持参させ、 フィリップ・アリオーのレーシングスーツを着用してレースに臨んだ。しかしノンターボエンジン搭載の非力なマシンと、セッティングも万全ではなくレース中に数回のスピンを喫しながら16位で完走。ラルースからは次戦オーストラリアGPの出走もオファーされたが、日本でのレース参戦が事前に決まっていたため都合がつかずに断念している。
○ 全戦予備予選落ち
1989年には満を持してザクスピード・ヤマハでF1にフル参戦を開始。しかし、この年のザクスピード・ヤマハのマシンは致命的に戦闘力が不足しており、ヤマハOX88・V8エンジンもパワーが不足していた。ザクスピードスタッフの技術力もトランスミッションのギアの順番を間違えて組んでしまう未熟さで、亜久里はこの年「シーズン全16戦全て予備予選落ち」という不名誉な記録を作ってしまう。
予備予選向けの仮設チームガレージには、予備予選落ちを繰り返し、思うようなタイムが出せない、走らない車に「捨てちまえよ、こんな車!」と亜久里のそんな怒気を帯びる声が響くこともあった。ちなみにチームメイトのベルント・シュナイダーも16戦中予備予選通過は2回のみ(開幕戦のブラジルGPと日本GP)であった。
○ 日本人初の表彰台
1990年は、自身のパーソナル・スポンサーであった伊東和夫(エスポ・コミュニケーションズ社長)が、この年よりチームオーナーとなっていたラルースチームに移籍。
バランスがよく扱いやすいローラ製のシャーシにパワーのあるランボルギーニV12エンジンを搭載したラルースのマシンは、シーズンが進むにつれて戦闘力を発揮するようになる。この年ラルースは予備予選を課せられていたが、チームメイトのエリック・ベルナールともども前半戦は全戦通過。前半戦でのポイント獲得で後半戦の予備予選が免除となった。また、この予備予選の1時間も戦闘力アップのための格好なテストとなっていた。
まずまずの戦闘力を持つマシンを手にし、「これでダメなら引退」との思いで臨んだシーズン中盤のイギリスGPで6位初入賞し、終盤のスペインGPでも再び6位入賞を記録。次戦日本GPでは上位勢がクラッシュなどで離脱する波乱のレースを、一時はファステストラップを記録して生き残り、ついに3位初表彰台を獲得した。これは2004年アメリカGPで佐藤琢磨が3位入賞するまで、長い間アジア人ドライバーとして唯一のF1における表彰台だった。また日本人ドライバーの母国グランプリでの表彰台は、2012年に小林可夢偉が3位表彰台に上がるまで唯一のものであった。
この日本GP前には、ベネトン代表のフラビオ・ブリアトーレからオファーを受け、1991年からの3年契約に合意していた。ラルースとの2年契約がもう1年残っていたが、すでにチームの資金不足が深刻化しており、「今年限りで撤退するからなんとかなるだろう」と思っていたという。しかし、他の日本系スポンサーの支援でチームは存続し、亜久里の契約も引き継がれたため、ベネトンへの移籍話も実現しなかった。とは言え、代わりにベネトンに加入したロベルト・モレノがイタリアGPでミハエル・シューマッハに交代させられたため、「移籍できたとしても、どのみちクビだったかもしれない」と語っている。
また、1990年は経験不足を補うため、F1のほかにトヨタから世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)にもエントリーをして二足の草鞋を履くという努力をしている。当時のWSPCはほぼF1と同じサーキットで開催されており、予備予選の僅かな時間しか走行できないハンデをWSPCに出場する事で補っていた。
○ 苦難の始まり
1991年のシーズン開幕前に、チームは前年のコンストラクターズポイントの剥奪処分を受けた。ローラ製シャシーを使用していたにもかかわらず、コンストラクター名を「ラルース」と誤った名称でエントリーしたことが理由とされた。また、ポイントを失ったことにより予備予選の対象とされるとも発表された(その後の裁定で、実際には予備予選の対象からは外された)。この処分によって前年のコンストラクターズランキング10位までのチームに与えられる移動手段(FOCA便)の使用権が剥奪されたが、ラルースの移動費用はFOCAにより補填された。
