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『日本書紀』の天皇系譜
(数字は代数、括弧内は和風諡号)
済(せい)または倭 済(わ せい、生没年不詳)は、5世紀中頃(古墳時代中期)の倭王。「倭王済」とも。
興・武の父で、「倭の五王」の1人。第19代允恭天皇に比定する説が有力視される。
● 記録
◎ 宋書
◇ 『宋書』列伝
: 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、元嘉20年(443年)に「倭国王」の済は宋に遣使奉献し、珍と同様に「安東将軍 倭国王」に任じられたとする。
: 倭王武の上表文には、済が高句麗を討とうとしたが、その直前に亡くなったと記されている。
◇ 『宋書』本紀
: 文帝紀 元嘉20年(443年)是歳条では、河西国・高麗国・百済国・倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする。
: また文帝紀 元嘉28年(451年)7月甲辰条では、「安東将軍 倭王」の倭済が「安東大将軍」に進号されたとする(倭国伝の進号記事と将軍号は異同)。
◎ 南史
『南史』夷貊伝 倭国の条(南史倭国伝)では、『宋書』列伝の内容が記述されている。
317年 <東晋建国>
372年 鎮東将軍(余句)
386年 鎮東将軍(余暉)
413年 征東将軍(高璉)
416年 征東大将軍(高璉) 鎮東将軍(余映)
420年
<宋建国>
鎮東大将軍(余映)
421年 (安東将軍?(倭讃))
438年 安東将軍(倭珍)
443年 安東将軍(倭済)
451年 安東大将軍(倭済)
(安東将軍?)
457年 鎮東大将軍(余慶)
462年 安東将軍(倭興)
463年 車騎大将軍(高璉)
478年 安東大将軍(倭武)
479年 <南斉建国>
鎮東大将軍(倭武)
480年 驃騎大将軍(高璉) 鎮東大将軍(牟都)
490年 鎮東大将軍(牟大)
494年 征東大将軍(高雲)
502年 <梁建国>
車騎大将軍(高雲) 征東大将軍(牟大) 征東将軍(倭武)
(征東大将軍?)
● 考証
◎ 済と珍の続柄について
『宋書』の記事では、済は珍との続柄が何も記されていないことから異なる氏族グループではないかという説が呈されてきた。しかし『宋書』文帝紀に『安東将軍倭王倭済』と記されており、済は讃・珍と同じ倭姓を名乗る父系の氏族だと宋の側でも認識していたのではないかとする説がある。ただ、続柄を名乗らないため済・珍は同じ一族ではあるが近い血縁関係ではないとする説があり、『日本書紀』では仁徳天皇以降の王位継承における争いが見えることから、そのような王位を巡る抗争の存在可能性が指摘される。また、特に珍の時代の有力王族として倭隋の存在が見えるため、当時は2つの王族勢力(百舌鳥古墳群・古市古墳群)があったとして、済はこの倭隋の系統とする説がある。
◎ 460年記事について
『宋書』孝武帝紀の大明4年(460年)記事では、倭国の遣使を伝えるが、遣使主体の名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例として主体を済とする説がある一方、『宋書』倭国伝の興の遣使記事との対応を見る説もある。
◎ 墓の比定
倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群・古市古墳群(大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市)で営造されているため、済の墓もそのいずれかの古墳と推測される。これらの古墳は現在では宮内庁により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、一説に済の墓は市野山古墳(現在の允恭天皇陵)に比定される。
また他の考古資料として稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の「王賜」銘鉄剣について、「王」と書くのみで自明な人物であることから、この「王」を済(または珍)に比定する説がある。ただし稲荷山古墳出土鉄剣銘文・江田船山古墳出土鉄刀銘文の「大王」とは一線を画する点が注意される。
◎ 済の爵号について
『宋書』には、済の爵号が「安東将軍」とする記録と「安東大将軍」とする異なる記録があり、議論がある。『宋書』夷蛮伝・倭国条は、済は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に封じられ、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加号されたが、「安東将軍」は元のままとされた。一方、『宋書』本紀は、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している。また、『冊府元亀』巻九六三・外臣部・封冊一も「(宋・文帝元嘉)二十八年七月,安東将軍倭王済,進号安東大将軍」と記述しており、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している。
済の爵号が「安東将軍」、もしくは「安東大将軍」について、3つの解釈に大別される。
夷蛮伝・倭国条が正しく、本紀が誤りであり、爵号は「安東将軍」の元のままであるとする説(支持者:池内宏、宮崎市定、荊木美行。
延敏洙は、以下のように主張している
石井正敏は、夷蛮伝・倭国条は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に冊封された済が、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたことを、「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。」と記しているが、その記事に済が元嘉20年に得た爵号「倭国王」が記されていないことを指摘しており、夷蛮伝・倭国条の済の任官記事「安東将軍故ノ如シ」に着目している。すなわち、「(官爵号)如故(もとノごとシ)」という表現は、同じ夷蛮伝の中における高句麗王および百済王が進号・加号された場合、以前得た爵号を継承する場合、「王」号も必ず「如故」と記している。一方、済の場合、「安東将軍」のみが「如故」とされ、「倭国王」は欠落しており、本来は「如故」称号に「(倭国)王」が含まれていなければならないが、同じ夷蛮伝の中における高句麗王・百済王と比べて表現方法に不可解な相違がある。氐胡伝における楊文度の場合(元徽4年)、
(前官)
(新除)
この「将軍如故」の将軍は「寧朔将軍」を指しており、やはり「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称が用いられている。
「済」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2025年1月29日8時(日本時間)現在での最新版を取得
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