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始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日)は、中国の初代皇帝(在位:紀元前221年 - 紀元前210年)。古代中国の戦国時代の秦の第31代君主(在位:紀元前247年 - 紀元前210年)。6代目の王(在位:紀元前247年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)または趙(ちょう)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)または正(せい)。現代中国語では秦始皇帝または秦始皇と表現する。
秦王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした(秦の統一戦争)。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「始皇帝」と号した、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の整備・増設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の造営といった世界遺産として後世に残ることになった大事業も行った。法家を重用して法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行った焚書坑儒でも知られる。
統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳(数え年だと50歳)で急死するまで、秦に君臨した。
● 称号「始皇帝」
◎ 意味
周の時代およびその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される。
・「始」は「最初(一番目)」の意味である。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる。
・「皇帝」は、神話上の三皇五帝より皇と帝の二字を合わせて作られた。ここには、始皇帝が天皇神農黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている。
・さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた。
・元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いたや6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題にて遣っている。趙政は「皇」と「帝」を合わせて「皇帝」の称号を用いたため、「秦始皇帝」の方が正式な称号であったと考えられる。
● 生涯
◎ 生誕と幼少期
秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた 。
○ 人質の子
秦の公子であった父の異人(後の荘襄王) は休戦協定で人質として趙へ送られていた である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また妾であった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。
秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた。
そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の継室ながら太子となる子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた。後に始皇帝となる。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。
始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた。
郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定している。
『史記』の説は異人と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて一切触れられていない。
『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、楚の春申君と幽王が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、小説的すぎる。
『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姫」(邯鄲の歌姫)の異なる説明がある。政は「大期」(10カ月または12カ月)を経過して生まれたとあり。
○ 死と隣り合わせの少年
政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には王陵、昭襄王50年(紀元前257年)には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった 政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている。
そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、秦王政8年(紀元前239年)には『呂氏春秋』の編纂を完了した。
だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の嫪毐を見つけた。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、列侯となった と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し、恵文王は魏出身の張儀から、昭襄王は魏の范雎から それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた。