1993年はシーズン途中にマクラーレン製のアクティブサスペンションを購入してから、マシンバランスに起因するハンドリング不良を打ち消すことに成功、予選トップ10の常連となる。特にベルギーGPでは当時の日本人予選最高位タイの6番手(初日5位)に入り、90年鈴鹿での表彰台の再来が大いに期待された。しかし、FA14はギアボックスのトラブルが多く、第9戦イギリスGPから第15戦日本GPまで7戦連続でリタイアを喫してしまい、最終戦のオーストラリアでも7位に終わってしまった。
結局フットワーク時代の2年間は、表彰台はおろか入賞さえもできずに終わってしまう。チームメイトに迎えたミケーレ・アルボレート(92年)とデレック・ワーウィック(93年)の両ベテランドライバーが、老練なる走りにて着実にポイントを獲得したこともあり(特に92年のアルボレートは11戦連続完走し、そのシーズン最も決勝レースにて周回数を稼いだ)、亜久里のドライバーとしての評価も微妙なものとなってしまった。
チームオーナーの大橋渡が計画したチーム監督ジャッキー・オリバーの更迭失敗による確執や、フットワーク本体の経営不振に伴うチーム運営からの撤退、亜久里自身の成績もあり、(亜久里自身は「チームとしては運営継続されるのだから移籍はしない」とは話していたが)1993年のシーズンオフにはとうとうフットワーク(アロウズ)のシートを失ってしまう。無限ホンダエンジンを搭載することとなったロータスと移籍交渉があったが合意に至らず、結局1994年のシートを得られないまま浪人となった。
○ F1浪人
1994年には、かつての恩人・舘信秀の誘いを受け、亜久里の提示する条件をトヨタが飲む形でトムスから全日本ツーリングカー選手権(JTCC)に参戦した。
だが、F1への復帰は諦めておらず、開幕のブラジルGPにて多重クラッシュの要因を作ってしまったことにより、レース出場停止中となったエディ・アーバインの代役として、第2戦パシフィックGPに、ジョーダンから1戦のみスポット参戦した。リタイア直後、ピットリポーターの津川哲夫が「次…(じゃあ、頑張って下さい)」と発すると、「次、無いんだ」との返答をしている。当意即妙ではあったものの、このシーズンの亜久里の立場をよく表すものであった。
元々亜久里自身はスポット参戦には否定的であった。その理由は、スポット参戦と言う僅かな時間で実力を発揮する事の難しさと自身の責任に依らないリタイア等でキャリアに傷を付けてしまうリスクが非常に高い故であった。ルーキーなら兎も角、すでにキャリアを積んでいる亜久里にとってはデメリットの方が大きかった(ジョーダンからは続くサンマリノGPとモナコGPへのオファーもあったが亜久里自身が断っている)。しかしそれを覆しスポット参戦したのは周りからの強い要望(特にパシフィックGPのスポンサーからの要望)があったゆえである。
○ F1復帰と引退
1995年には無限エンジンを積むリジェチームと、オリビエ・パニスのチームメイトとして契約した。しかし開幕直前になって、マネージングディレクターのトム・ウォーキンショーが推すマーティン・ブランドルとシートをシェアする形になることが発表され、亜久里はわずか6戦に参戦するに留まった。ウォーキンショーが必要としたのは無限エンジンであり、その為に日本人ドライバーである亜久里を起用したに過ぎなかったためである。また、トム・ウォーキンショー・レーシング (TWR) が運営していた耐久レースのジャガーチームで活躍したブランドルを優先させたいという思惑もあった。
亜久里サイドは全戦契約のつもりであったようだが、契約締結後、日本に帰国した時にはブランドルとのシートシェアがチームから発表されているなど、チーム側(特にウォーキンショー)の不可解な契約解釈もあり、ブランドルでさえ日本にいる自身のファンの反応を気にするなど、亜久里の扱いに同情が集まることとなった。
