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植村 直己(うえむら なおみ、1941年〈昭和16年〉2月12日 - 1984年〈昭和59年〉2月13日。同年、世界初の五大陸最高峰登頂者となる。
● 生涯
◎ 生い立ち
1941年2月12日、兵庫県城崎郡国府村(現:豊岡市日高町)上郷で、父・植村藤治郎と母・梅の7人兄弟の末子として生まれた。実家は農業とわら縄製造。
藤治郎の3代前の「植村直助」から「直」の字を取り、干支の「巳」と合わせて「直巳」と名付けられたが、村役場の戸籍担当職員が戸籍簿に誤って「直已」と記入したことから、戸籍名は「直已」として登録された。後に、「巳(へび)や已(すでに)より、己(おのれ)の方が格好良い」として、大学時代から「直己」を名乗るようになった。しかし、遠征の計画や準備段階での苦労もしていない自分が登頂し、また、日本の新聞に自分だけが大きく掲載されたのを見て、他の隊員に対して申し訳ないという気持ちになり、隊長・高橋から一緒に日本に帰国しようと言われたが、それを断った。
その後、インドのボンベイ(現:ムンバイ)からフランスのマルセイユ行きの貨客船に乗り、再びモルジヌに戻るが、黄疸(おうだん)を発症して1か月の入院生活をした。
1966年7月、モンブラン単独登頂に成功、続いて7月25日、マッターホルン(標高4,478m)単独登頂に成功した。
同年9月23日、マルセイユから、ケニアのモンバサ行きの船に乗り、アフリカ山行に向かった。
同年10月16日、ケニア山レナナ峰(標高4,985m)に登頂し、10月24日、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(標高5,895m)単独登頂に成功した。10月29日、モンバサから船に乗り、モルジヌに戻った。
1967年8月、グリーンランド単独横断を夢見て、西海岸のヤコブスハウン氷河を半月間、視察した。
同年12月、モルジヌを去り、12月22日、スペインのバルセロナから南アメリカ行きの船に乗った。1968年1月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスに着いた。
同1968年1月19日、アンデス山脈のエル・プラタ(標高6,503m)に登頂、2月5日、南アメリカ大陸最高峰のアコンカグア(標高6,960m)単独登頂に成功した。2月15日、無名峰(標高5,700m)に初登頂し、母校である明治大学の名前に因んで「明治峰(ピッコ・デ・メイジ)」と命名した。
その後、ボリビアを経てペルーのリマに行き、さらにバスと船を乗り継いで、同1968年4月、イキトスに入った。ここで、北アメリカ行きの船が出る河口までアマゾン川を源流から自力で下ろうと決心した。同年4月20日、ペルーのユリマグアスを出発、単独で6,000kmの距離を筏(いかだ)で流れ下り、6月20日、ブラジルのマカパに到着した。同地で、明治大学山岳部の同期であり、親友の小林正尚の交通事故死を知り、ショックを受けた。
その後、北アメリカ最高峰のマッキンリー(デナリ)(標高6,194m)登頂を目指して、米国カリフォルニアの農場で2か月間働いて山行資金を稼ぎ、アラスカに入るが、単独登頂の許可が下りず、断念した。同1968年9月14日、サンフォード(標高4,940m)に登頂した。
同1968年10月1日、4年5か月ぶりに日本に帰国した。日本への航空運賃は、長兄の植村修が負担した。植村、27歳。
◎ 世界初の五大陸最高峰登頂者となる
帰国後、地下鉄工事の仕事をした。この頃の“夢”は、アコンカグアの冬期単独登頂と、筏下りをしたアマゾン川をモーター付きのゴムボートで河口から源流へ遡上することだった。
1969年、日本山岳会が創立65周年事業として、世界最高峰のエベレスト(標高8,848m)登山隊の派遣を決定し、同年4月、明治大学山岳部の先輩である大塚博美に誘われ、これに参加することにした。第1次偵察隊(隊長:藤田佳宏、以下、植村を含めて4人、うち報道1人)に参加し、同年4月23日に日本を発ち、同年5月、標高6,300mの南壁基部まで試登し、6月21日、帰国した。続いて、第2次偵察隊(隊長:宮下秀樹、以下、植村を含めて8人。ほか報道4人)にも参加し、8月20日、日本を発ち、9月13日、ベースキャンプを設営、10月31日、小西政継と共に南壁の標高8,000m地点まで到達した。その後、偵察隊が11月7日にベースキャンプを撤収し、帰国した後もネパールのクムジュン(標高3,800m)に滞在し、翌年の本隊のための物資調達やシェルパらの予約をしつつ、高度順化や高所トレーニングを行った。
