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盛岡


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盛岡市(もりおかし)は、岩手県の中部に位置する市。岩手県の県庁所在地及び最大の都市であり、中核市、保健所政令市、中枢中核都市に指定されている。1889年(明治22年)に市制施行。

● 概要
平安時代、桓武天皇の命により志波城が置かれ律令制下となる。安土桃山時代に勢力を広げた南部氏が盛岡城を築いて以後、城下町として発達。明治以後は岩手県の県庁所在地となった。 岩手県内最大の都市でもあり、岩手県の政治、経済、交通の中心都市でもある。周辺ベッドタウンを含めた盛岡都市圏としての人口は約47万人であり、県内及び北東北の経済・文化をリードするポジションにある。

● 地理
岩手県の内陸部、北上盆地のほぼ中央部に位置し、市内中心部で主流北上川に雫石川、中津川が合流する。中心市街地からは奥羽山脈に属する岩手山(北西)、駒ケ岳(西)北上高地に属する早池峰山(東)のほか、独立峰の姫神山(北)、南昌山・東根山(南)などを望み、これらは市域の内外にありながら総じて街のランドマークとなっている。市域面積は東京23区の約1.4倍に相当し、豊かな自然環境に恵まれ美しい景観を形成している。
・ 山 : 姫神山 - 岩山 - 愛宕山 - 鑪山 - 蝶ヶ森 - 飯岡山 - 黒石山 - 神庭山 - 寒風山 - 天峰山など
・ 河川
 ・ 一級河川 : 北上川 - 雫石川 - 中津川 - 簗川 - 米内川 - 木賊川 - 諸葛川 - 南川
・ 湖沼 : 四十四田ダム - 御所ダム - 綱取ダム - 高松の池 - 岩洞ダムほか
・ 主な都市の降雪量・積雪量(平年値)

◎ 広袤(こうぼう)
国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、の面積は平方キロメートルである。 国土地理院によるとの東西南北それぞれの端は以下の位置。東端は早坂峠の南南東約4.2キロメートル (km) 、西端は御所湖畔、南端は毛無森、北端は送仙山である。 。
      北端

↑   人口重心

  西端
←   市役所
  東端

      ↓
南端
   



◎ 人口

◇ 市勢 :
・ 人口 : 284,128人(令和5年5月1日現在・基本台帳人口) :
・ 外国人登録人口 : 1,533人 :
・ 世帯 : 133,912世帯
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.24%減の297,631人であり、増減率は県下33市町村中4位。

◎ 隣接地

・ 花巻市
・ 八幡平市
・ 宮古市
・ 滝沢市
・ 岩手郡
 ・ 雫石町
 ・ 岩手町
 ・ 葛巻町
・ 紫波郡
 ・ 紫波町
 ・ 矢巾町
・ 下閉伊郡
 ・ 岩泉町

● 気候
寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候であり、豪雪地帯に指定されている。盛岡市内にある気象庁による観測地点は、盛岡市中心部の盛岡地方気象台、盛岡市北部の好摩、盛岡市北東部の藪川の計3か所設置されている。 冬季は、本州の都道府県庁所在地では最も寒いとされ、30年平均(1991年 - 2020年)で冬日が121.6日、真冬日が12.4日となっている。年間平均降雪量は209cm程度と、降雪量は極端に多くはない一方で、冬季の日照時間が長いために、晴れた深夜・早朝に放射冷却現象が起き路面が凍結し、雪害以上の問題となっている。 盛岡市中心部はヒートアイランド現象により、-10℃以下まで冷え込む日数が少なくなった。しかし、郊外では-15℃を下回る気温が観測されることが珍しくなく、盛岡市北部の好摩では1月の日平均気温が-2.6℃、平均最低気温は-7.4℃、盛岡市北東部の藪川では1月の日平均気温が-6.6℃、平均最低気温は-13.2℃、藪川では2012年1月30日に-25.8℃、2018年2月22日に-25.4℃を観測している他、盛岡市に隣接する雫石町では2018年2月2日に-20.8℃を観測しているなど、盛岡市中心部と郊外で年々気温差が大きくなっている。 夏季は、真夏日となる日もみられるものの、やませの影響を強く受ける 年があるほか、フェーン現象が発生することもあるため、年によって夏日は41 - 94日、真夏日も1 - 48日と変動する。猛暑日になることもあるが、熱帯夜となることは極めて稀であるため、朝晩は過ごしやすい。

