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谷川岳(たにがわだけ)は、群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町の県境(上越国境)にある標高1,977メートルの山。日本百名山、ぐんま百名山、越後百山、新潟100名山の一つ。
● 概要
群馬県の北方、新潟県の南方の上信越高原国立公園・三国山脈にある双耳峰の山。周辺の仙ノ倉山・万太郎山・一ノ倉岳・茂倉岳などを総じて谷川連峰という。広義には、これら周辺の山域の山も含めて「谷川岳」と一体視して呼ぶこともある。一帯がみなかみユネスコエコパークに含まれる。尾根を挟んで日本海側と太平洋側に水系が分かれる中央分水嶺で、ぐんま県境稜線トレイルのコースの一部。
山頂部は二峰に分かれており、それぞれトマの耳(標高1,963m)、オキの耳(標高1,977m)と呼ばれる。トマの耳には薬師瑠璃光如来を祀ったことから薬師岳、オキの耳には富士浅間神社(富士権現)の奥の院を祀ったことから谷川富士の別称がある。元来この山はトマ・オキの二つ耳(耳二つ)と呼ばれ、谷川岳の名は本来は谷川村(現在のみなかみ町谷川地区)を流れる谷川源流にある現在では俎嵓(マナイタグラ)と呼ばれる山の呼び名であったが、明治時代に作られた陸地測量部の5万分の1地形図(および、それを引き継いだ国土地理院地図)が薬師岳に谷川岳の名を当て、木暮理太郎や武田久吉らは正しい名称での呼称を呼び掛けたが、地形図の表記が定着し、トマ・オキの二つ耳が谷川岳と呼ばれるようになった。
初級者から上級者向けまでの変化に富む登山コースを有し。
一ノ倉沢などの谷川岳の岩場は、その険しさから剱岳・穂高岳とともに日本三大岩場の一つに数えられ、ロッククライミングの聖地となっている。山麓はスキーの聖地でもあり、谷川岳天神平スキー場やホワイトバレースキー場がある。
1960年12月開業の谷川岳ロープウェイが東麓から山稜付近(天神尾根)までを繋いでおり、冬場はスキー客と登山客が同じゴンドラで天神平を目指すことも少なくない。山稜の天神平駅のそばにはレストハウスがあり、簡単な食事も提供されている。
群馬県みなかみ町谷川にある谷川富士浅間神社は、縁起によれば、天授6年(1380年)の鎮座で、中宮の社殿は真田伊賀守によって沼田総鎮守として万治元年(1658年)あるいは寛文3年(1663年)に造営された。奥の院がオキノ耳の少し北にあり、山中の洞窟から発見された永禄8年(1565年)の銘がある懸け仏(御神体)の鏡が置かれていたが、文化財への指定にともない、水上歴史民俗資料館へと移されたのち、氏子総代によって保管されている。毎年4月29日が春祭りで、ここで踊られる奉納舞の太々神楽は真田信幸が慶長6年(1601年)に永楽銭三百貫文を寄進した際に始まったという。奥の院には安政7年(1860年)に作られた鉄板拭きの社があったが、現在は石作りのものに変わった。
元々信仰の山として修験者(山伏)や、地元民らを中心に登られていたほか、東麓を流れる湯檜曽川に沿って古道があり、江戸時代は口留番所によって通行が禁じられていたが、明治時代になって新道が開削され、国道に指定されたものの、新潟県側で土砂崩れや雪崩、路盤の崩落などが起きて2年ほどで通行不能となった(詳細は国道291号および清水峠を参照)。明治9年には陸運会社沼田分社によって一ノ倉沢出合、武能沢出合、白樺尾根に休泊所が作られたが、後に廃止された。
