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ファンに対して活動やる気が感じられないのです。
歌が上手いから
中森 明菜(なかもり あきな、1965年〈昭和40年〉7月13日 -)は、日本の歌手、女優。本名同じ。1982年5月1日、デビュー。1980年代を代表する女性アイドル歌手であり、数多くのヒットナンバーを世に送った。アイドルの当たり年と言われた1982年のデビューで、「花の82年組」の1人であった。また、コメディエンヌとしても活動していた。
東京都大田区大森生まれ、清瀬市育ち。清瀬市立清瀬小学校、清瀬市立清瀬中学校を経て、明治大学付属中野高等学校定時制中退。研音→コレクション→コンティニュー→N.A.P.C→楽工房→FAITH(ファイス)を経てHZ VILLAGE所属。所属レーベルはユニバーサル ミュージック ジャパンのPolydor Records(旧・UNIVERSAL J)内の私設レーベル歌姫レコーズ。
● 概要
1981年7月11日、16歳の誕生日目前に出場した日本テレビ系列のオーディション番組『スター誕生』で山口百恵の「夢先案内人」を歌って、合格。これを機に、ワーナー・パイオニアとのレコード契約を締結した。
1982年5月1日、16歳の時にシングル「スローモーション」でデビューし、2枚目のシングル「少女A」がヒットした。
翌1983年には、「セカンド・ラブ」「禁区」などもヒット。1980年代のアイドルとしては松田聖子と2強を競った。弱冠20歳で歌手としてトップクラスの実績を収めていた。
1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても932.5万枚、年間50位以内ランクイン曲数は22曲と、どちらも当時の女性アイドル中で1位であった。また日本レコードセールス大賞年間アーティストトータルセールス最高位の座を4回獲得している(1983年、1985年、1986年、1987年)。
女優としても、1985年1月公開の映画『愛・旅立ち』で近藤真彦と共に主演を務めたのを始め、1992年には連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系列)に安田成美とW主演。その後も1998年の連続テレビドラマ『冷たい月』(日本テレビ系列)で永作博美と共にW主演するなど活動を広げた。
2002年にはユニバーサルミュージックに移籍し、カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発表。2015年1月には、シングル「Rojo -Tierra-」、カバーアルバム『歌姫4 -My Eggs Benedict-』をリリース。
2018年以降、再び芸能活動を殆どセーブしているものの、アルバム作品の発売など音楽活動は意欲的に取り組んでいる。
2022年8月、個人事務所HZ VILLAGEを設立と同時に、8月30日に公式Twitterを開始した。
2023年12月24日、公式YouTubeチャンネルの開設を発表した。
● 来歴
◎ 1965年 - 1981年(デビュー前)
1965年(昭和40年)7月13日(火曜日)、東京都大田区大森に、6人兄弟・姉妹(2男4女)の5番目、兄二人と姉二人と妹を持つ三女として生まれる。「明るくにぎやかな家庭であってほしい」という母の願いからであった。なお、妹の中森明穂(四女で末子、2019年5月27日死去)も後に芸能界入りしたが、短期間で引退している。
父親は精肉店を営んでいた。
出生後、東京都清瀬市に移り住み幼少期を過ごす。中森を教えていたバレエ教師は「14歳まで休むことなく通い続け、本当に真面目な子だった。フラメンコやタンゴのリズムに乗ると生きいきと踊り、将来はダンサーになるのではないかと思っていた。また、幼い頃から衣装にとてもこだわりを持っていた」と語っている。美空ひばりが好きだった母は、若い頃は歌手志望で「ひばりちゃんのような歌手になりたい」と言い、中森が幼い頃から美空ひばりの歌を聞かせ、歌い方の手ほどきをしていた。やがて中森は母の影響で歌手の夢を抱くようになり。