こうした逆風の中、開幕のブラジルGPでは8位でレースを終え、優勝のミハエル・シューマッハと2位デビッド・クルサードが1度は失格という判定が出されたため、6位入賞とされたが、その後に再度その判定が覆ったため、ノーポイントとなるが、ドイツGPでは実に4年振り(51戦振り)となる6位入賞を果たしたものの、チームメイトのパニス、そしてシートシェアしたブランドルの両者は、そのシーズンに表彰台にも登っており、さしたるアピールとはならなかった。
ひそかに亜久里は最後の花道を飾るつもりで、その年の日本GPに臨んだ。予選後には引退会見を行うつもりだったが。その後イギリスの保険会社アムリンをメインスポンサーに迎えたことからチーム名を「スーパーアグリ・フォーミュラEチーム」から「アムリン・アグリ・フォーミュラEチーム」に改名した。鈴木はエグゼクティブ・チェアマンとしてチームに関わる。2015-2016シーズンは、アムリンがメインスポンサーから離れたため、「チーム・アグリ」としてエントリーして参戦。結局同シーズンの終了後にチームを中国の投資家グループに売却してフォーミュラEから撤退した。
2024年3月、フォーミュラEの東京 E-Prixが初開催された際には、現地選出のレーススチュワード(競技委員)として運営に携わった。
● その他
・ 2歳の頃、既に父親のベンツを立ったままで運転して近所を周っていた。
・ カート時代に同い年のアイルトン・セナと知り合い、レースをしたり2人で写真を撮る仲だった。F1ジャーナリストの川井一仁とも同い年。
・ 幼少期に両親は離婚しており、亜久里は母親に引き取られたが、カートを始めるのを機に、父親と住むことになった。
・ F3時代、足車のカローラには型落ちになったF3用レースエンジン(腰下が同じ)を積んでいた。あるレースからの帰宅途中、前方でトレーラが切り替えしを始めたがスピードが出ていたため止まり切れず、トレーラーのオーバーハングに突っ込んだ。当該カローラはピラーから上の上屋はすべて取れた(本人曰く「コンバーチブルになった」)が、亜久里自身は無傷であった上に車も自走可能であったため、実地検分を終えた後、積んであったレース用ヘルメットをかぶって運転して帰ったところ親に怒られたという。
・ F3参戦と並行しながら城西大学の大学生としても生活し、トムスで梱包や電話番等のアルバイトをしていた。但し本人曰くトムスでのバイトは「学生バイトのノリ」だったとの事。アルバイト中に舘信秀から「大学に通ってても偉くはなれないから」と進言されて中退した。大学では理学部に在籍していたが、「毎日実験室に行かないといけなかった」「酒飲んだり友達と麻雀して遊んだけど暗かった」と大学生活を振り返っていた。
・ F3デビュー当初は成績不振でかつ金欠だったため、転職を考えていた事もあるが、父親が自動車のオークション販売をやっていた事もあり、亜久里自身も車を買い取り乗りまわした後にメンテナンスをして転売をしていたことや、輸入物のオートマチックトランスミッション用のミッションオイルの販売を手掛けたことから、金銭的にも余裕が出て来たため参戦続行となった。
・ 全日本F3000参戦中の1987年、スポンサーだったフットワークの大橋渡に「優勝したら何が欲しい?」と問われ亜久里は「ポルシェが欲しいですね。」と答えた。第8戦の鈴鹿で優勝を果たすと、大橋からタミヤのプラモデル(ポルシェの1/24モデル)を手渡された。数日後、本物のポルシェ・911のキーが届いた。
・ ゴルフ場に行った際当時の愛車だったメルセデス・ベンツ・SLクラスが盗難されたことがある。
・ 1989年12月のテストで、初めてラルースのランボルギーニエンジン搭載車に乗った直後は非常に上機嫌で、「もう全然違うよ、何が違うって全部だよ全部。はじめてF1マシンに乗ったよ。踏めばちゃんと進むし、ミッションはカチッと入るし、ダウンフォースもあって路面に食いついて曲がる。これがF1だよ、今までは別クラスだった。」とコメントした。
・ 上記の内容もあるが、リタイア時に再現性の低いメカニカルトラブルを理由に挙げており、ザクスピードのメカニックからは嫌われていたとスポーツ雑誌等に取り上げられていた。