近代における記録に残る登頂は明治時代の陸地測量部による測量隊の登頂の後、1920年(大正9年)7月2日に日本山岳会の藤島敏男、森喬の両名が土樽村の剣持政吉の案内で矢場尾根から茂倉岳・一ノ倉岳を経由して登頂し、天神尾根から谷川温泉に下ったのが最初とされ、それにちなんで2011年より毎年7月2日が「谷川岳の日」と定められた(記念日制定について話し合いが持たれた2010年が藤島らの登頂より90周年だったことと、2011年が上越線開通80周年にあたること、また群馬デスティネーションキャンペーンの開催に合わせての制定)。群馬県側の山開きは毎年7月第一日曜日に行われ、「安全登山の日」として谷川岳ロープウェイの谷川岳ベースプラザもしくは谷川岳登山指導センターで安全祈願祭が行われるほか、記念日が制定された2011年からはJR東日本によって臨時夜行列車の「谷川岳山開き号」が運行され、ロープウェイも早朝営業を行うなど、いくつかのイベントが開催される。谷川岳の日と山開きの日の両者がある週を「谷川岳ウィーク」と呼称する。
木暮理太郎は清水峠を越えた際に見た絶壁の光景を『素晴らしい赫色の岩壁』と記した。大島亮吉が前年の秋に武尊山の山頂から見た谷川岳の岩壁に心惹かれて、1927年(昭和2年)3月22日に大賀道昺と共に谷川温泉からスキーによる冬季登頂と、同年5月28日に芝倉沢(パートナーは斎藤長寿郎)、7月16日にマチガ沢(原文ではイヲノ沢、パートナーは大賀道昺と酒井英)の完登と、前後の日程で一ノ倉沢(原文ではマチガ沢)・幽ノ沢(原文では一ノ倉沢)の試登を行い、1929年(昭和4年)に「(谷川岳の岩壁は)總ては尚研究を要すべし、近くてよい山なり」と述べたことで山岳界にその名を知られるようになった。1931年(昭和6年)に上越線の上越国境区間(清水トンネル)を含む全線が開通し、土合駅や土樽駅(開業当時はいずれも信号場)などが開業すると、登山アクセスが飛躍的に改善され、東京からの夜行列車を利用した日帰りが可能な近さと剱岳・穂高岳に勝るとも劣らぬ急峻な岩壁が多くの社会人登山家から好まれるようになり、クライマーを中心とした「ブーム」が1960年代まで続いた。
● 地形・地質
標高の低い部分は主として花崗岩類、標高の高い部分はもっぱら玄武岩や蛇紋岩による。深部は石英閃緑岩からなる(谷川岳深成岩体)。また山域は氷河地形や周氷河地形の特徴を呈しており、アバランチシュートやモレーンも見られる。
気象の厳しさから標高1,500m付近が森林限界となり、その上からは笹原が広がり視界が開ける。このため、比較的低い標高(特に稜線付近)でも高山植物が観察できる。
● 登山
首都圏から近いこともあって多くの登山者が訪れている。
1920年7月2日、日本山岳会の藤島敏男、森喬と土樽村の剣持政吉が茂倉岳・一ノ倉岳を経由して登頂。
1928年3月22日、大島亮吉と大賀道昺が冬季登頂。
1928年5月28日、大島亮吉と斎藤長寿郎が芝倉沢完登。
1928年7月16日、大島亮吉と大賀道昺、酒井英がマチガ沢完登。
1929年、大島亮吉が『登高会』第7年号に寄せた紀行文の中で「近くて良い山なり」と形容したことで広く知られるようになる。
1930年7月17日、小川登喜男が一ノ倉沢(奥壁第三ルンゼ)完登。
1931年7月、小川登喜男が幽ノ沢(左俣第二ルンゼ)完登。同、マチガ沢東南稜初登攀。
1931年9月1日、清水トンネルが開通し、上越線の土合駅と土樽駅が開業。
1933年8月、東京登歩渓流会による集中登山。同会が発行した1936年の文献「谷川岳」で岩場の詳細な紹介が為された。
1939年9月26日、慶応義塾大学モルゲンコートロールの平田恭助が北アルプスのガイド浅川勇夫と共に一ノ倉沢滝沢スラブの無雪期初登攀に成功。
1955年9月4日、古川純一が小森康行と幽ノ沢中央壁(左フェイス)完登。