1981年、『スター誕生』本選3度目の挑戦となった8月2日の放送(7月11日収録)で、中森は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、同番組の史上最高得点となる392点で合格する。合格後、スカウトを受ける場となる決戦大会までのおよそ1か月間、日本テレビ音楽学院でボーカルとダンスレッスンを受ける。11月29日放送(11月11日収録)の決戦大会前の事前審査にあたる下見会を経て、12月6日放送(11月18日収録)の決戦大会で再び「夢先案内人」を歌唱。その後、1982年2月に行われる初レコーディングに向け、自身での発声練習に加えて、ボーカル・トレーナーの大本恭敬のもと、週に1度、2度ほどレッスンを積んだ。当初は「森アスナ」という芸名でのデビューも検討されていたが、中森本人が本名でのデビューを希望して芸名を拒否した。1980年代のアイドルにはキャッチフレーズが付けられ、中森のキャッチフレーズは「ちょっとエッチな美新人娘」であった。
デビュー前に中森が歌ったデモテープには、岩崎宏美「ロマンス」、高田みづえ「硝子坂」、山口百恵「ひと夏の経験」「いい日旅立ち」の4曲が収められていた。来生たかおがこれを聴き、来生たかお作曲・来生えつこ作詞のコンビによる「スローモーション」「あなたのポートレート」「咲きほこる花に…」の3曲が完成。
実はそれ以外に、デビュー曲として用意されていたが結局使われなかった「幻のデビュー曲」が存在した。同作はオリコン週間アルバムランキングの10月4日付で最高位5位を記録。続く第2弾シングル「少女A」が、オリコン週間シングルランキングの10月18日付で最高位5位を記録し、同曲でブレイクする。10月には、2枚目のスタジオ・アルバム『バリエーション〈変奏曲〉』を発売し、11月8日付の同社チャートで初の週間1位を獲得、74万枚を超えるセールスを記録する。続いて11月に発売した3枚目のシングル「セカンド・ラブ」は、11月29日付の同チャートで初の週間1位を獲得し、1983年の同社年間シングルチャートで8位を記録、約77万枚を売り上げる。
1983年、2月より自身初の全国コンサート・ツアーAkina Milkyway '83 春の風を感じてを開催。3月と8月には、『ファンタジー〈幻想曲〉』、『NEW AKINA エトランゼ』と通算3作目、4作目のスタジオ・アルバムを発売する。『NEW AKINA エトランゼ』は第25回日本レコード大賞の'83アルバムベスト10を獲得した。12月には初のベスト・アルバム『BEST AKINA メモワール』を発売し、オリコンで5週連続首位を獲得した。
1984年、5月にデビュー3周年目を記念した5枚目のスタジオ・アルバム『ANNIVERSARY』を発売する。同アルバムに収録され、中森の提案によりタイトル名が決定された通算7枚目のシングル「北ウイング」は、1984年のオリコン年間チャートで9位を記録した。
◎ 1985年 - 1989年
1985年、1月公開の映画『愛・旅立ち』で近藤真彦と共に主演を務める。3月、11枚目のシングル「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」を発売。4月には7枚目のスタジオ・アルバム『BITTER AND SWEET』を発売する。6月発売の12枚目のシングル「SAND BEIGE -砂漠へ-」では、新人の作家によるデビュー作を起用するなど、作家のジャンルや有名無名にとらわれない楽曲提供を受ける。この楽曲は同年の同社年間チャートで7位を獲得した。同作は第27回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を獲得した。これにより中森は、女性ソロ歌手として史上初の2年連続となる日本レコード大賞受賞を果たした。4月にはデビュー曲「スローモーション」から「SOLITUDE」までのシングル曲を収めたベスト・アルバム『BEST』をリリース。このアルバムは、第1回日本ゴールドディスク大賞のThe Grand Prix Album of the Yearを受賞した。5月に発売した15枚目のシングル「ジプシー・クイーン」は同年の同社年間チャートで7位を記録。以降、楽曲やアルバムのセルフプロデュース作品を発表し、アーティスト性を発揮していく。12月には10枚目のスタジオ・アルバム『CRIMSON』を発売し、第29回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を獲得した。