・ 1990年から2シーズン在籍したラルースチームについて、「ジェラール・ドゥカルージュとミッシェル・テツの2人は本当にレースが好きなレースエンジニアのおじさんという感じで、このチームでは欧州でありがちな日本人に対する差別とか意地悪なんか一回も無かった。苦労もしたけどいいチームでしたよ」と述べている。
・ 逆に1992年からは2シーズン在籍したフットワークに関しては「そもそもあのチームは好きじゃなかった。オリバーはやる気がなく、金勘定しか頭にない。あの人の元でレースはしたくない。」「ジェンキンスがデザインしたマシンは全部一緒で、とにかく思うままに乗れなかった」「すごいオーバーステアで、速度が上がるほどフロントのダウンフォースが増えていくようなマシンだから、高速コーナーでは怖くてアクセルが踏めなかった」「ニューウェイ、バーナード、バーン、ポスルスウェイトのマネしかできない」と痛烈に批判しており、チームメイトだったデレック・ワーウィックも「やる気があったのは大橋オーナーだけ」と亜久里に同調していた。
・ 1993年のシーズンオフ、翌年からハイテクが禁止される事について「ハイテク機能が禁止されるのはちょっと残念」と語っている。
・ 上述の通り、1994年、JTCCに参戦するにあたって「日本人の若手を積極的に起用して育成すること」をトヨタに約束させていたにもかかわらず、トヨタがワークスチームに外国人ドライバーを続々と送り込んだためトヨタとは絶縁状態にある。しかしながら、若い頃引退の危機を救ったトムスの舘信秀への敬愛の念は変わらず、読売新聞のインタビューで舘のことを「自分の父親のような存在」と語っている。
・ リジェで当初のフル参戦の予定からシートシェアへと変えさせられたトム・ウォーキンショーについては、五年後となる2000年のインタビューにて「僕、ウォーキンショウって好きですよ。彼と知り合ってF1のビジネスのやり方が勉強になった。あいつのやり方はおもしろい(笑)。でも僕は嘘をつけないしとぼけたりが出来ないから、ああいうふうには成れないかもね。ウォーキンショウはそういう部分うまいんだよ。」と好意的に話している。
・ ウォーキンショーとのその後の逸話として「'95年の当時は僕が(シートシェアになってしまって)いつまた走れるのかと悔しい思いもしたけど、でもトムは僕の100倍くらい痛手を負ってるんですよ。そのぶんの仕返しは充分にしたんです。どんな仕返しかはちょっと言えないけど、それがあってトムは僕のことを認めるようになったんだと思う。その後は対等な関係でビジネスの話をするようになったし、僕が向こうに行けばすごく丁寧に扱ってくれる。」と話し、水面下での駆け引きでウォーキンショーとビジネスの戦いをしたと示唆している。
・ 息子の瑞翔(みずは)の妻は、元テレビ東京アナウンサーでフリーアナウンサーの秋元玲奈。息子の妻の姉は、フジテレビ元アナウンサーの秋元優里。
・ 1992年にはスーパーファミコン用ゲームソフト「鈴木亜久里のF1スーパードライビング」、1993年には同タイトルのゲームボーイ版が発売されていた。
・ 「テリー土屋のくるまの話」にゲスト出演した際、癌を3回患った事を公表した(胃癌、肺癌、前立腺癌)。
● 主な出演CM
・ 日産自動車「ラングレー」(1986年 - 88年)
・ 東芝「ダイナブック」「メッセ」(1989 - 92年)
・ GEO(1989 - 90年)
・ オートバックスセブン
・ 興和「バンテリン1.」「0%エアロゲル」(2006年)
・ 花壇自動車大学校(2021年)
● レース戦績
◎ 全日本F3選手権
1979年
チーム伊太利屋w/テツ
ラルト・RT1
トヨタ・2T-G
SUZ
FSW
TSU
FSW
13
SUZ
NIS
SUZ
7
17位
4
1980年
ハヤシ・カーズ
ラルト・RT1
SUZ
4
TSU
12
FSW
7
NIS
TSU
Ret
FSW
SUZ
SUZ
13位
14
1981年
マーチ・803
SUZ
5
TSU
6
FSW
15
NIS
3
SUG
C
TSU
11
NIS
DNS
SUZ
SUZ
6
7位
32
1982年
ハヤシ・320
SUZ
2
FSW
2
NIS
2
SUZ
Ret
SUG
3
NIS
5
SUZ
4
TSU
3
SUZ
4
4位
92
1983年
ハヤシ・321
