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決闘(けっとう)とは、名誉の獲得・回復、紛争の解決、恨みを晴らすなどの目的で当事者双方が同意して、あらかじめ了解し合ったルールに基づいて行う闘争のことをいう。「果合(はたしあい)」と同義である。不良少年による俗語は「タイマン」(一対一の喧嘩から)。
● 概要
一般に決闘は、戦場での対決や闘技士の戦いとは区別される。これらは戦う相手に対する憎しみや恨みが立ち合いの原因ではなく、闘争は偶発的であり、あるいは現代のスポーツと同じような競技試合だからである。対して決闘は当事者双方の名誉・利害問題の解決に重点が置かれているところにその特徴がある。
501年にブルゴーニュ王が制度化したのをきっかけに「判決のための決闘」(決闘裁判)がヨーロッパ各地に広がり、中世ヨーロッパでは長きにわたり裁判としての決闘が行われた。こうした裁判が行われたのは「神は正しい者に味方する」「決闘の結果は神の審判」というキリスト教の信仰が背景にあった。
● ヨーロッパの決闘
◎ 決闘裁判
決闘(duel)の語はラテン語の二人(duo)と戦い(bellum)から生まれた言葉である。決闘は個人間の紛争を格闘によって解決したゲルマン民族の伝統が由来と考えられている。イングランドにおいては次のように運用されていた。犯罪を犯した者が明らかであるにもかかわらず、証拠が十分でないために相手が無罪になったとき、あるいはなると考えられるときに、被害者が決闘を申し込んだ。主に、証拠のない殺人など重犯罪について決闘が行われた。土地の所有権などの争いにも利用することができた。これを決闘裁判と呼ぶ。訴追する者が決闘によれない(重傷者・老人・女性)場合は神判となり、失敗は死か四肢切断を意味した。決闘の場合、決闘責任者は裁判官であった。重犯罪の共犯者が自白し告発人となった場合、自白し告発した共犯者を相手にその嫌疑を決闘で証明することに成功すれば、彼は死を免れ公民権を失い退国宣誓をすることにより命をつなぐ事が出来た。
1385年、フランスで合法的な手続きに基づく最後の決闘が行われた。ジャン・ド・カルージュが、ジャック・ル・グリが覆面をして自分の妻に乱暴をはたらいたとして決闘による裁判を申し込んだ。ル・グリは無実であると主張したが決闘を受け入れた。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、カルージュの主張が認められた。これ以降、パリにおいては決闘裁判は行われなかった。
イングランドでは、15世紀末の1492年に正式な裁判手続きに基づく最後の決闘裁判が実施された。同じ世紀の中ごろにも非常に珍しい決闘裁判が行われたという記述があることから、15世紀の頃には裁判手続きとしての決闘裁判はほとんど行われなくなっていたことがわかる。ただし決闘裁判は制度としては廃止されずに19世紀までは存在し、1818年までは正式な裁判方法の1つであった。この年、若い女性を殺害したとして殺人罪で告訴された者が、公訴による裁判で無罪を獲得したにもかかわらず、被害者側からさらに刑事私訴されたことに対し、決闘方式による裁判方法を請求し、約300年ぶりに決闘裁判が行われることになった。しかしこの請求は被害者側の遺族が受諾しなかったために成立しなかった。翌1819年にもやはり類似した事件で決闘裁判が請求されるにいたり、議会は決闘裁判を廃止する「殺人私訴法」を制定した。
◎ 私闘としての決闘
ヴァイキング時代の北欧社会には国家的権力(公的強制力)がなく、サガにも決闘に関する記録が多く残されている。ノルウェーで他者の財産を求めて決闘を行うことが禁止されたのは、11世紀の初め頃である。アイスランドにおいても決闘はアルシングで認められた制度であり、同じく11世紀初頭に禁止された。
