ランキング6位
2票獲得
ランキング5位
獲得票なし
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サッカー
(男子)
サッカー
(女子)
サッカー
(アカデミー)
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異競技連携
サンフレッチェ広島F.C(サンフレッチェひろしまエフシー)は、日本の広島県広島市をホームタウンとする と外部からの招聘が2人続いている。なお、(株)サンフレッチェ広島はエディオンにとって特定子会社であり、マツダにとっては持分法適用関連会社にあたる。
クラブ名称の「サンフレッチェ」は、日本語の「三」およびイタリア語で矢を意味する「フレッチェ(frecce(複数形)」を合わせたもので、広島の戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなむ。
ホームスタジアムはエディオンピースウイング広島、練習場は安芸高田市サッカー公園。
低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った(サンフレッチェ広島F.Cの育成組織前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。
◎ Jリーグ創設前夜
プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。西日本では兵庫県以西で唯一、中国地方唯一の参加となった。
同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた(チーム名やチームカラー決定経緯についてはチーム名およびチームカラー節を参照)。
1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力・広島銀行など59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階
◎ 1992年 - 1994年(バクスター時代)
◇1992年
バクスターが監督に就任。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン、松田浩、望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった
徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍もあり、サントリーシリーズでは清水エスパルスと優勝争いを繰り広げたが、第19節の直接対決で2-1と勝利、第21節のジュビロ磐田戦では試合終了間際にチェルニーが決勝ゴール挙げて勝利し、この結果、初優勝を果たした。
この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏・佐藤康之・柳本啓成・森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを高く保ち裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神が魅力のチームだった、トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下 し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたためほとんどの選手はついていけず、リーグ年間52試合という過酷な日程の中、主力の高木・森保はケガから満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った。
その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義・笛真人や森秀昭・久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。
クラブ側は契約延長を望んだものの、ヤンセンは自身の了解なく次々と選手を放出するクラブに嫌気がさし退団した、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた。
同年末、クラブ経営難はピークに達し、筆頭株主でありメインスポンサーであるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中でありフォード自体も資金補充には否定的であったことから、クラブは経営危機に陥る。経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった。その結果、高木・森保・路木(以上1997年末)、柳本(1998年末)と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの のみだったため失望し、さらに観客動員は減少していった と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。
その中で、韓国Kリーグでその攻撃サッカーが評判になったロシア人ヴァレリー・ニポムニシ を監督招聘する、久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。
残留に向けオレグ・パシニンとセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。
ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任した。この際、ヴァレリーが新監督に推薦 したロシア人ガジ・ガジエフをクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。
◎ 2002年(ガジエフ・木村時代)
2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」と放出した、さらにはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村のケガで急遽獲得したミシェル・パンセ・ビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。同年7月、ガジエフは自身の親族の急病を理由 に帰国、事実上解任となった。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷する。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になる。しかし結果的には勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。