1987年、3月に行われた1986年度第1回日本ゴールドディスク大賞でアーティスト・オブ・ザ・イヤーを受賞する。8月発売の11枚目のスタジオ・アルバム『Cross My Palm』では、全曲英語詞の楽曲に取り組む。同年末には、日本有線大賞の最多リクエスト歌手賞を1983年以来5年連続で受賞する。さらに、この年発売したシングルの「TANGO NOIR」、「BLONDE」、「難破船」の3曲は、この年のオリコン年間シングルチャートでトップテン入りを果たし、それぞれ年間で2位、7位、6位を記録。加えて、この番組での最多1位獲得曲数も17曲の歴代1位で、「ベストテンの女王」の異名を持っている。8月にはジョン・リンド、ピーター・フランプトンら海外アーティストを起用した13枚目のスタジオ・アルバム『Femme Fatale』を発売。12月には、「DESIRE -情熱-」から「I MISSED "THE SHOCK"」までのシングル曲を収録したベスト・アルバム『BEST II』を発売し、売上枚数は80万枚を突破した、衣装や踊りの振り付けもすべて自分で決めていた中森のファッション性への評価も次第に高まり、同世代の女性達からの支持も得た。7月11日、当時交際をしていた近藤真彦が住むマンションにて命を絶とうとしたが助かり、芸能活動を約1年間休止する。この間、7月25日には14枚目となるスタジオ・アルバム『CRUISE』をリリースし、このアルバムはオリコンで3週連続1位を記録。
◎ 1990年 - 1992年
1990年7月、1年3か月ぶりに24枚目のシングル「Dear Friend」をリリースし、ファンクラブ(Milky HouseからTwo Callへ)を新たに構えることも伝えられた。
デビュー10周年目を迎えた1991年、3月に26枚目のシングル「二人静 -「天河伝説殺人事件」より」をリリース後、7月にスペシャル・ライブ夢 '91 Akina Nakamori Special Liveを開催した。この年は、8月放送のフジテレビ系ドラマ『悪女A・B』の他、4本のテレビドラマに主演した。また、同年には新事務所「コンティニュー」に移籍した。
1992年、4月より自身初の連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系、月9)に安田成美と共にダブル主演し、中森はダンサーの卵である月島カンナ役を演じる。このドラマは最終回で、最高視聴率31.9%を記録した。その後、新たにファンクラブ(QUATRE BAISER)を移すが、再び所属事務所のトラブルにより事務所と共に運営が行き詰まる。また、音楽制作上の意見の相違によりデビュー以来所属していたワーナーミュージック・ジャパンを離れたが、この移籍トラブルをはじめ、写真週刊誌『FOCUS』で日出郎との密会がスクープされるなどスキャンダル報道も相次ぎ、不遇な時期を過ごす。この年は新譜リリース実現に至らなかったが、歌手活動と並行し、7月に公開された映画『走れメロス』で声優として出演するなど女優としても活動した。
◎ 1993年 - 1999年
1993年、MCAビクター(現在:ユニバーサル ミュージック ジャパン)に所属レコード会社を移籍し、MCAがマネジメントの実質的な業務窓口も担う。このアルバムの楽曲である「愛撫」は有線チャートで最高順位3位を記録し、翌年にはシングルカットされた。
また、1994年3月24日には自身初のカバー・アルバム『歌姫』も発売する。同作は批評家から肯定的評価を受け、歌手としての新境地を開拓する。その後同作はシリーズ制作される。12月にはPARCO劇場にて、同カバー・アルバムを中心としたスペシャル・ライブツアー歌姫 パルコ劇場ライブを開催した。かねてより大ホールではない小規模でのステージを希望していた中森の意向がこのライブで実現された。
1995年、7月に16枚目のスタジオ・アルバム『la alteración』をリリース。セルフプロデュースで制作を開始して以来、同作は、楽曲制作からボーカル録音直前までの制作作業のほとんどをスタッフに委ねる試みとなった。このイベントをきっかけに音楽活動に意欲が出てきたと見られた。
11月には、ブライアン・セッツァープロデュースによる32枚目のシングル「Tokyo Rose」をAKINA名義でリリースした。8月には小室哲哉フル・プロデュースを受けた33枚目のシングル「MOONLIGHT SHADOW-月に吠えろ」をリリース。12月にもディナーショー・ツアーを開催し、この年以降、年末ディナーショーを開催していく。さらにこの時期には、ファンクラブ (Alteracion)の再開も伝えられた。
