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有馬 稲子(ありま いねこ、1932年4月3日。養父は家庭用品問屋で商工会議所議長なども務めていた。養母(伯母)の中西かねは1916年から1926年にかけて「有馬稻子」の芸名で宝塚歌劇団4期生として在団していた経歴があり、退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えていて、盛子も養母から踊りを習う。釜山公立高等女学校に入学するも、間もなく終戦を迎え、伯母の手配で引き揚げ船に乗り、下関に帰国する。当初は引き揚げ船で知り合った人物の世話になり、小倉で1か月滞在するも、大阪にいた盛子の実の両親が彼女の生存を知り、再会を果たす。しかし、実父に虐待を受けたり弟妹たちとの関係が上手くいかなかったため、自殺を考える時期もあったという。1945年秋、大阪府立夕陽丘高等女学校に編入する。 1948年、仲の良い友人が「ね、タカラヅカ、受けへん。音楽学校が生徒募集してるわ、あんたやったら受かるんちゃうか」と声をかけてくれたことがきっかけとなり、宝塚音楽学校に入学する。当時は宝塚への知識はまったくなく、ただ駅でよく美しいポスターを見掛けるぐらいだったため。 1955年に松竹へ移籍した。同様に東宝から移籍してきた岡田茉莉子と共に二枚看板として活躍。 1960年、3月30日から5月15日まで約1か月半、ヨーロッパを旅行する。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なヨーロッパ旅行となった。 1961年公開の『もず』(渋谷実監督)について、当初は杉村春子と岡田茉莉子が母娘役での出演とされていたが、最終的には淡島千景と有馬での製作となった。これは有馬が所属していた「にんじんくらぶ」が『もず』の権利を保有していたためだという。この件は「もず事件」としてマスコミで喧伝された。 1961年11月27日、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と結婚式を挙げる。1958年に有馬が持っていた雑誌の対談ページのゲストとして中村が訪れたのが、2人の出会いだった。その対談で中村と意気投合し、翌年映画で共演すると、撮影10日目に「結婚を前提に付き合ってもらえないか」と言われ、快活な彼に惹かれて結婚を決めた。披露宴の招待客は約1000人以上、用意されたウェディングケーキは高さ2メートルで当時の値段で16万円、と日本映画界を代表するトップスター同士の結婚にふさわしい、当時としては破格の豪華結婚式だった。また、2人の結婚を祝して「有馬錦」という銘柄の日本酒も造られた。さらに中村の父親から900坪の土地を京都に与えられ、そこに150坪の邸宅を構えた。しかし、そこでの家事生活は過酷なもので、昼も夜も台所に立つ日々に疲れてしまい、これが離婚の一因になってしまったという。また、結婚後中村が、毎晩自宅に共演者やスタッフを十数人も連れてきては大宴会を開いた結果、夫婦水入らずの時間が全くなかったのも原因とされる。後年、有馬は「当時も今も錦ちゃんのことが大好きですが、家庭には向かない人でした」と回想している。その後は主に舞台とテレビドラマを中心に活躍する。 自著『バラと痛恨の日々』(1995年)などで、初婚前にある映画監督と不倫関係にあったことを告白している。2010年4月、『私の履歴書』(「日本経済新聞」)でもこの不倫と堕胎について触れ、赤裸々な連載が話題となった。有馬自身は映画監督の実名を公表していないが、一部のマスコミは市川崑であると実名報道している。 2013年7月17日、宝塚大劇場で開催された「宝塚音楽学校創立100周年記念式典 百年(ももとせ)の道〜いま新しき未来へ〜」に、八千草薫、天海祐希、檀れい(司会を担当)達と共に出席した。 2014年、宝塚歌劇団創立100周年記念で創設された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人の一人として殿堂入りを果たした。 田園調布の自宅を引き払い、2007年より横浜市の中高年向けの高級分譲マンションでひとり暮らしをしている。住民同士でガーデニングの会を立ち上げて、共有の庭にある「モネコ・ガーデン」(画家のクロード・モネが「ジヴェルニー」という美しい庭が由来)の世話を楽しむなど魅力的なライフワークをメディアで語ることも多い。
「有馬稲子」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2024年4月19日17時(日本時間)現在での最新版を取得
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