1970年2月、日本山岳会エベレスト登山隊の本隊(総隊長:松方三郎、登攀隊長:大塚博美、以下39人)をカトマンズで迎え入れた。3月23日、ベースキャンプに入った。植村は、自己分担金を用意できなかったため、荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが、抜群の体力などが認められ、5月3日、松浦輝夫とともに東南稜ルートの第1次アタック隊に指名され、5月11日午前9時10分、エベレスト登頂に成功した 中学生向けであり、参考にならない。 -->。なお、植村が北極点に到達する前日の4月28日、日本大学北極点遠征隊(隊長:池田錦重)の隊員5人が犬ぞりで日本人として初めて北極点に到達していた。植村と日本大学が、同時期に同じ犬ぞりで北極点到達を目指したことから、世間は、“どちらが先に北極点に着くか”と注目した。また、日本人として初めて『ナショナルジオグラフィック』の表紙を飾った。植村、37歳。
同年、犬ぞりによる単独でのグリーンランド縦断にも成功した。5月12日、「モーリス・ジェサップ岬」を出発、7月12日、内陸氷床の最高地点(標高3,240m)を経て、8月22日、グリーンランド南端のヌナタック(岩峰)に到着した。このグリーンランド縦断では、そりにヨットのような帆を張り、犬の負担を軽減するのに効果を上げた。
同年8月30日、米国ワシントンD.C.のスミソニアン博物館で“凱旋”記者会見が行われた。
帰国後、10月から翌年3月までの半年にわたって、北極点とグリーンランドの冒険に要した約2億円の支出のうち約7千万円の赤字を埋めるために、講演とイベント参加を全国的に数多く行った。
同年10月9日、第26回菊池寛賞の受賞が決定された。授賞理由は「犬ぞりによる単独北極点到達とグリーンランド縦断…日本青年の成果を内外に高めた二大冒険」に対してである。授賞理由は、「北極の荒涼とした地での単独の行為などで見せた類(たぐい)まれな勇気」に対してであり、「常に第一歩を行うものであり、孤独の道の発見者であった」ためである。同年10月20日、日本を出発し、10月24日、ミネソタ州にある野外学校『アウトワード・バウンド・スクール (OBS)』に参加した。1984年1月16日、ミネソタを発った。
同1984年1月18日、シカゴでアメリカ企業のデュポンの社員と会談した。植村の南極計画への支援についてだと思われる。
、マッキンリー山冬期単独登頂を目指すため、同年1月21日、アラスカのアンカレッジに入り、1月24日、タルキートナに入った。1月26日、軽飛行機でマッキンリーのカヒルトナ氷河に降り立った。2月1日、ベースキャンプ(標高2,200m)から登攀を開始した。一部の記者のみがその様子を取材した。
同1984年2月12日午後6時50分、世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たした。この日は、ちょうど植村の43歳の誕生日であった。しかし、翌2月13日午前11時に行われた軽飛行機との、登頂に成功したこと、現在位置が20,000フィート(6,096m) であることを伝える無線交信を最後に連絡が取れなくなり、消息不明となった。2月15日、軽飛行機が標高2,900mの氷河上に、植村がクレバスへの転落防止に使用した竹竿があるのを発見したが、ベースキャンプや登山ルートに植村の姿は発見できなかった。最後の交信から3日後の2月16日、軽飛行機のパイロットが、標高4,900m地点の雪洞で植村と思われる人物が手を振っているのを視認した。デナリ国立公園管理事務所は、軽飛行機2機、高度5,000mまで飛行できるヘリコプター1機で広範囲の捜索を展開した。2月20日、同公園管理事務所による捜索活動に参加していた2人の登山家が標高4,200m地点の雪洞で、植村の日記、カメラ、フィルムなどを発見した。また、2月25日、標高4,900m地点の雪洞でも植村の所有物を発見したが、植村本人は発見できなかった。2月26日、デナリ国立公園管理事務所は、「植村の生存の可能性は100%ない」として捜索を打ち切った。その後、明治大学山岳部OB「炉辺会(ろばたかい)」によって捜索が行われたが、植村は発見できず、3月6日、標高5,200m地点の雪洞に残された植村の装備を発見するに留まった(標高5,200m地点から山頂までの間は捜索できなかった)。3月8日、炉辺会による捜索も打ち切られた。
植村と最後に無線交信できた2月13日が命日となった。