◎ 藪川の寒冷な気候
盛岡市北東部の藪川は、周囲を山に囲まれ岩洞湖に冷気がたまりやすいという地理的条件のため、近年でも-25℃前後の気温が観測されることが珍しくない、非常に寒冷な土地である。

● 名称とシンボル

・ 「幾春も華の恵みの露やこれ 宝の珠の盛る岡山」 「盛岡」の名は、1691年に、当時の藩主南部重信と、盛岡城鬼門鎮護の寺院として置かれた真言宗豊山派永福寺第42世・清珊法印との間で交わされた連歌に由来する瑞祥地名である。「盛り上がり栄える岡」の意味を持つとされ、のちに藩名も「南部」から「盛岡」へと改められた。版籍奉還直後は一時「盛岡県」が存在したが、盛岡城の存在した旧郡の名にちなみ岩手県へ改められたと言われている(諸説あり)。現代では一般的呼称ではないが、中世には「盛府」とも記された。 盛岡市中心部は、かつての「巖手郡仁王郷不来方」に相当し、不来方(こずかた)または「古志方(こじかた)」と呼ばれていたと考えられている。盛岡はこれに代わる「美名」として名付けられたが、今日ではむしろ「不来方」が雅称として用いられる傾向にある。また、「杜陵」「杜稜」と書いて「もりおか」あるいは「とりょう」と読み、雅号とすることもある。盛岡市出身の石川啄木は、その作品の中で「美しい追憶の都」、盛岡市ゆかりの宮沢賢治はエスペラント語風に「モリーオ市」と記した。「みちのくの小京都」とも称される。 「盛岡」を連想させるものとして、市内のあらゆる地域から望まれる岩手山が多くの学校の校歌に謳われるほか、市の中心部で合流する中津川・北上川・雫石川の三大河川、国の史跡に指定されている盛岡城石垣、国の天然記念物に指定されている石割桜、国の重要美術品の上ノ橋擬宝珠、旧盛岡藩主南部氏の家紋「向鶴(双鶴)」「武田菱」が、盛岡を表す端的なモチーフとして用いられることが多い。

● 歴史
平安時代の延暦年間、征夷大将軍・坂上田村麻呂により志波城が築かれた。続いて豪族安倍氏により「厨川柵・嫗戸柵」が置かれて事実上の自治を果たすが、安倍氏が源氏からの侵攻を受けると、代わって出羽国から清原氏が進出した(前九年の役)。清原氏が内紛で滅亡すると(後三年の役)、現在の盛岡市(当時の岩手郡・斯波郡)は平泉を拠点とする藤原清衡ら(奥州藤原氏)の勢力圏となる。平泉が源頼朝に攻略され再び源氏が統治すると(鎌倉幕府の成立)、「厨川城」を拠点に御家人「奥州工藤氏」が治め、のちに岩手郡は北条氏・斯波郡は足利氏の影響下に置かれる。南北朝時代には両統が割拠する中、甲斐源氏を祖とする南部氏が三戸からの南進を果たす。工藤氏らを配下として岩手郡を領有、南部氏家臣福士氏が「不来方城(慶善館・淡路館)」を置く。南部氏は斯波氏を滅ぼし「斯波郡(紫波郡)」を領有すると不来方城を礎に盛岡城を築き、城下町を整備。これが盛岡の現代に至る始まりである。盛岡藩(旧南部藩)は盛岡県を経て岩手県となり、盛岡市はその県庁所在地となる。紫波・岩手両郡の中核となり、古代以来の統治拠点「志波城」「厨川城」「盛岡城」を包含する地域として、現在の盛岡市が形成される。