1997年、3月に17枚目のスタジオ・アルバム『SHAKER』を発売し、新たな歌唱法に挑んだというこのアルバムを携え、全国コンサート・ツアーFelicidadを5月より開催した。このコンサート・ツアーは1988年に行われたFemme Fataleツアー以来9年ぶりであった。1月には日本テレビ系列の連続テレビドラマ『冷たい月』永作博美と共にW主演。2月には同ドラマのテーマソングで移籍第1弾となった35枚目のシングル「帰省 〜Never Forget〜」をリリース。6月には18枚目のスタジオ・アルバム『SPOON』の発売と同作を引っ提げた同名のツアーSPOONを開催した。
1999年1月、前年に続き、日本テレビ系列の連続テレビドラマ『ボーダー 犯罪心理捜査ファイル』で主演を務め、同ドラマのテーマを歌った38枚目のシングル「オフェリア」を発売する。12月には19枚目のスタジオ・アルバム『will』を発売した。この発売の後、中森はガウスエンタテインメントを離籍した。
◎ 2000年 - 2004年
2000年、音楽プロダクション楽工房と契約し、個人事務所FAITH、公式ファンクラブFAITHWAYを発足。前年に見舞われたトラブルを整理した末、マネジメントを一新。芸能活動の基盤を整える。前年末から虚実ないまぜのゴシップが流れ、所属レコード会社との契約が決定していない状況にあったが、中森は「曲でもコンサートでもいいものを届けたい気持ちが先に立っちゃうんです。それには、スタッフと色々悩みながら作り上げていく過程が大切。そうすれば結果がどうであれ、一緒に作ったという土台は残るでしょ」とコメント。こうして心機一転を図り、5月には2年ぶりに、自身初となるバラードコンサート・ツアー「中森明菜2000 〜21世紀への旅立ち〜」を開催した。
デビュー20周年目を迎えた2001年、5月にMusic@nifty内のインディーズレーベル@easeにて、40枚目のシングル「It's brand new day」を音楽配信で先行リリースする。6月からは20周年記念ツアーの第1弾としてALL ABOUT AKINA 20th Anniversary IT'S BRAND NEW DAYを開催した。以降、複数のカバー・アルバム企画を発表していく。5月には移籍後初の41枚目となるシングル「The Heat 〜musica fiesta〜」と20枚目のスタジオ・アルバム『Resonancia』の発売に、このアルバムを引っ提げた20周年記念ツアーの第2弾として「MUSICA FIESTA TOUR 2002」を開催した。その後12月31日に行われた『第53回NHK紅白歌合戦』に出場し、同月に発売したベスト・アルバム『Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド』バージョンの「飾りじゃないのよ涙は」を披露、14年ぶりの紅白出場であった。
2003年、バラード集となった21枚目となるスタジオ・アルバム『I hope so』を5月にリリース。中森が4曲作詞している。8月2日には、台湾の音楽祭である第14回金曲奨にプレゼンターとして出演、デビュー以来初訪台となった。12月にはカバー・アルバム歌姫シリーズの3部作の最後となった『歌姫3 〜終幕』をリリース。この歌姫シリーズは最終的に累計で100万枚を記録したと発表された。
2004年、5月にユニバーサル ミュージック ジャパン内の私設レコードレーベル歌姫レコーズを設立し、同レーベルより43枚目のシングル「赤い花」を発売する。
◎ 2005年 - 2009年
2005年、7月より品川のclub eX(450席)にてスペシャル・ライブツアーAkina Nakamori Special Live 2005 Empress at CLUB eXを開催。カバー・アルバム歌姫シリーズである『歌姫』、『-ZEROalbum- 歌姫2』、『歌姫3 〜終幕』の3作を中心に構成され、同シリーズを締め括るライブとなった。自身にとって7年ぶりの連続テレビドラマ出演となる。また、同ドラマのテーマ曲として46枚目のシングル「花よ踊れ」を5月にリリースした。6月には、3年ぶりとなった22枚目のスタジオ・アルバム『DESTINATION』を発売し、同作を携えたツアーAKINA NAKAMORI LIVE TOUR 2006 〜The Last destination〜も開催した。