このように、正式な制度としての決闘裁判は15世紀までに廃れたが、15世紀末頃からフランスで個人間の私闘である「名誉のための決闘」が生まれるようになり、16世紀以降にはこうした決闘が厳格な規則を基にして発達していく。1610年に書かれたジョン・セルデンの『決闘あるいは一対一の闘い』には「公言された嘘、咎められた名誉、肉体に与えられた理不尽な打撃、不当に扱われた騎士道精神にたいし、義侠の行為をもって真実、名誉、自由を守るために、判決の試合場ではなく、一対一の個人的な争いにより相手の肉体にその悪の報いを与える習慣は、フランス人、イギリス人、ブルゴーニュ人、イタリア人、ゲルマン人、及び北方諸族の間に広がっていった」とある。
名誉のための決闘は特に上流階級の間で盛んに行われた。
◎ 軍人の決闘
軍人の決闘については別に定めのある国もあった。プロイセンでは、軍人の決闘があまりに多かったため、1843年に名誉裁判所が設置された。これは軍人同士の安易な決闘を防ぐための機関でもあったが、名誉裁判所そのものが決闘を命じた例もある。当時のプロイセンでは決闘は非合法であったが、名誉裁判所が認めたり命じたりした軍人の決闘は別扱いされ、合法とされていた。この制度は1918年、プロイセン王国がなくなるまで存在した。
◎ 政治家の決闘
オットー・フォン・ビスマルクは、ドイツ国会が軍事予算問題で紛糾したとき、反対派のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウに決闘を申し込んだ。そのときフィルヒョウが提示した決闘の方法は、加熱済みソーセージと、見た目が同じで旋毛虫が注入された未加熱のソーセージとを用意して、めいめいに選んだ方を食べるという方法だった。フィルヒョウは旋毛虫を食べた場合にどれほど無残に死ぬかをビスマルクに説明した。ビスマルクは決闘の申し出を撤回した。
◎ 大学生の決闘
決闘が流行した時代の大学生はエリート階級であり、紳士予備軍だった。学問より紳士教育を受けるために大学に入るのが普通だった。大学生が紳士の文化である決闘に染まっていくのは自然なことだったと考えられる。詩人のサミュエル・テイラー・コールリッジはケンブリッジ大学の学生だった1790年に兄に宛てて書いた手紙の中で「ペンブルック・カレッジの学生二人が口論になり、ニュー・マーケットで決闘におよびました。挑戦者の方が死にました。(略)しかし、大学内では決闘した学生は今ではスター的存在になっています」と書いている。
ドイツ、オーストリア、スイス、およびラトビアやフランドル地方の一部ではメンズーア(Mensur)という学生文化が存在する。これは15世紀の終りにスペインでレイピアによる決闘が慣例化したのをドイツの学生達が導入し、当初は通りで学生同士が決闘に到り死者を出すことも珍しくなかった。17世紀頃には審判と医師の立会いによる正式なものへと発展し、スポーツと決闘のいずれでもない特有の文化として定着した。これは底意のない形式的な侮辱により開始され、対戦相手のいずれかが血を見ることによりほぼ円満に終結するといったものであり、在学中に十数回ほど対戦することも珍しくなく、ドイツの伝統的な学士会 (Studentenverbindung) のなかには、メンズーアの対戦経験があることを加盟条件に課すものもある。
◎ 競技としての決闘
1908年ロンドンオリンピックでは蝋で出来た弾丸を使用する決闘が非公式競技として行われた。
● ヨーロッパ以外の決闘
アメリカはピューリタンの国であり、反ピューリタン的行為とされていた決闘が生まれる下地は本来なかったが、独立後にニュー・イングランドに住む商業成金がエリート主義からヨーロッパ貴族文化に強い関心を示し、息子たちをヨーロッパに留学させたりしたことでヨーロッパの決闘文化が輸入されるようになった。ただ決闘の精神まで輸入されたとは言い難く、名誉回復よりも個人的復讐や野心が前面に出ていることが多かったといい、19世紀の歴史家A・スタインメッツは「ヤンキーたちによって採用されたアメリカの決闘はまるで滅茶苦茶であり、フェアではない。