◎ 旧石器時代 - 縄文時代
「小石川遺跡」における旧石器時代の遺構からは、既に13000年前から当地域に人の営みがあったことが認められる。 岩手県指定史跡「大館町遺跡」からは、約500に及ぶ縄文時代の竪穴建物跡と、多量の土器が発見され、近隣の「大新町遺跡」における爪形文土器他の出土品と共に、東北地方における土器の変遷が垣間見られる。また、「翡翠」など地場では採掘されない鉱石の出土例があり、古くから広い地域での交易が実現されていたと推測される。冷温帯落葉樹林に覆われたこの地域は現代より温暖で、もっぱら山野の収穫と狩猟・漁労を生活の基礎とする豊かな自然環境に恵まれた。そのため縄文文化の影響を色濃く残し、弥生文化を基軸とする西日本からは独立した文化的背景を持つ。盛岡市では、縄文土器が発掘されている一方、弥生土器の発掘例はほとんどない。また古墳文化と続縄文文化の境界上にあって、両文化の交わる点にあった。

◎ 弥生時代 - 奈良時代
南の「大木式土器圏」と北の「円筒式土器圏」の緩衝地域にもあたり、以後も当地は長らく南北文化の境界であった。独自の信仰・呪術形態を物語る手代森遺跡出土物遮光器式土偶のほか、アイヌ語の影響と見られる地名が今なお残されているのが特徴である。気候と植生の違いにより、元来熱帯起源の稲作には不適地であったが、ヤマト王権の拡大政策による稲作の推進に伴い、米を基幹作物とする中央集権型の経済体制下に組み込まれてゆく。このことは、耐寒性品種の開発をみる近代まで、結果として当地に経済的立ち遅れを招く要因ともなった。ヤマト王権の東北地方における勢力拠点となった仙台平野に比して、北上盆地にはその影響が弱く、盛岡周辺では地元小豪族が半ば独立した自治を行っていたと見られる。市内では開墾などによって「古墳」が失われているが、石室・土師器・須恵器や鉄製馬具が出土しており、有力な支配者層は、陵墓をもってその権威を示したと見られる。「高櫓A遺跡」から「土製紡錘車」が発見されるなど、当時の人々の暮らしを物語る奈良時代の遺構も発掘されているが、未だ解明されていないところが多い。

◎ 平安時代
平安時代の盛岡は、当時の律令支配から独立した土豪勢力がおり、蝦夷と呼ばれ、ヤマト政権から異民族蔑視されていた。「上田蝦夷森古墳群」などがその遺跡で、出土品である「衝角付冑」や、全国でも岩手県での出土が最も多い「蕨手刀」からは、古くから一帯に高い製鉄文化を持った人々が暮らしていたことが推測され、また錫製品・琥珀の出土により、当時から交易ルートが存在したと見られている。また「太田蝦夷森古墳群」からは「勾玉」「ガラス玉」ほか、ヤマト政権との関わりを示す「和同開珎」などが出土しており、志波城造営との関わりを示唆している。 平安京造営と並ぶ桓武天皇の陸奥進攻政策により、延暦21年(802年)、アテルイが都へ連行されると、翌年の延暦22年(803年)、征夷大将軍で「造志波城使」の坂上田村麻呂が「志波城」(現在の「志波城古代公園」、盛岡市中太田方八丁附近)を造営した。これは陸奥国最北の城柵であったが、河川の氾濫により10年で徳丹城へ移転した。一帯は律令体制下に置かれ、上総(千葉県)などの文字のある出土物から、他国からの移民兵士などによる集落が形成されていたと見られる。のちに朝廷の財政難による拡大政策の停止により、10世紀には、蝦夷の俘囚長を名乗った安倍氏が地場支配を続けていた。居館を嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町に擬定)に構え、厨川柵(現在の盛岡市天昌寺町附近に擬定)などの拠点も造営した。 安倍頼時・安倍貞任父子は、北上川流域の奥六郡を統治していたが、後に奥州進出を図る陸奥守源頼義の謀略により、戦闘状態に陥る。(前九年の役)当初安倍氏が有利な戦闘状況であったが、頼義の説得で出羽の俘囚長出羽清原氏が頼義に味方すると戦況は一転し、厨川次郎とも呼ばれた貞任と子の千代童子は、厨川で戦死した。また、貞任の弟である安倍宗任は、伊予国、九州大宰府などに配流、後に松浦党を構成する一族の始祖となったと伝える。さらにこの時、安倍氏に加勢した在庁官人藤原経清も処刑され、その妻は経清との間に生まれた清衡を連れ清原武貞に嫁せられる。以後、陸奥・出羽の両国は清原武則とその子武貞の支配下に置かれた。「陸奥話記」は、このころ不来方(逆志方)は清原武則の甥「橘頼為」が領主になったと伝える。源頼義の子で前九年の役にも従軍した源義家が陸奥守として赴任して来て、清原武貞の死後の清原氏跡目相続の内紛に介入し、後三年の役が起きる。義家は合戦に勝利したものの、私戦と認定される。現在の盛岡市域は、清原氏を名乗るも実父藤原氏の血統にあり、安倍氏出身の実母を持つ清原清衡(のちの藤原清衡)が統べることとなり実父の姓藤原に復す。平泉の奥州藤原氏である。この統治は以後、平氏政権の下で約100年間続く。