1958年6月21日(アタックは15-22日)、雲表倶楽部パーティの松本龍雄がコップ状岩壁完登。穿孔鑿と埋め込みボルト(ボルトは望月亮の手製による)を用いた人工登攀の本邦初の使用例。同日、東京緑山岳会パーティの山本勉が第2登。
1959年8月18日(アタックは15-18日)、東京雲稜会パーティの南博人と藤芳泰が一ノ倉沢衝立岩初完登。
1960年12月12日、谷川岳ロープウェイと谷川岳天神平スキー場が開業。
1965年12月19-20日、田部井淳子がパートナーの佐宗ルミエ(ペンネーム:早川鮎子)と共に一ノ倉沢中央稜の女性のみのパーティによる冬季初完登に成功。
1967年2月26日(アタックは25-27日)、東京緑山岳会の森田勝が岩沢英太郎と共に冬の一ノ倉沢第3スラブ(通称:三スラ)初登頂。
1974年3月4日、長谷川恒男が一ノ倉沢滝沢第2スラブを冬季単独初登頂。同日、高橋寛明・遠藤甲太パーティが第2登。
◎ ルート(通常登山)
・ 天神尾根ルート - 谷川岳ロープウェイの麓土合口駅から山頂天神平駅(標高1,319m)に上がったところが起点。天神平駅より天神峠ペアリフトに乗り、天神峠展望台(標高1,502m)から向かうルートもある。ロープウェイを利用しない場合や営業時間外の際は、その下の田尻尾根を歩く。
・ 西黒尾根ルート - 途中「ラクダのコル」で巌剛新道と合流する。下山の難易度が高く初心者には不向きであるため、注意を促す看板が建てられている。
・ 巌剛新道ルート - 登山口はロープウェイ・土合口駅よりさらに国道291号を上がった地点、マチガ沢付近にある。
・ 谷川連峰縦走路(平標山 - 仙ノ倉山 - 万太郎山 - 谷川岳)
・ 馬蹄形縦走路(谷川岳 - 一ノ倉岳 - 茂倉岳 - 七ツ小屋山 - 朝日岳 - 笠ヶ岳 - 白毛門)
◎ ルート(ロッククライミング)
◎ 周辺の山小屋
・ 肩の小屋
・ 蓬ヒュッテ
・ 熊穴沢避難小屋
・ 一ノ倉岳避難小屋
・ 茂倉岳避難小屋
・ 清水峠避難小屋
・ オジカ避難小屋
・ 大障子避難小屋
● ビュー・ポイント
・ 上越線・土合駅より北へ進む白毛門は谷川岳の撮影ポイントの一つ。
・ 国道291号線は一ノ倉沢まで続き、舗装が途切れ、清水峠で点線国道になる。周辺、マチガ沢 - 一ノ倉沢 - 幽ノ沢 - 芝倉沢は紅葉の名所。峻厳な岩肌と木々とが相俟った渓谷美で知られる。
● 遭難
遭難事故の多くは一般登山道から離れた一ノ倉沢周辺で発生しているが、最も登りやすいとされる天神尾根ルートでも急激な気象の変化や、急斜面の続く箇所があり、森林限界以上でもあるなど、本格的な登山となるため、装備を整えてから挑むことが望ましい。
谷川岳の標高は2,000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しく、過去の遭難者の数は群を抜いて多い。概要で述べたように、首都圏からのアクセスの良さやアプローチの短さにより登山人口が多いこと、それに反して岩壁の登攀に求められる技術のグレードが高いことに加えて、上記の気象条件の特異性といった複合的な要因が遭難事件・事故の多さにつながっていると考えられる。ただし、遭難者の多くは一ノ倉沢などの岩壁からの登頂によるもので、一般的なルート(天神尾根)はほとんど危険な箇所もなく遭難者も少ないが、頂上直下の雪田に初夏まで残雪が残るほか、一部でロープを使う箇所があったり、滑りやすい蛇紋岩の足場などもあり、注意を要する。遭難の防止のために群馬県谷川岳遭難防止条例が制定されている。
◎ 死者数のギネス記録