SUZ
1
NIS
1
SUG
Ret
SUZ
2
TSU
3
SUZ
2
SUZ
4
2位
62
1984年
セントラル20
マーチ・793
日産・FJ20
SUZ
NIS
FSW
SUZ
TSU
SUZ
5
TSU
1
SUZ
Ret
7位
28
1985年
NISMO
マーチ・793 (Rd.1-3)
ラルト・RT30 (Rd.4-7)
SUZ
1
FSW
3
SUZ
4
TSU
2
NIS
1
SUZ
20
SUZ
6
2位
77
◎ 全日本F2選手権,全日本F3000選手権
1985年
NCスピード
SUZ
FSW
MIN
SUZ
SUZ
FSW
DNS
SUZ
8
SUZ
10
16位
4
1986年
ムーンクラフト
SUZ
FSW
MIN
SUZ
SUZ
FSW
SUZ
SUZ
6
13位
6
1987年
Footwork Sports レーシングチーム
SUZ
2
FSW
2
MIN
4
SUZ
3
SUZ
2
SUG
Ret
FSW
Ret
SUZ
1
SUZ
1
2位
107
1988年
SUZ
2
FSW
1
MIN
1
SUZ
1
SUG
Ret
FSW
2
SUZ
2
SUZ
Ret
1位
45
◎ 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)
1983
パナスポーツ・ジャパン
本橋敏夫
MCS・グッピー/BMW
Cjr
SUZ
SUZ
FSW
Ret
1984
オートバックスレーシングチームwithウチダ
星野薫
童夢・RC-83i/フォード
C1
SUZ
TSU
SUZ
Ret
FSW
DNS
1985
セントラル20
柳田春人
LM・04C/日産
ローラ・T810/日産
C1
SUZ
Ret
FSW
Ret
FSW
Ret
SUZ
Ret
FSW
8
FSW
33位
1.5
1986
パーソンズレーシーングチーム
松本恵二
マーチ・86G/日産
C1
SUZ
FSW
5
FSW
12
SUZ
Ret
FSW
Ret
FSW
Ret
8
1987
ハセミモータースポーツ
長谷見昌弘
マーチ・86G/日産
マーチ・87G/日産
C1
SUZ
8
FSW
Ret
FSW
Ret
SUZ
22
FSW
Ret
FSW
8
42位
6
1988
NISMO
長谷見昌弘
日産・R88C
C1
FSW
Ret
SUZ
8
FSW
8
FSW
3
SUZ
3
FSW
12
11位
30
◎ 世界耐久選手権,世界スポーツプロトタイプカー選手権
1982年
トムス
舘信秀
星野薫
トムス童夢・セリカC
C
MNZ
SIL
NÜR
LMN
SPA
MUG
FSW
5
BRH
55位
8
1983年
パナスポーツ・ジャパン
本橋敏夫
MCS・グッピー/BMW
Cjr
MNZ
SIL
NÜR
LMN
SPA
FSW
Ret
KYA
NC
0
1984年
オートバックスレーシンングチームwithウチダ
ルパート・キーガン
童夢・RC-83i/フォード
C1
MNZ
SIL
LMN
NÜR
BRH
MOS
SPA
IMO
FSW
DNS
KYA
SUN
NC
0
1985年
セントラル20
柳田春人
ローラ・T810/日産
C1
MUG
MNZ
SIL
LMN
HOC
MOS
SPA
BRH
FSW
8
SHA
1.5
1986年
NISMO
星野一義
松本恵二
日産・R86V
C1
MNZ
SIL
LMN
Ret
NOR
BRH
JER
NÜR
SPA
NC
0
パーソンズレーシングチーム
松本恵二
C1
FSW
Ret
1987年
NISMO
長谷見昌弘
和田孝夫 (Rd.5)
日産・R87E
C1
JAR
JER
MNZ
SIL
LMN
Ret
NOR
BRH
NÜR
SPA
FSW
Ret
NC
0
1988年
星野一義
和田孝夫
長谷見昌弘 (Rd.10)
日産・R88C
C1
JER
JAR
MNZ
SIL
LMN
Ret
BRN
BRH
NÜR
SPA
FSW
12
SUN
NC
0
1990年
Taka-Qトヨタ・チーム・トムス
ジョニー・ダンフリーズ
ジェフ・リース (Rd.4)
トヨタ・90C-V