◎ 鎌倉時代
奥州藤原氏は産金と北方貿易による巨万の富を背景に、平泉を中心とした独自の政権を打ち立て、浄土思想を基調とする仏教文化が花開いた。平氏政権を倒し、独自の武家政権の確立を目指す源頼朝および鎌倉幕府は、源義経を庇護したことを口実に藤原泰衡を追捕の対象とした。頼朝は全国の武士を動員し、阿津賀志山の戦いで藤原氏を破った。この時、頼朝は「高水寺」に詣で伊豆国走湯権現を勧請したと吾妻鏡は伝える。 源頼義から数えて5代目の後裔となる源頼朝は、文治5年(1189年)9月11日、厨川に到着し「厨川館」を定める。前九年の役における父祖の故事にならい、頼義が厨川で安倍氏に行なったのと同様、藤原泰衡の首級を晒す事で奥州の統治権を宣言する。この戦いを奥州合戦と呼ぶ。その勲功として、現在の盛岡は頼朝に従った御家人で伊豆国(神奈川県)地頭の工藤氏が岩手郡を与えられ統治を始めた。工藤小次郎行光(奥州工藤氏)は前九年合戦の古戦場跡に「厨川館」を定め、安倍氏の祈祷所を基に「天台宗天照寺」(現・曹洞宗巌鷲山天昌寺)を創建、聖俗ともに岩手郡を統治する立場として巌鷲山大権現大宮司となり代々世襲、「岩手殿」とも呼ばれた。のち、岩手郡一帯は「北条得宗家」の、斯波郡は「足利宗家」の大きな影響の下に置かれた。 このころは「台太郎遺跡」から大陸産の北宋銭や青磁器や常滑焼が出土していることから、現在の盛岡南新都市にあたる地域周辺に、奥州藤原氏の流れを汲む有力な支配者層が居館を構えていたことが推測され、大荘厳寺も高水寺同様、後に南部氏の宗教政策によって盛岡へ移転した。後の盛岡藩主となる南部氏の伝承によると、始祖南部光行公は、1180年、石橋山の戦いの功によって頼朝から奥州糠部郷を拝領していたと伝えられる。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷から奥州への進出を果たした。

◎ 室町時代
南北朝動乱期、現在の盛岡周辺では有力氏族が割拠し、北朝の斯波氏・稗貫氏に対し南朝の北畠氏(浪岡氏)・葛西氏・南部氏が対立する。建武元年(1334年)、後醍醐天皇の命により北畠顕家が国府多賀城に赴任。これに従って甲州から奥州へ進出したのが南部師行(根城南部氏、のちの遠野南部氏の祖)であった。建武2年(1335年)、中先代の乱の後、足利尊氏は陸奥国府と南部氏を制するため、独自に奥州総大将として斯波家長を下向させた。これが「奥州斯波氏」である。将軍家と同格のため、奥州では「奥州惣奉行」葛西氏と並ぶ一族であった。三戸南部氏(のちの盛岡南部氏)はこのころ、対立していた厨川工藤氏(元の奥州工藤氏)が領有してきた岩手郡三十三郷を取り込んでいた。「岩手郡における南部氏」、「紫波郡における斯波氏」の台頭はここに始まり、そのまま南朝対北朝の構図となって、以後16世紀までその対立は続く。この斯波氏とは、北条氏の血を引く足利宗家の足利家氏が斯波郡(紫波郡)を領有したことに発する一族で、当地で前九年の役を戦った源義家の末裔に当たる。 岩手郡では、正平元年(1346年)、南朝の陸奥介鎮守府将軍の北畠顕信が滴石庄に進出、北畠少弐が居館「滴石御所」を営んだと伝えられ、現在の「御所湖」に名を残す。北朝の斯波氏は後に戸澤氏を退け、滴石においても優勢に傾き、分家を同様に「滴石(雫石)御所」と称した。斯波郡(紫波郡)では、高水寺斯波氏が、高水寺城(現在の城山公園)を拠点に中央からは「奥の斯波殿」、奥州でも「斯波御所」の尊称で呼ばれ、また、その分家も「猪去御所」など「御所」の尊称で呼ばれた。