厳密に名誉を重視し、紳士の精神に基づくイギリス人の決闘とはきわめて対照的である」と述べている。西部開拓時代には西部劇に見られるようなアウトローの決闘があった。とりわけ1849年から10年間、ゴールドラッシュによって荒くれ者が集まったカルフォルニア州は決闘の中心地になった。しかし西部の決闘はヨーロッパにおける決闘のように格式に則ることは少なかった。当事者双方の同意はあることが多かったが、理由は名誉回復などより金鉱の権利争い、酒場の女争い、ギャンブルをめぐる争いなどが多く、単に退屈だからという理由で行われることもあった。介添人を出すといった決闘の作法も遵守されず、ヨーロッパにおいては決闘とは見なされない性質の物が多かった。南北戦争後には法的規制が厳しくなってきて西部においても決闘は下火になっていく。
日本では、戦国時代から江戸時代にかけて武士の間で行われた果たし合いが決闘に該当するが、後年には侠客や博徒の間で流行していた。適用例は少ないが、暴走族間の抗争等で同法が適用された判例がありは非常に有名であるが、恐らく伝説であり、実際に行われたという確証が得られていない。
● 有名な決闘
1351年3月26日
ブルターニュ公国プロエルメル
勝者
以下30名のフランス軍騎士・従騎士
敗者
以下30名のイングランド軍騎士・従騎士
ブルターニュ継承戦争中にらフランス側騎士30名とらイングランド側騎士30名がプロエルメルで行った決闘。フランス側の勝利に終わるが、両陣営とも多くの死傷者を出した。この決闘は年代記者ジャン・フロワサールによって感動的に語り伝えられ、「双方の戦士たちは、まるでローランやオリヴィエのように勇敢だった」と称えられている。
ジャルナックの決闘
1547年7月10日
フランス王国サン=ジェルマン=アン=レー
勝者
ジャルナック男爵
敗者
シャテニュレ卿
シャテニュレ卿がジャルナック男爵の近親相姦をほのめかしたことについてジャルナック男爵は名誉棄損されたとしてフランス王フランソワ1世に訴え出た。国王の側近たちは決闘裁判を進言したが、国王は愛人の義理の息子にあたるジャルナック男爵の身を案じてそれを退け、ジャルナック男爵をなだめて場を収めた(シャテニュレ卿は当代随一の剣の達人と言われていた)。
しかしシャテニュレ卿の友人だったアンリ2世が国王に即位するとジャルナック男爵は決闘を命じられた。国王や貴族、市民が見物する中、2人の決闘が行われる。誰もがシャテニュレ卿の勝利を予想したが、剣術の師から不意打ちの仕方を習っていたジャルナック男爵は、何度か剣を合わせた後、シャテニュレ卿が突いて出たのを躱して相手の右足膝裏の腱を素早く突いて転ばせ、左足の腱も斬って戦闘不能にした。
ジャルナック男爵は国王に向かってこれで自分の名誉が晴らされたのではないかと問うたが、面白くない国王は何も答えなかった。敗北したことで怒ったシャテニュレ卿は罪を認めることを拒否し、傷に巻かれた包帯をはぎ取り、後に負傷が原因で死去した。この決闘で敵に予期せぬ打撃を与えることを指してという言葉が生まれた。
巌流島の決闘
1612年5月13日(慶長十七年四月十三日)
山口県下関市巌流島(船島)
勝者
宮本武蔵
敗者
佐々木小次郎
遅れて現れた宮本武蔵に佐々木小次郎が刀の鞘を投げ捨てて挑むも、武蔵は鞘を捨てたことについて「小次郎、敗れたり」と言い、櫓を削って作った木刀で彼を打ち殺したという『二天記』に基づく描写で有名な決闘。一方武蔵の養子宮本伊織が小倉に立てた『武蔵顕彰碑』には2人は同時に到着し、真剣を持った小次郎を武蔵が木刀で殺害したことが記されている。
決闘の理由は『二天記』によれば小次郎が小倉にいることを知って武蔵の側から決闘を申し込んだとあり、『沼田家記』によれば、二刀流の武蔵と巌流兵法の小次郎は共に豊前小倉藩細川家で剣術指南役をしていたが、双方の弟子が優劣を争ったために師匠同士が巌流島で決闘することになったとある。
