ランキング22位
獲得票なし
ランキング9位
獲得票なし
栗林公園(りつりんこうえん)は、香川県高松市に所在し、国の特別名勝に指定された回遊式大名庭園(日本庭園)である。県立の都市公園(歴史公園)として運営されている。
● 概要
紫雲山の東麓に所在し、紫雲山を背景に、6つの池と13の築山を配し、400年近い歴史を有する大名庭園である。すぐれた地割と石組を有し、木石の雅趣に富んでいるとされている。面積は約75haで文化財庭園では、国内最大の広さである。
文化財庭園としてのカエデ・ツツジ・約1000本の手入れマツなどに加え、都市公園としてのウメ・サクラ・ハス・ショウブ・ハギなどが創出する四季折々の景観は、「一歩一景」とされている。
本園は、南庭と北庭で構成される。南庭は江戸時代初期の大名庭園の姿を今日に伝える。北庭は檜御殿が建ち鴨場であったが、大正時代初期に近代庭園のスタイルを取り入れた宮内省の市川之雄の設計で改修の後、一部を改変して今日に至る。本園の前身の「栗林荘」は、高松藩主の松平家11代の国もとの下屋敷として、228年間使用された。1745年(延享2年)第5代藩主頼恭が「名所60景」を撰名し、作庭が完成したとされる。「名所60景」は、南庭に46景と北庭に4景の、50景が現存する。
園内には3種類の気象庁の標本木がある。北梅林のウメ・讃岐民芸館前のサクラ(ソメイヨシノ)・楓岸のカエデである。高松地方気象台の「開花・満開・紅葉」の宣言は、これらの標本木に基づく。
◎ 様々な池と水源
栗林公園には様々な大きな池があり、庭園部分の約2割を占めていて、これらは互いにつながっている。水源は紫雲山の地下水も多少あるが、おもに公園の南東隅にある「吹上」(ふきあげ)と呼ばれる場所で湧き出ていて、短く浅い小川となって池にそそいでいる。高松市のおもな河川である香東川は現在紫雲山の西を流れているが、往時この川の本流は紫雲山の東の栗林公園のある場所から中央通り(国道11号・国道32号)を通り、玉藻公園(高松城址)の脇で瀬戸内海へそそいでいて、江戸時代の改築で本流を現在のように変えたあとも、伏流水が栗林公園で湧き出ている。現在は近くにある二つの井戸の水も使われているとも、往時はこの水源の小川で「曲水の宴」を行なったともいわれる。
● 沿革
・ 1869年(明治2年)- 版籍奉還により「栗林荘」が官有となる。
・ 1914年(大正3年)3月21日 - 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)、淳宮(秩父宮雍仁親王)、光宮(高松宮宣仁親王)来園。
・ 1930年(昭和5年)1月 - 栗林公園動物園が開園。2002年9月、閉園。2004年3月、施設撤去を完了する。
● 歴史
江戸時代の1600年代初め、生駒氏の家臣であった佐藤道益の居宅の作庭が本園の始まりとされている。この頃の香東川は紫雲山を挟んで東西二筋の流れであったが、生駒氏の姻戚の藤堂氏(津藩主)のもとから派遣された西嶋八兵衛の治水工事で東側の流れが堰き止められ、西側の流れ一本に改変された。川の跡地は豊富な伏流水を持つ広い土地になり、庭園となる条件が整った。この時代に生駒氏の家臣の屋敷地から、後の庭園につながる整備がされたとされている。生駒氏は改易により出羽国由利郡矢島へ移付となる。1642年(寛永19年)5月、初めて入国した高松藩初代藩主の松平頼重は、7月に栗林の地を訪れ検分する。頼重は隠居に当たって栗林荘に御殿を建て居住する。第2代藩主頼常は、飢饉対策の救済事業として、被害に遭った人々を栗林荘の作庭に雇い、庭園を拡張した。この頃、南庭・北庭を備えた庭園となる。第3代藩主頼豊は、在国時は居所を高松城から栗林荘にするほど愛好し、庭内の整備を一層すすめた。第5代藩主頼恭も薬園を設ける等作庭に力を入れ、1745年(延享2年)に「名所60景」を撰名した。栗林荘の完成を区切るとすれば、現在に通じる景観が形成された、頼重着任後約100年のこの時代である。その後、高松藩松平家の国もとの下屋敷として幕末まで経営された。
● 栗林公園と日本三名園
大名庭園である水戸の偕楽園・金沢の兼六園・岡山の後楽園は日本三名園として名高い。しかし1910年(明治43年)に文部省が発行した『高等小学読本 巻一』の第六課「公園」の末文には、「・・・我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」と記述され、栗林公園の「木石の庭の美しさは日本三名園より優れている」という。
● 施設