商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である につけこまれた秦の侵攻にも、趙王が讒言で李牧を誅殺し、司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた。
秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された(趙の滅亡)。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた 丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった。
両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった。
政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。
そして、秦王政19年(前226年)、暗殺未遂の翌年に首都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された。秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱 と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は将軍の王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚の滅亡)。
最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相の后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ(斉の滅亡)。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった。史記の伝説では秦の始祖、大費(柏翳)が成功し、舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、方位の「北」、季節の「冬」、数字の「6」でも象徴された。
○ 政治
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである と強硬に主張した李斯の意見が採られた。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した。
◎ 大土木事業
○ 咸陽と阿房宮
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。この「阿房」は史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名 であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも とも言う。
○ 始皇帝陵 (驪山)
秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録がある。
木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された。
○ 万里の長城
中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた。逮捕された不正役人を動員して建造した この壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。
○ 霊渠
中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」というものがある。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し、中国の南北を接続した いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる。
しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事 に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された
・29年:咸陽‐陽武(河南省新郷市原陽県)‐之罘‐瑯琊‐上党(山西省長治市)‐咸陽
・始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石(河北省秦皇島市昌黎県)‐上郡(陝西省北部)‐咸陽
・始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省雲夢県)‐海渚(安徽省安慶市迎江区)‐丹陽(江蘇省南京市)‐銭唐(浙江省杭州市)‐会稽(浙江省紹興市)‐呉(江蘇省蘇州市)‐瑯琊‐成山‐之罘‐平原津(山東省徳州市平原県)‐沙丘(河北省邢台市広宗県)
これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省孝感市雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である。
○ 封禅
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の泰山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え、この儀式を遂行した。
しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した。僊人とは仙人のことであり、始皇帝が神仙思想に染まりつつあったことを示し、そこに取り入ったのが方士と呼ばれる者たちであった。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛苟合之徒」 と、怪しげで調子の良い(苟合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 - ごまをする)者たちであったという ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。