同年12月、責任を取って木村は辞任した。後任に小野が監督に昇格し、「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という「3ヵ年計画」をうちだした。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。
同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治がゼネラルマネージャーに就任した。
◎ 2003年 - 2006年(小野 / 小野・ペトロヴィッチ時代)
小野が監督に就任した以降の約3年間、「3年でJ1優勝争い」を合言葉にチームは積極的な戦力入れ替えを展開する。J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本主税の二人は移籍、古くからチームを支えた上村健一や桑原裕義・高橋泰などベテランや中堅の選手も多数放出する。その代わりに、佐藤寿人・茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たちや、他で実績のある小村徳男や戸田和幸・盛田剛平らのベテラン、セザール・サンパイオやリカルド・ベット・ジニーニョ・ウェズレイのブラジル人達を補強し、同時期に台頭した広島ユース から髙萩洋次郎・前田俊介・髙柳一誠などを高校生Jリーガーとして起用し、森崎兄弟と駒野を中心としたチーム作りを行った。
◇2003年(J2)
2003年のJ2では、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走したが、次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、1年でJ1昇格を決める(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)。
◇2004年
J1復帰初年のこの年、チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果は13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまう。
◇2005年
前年から起用してきた若手に補強組が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上するも、その後は下田崇の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁を誇り、佐藤寿は久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取りJ1日本人得点王にも輝いている。
同年には駒野が東アジアサッカー選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。
◇2006年
より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した。3年半に渡る小野体制はこれを以て終焉を迎えた。
後任に、GKコーチの望月一頼がドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任する。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリア人ミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。
新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘と柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)で叩き出した。その結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した。
また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。
◎ 2007年 - 2011年(ペトロヴィッチ時代)
◇2007年
前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、DFラインの選手が途中まで定まらなかったこともあり守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した。
これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定する。また、入れ替え戦終了直後には「J2降格なら代表選考を優先して退団やむなし」と目されていた佐藤寿が「1年でJ1に帰ろう」とサポーターの前で涙ながらに頭を下げ、その後届いたJ1クラブからのオファーを全て断り残留した。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した。
◇2008年(J2)
ウェズレイ、駒野友一は退団したものの、佐藤寿ら他の選手はチームに残留。続投するペトロヴィッチを含め、戦力の大半を維持して開幕を迎える。また、横浜FCを退団していた久保竜彦が6年ぶりに復帰した。
3月のゼロックス・スーパーカップで、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。リーグ戦でも勢いが留まることはなく、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した。
2008年以降のペトロヴィッチ時代の広島は、主力に常にケガ人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなったものの、戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・髙萩洋次郎・森脇良太・佐藤昭大・槙野智章・中林洋次など若手の台頭 がチームに大きく影響した。選手はチームとの契約期間満了により移籍金ゼロで移籍できることから選手の移動が活発となり、北京五輪U-23代表(西川周作・水本裕貴・李忠成)や、ペトロヴィッチと同様の戦術に慣れていたオシムチルドレン(中島浩司・山岸智・水本など)を移籍金ゼロあるいは従来より安い移籍金で獲得し選手層の厚みにつなげる一方で、柏木や槙野・李や佐藤昭や中林は移籍していった。外国人選手はそれまでのブラジル路線から、ミハエル・ミキッチやダビド・ムジリなど東ヨーロッパ系の選手を中心に獲得するようになった。