2007年、デビュー満25周年。1月にカバー・アルバム歌姫シリーズのベスト・アルバム『歌姫ベスト 〜25th Anniversary Selection〜』をリリース。12月31日には、初のファンクラブ限定カウントダウン・ディナーショーAKINA NAKAMORI 25th ANNIVERSARY COUNT DOWN DINNER SHOW 2007-2008を開催した。
2008年、MCAビクター、ガウスエンタテインメントに所属していた1990年代に発表した楽曲を総括したベスト・アルバム『歌姫伝説 〜90's BEST〜』を2月にリリースする。3月には、2007年度第22回日本ゴールドディスク大賞でザ・ベスト・演歌/歌謡曲・アーティストを受賞した。
2009年、カバー・アルバム『ムード歌謡 〜歌姫昭和名曲集』、『フォーク・ソング2 〜歌姫哀翔歌』、3年ぶり通算23枚目のスタジオ・アルバム『DIVA』と6月から8月にかけて3か月連続でアルバムをリリースする。また、8月より、3年ぶりのスペシャル・ライブツアーAKINA NAKAMORI Special Live 2009 “Empress at Yokohama”を行った。NHK・SONGS(第102回・第103回)に2009年8月12日、8月19日の2週連続で出演。9月には3年ぶり47枚目となるシングル「DIVA Single Version」を発売した。
◎ 2010年 - 2013年・芸能活動休止
2010年、7月13日にパチンコ台の第2弾となる『CR中森明菜・歌姫伝説〜恋も二度目なら〜』(大一商会)の9月導入が発表された。加えて、この『CR中森明菜 歌姫伝説〜恋も二度目なら〜』のために書き下ろされた楽曲「Crazy Love」が、48枚目のシングルとして自身初の配信限定でリリースされた。同年10月28日、体調不良により当面芸能活動の無期限休止を発表した。この発表直後の2010年12月22日には、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に中森が出演した際の映像をまとめた『中森明菜 IN 夜のヒットスタジオ』が6枚組のDVD-BOXで発売された。
2011年12月15日、TBS系列で放送された音楽番組『ザ・ベストテン』の出演映像を収録した5枚組DVD-BOX『ザ・ベストテン 中森明菜 プレミアムBOX』が、デビュー満30周年を記念し翌年に発売されることを発表、2012年3月28日に発売された。また、この発表にあたり活動休止中にある中森直筆によるメッセージも公開された。12月31日には第65回NHK紅白歌合戦にサプライズゲストとして登場し、accessの浅倉大介が作曲した新曲「Rojo -Tierra-」を披露。4年2か月ぶりに歌手活動を再開した。
2015年、先行配信されていた楽曲「Rojo -Tierra-」を1月21日にDVD付き・通常盤の2形態でリリース。「月華」以来20年4か月ぶりにオリコン週間シングルトップテン入りする。曲名「ロホ・ティエラ」はスペイン語で「赤い大地」という意味。1月28日には、カバーアルバム『歌姫』シリーズの最新作『歌姫4 -My Eggs Benedict-』をリリース。前年に続きディナーショーを開催。AKINA NAKAMORI DINNERSHOW 2017 CLUB NIGHTと題し、11月13日・11月14日のハイアットリージェンシー大阪を皮切りに、12月24日・12月25日のグランドニッコー東京台場でのクリスマス・ディナーまで全国を回った。
2021年、5月1日にデビュー40周年を迎え、これを記念してワーナーミュージックから特設サイトが公開された。また、6月9日にアナログBOX『ANNIVERSARY COMPLETE ANALOG SINGLE COLLECTION 1982-1991【30枚組】』を発売する。
2022年4月、NHK BSプレミアムにて1989年までに行われたヒット曲を集めたコンサートを収録し、それを最新技術を使いリマスターリングした「伝説のコンサート〜中森明菜」が放送され、視聴者からの反響の意見も多数寄せられた。これを受け、地上波のNHK総合テレビジョンに於いても同年6月19日に放送されることになったが、同日15時過ぎに能登半島で起きた地震の影響で急遽放送差し替えとなり休止となった(代替7月9日)。また、2009年の横浜BLITZでの邦楽のカバー曲のコンサートを収録した「中森明菜スペシャルライブ〜2009・横浜」も新たにBSプレミアムで7月に放送されることが発表された。
2022年8月に新たに個人事務所(HZ VILLAGE)を設立。同年12月27日、新しいファンクラブ『』を開設し入会手続きを開始した。