東晋時代『拾遺記』(王嘉著)宛渠人に記録される伝説上の人物または種族。秦の始皇帝が神仙を求めた際に現れたとされ、異国の風貌と超自然的な能力を持つ存在として描かれる。その描写は古代中国の神仙思想と結びつきつつ、現代では「宇宙人」や「未来技術の持ち主」とする解釈も提唱されている。
『拾遺記』の記述,宛渠の国咸池(太陽の浴場)から九万里離れた国とされ、1万年を1日とし、夜間は「燃石」で光を得る。この石は燃山から採掘され、粟粒大で部屋全体を照らすとされる。宛渠人は「螺舟」(螺旋形の船)に乗り、海底を水に浸かることなく航行する「淪波舟」で秦の宮廷を訪れたとされる。身長は十丈(約30メートル)、鳥獣の毛をまとって姿を隠し、天地開闢の情景を「目撃したように」語ったと記録される。黄帝の鼎作りや周の文王誕生など、中国神話の重大事件を「目撃」したと主張。
○ 刻石
各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った泰山そして瑯琊、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった
『史記・秦始皇本紀』に基づき、自然神への帝王権力の挑戦として後世に広く知られる。
『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという。
『三齊略記』に記される「石を鞭打つ神人」の逸話に遡る。後に始皇帝の暴君としてのイメージと結びつき、権力の暴走を象徴する道具として語られるようになった。
始皇帝は、統一の英雄であると同時に民衆を酷使した暴君として描かれる。趕山鞭はその「神性」と「残虐性」を併せ持つ存在を反映し、民間説話では権力への諷刺としても機能した。廬山の「秦皇石」や山東半島の形成説など、各地の地形や名所と結びついて物語が継承されている。
○ 驅山鐸
中国の伝説に登場する神話的な宝器で、秦の始皇帝が所有していたとされるもの。その名は「山を駆り動かす铎(鈴)」を意味し、山を移動させるほどの強大な力を有していると伝えられている
趕山鞭と類似の「驅山鐸(くざんたく)」(山を動かす鐘)の伝承も残り、江西省宜春市では漁師が神器を発見し山崩壊を招いたとされる。
明代の陳耀文が著した『天中記』巻七に引かれた『玉堂闲话』によると、宜春の鍾山で漁人が釣り上げたとされる「驅山鐸」の逸話が残っている。その内容は、漁人が釣り上げた铎が発した強大な音と振動で山が崩れ、漁人の船が沈んだというものだ。また、明代の董説が著した『西游補』にも、驅山鐸に関する記述がある。この作品では、秦の始皇帝がこの铎を使用して山を動かし、地形を変えることができたと伝えられている。
○ 秦王照骨鏡
中国秦の始皇帝が所有したとされる伝説的な銅鏡。人体の内部を透視し、臓器や骨格を映す神秘的な機能を持つとされ、歴史書や文学、民間伝承で広く語られる。。
漢代の文献『西京雑記』巻三によると、秦の咸陽宮に「幅四尺、高さ五尺九寸」の巨大な方鏡が存在し、鏡の前で心臓に手を当てると内臓が映し出され、疾病の診断や邪心の有無を判別できた。始皇帝はこれを宮人の監視に用い、異常を発見した者を処刑したという。
唐代『酉陽雑俎』や『松窓録』には、漁師が河川で発見した鏡が内臓を映す描写が残る。漁師は驚いて鏡を水中に投棄し、後に官憲が探索したが発見されなかった。
○ 驪山神女と始皇帝
『太平御覧』『辛氏三秦記』記録。秦の始皇帝が驪山で神女と出会い、無礼な振る舞いをしたため、神女は始皇帝の顔に唾を吐き、全身に爛れた瘡(かさ)を生じさせた。始皇帝が謝罪すると、神女は温泉を湧き出させ、その湯で洗うことで瘡を治したとされる。この温泉が現在の「華清池」の起源と伝えられる。
- 別伝:女媧(じょか)廟で始皇帝が女媧像を褒めたたえた際、像が唾を吐きかけたというバリエーションも存在する。
清代の考証学者・俞樾は、驪山神女を「秦人の祖神・驪山老母」の分化した姿と指摘(また、驪山神女は女媧とも考えられています)。始皇帝が自らの祖先神を冒涜したという解釈から、伝説は秦の暴政への批判的寓意を含むとされる。
◎ 始皇帝の暗殺未遂
→詳細は「始皇帝の暗殺未遂」を参照
帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた。
○ 高漸離の暗殺未遂
荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を打ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった。
○ 咸陽での襲撃
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた。
◎ 「真人」の希求
天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを歴史上に前例のない人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている。このように五帝や三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている。
○ 『録図書』と胡の討伐
盧生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」 という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した を中心に編成された軍団を派遣し
◎ 佩剣
泰阿剣(太阿の剣),《史記・李斯列伝》には、”今陛下に送った昆山の玉は、随和の宝で、明かりが垂れる月の珠、太阿の剣に服する。”これは、秦の始皇帝が得た昆山宝玉には瑞光があり、月よりも明るく太阿剣のようである、と言う意味です。秦始皇はかつて宝剣を配りました。死んだあとは大量に埋葬されました。沢山の宝貝も一緒に始皇の地宮に埋葬され、楚と漢が相争い、楚の覇王項羽が阿房宮を略奪すると多くの宝貝が発見されました。項羽は三十万人を使い三日がかりで阿房宮の宝を運び出したと言います。酈道元の《水経注》の渭水の段には、その後項羽は阿房宮を焼き払ったと書かれています
◎ 焚書坑儒
○ 焚書