◇2009年
J1復帰の2009年、熟成したチーム戦術で躍進し、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。また天皇杯の結果により繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権を獲得し、前身大会を含めればアジアクラブ選手権1969出場以来41年ぶり2回目、チャンピオンズリーグ発足以後では初出場となった。
◇2010年
ACL初出場もグループリーグ敗退。しかし、3連敗からの3連勝と広島の意地をみせる大会となった。
リーグ戦では7位と、昨シーズンよりは成績が下がるも、成績としては悪くない結果となった。ナビスコカップでは史上初の決勝進出。結果はジュビロ磐田に5-3と敗戦も、記憶に残る名勝負となった。
◇2011年
当時サンフレッチェ広島所属の李忠成がアジアカップ決勝にてボレーを決め、優勝に貢献し、縁起のいい形で開幕することになったJ1リーグ。
しかし、3/11に東日本大震災が発生。開幕戦で被災地であるベガルタ仙台と対戦したのは広島であった。中断期間中、チャリティーマッチとしてガイナーレ鳥取との試合を行い、4-2で勝利した。試合前には両クラブの選手と横断幕で、被災地にエールを送った。サポーターからも日本コールが起こるなど、復興に向けて団結力のみられる試合となった。
リーグ戦の成績としては、2年連続の7位と健闘はみせるも、今シーズンも無冠となった。ペトロビッチ監督との最終のシーズンとなり、ホーム最終節では多くの感謝の声が集まり、惜しまれつつ別れを迎えた。またユニフォームでも変化のあるシーズンとなった。ナイキをユニフォームとして使用する最初のシーズンとなった一方、デオデオをユニフォームスポンサーとして戦う最後のシーズンにもなった。
◎ 経営改革
2012年にプロクラブ創設から20周年を迎えたが過去19年で20億円を超える累積赤字を出してしまい、その中で2013年から始まるクラブライセンス制度に対応するため、資本金約21億円を99%減資し累積赤字解消にあて、さらに約2億円の第三者割当増資を行うことになった。
2012年5月、すべての手続が完了した。資本金は21億1005万円から2億2030万500円、株主数は58から64。
減資を受け入れた株主に対し、クラブは経営改善の努力を行った。まず2011年末、長年監督としてチームを作り上げたものの高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念し、ムジリや服部公太・盛田剛平などベテラン勢を中心に構想外とし契約更新選手も減俸や微増に止め年俸総額を抑えていった。さらに2012年末、減資の責任を取る形で社長の本谷祐一が退任し、エディオン顧問の小谷野薫が新社長に就任した。
◎ 2012年 - 2017年(森保 / 森保・ヨンソン時代)
2010年 2月24日 ACL2010 グループリーグ 山東魯能泰山 広島ビッグアーチ ● 0-1
3月10日 浦項スティーラース 浦項スティールヤード ● 1-2
3月24日 アデレード・ユナイテッドFC ハインドマーシュ・スタジアム ● 2-3
3月30日 アデレード・ユナイテッドFC 広島ビッグアーチ ○ 1-0
4月13日 山東魯能泰山 山東省体育中心体育場 ○ 3-2
4月27日 浦項スティーラース 広島ビッグアーチ ○ 4-3
2012年 12月6日 FCWC2012 1回戦 オークランド・シティFC 横浜国際総合競技場 ○ 1-0
12月9日 FCWC2012 準々決勝 アル・アハリ 豊田スタジアム ● 1-2
12月12日 FCWC2012 5位決定戦 蔚山現代FC ○ 3-2
2013年 2月27日 ACL2013 グループリーグ ブニョドコル 広島ビッグアーチ ● 0-2
3月13日 北京国安 北京工人体育場 ● 1-2
4月2日 浦項スティーラース 広島ビッグアーチ ● 0-1
4月10日 浦項スティーラース 浦項スティールヤード △ 1-1
4月23日 ブニョドコル JARスタジアム △ 0-0
4月30日 北京国安 広島ビッグアーチ △ 0-0
2014年 2月25日 ACL2014 グループリーグ 北京国安 広島ビッグアーチ △ 1-1
3月11日 セントラルコースト・マリナーズ セントラルコースト・スタジアム ● 1-2
3月19日 FCソウル 広島ビッグアーチ ○ 2-1
4月1日 FCソウル ソウルワールドカップ競技場 △ 2-2
4月16日 北京国安 北京工人体育場 △ 2-2
4月23日 セントラルコースト・マリナーズ 広島ビッグアーチ ○ 1-0
5月7日 ACL2014 ラウンド16 ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ 広島ビッグアーチ ○ 3-1
5月14日 パラマタ・スタジアム ● 0-2
2015年 12月10日 FCWC2015 1回戦 オークランド・シティFC 横浜国際総合競技場 ○ 2-0
12月13日 FCWC2015 準々決勝 マゼンベ 長居スタジアム ○ 3-0
12月16日 FCWC2015 準決勝 リーベル・プレート ● 0-1
12月20日 FCWC2015 3位決定戦 広州恒大 横浜国際総合競技場 ○ 2-1
2016年 2月23日 ACL2016 グループリーグ 山東魯能泰山 広島広域公園陸上競技場 ● 1-2
3月1日 FCソウル ソウルワールドカップ競技場 ● 1-4
3月16日 ブリーラム・ユナイテッド 広島広域公園陸上競技場 ○ 3-0
4月5日 ブリーラム・ユナイテッド ブリーラム・スタジアム ○ 2-0
4月20日 山東魯能泰山 済南オリンピックスポーツセンター ● 0-1
5月4日 FCソウル 広島広域公園陸上競技場 ○ 2-1
2019年
2月19日
ACL2019 プレーオフステージ
チェンライ・ユナイテッド
広島広域公園陸上競技場
〇 0-0(PK4-3)
3月5日
ACL2019 グループリーグ
広州恒大
広州天河体育中心体育場
● 0-2
3月12日