2023年11月8日発売の『林哲司50周年記念トリビュートアルバム サウダージ』に中森自身がセルフカバーした新録曲「北ウイング-CLASSIC-」が収録された。発売日に先駆け、同年10月30日にニッポン放送の番組内で初オンエアされ話題となった。
2023年12月17日、ニッポン放送で特別番組『中森明菜 オールタイムリクエスト』が放送され、中森は番組に肉声によるメッセージを寄せた。中森がメディア出演するのはおよそ9年ぶりである。中森のファンと公言するミッツ・マングローブとフリーアナウンサーの垣花正がパーソナリティーを務めた。事前に番組に寄せられたリクエストに加え、4時間10分に亘る生放送中にも電リクを駆使して更にリクエストを募った。
2024年11月、香取慎吾の3rdアルバム『Circus Funk』に参加。
2024年12月15日、ニッポン放送にて特別番組『中森明菜のオールタイムリクエスト』が放送された。2023年にはメッセージを寄せただけであったが、本年はメインパーソナリティとして出演した(中森のトークは事前収録)。前回同様、ミッツ・マングローブとフリーアナウンサーの垣花正がパートナーを務め、生放送中に寄せられたメールやリクエスト曲を紹介した。また、放送では中森が敬愛してやまない芳村真理から激励のメッセージが届き、中森は涙声で芳村の心遣いに感謝の言葉を述べた。
● 人物
◎ 生い立ち
父は埼玉県志木市の出身で、本家は11代まで遡れる家であった。清瀬市立清瀬中学校を卒業後を経て中退した。清瀬中学校の担任教師は明菜について「無邪気で人懐こい子だった。修学旅行のバスの中ではずっとマイクを握って歌っていた」と述べている、埼玉県三芳町へ移転して中華料理店を経営していた。また、母も中森のデビュー後に地元の清瀬市で飲食店「ミルキーウェイ」を経営していた、両親の店はいずれも閉店している。
2回目(1980年・中学3年時)の挑戦で松田聖子の「裸足の季節」を歌ったが、またしても審査員の松田トシから「歌は上手だけど、顔がとても子供ぽいから無理ね。大人の歌を歌うより、童謡でも歌ってたほうがいいんじゃない?」と前回とは逆の酷評を受けた。中森はこれに対し「『スタ誕』では童謡は受け付けてくれないんじゃないんですか?」と抗議したため。しかし3回目の時の中森には、1回目・2回目の挑戦時以上に光り輝くものが見え、美しさの中にも翳りが感じられ、強く推して出場させたことを語っている。事務所側は「エッチ」というのは卑猥な意味ではなく、少し背伸びした大人の雰囲気を出そうと思って付けたとされている。同時期には、新井薫子、石川秀美、小泉今日子、嶋大輔、シブがき隊、原田知世、早見優、堀ちえみ、松本伊代、三田寛子、薬師丸ひろ子、渡辺徹(五十音順)らがデビューしている。同期デビューの歌手がデビュー曲での番組出演を決めていくなか、デビュー曲「スローモーション」での初出演は実現しなかったが、以降ヒット曲を記録し続け、同番組にはほぼ月1ペースでの出演を重ねたり、マンスリーゲスト制での出演も果たしている。
『夜のヒットスタジオ』の司会をしていた芳村真理は当時、ヘアスタイルから服装に至るまで中森が自らプロデュース、コーディネートを行っていることを知り、番組内でそのセンスのよさを絶賛した。同番組に出演するときには他の歌番組とは異なる特注の衣装で臨み、歌う際のセット・照明と調和するよう事前に綿密な打ち合わせを行うほどの入れ込みようであった。また、芳村が明菜の衣装コーディネートを特別に担当したこともある。芳村が番組を勇退してまもなく同番組に出演した際、「真理さんに『明菜ちゃん、最近おしゃれしてる?』と訊かれ、おしゃれをしました。真理さん見てますかー?」と芳村に画面を通じて呼びかけたこともある。
久米宏が『ザ・ベストテン』の司会を降板した回と、芳村真理の『夜のヒットスタジオ』勇退の回の双方で、デビュー当時からいろいろと親しくしてもらった恩義と、これから番組で会う機会が無くなってしまうことを惜しみ、明菜は涙を見せた。2000年12月30日に放送された『ザ・ベストテン』の復刻版スペシャルでは、歌前に久米から応援の電話が入った。「番組内でもほとんど会話という会話は交わしたことはないが、ちょっとした一言二言で人間というのは『ウマが合う』というのは分かるもの。僕と明菜さんはウマが合っていたと思う。だから明菜さんが出る日はスタジオに行くのが楽しみだった」という内容で、明菜自身も感極まっていた。