始皇34年(前213年)、胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金となった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけた が、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は族誅するという建策を行い、認められた。特に『詩経』と『書経』の所有は、博士官の蔵書を除き 厳しく罰せられた。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった。始皇帝自身がこの思想を持っていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる。
すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った。
○ 坑儒
始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在 を元にする超人を指した。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた。
しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。一方始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って 監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇 の言「諸生皆誦法孔子」。
諫言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた が、扶蘇は任務に就いたことで別格となっている。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった。
◎ 祖龍の死
○ 不吉な暗示
『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された 上、隕石は焼き砕かれた は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた。
ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている 長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を口頭で、信頼を置く宦官の趙高 に作成させ託した。
始皇37年(紀元前210年)、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県)にて崩御。伝説によると彼は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという。
◎ 死後
○ 隠された崩御
始皇帝の崩御が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った。
しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、趙高は子嬰の命を受けた韓談によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された。
○ 『趙正書』の記述
以上の始皇帝死去前後の経過は『史記』に基づくが、北京大学蔵西漢竹書の一つである『趙正書』にはこれと食い違う経過が記されている。大きな相違点の一つが胡亥即位の経緯で、『史記』は李斯・趙高の陰謀によるものとするのに対し、『趙正書』では、群臣が跡継ぎに胡亥を推薦し、嬴政がそれを裁可するという手続きを踏んだことになっている。
● 人物
『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用された。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する。この時代には「無道秦」や「暴秦」 等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった。
唐代の詩人・李白は『国風』四十八 で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。
阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳伝灯録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」 という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった。
◎ 封建制か郡県制か
始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ。
文字という側面から藤枝晃は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた。
● 登場する作品
◎ エッセー
・アルゼンチンの作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899年 - 1986年)は、1952年に『続審問』(Otras Inquisiciones)の中で「La muralla y los libros」(「壁と書」の意味)を書いた。これは始皇帝についてのエッセーであり、万里の長城建設と焚書に対して否定的な見解を述べている。
◎ 小説
・1956年にイギリスで出版されたロナルド・フレーザー作『Lord of the East』は、始皇帝の娘を主人公とした歴史小説である。彼女は恋人と駆け落ちをするが、本作の中で始皇帝は若いカップルに立ちはだかる障害として描かれている。日本未出版。
・『流亡記』。開高健の小説。始皇帝の支配体制を一民衆の視点から描いている。
・『始皇帝復活』『始皇帝逆襲』。蕪木統文の小説。
・『秦の始皇帝』(1995年)。陳舜臣の小説。
・『始皇帝 中華帝国の開祖』(1998年)。安能務の小説。始皇帝の統治を公正にして厳格、始皇帝自身も合理的精神をもった開明的な人物と高く評価している。
・『小説 秦の始皇帝』(1999年)。津本陽の小説。
・『始皇帝』(2006年)。塚本靑史の小説。
・『天下一統 始皇帝の永遠』(2016年)。小前亮の小説。
◎ 映画
・『秦・始皇帝』(1962年)。中国統一後の始皇帝を描いた日本映画。勝新太郎が始皇帝を演じた。
・『テラコッタ・ウォリア 秦俑』(1989年)。輪廻転生とタイムスリップを題材とした香港・中国合作のSFアクション映画。陸樹銘が始皇帝を演じた。