メルボルン・ビクトリー
広島広域公園陸上競技場
〇 2-1
4月10日
大邱FC
広島広域公園陸上競技場
〇 2-0
4月23日
大邱FC
大邱フォレストアレーナ
〇 1-0
5月8日
広州恒大
広島広域公園陸上競技場
〇 1-0
5月22日
メルボルン・ビクトリー
レクタンレギュラースタジアム
〇 3-1
6月18日
ACL2019 ラウンド16
鹿島アントラーズ
カシマサッカースタジアム
● 0-1
6月25日
鹿島アントラーズ
広島広域公園陸上競技場
〇 3-2
◎ 国際大会出場選手
◇W杯
・ 1994年
・ 盧廷潤
・ 2006年
・ 駒野友一
・ 2014年
・ 青山敏弘
・ 黄錫鎬
◇コンフェデ杯
・ 1995年
・ 森保一
・ 柳本啓成
・ 2001年
・ 久保竜彦
・ 2013年
・ 西川周作
◇アジア杯
・ 1992年
・ 森保一
・ 高木琢也
・ 前川和也
・ 1996年
・ 高木琢也
・ 柳本啓成
・ 路木龍次
・ 2000年
・ 下田崇
・ 久保竜彦
・ 2007年
・ 駒野友一
・ 佐藤寿人
・ 2011年
・ 李忠成
・ 森脇良太
・ 2015年
・ 塩谷司
・ 2019年
・ 青山敏弘
・ 佐々木翔
◇夏季五輪(U-23代表)
・ 1996年
・ 上村健一
・ 下田崇
・ 路木龍次
・ 2004年
・ 駒野友一
・ 森崎浩司
・ 2012年
・ 黄錫鎬
・ 2016年
・ 塩谷司(オーバーエイジ枠)
◇アジア大会(A代表【1994年】 U-23代表【2002年~】)
・ 1994年
・ 森山佳朗
・ 高木琢也
・ 2002年
・ 駒野友一
・ 森崎和幸
・ 2006年
・ 青山敏弘
・ 佐藤昭大
・ 前田俊介
・ 2014年
・ 野津田岳人
・ 吉野恭平
・ 2018年
・ 松本泰志
◇U-20W杯
・ 1995年
・ 大木勉
・ 下田崇
・ 2001年
・ 駒野友一
・ 森崎和幸
・ 森崎浩司
・ 2003年
・ 茂木弘人
・ 2005年
・ 前田俊介
・ 吉弘充志
・ 2007年
・ 柏木陽介
・ 平繁龍一
・ 槙野智章
◇U-17W杯
・ 2007年
・ 岡本知剛
・ 原裕太郎
・ 2013年
・ 白岡ティモシィ
・ 宮原和也
◇アラカルト
・ 日本人初招集
・ 高木琢也:1992年5月31日キリンチャレンジカップ対アルゼンチン代表戦
・ 前川和也:同上
・ 森保一:同上
・ 日本人初国際Aマッチ出場
・ 高木琢也:1992年5月31日キリンチャレンジカップ対アルゼンチン代表戦
・ 森保一:同上
・ 在籍時日本人最多キャップ:高木琢也:45試合(1992年-1997年)
・ 在籍時日本人最多ゴール:高木琢也:27ゴール(1992年-1997年)
● エピソード・アラカルト
◎ チーム名およびチームカラー
決定に直接携わった今西和男およびフロントスタッフは次のように語っている。
:チーム名は公募したところ、県花である「モミジ」やそこから連想する「赤」、そして「毛利元就」に関するものなど様々な候補が寄せられた。
1993年当時は組織内のトリオを「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。
・西武ライオンズ:鹿取義隆・潮崎哲也・杉山賢人 - 救援投手。1993年の日本シリーズも参照。
・自民党:河野洋平・石原慎太郎・橋本龍太郎 - 1993年衆議院議員総選挙で敗れ野党に転落したときに、党を担う次世代の若手としてアピールした。
設立当時はユニフォームなどで赤紫(パープル)を用いていたが、同じ紫をチームカラーとしている京都サンガF.C.(京紫)との差別化を図り近年は青紫(バイオレット)を用いている。
2011年に、ユニホームサプライヤーがそれまでのミズノからナイキに変更され、2024年現在まで続いている。2011年のみアウェー用ユニホームがそれまでの白から「朱色」に変更された。これは厳島神社の鳥居をイメージする色として採用されたという。
◎ 記録・出来事
◇チェアマン杯破損
1994年6月11日、磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。選手は喜びのあまり授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)を、頭に被ったり振り回したりしてはしゃいでいた。
ところがこの際、チェアマン杯をサポーターに見せようと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞紙面を飾った。
◇ユニフォーム忘れ
1995年4月1日、熊本市水前寺競技場で横浜フリューゲルス戦が行われた。当時九州にはJリーグチームがなく、この試合は熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームだった。広島は、4日後の4月5日に万博記念競技場でガンバ大阪戦を控えており、アウェーゲームが続くため横浜F戦を前に2試合分の準備をし熊本にはそれら2試合分のアウェー用道具を持参していた。そのため持参したのはアウェー用として使っていた2ndユニフォームの白だったが
2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。
◇他のJリーグクラブへの協力
発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。
大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた。
◇サンフレッチェ劇場
ホームであるエディオンスタジアム広島において試合で勝利後、選手がトランジスタメガホン片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。
自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史や岡山一成に憧れた柏木陽介と槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。森脇移籍後は、千葉を中心に塩谷や野津田、増田卓也等が行っている。
試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」となっており、公式ウェブサイトにこの様子の動画が公開されている。また、スカパーの試合中継内でも放送される。
◇ゴールパフォーマンス