「佐々木小次郎」の名ははっきりしたものではなく『小倉碑文』には「巌流」とあり、「小次良(郎)」の名は『武公伝』が初出で、佐々木姓は『本朝武芸小伝』から来ていると見られる。巌流島が決闘場所に選ばれたことについて吉村豊雄は小倉藩主細川家の領地か長府藩主毛利家の領地か曖昧な無人島であったから大名家による取り締まりの対象にならない地として選ばれたのではと推測する。現在島には武蔵と小次郎が決闘する像がある。
この決闘で安兵衛は有名人になり、赤穂藩主浅野家の家臣堀部弥兵衛金丸から婿入りを懇望されて堀部安兵衛となり浅野家に仕えることになる。実際に安兵衛が斬ったのは3人か4人(村上の郎党の有無)だったが、後に脚色されて高田馬場18人斬りとして語り継がれた。
1712年11月15日
ロンドンハイド・パーク
勝者
第4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン
敗者
第4代
ハミルトン公は当時議会で優勢を占めていたトーリー党の有力者であり、モーン卿はその対立政党ホイッグ党の有力者で政治的対立関係にあった。また第2代マクルズフィールド伯爵チャールズ・ジェラードの土地相続をめぐって利害対立関係にあった。当時トーリー党政権だったため不利な立場に立たされていたモーン卿が「紳士としての名誉を傷つけられた」としてハミルトン公に決闘を申し込み、ハミルトン公が応じたことで剣による決闘となった。勝負はハミルトン公の剣がモーン卿の腹を貫いて倒したことで決したが、モーン卿の介添人とハミルトン公の介添人ジョン・ハミルトンも剣を抜いて争いになり、ジョン・ハミルトンに剣を叩き落されたマッカートニーは剣を拾うやハミルトン公を刺した。ハミルトン公は出血多量で死亡、敗れたモーン卿も即死していたので当事者双方が死亡する結果に終わった。その後マッカートニーは国外へ逃れ、逮捕されたジョン・ハミルトンはマッカートニーを殺人者と批判したが、ホイッグ党政権になるとマッカートニーは帰国して自分は公爵を殺していないという主張を押し通した。
小ピット=ティアニー決闘
1798年5月27日
ロンドンウィンブルドン
小ピット(英国首相)
小ピットは当時の英国首相でトーリー党所属。ティアニーはチャールズ・ジェームズ・フォックスの死後、ピットの外交政策のもっとも著名な反対者となったホイッグ党所属の庶民院議員だった。ピットがティアニーのことを愛国心が足りないと批判したことがきっかけで拳銃による決闘が行われることになった。どちらも負傷せず終わった
1804年7月11日
ニュージャージー州
勝者
アーロン・バー(米国副大統領)
敗者
アレクサンダー・ハミルトン
バーは当時の米国副大統領であり、民主共和党所属。ハミルトンはアメリカ合衆国建国の父の一人であり、連邦党に所属しており、両者は政治的敵対関係にあった。ハミルトンの「バー氏は危険な人物なので、信用して政府の手綱を任せるべきではない」という批判についてバーは発言の撤回を求めたが、ハミルトンは「表現は政治的対立者の間では許される範囲の物」として撤回を拒否。その後も何度かやり取りがあったが、発言撤回されなかったのでバーはハミルトンに決闘を申し込み、ハミルトンは嫌がりながらもそれに応じた。勝負は一発で決まりハミルトンが撃たれて倒れ、バーは友人の用意した船に乗ってその場から逃れた。ハミルトンは2日後に死去、バーはニュージャージー州から殺人罪に問われたが捕まることはなかった。
ジャクソン=ディキンソン決闘
1806年5月30日
ケンタッキー州
勝者
アンドリュー・ジャクソン(後の米国大統領)
敗者
後のアメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンが行った決闘。弁護士のディキンソンがジャクソンの妻を中傷したことがきっかけで決闘となった。2人は共に拳銃の名手だった。合図があるとディキンソンが先に発砲し、ジャクソンの心臓に命中させたように見えたが、ジャクソンは倒れず「そんなはずはない」とディキンソンが叫んだところをジャクソンの撃った弾がディキンソンに致命傷を負わせディキンソンはその場に倒れて死亡。ディキンソンの弾は確かにジャクソンに命中していたが、心臓からは反れていたので致命傷ではなく、ジャクソンは気合で耐えて相手を射殺したという。