4月下旬から5月にかけて、明治大学山岳部OB「炉辺会」によって再度、マッキンリー山での捜索が行われた。前回捜索できなかった標高5,200mから山頂までを中心に捜索が行われ、植村が山頂に立てた「日の丸」の旗を回収したが、植村は発見できなかった。
なお、植村が消息を絶ったというニュースが報じられたところ、多数の人から植村の捜索費に充ててほしいとの義援金の申し出が明治大学山岳部OB「炉辺会」に寄せられたことから、その受け皿として、1984年3月1日、『植村直己の会』が設立され、明治大学体育課がその受付窓口となった。同年12月25日までに、3,116件、約2950万円の義援金が寄せられた。
◎ その後
1984年4月19日、国民栄誉賞を受賞した。功績名は「世界五大陸最高峰登頂などの功」である。
同年6月11日、明治大学名誉博士の学位が贈呈された。
同年6月16日、『植村直己に別れを告げる会』が東京の青山斎場で執り行われた。祭壇には、笑顔の植村の写真と、マッキンリー山頂で回収された日の丸の旗や愛用のピッケルなどが飾られた。
同年8月、故郷である日高町(現:豊岡市)から名誉町民の称号が贈呈された。
同年9月20日、グリーンランド縦断犬ぞり単独行のゴール近くのナルサスワックで、植村の功績を伝えるレリーフの除幕式が行われた。
同年12月、アラスカ州裁判所の公聴会において、植村直己の死亡が公式に認定された。
1985年1月、板橋区役所で植村直己の死亡届が受理された。
同1985年8月、植村が構想していた野外学校が、有志によって『植村直己・帯広野外学校』(北海道帯広市)として開校された。植村の妻・公子が名誉校長となった。
1994年4月10日、故郷である兵庫県豊岡市日高町に、日高町立(現:豊岡市立)の『植村直己冒険館』が開館した。
1996年、『植村直己冒険賞』(主催・豊岡市)が設けられた。
2011年5月、パーク・レンジャーにマッキンリー(デナリ)山中で遺体を発見したとの通報があり、付近一帯の捜索が行われたが、発見されなかった。
● 主な登山・冒険歴
・ 1965年4月23日 - ゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)登頂(明治大学山岳部遠征隊の一員として、シェルパ1人と共に登頂)《世界初》
・ 1966年
・ 7月 - モンブラン単独登頂 - ヨーロッパ大陸最高峰
・ 10月24日 - キリマンジャロ単独登頂 - アフリカ大陸最高峰
・ 1968年
・2月5日 - アコンカグア単独登頂 - 南アメリカ大陸最高峰
・ 4月20日 - 6月20日 - アマゾン川6,000km単独筏(いかだ)下り
・ 1970年
・ 5月11日 - エベレスト登頂(日本山岳会遠征隊の一員として、松浦輝夫と共に日本人初登頂) - 世界最高峰
・ 8月26日 - マッキンリー(デナリ)単独初登頂 - 北アメリカ大陸最高峰『世界初の五大陸最高峰登頂達成。
・ 数々の冒険の成功から大胆不敵な面がクローズアップされているが、。
・ 体力以外に取り立てて優れている面があるわけではない自分に対して常に劣等感を抱いており、記者会見などで自分が持ち上げられることを極度に嫌った。しかし、妻・公子やが指摘しているように、。
・ 人前に立つのは大の苦手で、資金集めの講演会や記者会見で大勢の聴衆を前にして話をする際は、第一声を発するまでしばらく気持ちを落ち着けなければならなかったが、口下手ながら自身の体験に基づいた講演は。
● 冒険スタイル
の植村は、アマゾン川単独筏(いかだ)下り、犬ぞりによる北極点到達単独行、犬ぞりによるグリーンランド縦断単独行など数々の有名な冒険を達成している。
単独行の際の特徴としては、例えば登山における高度順化を目的とはせず、冒険する現地で生活し、現地の人びとの生活に慣れ技術を習得するような“生活順化”をする点が挙げられる。
特に、犬ぞり行に先立つ約5か月間、単身、グリーンランドのエスキモーと共同生活し、衣食住や狩り・釣り・犬ぞりの技術などを極地に暮らす人々から直に学ぶことに努めた。それらは、犬ぞり行でシロクマに襲われた翌日に同じシロクマと思われる個体を狩りでしとめ、さばいて生肉を食べ極地では貴重なタンパク質を摂取するなどに活かされた。キビヤックは、特異な製法と強烈な異臭で知られているが、植村はこれが大好物だった。