2010年に槙野智章と森脇良太(時折GKの西川周作も参加する)を中心にゴール後にさまざまなゴールパフォーマンスを行うようになり、全国ネットのスポーツニュースで取り上げられるなど注目された。槙野は2010年に、森脇は2013年、西川は2014年に広島を退団したが、現在でも佐藤や林を中心にパフォーマンスは続いている。
● 所属
◎ フロント
・ 社長
・ 1992年4月 - 1995年6月 : 古田徳昌
・ 1995年6月 - 1998年6月 : 信藤整
・ 1998年6月 - 2007年12月 : 久保允誉
・ 2008年1月 - 2012年12月 : 本谷祐一
・ 2013年1月 - 2015年2月 : 小谷野薫
・ 2015年2月 - 2017年12月 : 織田秀和
・ 2018年1月 - 2019年12月 : 山本拓也
・ 2020年1月 - 現在 : 仙田信吾
・ 強化担当トップ
・ 1992年 - 2002年 : 今西和男総監督
・ 2003年 - 2005年 : 高田豊治ゼネラルマネージャー
・ 2006年 - 2015年 : 織田秀和強化部長
・ 2015年 - 現在 : 足立修強化部長
◎ 育成組織 (アカデミー)
◇ユース
◇ジュニアユース以下
以前はイヤーブックやホームページなどで名簿を公開していたが、個人情報保護法が施行した2005年以降公開されていない。
● ユニフォーム
カラー
シャツ
パンツ
ストッキング
FP(1st)
紫
紫
紫
FP(2nd)
白
白
白
GK(1st)
緑
緑
緑
GK(2nd)
黄
黄
黄
GK(3rd)
紫
紫
紫
胸
エディオン EDION 1997年 - Jリーグ・カップ戦用
「DeODEO」「YourVoice」表記を含む
名義・掲出場所の変遷は下記を参照
鎖骨
EDION光プラス 2023年 - 左側に提出
ハイセンスジャパン Hisense 2019年 - 右側に掲出
背中上部
マツダ MAZDA 2010年 - 過去ACL出場時にはACL用胸にも掲出
背中下部
ひろぎんホールディングス ひろぎんHD 2017年 - 2017年 - 2020年は「広島銀行」表記
袖
イズミ you
me 2015年 - 2014年はパンツに掲出
パンツ前面
テラル TERAL 2016年 -
パンツ背面
エディオン モバイル
e保険 2023年 -
◇練習着
胸
マツダ MAZDA
鎖骨
左側
マツオカコーポレーション MATSUOKA CORPORATION
右側
キャリアカレッジジャパン 資格のキャリカレ
背中
通常
村上農園 村上農園
ウォームアップジャケット
マツダ MAZDA
左袖
良和ハウス 良和ハウス 半袖のみ
右袖
ウォームアップジャケット
中国電力 中国電力
半袖
西川ゴム工業 nishikawa
パンツ
エディオン EDION
・ ユニフォーム左胸のエンブレム上の星(★)は2012年・2013年・2015年各シーズンのJ1での優勝と2022年のJリーグカップ優勝を表している。
◎ ユニフォームサプライヤーの遍歴
・ 1992年 - 2010年:ミズノ
・ 2011年 - 現在:ナイキ
◎ 歴代ユニフォーム
◇平和祈念ユニフォーム
◇2018年
:2018年6月、8月11日にホームで行われる長崎戦で『ピースマッチ~One Ball. One World.スポーツができる平和に感謝~』の開催を発表。平和首長会議の後援のもと、選手・観客が一体となって世界恒久平和の実現を、全世界へ発信することを狙いとしている。なおこの試合で、平和祈念モデルのユニフォームを着用。両肩に6羽の折り鶴、右胸にピースマッチのキャッチコピーである『One Ball. One World.』 のロゴをあしらい、サッカーを通じて、世界平和を願い続ける想いを表現。お互いを尊重しあい、エールを交換する意味を込めて、お互いのチームカラーの番号を身に纏う。なお、広島のユニフォームには、長崎のチームカラーである青とオレンジで構成された番号がデザインされている。1試合限定で着用すると共に、この平和祈念ユニフォームの売上の一部を、原爆ドーム保存事業等に関する基金へ寄付することにしている。
◇2019年
:2019年8月3日に行われる、ピースマッチ1試合限定で着用。背番号カラーは、広島の復興と平和の象徴である、クスノキ(市の木)やキョウチクトウ(市の花)などをイメージした緑を起用。また、左胸にピースマッチロゴ、背番号下部には広島の風景をデザインしている。なお、平和祈念ユニフォームの売上の一部は、原爆ドーム保存事業等に関する基金へ寄付することになっている。
◎ 歴代ユニフォームスポンサー表記
中国新聞HP の過去の成績で1996年以降のスポンサーを確認できる。
年度 箇所 サプライヤー 配色
胸 鎖骨左 鎖骨右 背中上部 背中下部 袖 パンツ前面 パンツ背面 1st 2nd 3rd
1992
解禁前
解禁前 mazda
解禁前 Mizuno 紫白紫 白紫白
1993 Ford JUKEN
1994
1995 mazda
1996 紫紫紫 白白白
1997 DeODEO
1998
1999 Calbee
2000
2001
2002
2003 YourVoice LifeCARD DeODEO 紫白紫 白紫白
2004 DeODEO
2005 アーバンコーポレイション 紫紫紫
2006
2007 紫紫紫 白白白
2008
2009 エディオン
2010 DeODEO /
MAZDA MAZDA
2011 DeODEO
(1st・2nd)
edion
(3rd) AS進学セミナー エディオン
(1st・2nd)
DeODEO
(3rd) Nike 朱朱朱 白白白
2012 エディオン イードットコム
2013 EDION /
MAZDA 万田酵素 クオルネット 白白白
2014 Manda you me
2015 EDION you me SKYACTIV
2016 EDION /
MAZDA
TERAL
2017 EDION 広島銀行 紫紫黄 黄黄紫
2018
白白紫
2019 EDION /
MAZDA
Hisense 紫紫紺 紺紺青 白白白
2020 EDION
紫紫紫 白赤白
2021 ひろぎんHD 白白白
2022
2023 EDION光プラス モバイル
e保険
・ 1993・1994年のフォードを除いて、広島市または広島県に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛している。
・ フォードが胸スポンサーを務めていたのは、当時マツダがフォード傘下であった縁による(2010年をもって会計上でフォード傘下ではなくなっている)。