◎ 安土桃山時代
浅野長政と蒲生氏郷の推挙により、領地のほぼ中央部に位置する岩手郡仁王郷不来方を新たな本拠に決定する。 南部氏は「福士氏」を目代とし、不来方(現在の盛岡)を支配する。福士伊勢入道慶善淡路と糠部彦次郎は不来方城(慶善館・淡路館)を築き、これは後の盛岡城の土台となった。南部氏は、奥州斯波氏の本拠地であった日詰高水寺城を「郡山城」へ改めて居を構え、信直、利直、重直の三代にわたり「不来方城」の旧地に盛岡城を築く。 1588年、南部氏は現在の盛岡市の元となる岩手郡と斯波郡(紫波郡)を完全に支配下に置く。大浦為信(津軽氏の祖)は、小田原征伐に際して羽柴秀吉に謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得る。これにより南部氏は、津軽地方を失う。これ以後、南部藩と津軽藩の精神的対立は領民の間ですら深刻なものとなり、現代に到るまで重大な禍根を残すこととなる。天正20年(1592年)、鎌倉時代以来400年間の統治拠点「厨川城」が廃され、不来方城(後の盛岡城)を中心とした城下町建設が始動した。これが「都市としての盛岡」の発祥である。以後、工藤氏は「栗谷川氏」を名乗り、福士氏をはじめ周囲の有力武門斯波氏・葛西氏とも縁戚関係を組みながら南部家家臣となった。「盛岡開府」以後の三戸南部氏は「盛岡南部氏」と呼ばれ、後世には八戸の「根城南部氏」(「波木井南部氏」とも称する)を配下に収めて遠野へ移封(後の「遠野南部氏」)、中世的同族連合であった南部氏を脱却し、南部家一党の宗家として大名となった。慶長4年(1599年)、「盛岡城」が一応の体裁を整え藩主入部を見たこの年、南部藩の命により、鉱山師「鎌津田甚六」が鹿妻に堰の掘削を行い大規模水路が完成。藩御用の用水として新田開発を進められる。この結果、盛岡南部・紫波郡での良質な米穀生産が可能となり、生産された米はことごとく御蔵米となった。盛岡の繁栄は、この城下近郊での安定生産と農業技術向上によるものが大きい。この水路管理は明治に至り「鹿妻穴堰普通水利組合」(現在の「鹿妻穴堰土地改良区」)に受け継がれ、平成元年に国営盛岡南部水利事業の指定を受けて今日に至る。このころ既に南部領には、盛岡領内の豊富な砂金を目当てに現在の滋賀県高島市をはじめとする地域から近江商人が進出し、日詰郡山駅を拠点として城下町盛岡進出への足がかりとしていた。

