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菊田 早苗(きくた さなえ、1971年9月10日 -)は、日本の男性総合格闘家。東京都練馬区出身。GRABAKA主宰。元ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシスト。ADCC 2001 88kg未満級 優勝。
明治大学名誉教授・弁護士の菊田幸一を父に持つ。
● 来歴
小学6年生で身長が170cmあまりあった。小学校6年の時に佐山聡のスーパータイガージムに入門。しかし当時のスーパータイガージムはフィットネスクラブのような感じであったため物足りなさを感じてすぐに退会してしまった
。
日本体育大学体育学部武道学科に進学し、柔道部では古賀稔彦の指導を受けるが、スクールカラーが体育教員養成系である日体大にあって体育教師志望でなかったため休学。その後、新日本プロレスやUWFインターナショナルに入門するも前者は1週間で破門(同期は小島聡、FUNAKI、池田大輔)、後者は脱走という形で退団。その後、プロレスから逃げた者に居場所はないからと就職しようと考えたが柔道部の恩師に不動産屋を紹介されると「なんでもいいから儲かりたいんじゃない」と考えUWFインターナショナルへの出戻りを決意。しかし出戻りを決意してうけたテストでは脱水症状になるまで体を動かした末に山本喧一とスパーリングを行うという過酷なプログラムを課され、腕を折られる。結果は不合格。試合は顔面のカットによるドクターストップでTKO勝ちを収め王座獲得に成功した。
2002年8月8日、UFO LEGENDでアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦し、右ストレートでKO負け。
2002年12月、GRABAKAジムを東京都中野区にオープン。
2003年11月30日、ライトヘビー級キング・オブ・パンクラス タイトルマッチで近藤有己と対戦し、左フックでKO負けを喫し王座陥落した。
2005年8月、練習中に右足内腿靭帯を部分断裂。10月2日に予定されていた近藤との3度目のタイトルマッチは中止となった。
2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005で瀧本誠と対戦。判定勝利を収めるものの試合後にDSEの榊原社長から試合内容について苦言を呈された。
2007年12月31日のやれんのか 大晦日 2007で同じGRABAKAに所属する三崎和雄
● 人物・エピソード
・ 特技はピアノ演奏。
・ 日体大時代は非常に過酷な生活をしていた。1年生の柔道部員は7畳の部屋で7人が寝るという扱いであり、ウォークマン、サンダル、短パンは規則で禁止されていた。他にも食堂以外でものを食べているところを他人に見られてはならず、もし見られたら夜中に1年生の部員全員呼び出されて鉄拳制裁を受けた。初めて日体大の寮で寝た時、天井を見たら「一年、雑草。二年、平民。三年、天皇。四年、神様」と書かれてあり、菊田は「これはヤバいところに来たな……」と思ったという。2年生になると髪を伸ばせるが、伸ばした者は通過儀礼として先輩達から鉄のスパイクで殴られ、殴られた者は頭部から血が勢いよく噴き出たという。
・ UWF時代は合宿所の中では田村潔司が絶対の立場であり、当時デビューしていた金原弘光ですら日曜日の外出は自由に出来ず、出掛ける際に「もし田村さんが来たら、ちょっとコンビニに行ってすぐに帰ってくるみたいだとか言ってごまかしておいてくれ」と新弟子に言ったほどである。その中でも菊田が辛いと思ったのは田村が入り終わるまで新人は入浴が許されなかったことであり、夜中の1時まで他の新弟子と共に無言でリビングで体育座りすることがざらであった。とうとう入浴をあきらめざるを得なくなり、我慢できなくなった菊田は入門して2週間ほど経過した頃、合宿所に自分一人という状況であったことをチャンスと思ってそのまま脱走した。
● 戦績
◎ 総合格闘技
◎ グラップリング
● 獲得タイトル
・ ザ・トーナメント・オブ・J '96 優勝(1996年)
・ ザ・トーナメント・オブ・J '97 ヘビー級 優勝(1997年)
・ ADCC 2001 88kg未満級 優勝(2001年)
・ 第2代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラス王座(2001年)
・ プロレス大賞 技能賞(2001年)
「菊田早苗」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2025年5月10日5時(日本時間)現在での最新版を取得




















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