・ 1993年と1994年のナビスコカップでは胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は背番号上のJUKENも外れて1992年と同じだった。
・ 当初からずっとマツダがユニフォームスポンサーに入っている。
・ 1997年デオデオ(現エディオン)経営参加以降は、練習用の胸およびユースのスポンサーとなっている。ちなみにこの際、公式戦用胸スポンサーと同額で契約している。
・ 2010年公式戦背中スポンサーに復活。また同年のACL用の胸スポンサーになり、ACL出場年は毎回ACL用の胸スポンサーになっている。
・ 2015年にはSKYACTIV名義でパンツにスポンサーを掲出した。
・ 練習用スポンサーのほとんどを中国電力グループが占めている。一時は中電工も入っていた。
・ Jリーグ発足時、オリジナル10のリーグ戦ユニフォームサプライヤーとして一括契約していたミズノと最も長く契約していたのは広島で、2011年にナイキがユニフォームサプライヤーになるまで18年間契約していた。
◎ エディオングループのスポンサー変遷
1997年以降、エディオングループがユニフォームスポンサーとして定着している。
・ 1997年 - 2002年、2004年 - 2011年の1st・2ndユニフォームの胸および2003年、2011年の3rdユニフォームのパンツに掲載していた「DeODEO」(デオデオ)は、エディオングループの店舗ブランドで旧社名。企業名変更や組織再編に伴いスポンサー名が変更しており、1997年 - 2009年は(株)デオデオ、2010年は(株)エディオンWEST、2011年以降は(株)エディオン。
・ 2003年の胸に掲載していた「YourVoice」は、当時存在していたデオデオ(エディオングループ)のオリジナルブランド。
・ 2009年 - 2011年の1st・2ndユニフォームのパンツおよび2011年の3rdユニフォーム、2012年以降の胸スポンサーの「エディオン」・「EDION」は、当初から(株)エディオンがスポンサー。
・ 2012年パンツスポンサーの「イードットコム」は、エディオン系の販売ブランド。
・ 2013年パンツスポンサーの「クオルネット」は、エディオンのモバイルインターネットサービス会社。
また、2011年 - 2012年にFC岐阜のユニフォームスポンサー(背中上部)だったエイデンもエディオングループの店舗ブランドであるが、岐阜の場合はエディオン本体ではなく社内カンパニーであるエディオン EASTカンパニーがスポンサーであったが、本社のブランド統合に伴いJリーグ規定に接触することからユニフォームについては広島のみに集約される形となり、2013年以降はユニフォームスポンサーからは外れている。
● スタジアム
2024年度から、サンフレッチェの主催試合は、女子チーム(レジーナ)の試合も含めてすべてエディオンピースウイング広島(広島サッカースタジアム、略称「Eピース」、広島市中区基町)で開催されている。
2023年以前は、広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ→エディオンスタジアム広島、略称「広島ビ」「Eスタ」、広島市安佐南区大塚西)、さらにJリーグ発足時から1994年までは広島スタジアム(広島県総合グラウンドメインスタジアム、略称「広島ス」、広島市西区観音)をホームスタジアムとして使用していた。
登録上の本拠地は上述のとおりだが、実際には2003年まではビッグアーチと広島スタジアムの両者を併用していた。
・ 1993年までの通年と1994年Nicosシリーズ(第2ステージ)はアジア大会に備えた芝生保護、開催準備などの観点でビッグアーチでの試合数を制限していた。
・ 1998年1stステージはビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、最終の鹿島戦を除く7試合は広島スタジアムをホームに。
・ 2004年から2006年までリーグ戦は広島ビッグアーチ、カップ戦は広島スタジアム。
・ 2007年以降はリーグ戦・カップ戦共ビッグアーチ(Eスタ)を使用。
広島スタジアムは13000人収容だが、座席(イス)の部分が7000人程度しか収容 できず、クラブライセンスに定める座席の収容人員の基準(J1:15000人、J2:1万人)を満たしていないために使用不可となった。ただし、2011年8月13日の名古屋戦はビッグアーチが他のイベント開催優先の都合上使用不可の特例処置で、ゴール裏スタンドの一部に仮設座席をこしらえて広島スタジアムで開催された。
ビッグアーチは広島市街地からのアクセスに難があることなどが取り沙汰され、2012年ごろから市中心部でのサッカースタジアム建設の動きが見られたが、紆余曲折を経て広島市が広島城に程近い広島市中央公園に新たなサッカースタジアムを建設し、2024年から運用を開始している。
このほか、1995年ぐらいまで、広島県立びんご運動公園陸上競技場(尾道市)・福山市竹ヶ端運動公園陸上競技場(福山市)でホームゲームを開催したほか、広島県外では東平尾公園博多の森陸上競技場(福岡市)・大分市営陸上競技場(大分市)・愛媛県総合運動公園陸上競技場(松山市)・鳥取市営サッカー場(鳥取市)でもホームゲームを開催したことがある。
また、かつて行われていたJサテライトリーグでは、1997年ごろまでマツダトレーニングセンター鯛尾グラウンド(安芸郡坂町)や広島広域公園第一球技場(広島市安佐南区)などで行われ、吉田サッカー公園(現・安芸高田市サッカー公園、安芸高田市)ができて以降は吉田や竹ヶ端で開催されていた。
◇年度別・競技場別の試合数
:出典元:
:※参考 リーグ戦ホームゲーム数(2003・2008年はJ2、ほかはJ1<1992-98年のJリーグを含む>)
:1993年 18試合
:1994年・2003年 22試合
:1995年 26試合
:1996年・1999-2002年・2004年 15試合
:1997年 16試合
:1998年・2005-2007年・2009年-2020年・2022年 17試合
:2008年 22試合
:2021年 19試合
年度 リーグ戦 Jリーグ杯 ACL 備考
広島ビ
(Eスタ) 広島ス
(コカスタ) その他
1992年
広島ス5 不参加 Jリーグ杯のみ
1993年 3 12 愛媛陸1
びんご1
大分陸1 広島ビ1
広島ス1
1994年 12 8 博多陸1
竹ヶ端1
愛媛陸1 (主催なし) 広島ビはチャンピオンシップ1を含む