オコンネルの決闘
1815年2月2日
アイルランドダブリン郊外
勝者
ダニエル・オコンネル
敗者
ジョン・デステール
アイルランド民族運動家でアイルランド人の大同団結が必要と考えるオコンネルがアイルランド協会を批判し、これに協会のジョン・デステール(John D'Esterre)が怒って決闘になった。最初に撃ったデステールの弾は外れ、次に撃ったオコンネルの弾はデステールの股を撃ち抜いた。デステールは立ち会った医師に搬送されたが、翌日に死去。良心の呵責を感じたオコンネルは決闘は二度とやらないと誓ったという。
ウェリントン=ウィンチルシー決闘
1829年3月23日
ロンドンハイド・パーク
初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(英国首相)
第10代ウィンチルシー伯爵
ウェリントン公は当時のトーリー党政権の首相、ウィンチルシー伯はホイッグ党所属の政治家で熱烈なプロテスタントであり、両者はカトリック救済法案の是非を巡って対立し、それがこじれて決闘になった。「撃て」の声がかかると公は伯に銃口を向けたが、伯は銃口を空に向けたままだったため、公も撃つのをためらい、ここで介添人が伯の謝罪の手紙を公に渡して公が受け入れて決闘は双方無傷のまま終了した。
ガロアの決闘
1832年5月30日
フランス王国ジャンティイ
勝者
ペシュー・デルヴァンヴィル
敗者
エヴァリスト・ガロア
群と代数方程式の関係を示すガロア理論で知られる数学者ガロアはこの決闘で銃弾を受けて重傷を負い、翌5月31日に腹膜炎により20歳にして死去した。決闘の詳細は不明な点が多いが、大デュマの回想録によれば決闘相手はガロアと同じく「人民の友」のメンバーで共和主義者だったペシュー・デルヴァンヴィル(Pescheux d'Herbinville)だったという。決闘場所はの書いた伝記によればジャンティイのグラシエールの沼の近くだったという。決闘の理由は恋愛のもつれ説、警察の陰謀説、自殺説などがあるが、当人が死去の直前に残した言葉などから恋愛説が有力である。
プーシキンの決闘
1837年2月8日(旧暦1月27日)
サンクトペテルブルク
勝者
ジョルジュ・ダンテス
敗者
アレクサンドル・プーシキン
「ロシア文学の父」と呼ばれる詩人・作家プーシキンは妻ナターリアと噂のある近衛騎兵隊将校ダンテスと決闘に及んだ。合図があった後ダンテスが先に発砲し、プーシキンに命中。駆け寄る介添人を払いのけたプーシキンは肘をついて身を起こし「待て、まだ撃つだけの力は残っている」と叫んだ。それを聞いたダンテスは腕で胸をかばう態勢でプーシキンの発砲を待った。プーシキンが発砲した弾はダンテスの腕に命中したが、胸には届かず致命傷にならなかった。プーシキンはそこで力尽きて倒れ、2日後に死去した。
ラッサールの決闘
1864年8月28日
カルージュ
勝者
敗者
フェルディナント・ラッサール
ラッサールは全ドイツ労働者協会会長を務める社会主義者。ラコヴィッツァ伯はワラキアの貴族。ラッサールはとの恋愛を巡るもつれから彼女の父であるバイエルン外交官に決闘を申し込んだが、デンニゲスはヘレーネの婚約者ラコヴィッツァ伯が代わりに決闘に応じると返答し、ラッサールはそれを承諾。決闘は3つ数えてから撃つことになっていたが、「2(ツヴァイ)」の後「3(ドライ)」を待たずにラコヴィッツァ伯が発砲してラッサールの腹部に弾を命中させた。続いてラッサールも発砲したが当たらなかった。ラッサールは立ち会った医師に搬送されたが、3日後に死去した。
「決闘」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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