◎ 江戸時代


◎ 明治維新以降
戊辰戦争で藩政が幕府側に与したことから、今の盛岡市域は政府直轄地となり、岩手郡は松代藩、紫波郡は松本藩の取締を受けるなど、薩長側に与した旧藩に支配された。この動乱の中、秩禄を失った武家の間では、新天地を求める必然から、北海道開拓へ旅立つものも少なくなかった。この年、五稜郭で箱館戦争が終結。
・ 1870年 ‐ 盛岡藩が廃され盛岡県が成立。
・ 1872年 ‐ 盛岡県が改称により岩手県となる。
・ 1874年 ‐ 盛岡城取り壊し。
・ 1875年 ‐ 旧盛岡藩主南部氏が、旧藩士授産のための開墾事業を開始。
・ 1876年 ‐ 明治天皇行幸。盛岡師範学校開校。
・ 1889年 ‐ 市制施行。初代盛岡市長に旧盛岡藩士の目時敬之就任。
・ 1890年 ‐ 東北本線盛岡駅開通。 盛岡への鉄道敷設まで、主な物流は盛岡から石巻に到る定期船を「北上回漕会社」が担い、藩政以来の「舟運」を近江商人を中心とする財閥が継承していた。この一派は北上派と呼ばれ、経済・文化ともに盛岡の一大主流を成す商業集団となった。しかし、鉄道敷設による北上川舟運の衰退は、盛岡の経済界へ多大な影響を及ぼし、「鉄道・電気」といった新たな時代の要請に応え、花巻温泉・花巻電鉄の整備ほかインフラを束ねた「金田一家」の台頭を見た。このころ、江戸時代から紫根染を商ってきた豪商「糸屋(糸治)中村家」の中村治兵衛は、北上回漕会社・盛岡銀行・盛岡電気の役員を務め、盛岡工業高校の設立にも寄与した。明治24年(1891年) 小岩井農場(小岩井農牧)の設立がその一例で、創業者に日本鉄道の小野義真、鉄道庁長官の井上勝が名を連ねている。また三菱財閥創業家の岩崎弥之助が参画しており、農場名は彼らの頭文字を取って附された。この開業は、井上の鉄道敷設への深い思いがあると伝えられている。
・ 明治27年(1894年)、小野組をルーツとし岩手県の為替方を担っていた「第一国立銀行盛岡支店」が閉鎖。 第九十国立銀行は経営不振に陥っており、洋物商「永卯」の佐々木卯太郎が頭取として再建に乗り出すも、渋沢栄一は、自らが設立に関与した仙台の「第七十七国立銀行(現七十七銀行)」を斡旋して盛岡支店を開き、岩手県公金取扱業務を同行へ譲渡させた。
・ 1902年 - 盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)開校。
・ 1908年 - 陸軍工兵第八大隊が盛岡へ移駐。
・ 1909年 - 陸軍騎兵第三旅団23・24連隊が設置。
・ 1922年 ‐ 原敬の寄付により、岩手県立図書館開館(原は前年に死去)。
・ 1923年 ‐ 石割桜、国の天然記念物に指定。
・ 1927年 ‐ 菜園街区、大通都市開発開始。岩手県公会堂竣工。
・ 1938年 ‐ 初代「盛岡市民歌」(作詞・高橋康文、作曲・山田耕筰)を制定。
・ 1939年 ‐ 盛岡陸軍予備士官学校設立。
・ 1945年 ‐ 盛岡空襲発生。

◎ 戦後

・ 1948年 - 市制60周年を記念し、
・ 1949年 ‐ 岩手大学開学。2代目の現行「盛岡市民歌」(作詞・東山重雄、補作・小田島孤舟、作曲・高田信一)を制定。
・ 1970年 ‐ 岩手国体開催、社会資本の整備(→西部)。大会をきっかけに市民運動が高まり、今日「あすを築く盛岡市民運動」に継承。
・ 1978年 - チャグチャグ馬コ、選択無形民俗文化財に選択。
・ 1979年 - 東北自動車道開通。
・ 1982年 - 東北新幹線暫定開通。
・ 1985年 - カナダ・ビクトリア市と姉妹都市締結。
 ・ - 大手コンビニチェーンのセブンイレブンが大通三丁目と永井に、市内初出店。
 ・ 6月14日 - 岩手宮城内陸地震で震度4を観測。また、7月24日に発生した岩手県沿岸北部地震で震度5弱を観測。
・ 2011年
 ・ 3月11日 - 東北地方太平洋沖地震で震度5強を観測。市内全域が停電した。
 ・ 4月7日 - 東北地方太平洋沖地震の余震で盛岡市玉山区藪川で震度5強、市の中心部でも震度5弱を観測した。(この地震でも市内全域が停電した)
・2023年
 ・1月12日 - アメリカのニューヨーク・タイムズが発表した「2023年に行くべき52カ所」にロンドンに続く2番目に選出された。

「盛岡市」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年4月24日12時(日本時間)現在での最新版を取得

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