冬山単独行では、1964年11月、モンブランでクレバスに落ちた際に、アイゼンと荷物が引っかかり九死に一生を得た経験から、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくり付けていた。植村が行方不明となった最後のマッキンリーの山行においても、腰に竹竿をくくりつけて登攀して行く姿が見られた。
● エピソード
・ 日本人初のエベレスト登頂に成功した際、松浦輝夫の前を歩いていた植村は、頂上まであと10mのところで松浦に道を譲り、松浦を先に頂上に立たせたと、植村は自著に書いている。しかし、松浦の証言によると、植村に「どうぞ、先に登ってください」と言われた松浦は、植村と肩を組んで2人同時に頂上に立った。
・ エベレストに登頂した際、「カメラより山頂の石をみんなに見せた方がいい」と松浦輝夫を説得し、「カメラからテープを抜こうとして、手が滑ってネパール側に落としてしまった」という言い訳を考え、NHKから渡されていた最新型のビデオカメラを山頂に置いてきた。(カメラは、その翌日、日本の第2次登頂隊によって発見され、無事に日本に戻ってきた。)
・ エベレストの山頂に、植村がアマゾン川を筏(いかだ)下りしていた頃に日本で交通事故死した、明治大学山岳部同僚・小林正尚の生前の写真を埋めた。(一緒に登頂を果たした松浦輝夫も同じく、山頂に写真を埋めている。)その後、帰国した植村は、小林の家を訪ねて、仏壇の前で、「お前の代わりにエベレストに登ったよ。頂上の石も持って来たぞ」と言うなり、声をあげて泣き出した。
・ 犬ぞりによる北極点到達挑戦の際には、テレビ番組制作を担った毎日放送から8mmカメラを託され、冒険中に自分の犬ぞりが氷原の彼方に走り去る場面を撮影した。周囲には誰もいないことから、その後、彼方から引き返しカメラとフィルムを回収するという貴重な記録映像となった。当時の番組では、その「歩いて戻って来る植村直己」のユーモラスな様子も放送された。
● 死去に対する反応
・ 生前にという言葉を残していたが、最期は冒険の下山中に行方不明となった。
・ 1984年3月8日の捜索打ち切りの知らせを受けて、翌3月9日、妻・公子が明治大学で記者会見に応じた。
:: 記者「もし生きていたら、どういうことを言いたいですか?」
:: 公子「常に『冒険とは生きて帰ること』って偉そうに言ってましたので、ちょっとだらしがないじゃないの、って(言いたいです)」
:: 記者「大切な人だと思えば、止める必要があったのではないですか?」
:: 公子「どんな旅にも全部反対しました。でも『俺にはこれしかない』って言ってました。(そして)反対しても出かけていく人でした」
・ 行方不明後、標高4,200mの雪洞で発見された日記には、登頂アタック前の最後の日である2月6日の日付で、最後に「何が何でもマッキンリー登るぞ」と書かれていた。これについて野口健は、「何がなんでも」という言葉は素人が使う言葉であり、その言葉を変えれば「いかなる状況下においても決行せよ」という意味であると解釈している。
● 墓碑
・ 頼光寺(兵庫県豊岡市) - 植村家の菩提寺であり、その裏山に植村直己の墓碑がある。この墓碑は、植村直己の長兄である植村修によって、1986年10月に建立されたものである。墓碑正面の「植村直己之墓」の字は西堀栄三郎の筆による。裏面に、植村の「乾坤院直心不撓居士」の戒名と、「昭和59年2月16日寂」と入寂の日付が刻まれている。ヒラリー卿から贈られた「A BRAVE MAN AND GREAT ADVENTURER」の言葉が刻まれた副碑がある。
・ 乗蓮寺(東京都板橋区) - 境内に墓碑がある。この墓碑は、1985年6月1日、植村の一周忌法要に併せて建てられたものである。墓碑銘の追悼詩は、草野心平による。裏面に刻まれた植村の「乾坤院直誉美心不撓居士」の戒名の字は、妻・公子の筆による。
● 顕彰施設
・ 植村直己記念スポーツ公園(兵庫県豊岡市)- 植村の故郷の地にあり、その一画に植村直己冒険館がある。
・ 植村直己冒険館(兵庫県豊岡市)- 植村の故郷の地にある。
・ 植村冒険館(東京都板橋区)- 植村が、デナリ(マッキンリー)で消息を絶つまで約15年間住んでいた地にある。当地では、妻・公子とも10年弱暮らしていた。
・ 植村直己記念館・氷雪の家(北海道帯広市) - おびひろ動物園の園内にあり、犬ぞりや登山道具などが展示されている。
「植村直己」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2025年7月1日14時(日本時間)現在での最新版を取得















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