Cat.2
SUZ
20
MNZ
Ret
SIL
SPA
DNS
DIJ
NÜR
DON
MTL
MEX
NC
0
◎ マカオグランプリ
1985年
ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル
日産
14
19
Ret
NC
◎ 国際F3000選手権
1988年
フットワーク スポーツ
マーチ・88B
コスワース DFV
23
JER
VLL
PAU
11
SIL
DNQ
MNZ
PER
NC
0
レイナード・88D
BRH
Ret
BIR
BUG
ZOL
DIJ
◎ F1
1988年
ローラ/ラルース
LC88
BRA
SMR
MON
MEX
CAN
DET
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
ESP
JPN
16
AUS
NC
(35位)
0
1989年
ザクスピード
891
BRA
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
DNPQ
MEX
DNPQ
USA
DNPQ
CAN
DNPQ
FRA
DNPQ
GBR
DNPQ
GER
DNPQ
HUN
DNPQ
BEL
DNPQ
ITA
DNPQ
POR
DNPQ
ESP
DNPQ
JPN
DNPQ
AUS
DNPQ
NC
(44位)
0
1990年
ローラ/ラルース
LC89
USA
Ret
BRA
Ret
12位
6
LC90
SMR
Ret
MON
Ret
CAN
12
MEX
Ret
FRA
7
GBR
6
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
14
ESP
6
JPN
3
AUS
Ret
1991年
LC91
USA
6
BRA
DNS
SMR
Ret
MON
Ret
CAN
Ret
MEX
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
DNQ
ITA
DNQ
POR
Ret
ESP
DNQ
JPN
Ret
AUS
DNQ
22位
1
1992年
フットワーク (アロウズ)
FA13
RSA
8
MEX
DNQ
BRA
Ret
ESP
7
SMR
10
MON
11
CAN
DNQ
FRA
Ret
GBR
12
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
9
ITA
Ret
POR
10
JPN
8
AUS
8
NC
(20位)
0
1993年
FA13B
RSA
Ret
BRA
Ret
NC
(24位)
0
FA14
EUR
Ret
SMR
9
ESP
10
MON
Ret
CAN
13
FRA
12
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
JPN
Ret
AUS
7
1994年
ジョーダン
194
BRA
PAC
Ret
SMR
MON
ESP
CAN
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
EUR
JPN
AUS
NC
(42位)
0
1995年
リジェ
JS41
BRA
8
ARG
Ret
SMR
11
ESP
MON
CAN
FRA
GBR
GER
6
HUN
BEL
ITA
POR
EUR
PAC
Ret
JPN
DNS
AUS
17位
1
(key)
◎ 全日本ツーリングカー選手権(JTC)
年
チーム
コドライバー
使用車両
クラス
1
2
3
4
5
6
順位
ポイント
1985
NISMO
長谷見昌弘
日産・スカイラインRSターボ
DIV.3
SUG
Ret
TSU
NIS
2
SUZ
2
FSW
7
1986
和田孝夫
NIS
1
SUG
1
TSU
2
SEN
2
FSW
4
SUZ
1
1位
1987
ハセミモータースポーツ
長谷見昌弘
NIS
Ret
SEN
9
TSU
Ret
SUG
Ret
FSW
Ret
SUZ
2
1988
リコー NISMO