・『始皇帝暗殺』(1998年)。秦王政と、彼が愛した架空の女性・趙姫、そして暗殺者の荊軻の3者の愛憎を描いた中国映画。リー・シュエチェンが秦王政を演じた。
・『HERO』(2002年)。秦王(後の始皇帝)の命を狙う架空の刺客たちを描いた中国の武侠映画。チェン・ダオミンが秦王を演じた。
・『亂世英雄 呂不韋』(2001年)。秦国相邦として生きた呂不韋を描いた中国のTVドラマ。ウー・チュンが秦王政を演じた。日本未公開。
・『始皇帝暗殺 荊軻』(2004年)。秦王政を暗殺しようとした荊軻を主人公とする中国のTVドラマ。シャオ・ピンが秦王政を演じた。
・『始皇帝 -勇壮なる闘い-』(2009年)。直道建設にまつわる陰謀譚を描いた中国のTVドラマ。が始皇帝を演じた。
・『』(2017年、原題:秦時麗人明月心)。架空の女性・麗と秦王・嬴政を軸に戦国時代の秦の進出を描いた中国のTVドラマ。が嬴政を演じた。
・『始皇帝 天下統一』(2020年、原題:大秦赋)。全78話。後の始皇帝・秦の大王嬴政により西の大国であった秦が統一王朝へと成長する過程を描いた中国のTVドラマ。が始皇帝を演じた。
・ 『新・信長公記〜クラスメイトは戦国武将〜』(2022年)。2120年の日本を舞台に戦国武将のクローンが不良高校で総長となるため争う日本テレビのSFドラマ。マシュー・ペリー提督やジャンヌ・ダルクとともにクローンとして蘇り、戦国武将たちのクローンに戦いを挑む。侯偉が始皇帝を演じた。
◎ 漫画・テレビアニメ
・『史記』- 横山光輝 の漫画。7巻「若き支配者」8巻「始皇帝」における主人公格として登場。また、その他にも李斯や張良などが主役のエピソードにおいても脇役として登場する。
・『墨攻』- 作画・森秀樹 (脚本・久保田千太郎)の漫画。酒見賢一原作の小説を元に小説以降の内容を描いた漫画。小説では戦国時代初期を舞台としているが、漫画化において秦代初期に差し替えられており、敵の首魁の一人として登場。
・『東周英雄伝』『刺客列伝』『始皇』- 鄭問の漫画。刺客列伝では荊軻を主人公としたエピソードに登場。この作品では敵役と言う役柄もあってか、容姿が東周英雄伝や始皇の二作と大きく異なっている。
東周英雄伝では即位間もない頃の呂不韋の執政時代から嫪毐の叛乱制圧を経て秦の実権を握るに至るまでが描かれ、王翦と李信が主役のエピソード「貪財将軍」では脇役として登場する。
始皇では六国の攻略に乗り出し、趙を平定するに至るまでが描かれている。
・『キングダム』(2006年 - 連載中)-原泰久による漫画作品。中華一の大将軍を目指す少年・信の成長と活躍を軸に、中華統一を目指す嬴政の秦と六国の攻防を描く。2012年6月からNHKBSプレミアムでテレビアニメ化され放映されており、福山潤が政を演じた。2019年には上記の通り実写映画化された。
・『達人伝-9万里を風に乗り-』-王欣太の漫画作品。主人公である壮丹と同じ生まれ故郷出身の朱姫が、故郷を秦の将軍・黥骨に滅ぼされた後に記憶を失って彷徨っている所を拾った呂不韋との間に身篭った子であるが、それを秘したまま秦の太子・異人の元で生まれ、その子として育つ。幼いながらも卓越した思考力と冷徹さを持ち呂不韋や母・朱姫を恐れさせる。
・『劉邦』- 高橋のぼるの漫画。主人公劉邦と直接絡む事は無かったが、政務を取りしきる中で阿房宮の工夫として賦役についていた劉邦が炮烙を生きて渡って放免されたとの李斯からの報告に、その存在に一抹の危惧を抱きつつも一顧だにしない冷徹な帝王として描かれた。また、今作の太公望(呂尚ではなく、張良に兵法を指南した架空人物)と全土統一の計を練った人物でもあり、全土統一を果たして始皇帝となった後に我欲に狂うまでは崇高な理想を持った人物であったとも彼に評されていた。
・『終末のワルキューレ』(2018年 - 連載中) - 原作梅村真也、作画アジチカ、構成フクイタクミによる漫画。ヴァルハラ評議会にて、神々による人類存亡会議が行われていた。会議の結果、神々は人類を滅亡させ、終末を迎えることを決める。しかしそこに待ったをかけたのがワルキューレの長女ブリュンヒルデ。彼女は神々に神対人類のタイマン勝負、ラグナロクの開催を提案、そして受理される。そのラグナロク第七回戦の人類側代表として始皇帝が出場。
◎ テレビ番組
・『Secrets of China's First Emperor, Tyrant and Visionary』(2006年)。ナショナルジオグラフィック協会製作のドキュメンタリー。日本未公開。
・『China's First Emperor(英語版)』(2008年)。アメリカ合衆国のテレビチャンネル「ヒストリー」製作のドキュメンタリー。日本未公開。
◎ 音楽
・『The First Emperor(英語版)』。始皇帝を描いたオペラ。日本未公開。
◎ ゲーム
・1997年に株式会社シャングリ・ラが製作発売したプレイステーション用ソフト『』は、始皇帝の嫪毐の叛乱から中国統一までを描いたシミュレーションゲームである。
・2005年発売のTVゲーム『Sid Meier's Civilization IV』では、中国の指導者として始皇帝が登場する。
・『真・三國無双 MULTI RAID 2』では始皇帝が三国時代に復活して登場する。
・2021年発売のゲーム『Stronghold: Warlords』では、中国の指導者として始皇帝が登場する。
・Fate/Grand Orderの2部3章は始皇帝が不老不死を成し遂げ世界統一を成し遂げた世界が舞台である
◎ クイズ
・2021年9月26日にテレビ朝日系列にて放送された『パネルクイズ アタック25 最終回1時間スペシャル 史上最強のチャンピオン決定戦』での宮古島旅行(放送当日はインペリアルスイート)を賭けた映像問題に始皇帝が出題された。
◎ アトラクション
・1989年に横浜・名古屋・福岡の三都市で開催の地方博覧会で公開された日立グループ館のジャンケンゲーム「タイムジャンプ」の映像内で、巨大な国家を作った4人のうちの一人として、中国のシーンで始皇帝が登場した(声:青野武)。
「始皇帝」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2025年2月16日5時(日本時間)現在での最新版を取得

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