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ワンダーフォーゲル


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ワンダーフォーゲル (、「渡り鳥」の意味)は、1896年から1933年にかけてのドイツにおいて行われた青年運動のことである。この運動の参加者は国内にハイキングに出かけ、自然と親しく関わることによって工業化に抗議した。中世において放浪を行っていた学者の影響を引いており、彼らにとっての原点は古代のチュートン人の価値を取り戻すことであった。ワンダーフォーゲル運動はドイツのナショナリズムを非常に重視していた。歴史学的には、ワンダーフォーゲル運動の重大な貢献はより広いドイツ社会において民族の歌謡を復活させたことであった。 ワンダーフォーゲル運動は主に三つの国家レベルの集団に分けられていた。そのうち、「古ワンダーフォーゲル Alt-Wandervogel」、「ワンダーフォーゲル登録社団 Wandervogel eingetragener Verein (WVEV)」の二つは概して家庭、軍事、学校などの伝統に対して敬意を持っていたが、「青年ワンダーフォーゲル Jung-Wandervogel」はより反抗的であり、革新的な考えにより近かった。スカウティングのための組織とは異なり、ワンダーフォーゲル運動は権力による制御の外側から自然に発生したものであり、メンバーは選抜と任命によって増加していった。 ワンダーフォーゲル運動は1901年から1913年にかけてドイツの青年運動の中で最も有力な勢力であった。1901年にはわずか100人のメンバーしかいなかったのにも関わらず、1914年には2万5000人から4万人の支持者を集めるまでになった。

● ドイツ


◎ 起源(1895年から1900年)
1895年秋、ヘルマン・ホフマン=フェルカーサムブ (1875–1955)という名の法学徒がベルリンのシュテーグリッツにあるジムナジアムの校長から速記術の自由な授業を開く許可を得た。1896年には、ホフマン=フェルカーサムブの授業に参加した生徒はシューテグリッツを歩き回り、1897年にはハルツ山地の高原で15日間のハイキングを敢行した。この小さなグループは徐々に重要性を増し始め、ライン川地域で1898年に行われたトレッキングには11名が参加した。さらに1899年にはより長い4週間のハイキングがボヘミアで行われ、およそ20名の男子生徒が参加した。後にワンダーフォーゲルと呼ばれることになるこの運動特有の要素はこれまでに述べたような初期の活動の中に既に存在していた。それは、集団の独立と質素な人生の在り方についての強調、伝統的な権限の不在、観光的で使い古された道への軽蔑、そしてユースホステルの快適性への侮蔑であった。

◎ 第一ワンダーフォーゲル運動(1901年から1904年)
ワンダーフォーゲルがカール・フィッシャー (1881–1941)によってベルリン郊外にあるシュテーグリッツで公式に設立されたのは1901年11月4日、のことである。正式名称はWandervogel, Ausschuß für Schülerfahrten(男子生徒の小旅行のための渡り鳥委員会)であり、フィッシャーの4人の友人、ベルリン出身の4人の作家、これらの他に医師1人が共同した。この集団はあくまで法律的・財政的な援助のために働き、フィッシャーがOberbachantの看板の下に率いた実際の活動には直接関わらなかった。プロイセンの法律では、若い人々が自らクラブを設立したり、課外のクラブに加入したりすることは許されていなかった。そのため、フィッシャーは表向きにはこの組織を保護者やプロイセンの一般の市民のための正当なハイキングクラブであると主張していた。シューテグリッツのジムナジアムの元教員で、改革派の教育者であったルードヴィヒ・グルリット (1855–1931)は適切な報告を残すことによって、この運動をプロイセンの文化省に正式に認めさせるための助けとなった。フィッシャーはホフマン=フェルカーサムブの熱烈な支持者で、様々なトレッキングの間フィッシャーにとって最も助けになる人であった。やがて1899年末、ホフマン=フェルカーサムブが外交官としての任務のためにコンスタンティノープル(現在のイスタンブールに出発すると、ホフマン=フェルカーサムブに代わってフィッシャーが指導者となった。フィッシャーは卒業試験(アビトゥーア)で2回落第したために、彼がワンダーフォーゲル運動に完全に集中できるようになり、法律と中国学の勉強を犠牲にできるようになるためには1901年まで待たなければならなかった。1903年までには、定期的なハイキングを行う団体がベルリンの他にポズナン(ポーゼン)、ミュンヘン、ハンブルク、リューネブルクにも存在していた。 間もなくワンダーフォーゲル運動はドイツの青年運動の中で最も主要な立ち位置を占めるまでになった。それは自由と自己責任、そして冒険の精神を標榜する自然回帰派の若者の集まりであった。それは直ちに国家主義的な手段を取るようになり、ドイツのチュートン人時代の起源を刺激するようになった。ワンダーフォーゲル運動の参加者の間ではパウル・ド・ラガルド、ユリウス・ラングベン、ヒューストン・ステュアート・チェンバレンらの考え方も標準的であった。 ユング・ワンダーフォーゲルは階級において同性愛者が有利となることでも知られるようになった。しかし、歴史学者のピーター・スタチュラによれば、たとえ男性のエロティシズムがワンダーフォーゲル団体の日々の生活において幾らかの役割を果たしていたとしても、ワンダーフォーゲル運動自体が主に同性愛者のエロティシズムを目的とした団体であったとこの文脈で結論付けるのは誤解を招くことになるであろう。