この年より事実上広島ビに本拠移転(届出上は広島スのまま)
「サントリーシリーズ」(年間前期)ステージ優勝もチャンピオンシップ(年間決勝)敗退
1995年 15 7 大分陸1
愛媛陸1
鳥取1 (非開催)
1996年 10 2 鳥取バード1
鹿児島1
愛媛陸1 広島ビ5
広島ス1
大分陸1 この年より正式に広島ビに届け出上の本拠移転
1997年 15 0 愛媛陸1 広島ビ3
1998年 10 7 広島ス1
鳥取バード1 第1Sは広島スを暫定メインに使用
1999年 9 6 広島ビ1
広島ス1
2000年 13 2 広島ス2
2001年 8 7 広島ス3
2002年 12 3 広島ビ2
広島ス1 J2降格
2003年 12 12 不参加 J1昇格
2004年 15 0 広島ス3 リーグ戦は広島ビのみ
Jリーグ杯は広島スのみでそれぞれ開催
2005年 17 0 広島ス3
2006年 17 0 広島ス3
2007年 17 0 広島ビ3 Jリーグ公式戦全主催試合を広島ビのみで開催以後2011年を除き同じ
J2降格
2008年 22 0 不参加 広島ス=命名権採用により「コカスタ」へ変更
J2優勝・J1昇格
2009年 17 0 広島ビ3 リーグ4位もアジアチャンピオンズリーグ進出決定第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会でガンバ大阪(リーグ2位)優勝のため
2010年 17 0 広島ビ2 広島ビ3 Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ
(ACL出場につき)
2011年 16 1 広島ビ1 不参加 コカスタにてJ1リーグ1試合開催
2012年 17 0 広島ビ3 J1優勝
2013年 17 0 Eスタ1 広島ビ 3 広島ビ=命名権採用により「Eスタ」に変更
Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ
(ACL出場につき)
J1優勝(チーム初連覇)
2014年 17 0 Eスタ2 広島ビ4 Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ
(ACL出場につき)
ACL=広島ビは決勝トーナメント1含む
2015年 17 0 Eスタ3 不参加 J1第2S・CS優勝
2016年 17 0 Eスタ1 広島ビ 3 Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ
(ACL出場につき)
2017年 17 0 Eスタ4 不参加 Jリーグ杯=Eスタはプレーオフステージ1含む
2018年 17 0 Eスタ3
2019年 17 0 Eスタ1 広島ビ 3 Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ
(ACL出場につき)
ACL=広島ビはプレーオフ・決勝トーナメント各1含む
2020年 17 0 (主催なし) 不参加
2021年 19 0 Eスタ3
2022年 17 0 Eスタ6 Jリーグ杯優勝
● 練習場・キャンプ地
◇練習場
現在、主に使用されるのは下記の3つ。
・ 安芸高田市サッカー公園:メイン練習場
・ 広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ):ホームゲームの前日練習はここで行われることが多い。
・ 広島広域公園補助競技場:ビッグアーチと同様。
また、過去には下記の場所で練習していたこともある。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。
・ マツダ健保グランド(呉市郷原):吉田ができる前のトップチーム専用練習場。現在は呉市が所有。
・ マツダ鯛尾グランド(安芸郡坂):吉田ができる前のサテライトチーム専用練習場。現在はマツダラグビー部の練習場。
・ マツダ体育館(南区大州):吉田ができる前のトレーニングジム。
・ 中国電力坂グラウンド(安芸郡坂):中国電力が所有。
・ バルコムBMWスタジアム、バルコムBMWラグビースタジアム(西区観音新町)
◇キャンプ地
・ 現在のキャンプ日程は、まず広島で1週間ほど練習を行い、その間集合写真撮影や清神社にて必勝祈願を行う。その後一次キャンプを沖縄・本部町で、二次キャンプを宮崎・シーガイアで行なう。
・ 国内キャンプは、地元広島のほか、過去には大分県・淡路島(ともに冬季)、北海道・松江市・筑波大学(ともに夏季)などで行われている。2011年から本部町キャンプを開始した。
・ 海外キャンプは監督の意向で決まることが多い(括弧内は行なった監督)。過去には東欧・北欧(バクスター)、大韓民国(ヤンセン)、アデレード(トムソン)、グアム(小野剛)、アンタルヤ(ペトロヴィッチ)、タイ(城福)、トルコ(スキッベ)で行われている。
● 決算
サンフレッチェ広島の決算は、つぎのとおり。
◎ 損益
年度 広告料 入場料 その他 事業費
2005 2,304 1,276 346 238 444 2,473 1,871 1,107 602
169
165
2006 2,267 1,192 379 232 464 2,765 2,298 1,414 467
498
500
2007 2,626 1,193 438 285 710 2,567 2,081 1,236 486 59 53
2008 2,287 1,191 428 148 520 2,534 2,102 1,209 432
247
219
2009 2,728 1,364 545 280 539 2,708 2,263 1,313 445 20 12
2010 2,605 1,231 560 295 519 2,853 2,385 1,372 468
248
265
出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。
2005、
2006、
2007、
2008、
2009、
2010
金額の単位: 百万円
人件費は事業費に含まれる。
年度 広告料 入場料 その他
2011 2,676 1,439 458 232 108 439 2,671 1,324 218 250 125 0 754 5
7
2012 3,176 1,406 551 239 100 880 2,949 1,412 239 254 132 0 912 227 223
2013 3,198 1,373 541 232 99 953 3,072 1,449 263 279 126 0 954 126 130