前述の通り、上越線が開通した1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2012年(平成24年)までに805名の死者が出ている。世界各国の8000メートル峰14座の死者を合計しても637名であり、この飛び抜けた数は日本のみならず「世界の山のワースト記録」としてギネス世界記録に記載されている。なお、社会人を中心とした山岳団体であった同会は東京に近い谷川岳での登攀活動が多かったことから遭難事故も多く、1936年4月6日には一の倉沢で1名、1940年5月12日には同じ一の倉沢で2名(うち1名は非会員)で死亡し、更に後者では6月15日には遺体搬出中に雪崩に巻き込まれた3名が死亡している(一ノ倉沢二重遭難事故)。
1943年(昭和18年)9月8日に一ノ倉沢で2人の登山者が絶壁の岩場で遭難死。しかし遭難場所が分からず行方不明として処理され、遺体はそのまま岩場に放置された。30年後の1973年(昭和48年)5月13日に、偶然この場所にたどり着いた登山者が白骨化した遺体を発見。ポケットに残されていた10銭硬貨や過去の記録から、1943年の遭難者と判明した。5月25日に山岳クラブと地元警察により、30年ぶりに下山して親族の元に帰った。
1960年(昭和35年)には、岩壁での遭難事故で宙吊りになった遺体に救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断、遺体を崖下へ落下させて収容した(谷川岳宙吊り遺体収容)。
1967年、佐宗ルミエが一ノ倉沢五ルンゼ上部からαルンゼ側に滑落し遭難死。
◎ 石碑等
谷川岳一ノ倉沢出合にある岩場には多くの慰霊碑が建立されている。
土合口駅近くの谷川岳霊園地には「山の鎮の像」が建立されている。
● 参考画像
● 貫通する鉄道と道路
・ JR東日本
・ 上越線(清水トンネル)
・ 上越新幹線(大清水トンネル)
・ 東日本高速道路
・ 関越自動車道(関越トンネル)
● 谷川岳が舞台に登場する作品
・生き抜くことは冒険だよ(長谷川恒男)
・狼は帰らず(森田勝、佐瀬稔)
・翳りの山(新田次郎)
・風の遺産(新田次郎)
・蛾の山(新田次郎)
・神々の山嶺(夢枕獏)
・神々の岸壁(新田次郎)
・仮面ライダー剣
・劇場版 仮面ライダー剣 MISSING ACE
・岩壁の九十九時間(新田次郎)
・虚空の登攀者(長谷川恒男、佐瀬稔)
・孤高の人(新田次郎)
・遭難 谷川岳の記録(岩波映画製作所)
・大氷壁に挑む ~谷川岳・一ノ倉沢~ (日本放送協会)
・谷川(石原慎太郎)
・谷川岳(松崎洋二)
・谷川岳 霧の殺意(梓林太郎)
・谷川岳幽の沢(新田次郎)
・鉄腕アトム「アトム今昔物語」(手塚治虫)
・登りつめた岸壁(新田次郎)
・未亡人登山 第1話「谷川岳」(板橋大祐) - 1巻
・山と食欲と私 第47話「玉子の殿さま」(信濃川日出雄) - 5巻
・山を渡る -三多摩大岳部録- 第15話「梅雨のサンタクロース」(空木哲生) - 3巻
・雪の炎(新田次郎)
・おれたちの頂(塀内夏子)
・お前はまだグンマを知らない 第143話「いきなり谷川岳」(井田ヒロト) - 10巻
・クライマーズ・ハイ(横山秀夫)
・ブラック・ジャック「霧」(手塚治虫)
・モンキーピーク(志名坂高次)
・ヤマノススメ(しろ) - 4巻
・THE ALPINE CLIMBER 単独登攀者・山野井泰史の軌跡 第2話「もっと上へ」(原作:よこみぞ邦彦、作画:山地たくろう) - 1巻
・TWIN PEAKS(佐々木明)
● 近隣の山
・ 朝日岳
・ 万太郎山
・ 仙ノ倉山
「谷川岳」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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