・ 掬月亭(きくげつてい):江戸時代の初期に建てられた、数寄屋造りの純和風建築で、茶室を備える。もとは7棟の配置が北斗七星に似ていることから、「星斗館(せいとかん)」と命名され、歴代藩主には「大茶屋」と呼ばれていた。明治初年に北側の2棟が取り払われ、5棟になる。東南の南湖に突き出る棟が、「水を掬(すく)えば月が手にある」という中国唐代の詩の一節から名付けられた「掬月楼」にあやかり、建物が「掬月亭」に改名された。1965年(昭和40年)、伊藤要太郎の設計で保存修理を完了する。掬月亭は四方正面の造りで、床を低くし、壁は少なく、風通しの良い夏向きの建物である。舟をモチーフにした部屋は、へさきの雰囲気を醸し出す。亭内には第68・69代内閣総理大臣の大平正芳の自筆題字を付した「栗林園二十詠」の屏風が展示されている。南庭の中心的な存在の亭内からの眺めは絶景で、開放感にあふれるとされている。
・ 旧日暮亭(きゅうひぐらしてい):西湖の近くに移築された、江戸時代初期の入母屋茅葺き屋根の大名茶室で、武者小路千家の官休庵の茶室の姿を保つ建物とされている。もとは、2代藩主頼常の頃に、吹上げの水流に隣接して建てられた「考槃亭(こうはんてい)」である。5代藩主頼恭の時代に移築され、「日暮亭」に改名された。その後、園外に移築された後、現在地に再移築し、復元・保存して活用する。現在のしつらえの、豊島石製の生込み灯籠・古木の藤棚・降蹲踞(おりつくばい)等も貴重とされている。山頂から見下ろす偃月橋や、紫雲山を背景に南湖の西に配された掬月亭を望む眺めは、栗林公園を代表する景観で、定番の撮影スポットとなっている。飛来峰という名称は、中国杭州にある名勝地から得た命名といわれている。
● 樹種
園内には総数56科、173種、約32,400本の樹木が生育している。内訳は下記の通り。
1951年(昭和26年)に財団法人に変更、翌1952年(昭和27年)に博物館登録。
来園者が入れる「人間」のオリやナマケモノの飼育で知られていた。1974年(昭和49年)にパナマからホフマンナマケモノの「シロ」を迎え、国内初となる飼育を開始。1982年(昭和57年)に来園したフタユビナマケモノの「ナシ」は1985年(昭和60年)の初出産を皮切りに計11頭の子供を出産し、世界最高記録保持者となった。シロは閉園後も高松市内の住宅で飼われており国内長寿記録を更新中である(2011年現在)。
開園時間は日の出から日没まで。長らく市民の憩いの場として親しまれ、1970年頃には入場者数約50万人を数えていた。しかしその後は利用者減で経営と飼育環境が悪化。このため2002年(平成14年)9月末で休園となり、その後も動物の飼育と事実上の公開は続けられたが、香川県に土地を返還するため2004年(平成16年)3月末で完全に閉鎖され、名実ともに74年の歴史に幕を下ろした。跡地は再整備され、2006年(平成18年)10月1日に駐車場が開業した。
ちなみに、歴代の園長には、田口恵美子(元・TBSアナウンサーの香川恵美子)の父方の叔父も名を連ねていた。その関係で、恵美子は1965年(昭和40年)の10月18日に園内の園長宅で出生している。
● 観光
公園内には6つの池があるが、このうち南湖では江戸時代に船遊びが行われていたことにちなんで、2012年(平成24年)7月5日より観光用に和船「千秋丸」が就航している。2015年7月4日までの3年間で5万3千人を超える利用客があった。2017年5月1日より1隻が寄贈されて2隻での運行となった。
2009年版の『ミシュラン観光ガイド』に「わざわざ訪れる価値のある場所」として、最高評価の3つ星に選定された。また2012年に出版のアメリカの庭園専門誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』の「2011年日本庭園ランキング」では、足立美術館・桂離宮に続く3位を獲得した。2012年、『 特別名勝 栗林公園 子ども公式ガイドブック わくわく探検隊』が刊行され、2016年に英語版も刊行された。
● アクセス
◎ 公共交通機関ほか
主要な場所からの所要時間は下記の通り。
・ 春の雪 (映画) - 2005年に公開された。
・ ハチミツとクローバー(台湾版のドラマ)。 - 2008年、台湾で放映。その後、日本の複数のテレビ局で放映した。
・ 百年の時計 - 2012年に公開のご当地映画。高松琴平電気鉄道創業100周年事業の一つ。
「栗林公園」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2024年10月13日11時(日本時間)現在での最新版を取得
好き嫌い決勝
好き嫌い準決勝
好き嫌い準々決勝
好き嫌い7位決定戦
好き嫌いTOP10圏内確定戦
観光地の無作為ピックアップ
Powered by