2014 3,149 1,537 505 219 93 796 3,019 1,349 297 299 138 0 937 130 122
2015 3,610 1,469 638 236 89 1,178 3,440 1,809 273 281 128 0 949 170 150
出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。
2011、
2012、
2013、
2014、
2015
金額の単位: 百万円
年度 広告料 入場料 物販 その他 物販
2016 3,794 1,620 563 290 93 487 741 3,435 1,553 271 423 156 0 314 717 359 312
2017 3,424 1,540 496 484 88 362 448 3,438 1,602 263 531 132 0 249 661
14 1
2018 3,367 1,530 500 364 82 370 521 3,597 1,864 283 383 137 0 260 670
230
277
2019 3,737 1,582 547 766 80 302 461 3,711 1,931 327 369 137 0 224 723 26 22
2020 3,209 1,593 272 570 61 260 453 3,401 2,040 165 295 101 0 181 619
192
166
2021 3,460 1,779 262 498 68 297 556 3,485 1,876 259 321 134 86 217 592
25 19
出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。
2016、
2017、
2018、
2019、
2020、
2021
金額の単位: 百万円
◎ 資産
年度 総資産 総負債 純資産 資本金
2005 931 431 500 1,610
2006 610 610 0 1,610
2007 1,088 535 553 2,210
2008 810 476 333 2,110
2009 786 440 346 2,110
2010 977 896 80 2,110
2011 962 889 73 2,110
2012 1,203 708 495 220
2013 1,134 509 625 220
2014 1,202 454 748 220
2015 1,445 547 898 220
2016 1,691 481 1,210 220
2017 1,625 414 1,211 220
2018 1,410 476 933 220
2019 1,516 561 955 220
2020 1,482 692 790 220
2021 1,785 1,014 771 220
出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。
2005、
2006、
2007、
2008、
2009、
2010、
2011、
2012、
2013、
2014
2015、
2016、
2017、
2018、
2019、
2020、
2021
金額の単位: 百万円
● 関連情報
◇紙媒体
・ オフィシャル
・ 紫熊倶楽部:オフィス・ウエンブリー発行、編集長中野和也
・ サンフレッチェ広島アシストマガジン「Assist」:アドプレックス(Tj Hiroshima編集室)発行
・ 新聞
・ :中国新聞
・ タウン情報誌
・ 広島アスリートマガジン
・ Tj Hiroshima:コラボ企画「PickupPlayer」
◇テレビ
・ 中国放送
・ 情熱サンフレッチェ
・ 広島テレビ放送
・ 元気丸
・ 広島ホームテレビ
・ KICK OFF HIROSHIMA
・ ひろしま深掘りライブ フロントドア
・ サンフレ応援!森崎浩司の"Foot Style"
・ テレビ新広島
・ 全力応援 スポーツLOVERS
・その他
・ ちゅピCOM SPORTS&LIFE(ちゅピCOM)※水曜日がサンフレッチェ特集
◇ラジオ
・ AM(中国放送(RCCラジオ))
・ おひるーなイレブン(「おひるーな」内・毎週月曜日)
・ サンデースタジアムGOGO(※プロ野球シーズンオフのみ)
・ FM
・ サンフレッチェ・ラジオ・サポーターズクラブ “GOA〜L”(広島FM)
・ 吉田流サッカー斬り(曜子とTOCOの口八丁手八丁、FMちゅーピー)
・ 2001年8月 から2008年末まで スタジアムFM(実況:石橋真、解説:吉田安孝・足立修・山出久男など)を行っていたが、利用者が少なくなったため廃止
◇応援歌など
・ オフィシャル公認
・ 『SANFRECCE THEME』『SANFRECCE ANTHEM』藤島(手島いさむ&藤川朝洋、2010年)
・ 『光の射すほうへ』THE CRANE FLY(2006年)
・ 『Remember〜スタジアムへの道〜』神園さやか(2005年)
・ 『GOAL and PROUD』加藤健一など(2003年)
・ 『SAYYEA',JAN-GO』西城秀樹(1994年)
・ 『ときめいてハットトリック-GET HAT TRICK-』村井亜紀withNOBU-SONS(1993年)
・ 未公認
・ 『ビッグアーチ』電大(川西幸一・手島いさむ・EBI、2012年)
◇オフィシャルフラワー
・ ムーンダスト - 2016年より
◇交通
・ ラッピング車両
・ サンフレッチェ電車5108号(広島電鉄)
・ サンフレッチェ・応援トラム6012号(広島高速交通)
・ サンフレッチェ応援ラッピングトレイン(JR西日本)
・ サンフレッチェタクシー(フォーブル)
・ サンフレッチェ路線バス(大町団地線、フォーブル)
・ サンフレッチェ広島専用デザインバス(JRバス中国、選手移動用)
・ 山陽自動車道・宮島SA(上り側)内にコーナーが設けられている。
◇ワンタッチパス対応ICチケット
・ サンフレッチェPASPY - 2010年発行開始。乗車カードであるPASPYと一体化したもの。
「サンフレッチェ広島F.C」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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好き嫌い決勝
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