明菜は『ザ・ベストテン』で、さまざまなアイデアやこだわりを持った美術や照明・セットに対抗し、勝負するかのように懸命に表現してきたが、番組や出演するタレントに対する愛情の深さと熱意を番組スタッフから強く感じていたという。近藤真彦とW主演。歌手活動と並行して本格的に女優としても活動を開始した。
『ザ・ベストテン』1988年年間ベストテン9位に「TATTOO」がランクインした際、お祝いで駆けつけた小森和子は「大のムードを持ち、初主演映画から勘のいい芝居をしている。外国の女優に例えればジョディ・フォスターのような、可愛さと凄さと大人っぽさなどいろいろな面を持っている人である」と称した。
1992年、安田成美とW主演したテレビドラマ『素顔のままで』は、最終回で31.9%の高視聴率を記録した。
● 音楽性
尊敬する芸能人として、矢沢永吉と桃井かおりの名を挙げている。中森は幼少期に、邦楽では矢沢永吉や松任谷由実、洋楽ではカーペンターズらを好んで聴いていたが、元々の音楽のルーツについては、姉や兄たちがディスコミュージックやソウルミュージックを聴いていた影響としてブラックミュージックを挙げている。また、中森が最も影響を受けたアーティストについてはドナ・サマーを挙げており、ドナの楽曲やボーカルのみならず、人生観など多くの面でのめり込んだと明かしている。
中森自身の作品については、全てベースやバスドラムの重低音を効かせていると語っている。
ワーナーパイオニアの音楽プロデューサー島田雄三は、「スローモーション」の後、中森にどんな楽曲を歌わせるか悩んでいたところ、当時読んでいた今東光の自伝的長編小説『悪太郎』のイメージが1980年代のヤンキー文化と重なり「そんな時代の気分を感じさせる楽曲を歌わせてみたい」と思い立った。
島田によって選ばれたのは、前年の1981年に作詞家デビューしたばかりの売野雅勇が書いた「少女A」であった。島田はヒットすると確信したが、曲を聴いた中森は「やだよ、こんなの」「なぜこんな歌を私に歌わせるのか理解できない」と拒否し「歌わない」と言い張ったが。
● 作品
◇ スタジオ・アルバム
: 『プロローグ〈序幕〉』
: 『バリエーション〈変奏曲〉』(1982年)
: 『ファンタジー〈幻想曲〉』
: 『NEW AKINA エトランゼ』(1983年)
: 『ANNIVERSARY』
: 『POSSIBILITY』(1984年)
: 『BITTER AND SWEET』
: 『D404ME』(1985年)
: 『不思議』
: 『CRIMSON』(1986年)
: 『Cross My Palm』
: 『Stock』
: 『Femme Fatale』(1988年)
:
● 公演
・CONCERT IN OSAKA & TOKYO(1982年 - 1983年)
・ Akina Milkyway '83 春の風を感じて(1983年)
・ RAINBOW SHOWER(1983年)
・AKINA LAND(1984年 - 1986年)
・ 逢いたい菜 逢えるか菜 中森明菜音楽鑑賞会(1984年)
・ BITTER & SWEET(1985年)
・ LIGHT & SHADE(1986年)
・Meiji PRESENTS AKINA LIVE(1986年 - 1989年)
・ A HUNDRED days(1987年)
・ Femme Fatale(1988年)
・中森明菜 TRUE LIVE(1995年)
・ Dinner Show(1996年 - 2017年)
・ Felicidad(1997年)
・ SPOON(1998年)
・ 中森明菜 2000 〜21世紀への旅立ち〜(2000年)
・ ALL ABOUT AKINA 20th Anniversary IT'S BRAND NEW DAY(2001年)
・ MUSICA FIESTA TOUR 2002(2002年)
・ AKINA NAKAMORI LIVE TOUR 2003 - I hope so -(2003年)
・ AKINA NAKAMORI A-1 tour 2004(2004年)
・ AKINA NAKAMORI LIVE TOUR 2006 〜The Last destination〜(2006年)
● 出演番組
● 受賞
「中森明菜」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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