アンデルス・オロフソン
日産・スカイラインGTS-R
JTC-1
SUZ
1
NIS
1
SEN
TSU
SUG
6
FSW
Ret
◎ 全日本ツーリングカー選手権(JTCC)
1994年
TOYOTA TEAM TOM's
トヨタ・コロナ
OAR1
OAR2
SUG1
SUG2
TOK1
TOK2
SUZ1
SUZ2
MIN1
MIN2
TAI1
TAI2
TSU1
TSU2
SEN1
SEN2
FSW1
FSW2
5位
102
◎ 全日本GT選手権
1996年
ZEXEL NISMO
福山英朗
日産・スカイラインGT-R
GT500
SUZ
4
FSW
Ret
SEN
7
FSW
3
SUG
5
MIN
3
6位
42
1997年
エリック・コマス
マルコ・アピチェラ (Rd.2)
GT500
SUZ
1
FSW
4
SEN
2
FSW
10
MIN
9
SUG
3
4位
60
1998年
影山正彦
GT500
SUZ
Ret
FSW
C
SEN
2
FSW
7
TRM
11
MIN
5
SUG
9
8位
29
1999年
ARTA ZEXEL NISMO
ミハエル・クルム
アルミン・ハーネ (Rd.2)
GT500
SUZ
5
FSW
11
SUG
9
MIN
12
FSW
12
TAI
2
TRM
2
6位
40
2000年
Autobacs Racing Team Aguri
土屋圭市
ホンダ・NSX
GT500
TRM
7
FSW
Ret
SUG
15
FSW
1
TAI
Ret
MIN
Ret
DSQ
13位
24
◎ 国際ツーリングカー選手権
1996年
UPS メルセデスAMG
メルセデス・Cクラス
bgcolor= HOC1
bgcolor= HOC2
bgcolor= NUR1
bgcolor= NUR2
bgcolor= EST1
bgcolor= EST2
bgcolor= HEL1
bgcolor= HEL2
bgcolor= NOR1
bgcolor= NOR2
bgcolor= DIE1
bgcolor= DIE2
bgcolor= SIL1
bgcolor= SIL2
bgcolor= NUR1
bgcolor= NUR2
bgcolor= MAG1
bgcolor= MAG2
bgcolor= MUG1
bgcolor= MUG2
bgcolor= HOC1
bgcolor= HOC2
bgcolor= INT1
bgcolor= INT2
bgcolor='CFCFFF' SUZ1
bgcolor='FFFFFF' SUZ2
NC
0
◎ FIA GT選手権
1997年
Mercedes AMG
メルセデス・CLK-GTR
GT1
bgcolor= HOC
bgcolor= SIL
bgcolor= HEL
bgcolor= NUR
bgcolor= SPA
bgcolor= A1R
bgcolor='CFCFFF' SUZ
bgcolor= DON
bgcolor= MUG
bgcolor= SEB
bgcolor= LAG
NC
0
◎ ル・マン24時間レース
1986年
NISMO
星野一義
松本恵二
日産・R86V
C1
64
DNF
DNF
1987年
長谷見昌弘
和田孝夫
日産・R87E
C1
117
DNF
DNF
1988年
星野一義
和田孝夫
日産・R88C
C1
286
DNF
DNF
1990年
Taka-Qトヨタ・トムス
ジョニー・ダンフリーズ
ロベルト・ラヴァーリア
トヨタ・90C-V
C1
64
DNF
DNF
1996年
NISMO
影山正彦
近藤真彦
日産 NISMO・GT-R LM
GT1
209
DNF
DNF
1997年
NISMO
TWR
リカルド・パトレーゼ
エリック・ヴァン・デ・ポール
日産・R390 GT1
GT1
121
DNF
DNF
1998年
星野一義
影山正彦
GT1
347
3位
3位
1999年
NISMO
影山正美
エリック・ヴァン・デ・ポール
日産・R391
LMP
0
DNS
DNS
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