◎ ナチス政権におけるワンダーフォーゲル
1933年以降、ナチスはワンダーフォーゲル、スカウティング、ユンゲンシャフト、ブント青年団など、ヒトラーユーゲントとは独立した青年の集団のほとんどを違法化した。教会と密接な関係を持っていたグループだけは生き残ったが、それも1936年までにはほぼ消滅した。

● オーストリア・スイス
オーストリアの分派「オーストリア・ワンダーフォーゲル」(ÖWV)は1909年にプラハ出身の学生、ハンス・モーチカによって設立された。これより前の1906年までに、オーストリアの青年団とドイツのワンダーフォーゲルはボヘミアで最初の接触を取っていた。メンバーはオーストリアのブルジョワジーの中から起用され、彼らは暴力的な論理とオーストリア・ハンガリー帝国内での汎スラブ主義の明白な脅威からドイツのナショナリズムを守ったことで知られる。 アルコールに反対するドイツの学生との会議が行われた後の1906年から1907年にかけて、スイスでも別の分派が結成された。「スイス・ワンダーフォーゲル」(SWV)は1908年4月の設立当初は50人のメンバーがいた。この数は1913年には1500人まで増えた。しかし、スイスでの運動の影響は限定的なものに留まり、スイス・ワンダーフォーゲルは必然的にブルジョワジーの家を出自とする若いプロテスタント信者のドイツ語話者で構成されることとなった。

● 社会学
ワンダーフォーゲル運動は大半がドイツのプロテスタント信者の中流階級を基盤としており、労働者階級や貴族でこの運動に引き付けられた者は少数に留まった。男子も女子も加入することが認められたが、このことによって指導者の間で幾らかの論争が発生し、ワンダーフォーゲル団体の活動で性別の分離が導入されることになった。メンバーは12歳から18歳の間であった。 ワンダーフォーゲル運動の団体が最も集中して存在していた地域はシレジア、ザクセン州、テューリンゲン州、ヘッセン州、ヴェストファーレン、ラインラント=プファルツ州であり、バーデン=ヴュルテンベルク州にもより小規模ではあるが集中していた。団体の多くはプロテスタントを信仰している地域に存在していた。1912年の段階でワンダーフォーゲル運動の団体が存在していた都市の8割近くではプロテスタントが圧倒的な多数派であった。そのような場所のほとんどでは人口密度が高くなく、生活の中心は工業化されていなかった。むしろ、ドイツ国内では田舎で伝統的な風習を残す地域であり、小規模から中規模の都市と郊外の居住地域、大学都市、小さな公国の首都を備えていた。 ワンダーフォーゲル運動はかなりの部分で、ドイツ社会に対して反権威主義的な反乱を始めたようにも見えた。彼らは若者の価値を成人のそれとは対極にあるものであると考えた。ワンダーフォーゲル運動はシュテグリッツで生まれたが、そこはベルリンの中でも中流階級のための居住地域と言うべき場所であった。都市中心部の喧騒からも労働者階級の居住区域からも離れていたため、若い学生たちは自らの置かれた環境の社会的な制約から逃れることを望んでいた。このような環境は物質的な状況が悪かったためというより、彼らの両親と成人たちの社会との関係に影響する伝統的・階層的な社会的地位の下に築かれたものであった。しかし、ワンダーフォーゲル運動は言葉の本来の意味での革命運動ではなかった。何故なら、彼らは数日間かせいぜい夏の間だけ、社会から距離を置いて自分たちの活動を行ったのに過ぎなかったのであって、一年のうち残りの部分はそれまでの生活に戻っていたためである。特にユング・ワンダーフォーゲルに関しては、無政府主義的または虚無主義的な考えを広める余裕があったかもしれないが、ほとんどの場合ワンダーフォーゲル運動は必然的により広い社会の中の同様の運動として見られることを求めていた。

● 日本
日本には第二次世界大戦前のドイツとの国家的友好関係とその影響の元に、1933年(昭和8年)文部省内に「奨健会ワンダーフォーゲル部」が設けられ、国による健全な青少年運動として宣伝と普及が開始された。それらに触発され1935年(昭和10年)に発足した立教大学ワンダーフォーゲル部が日本での最初の学生団体である。その後、戦争をまたいで高度経済成長と登山大衆化を背景として各地の大学に広く設立されるに至る。各地方に学生ワンダーフォーゲル連盟といった組織が存在するものの、その組織率は低く一部にとどまっているほか全国組織は現在存在しない。高校や高専の部活動の一つとしてのワンダーフォーゲル部も存在する。

● 影響
一部の著作者は、ワンダーフォーゲル運動の出発点とその活動は後世の社会的な運動、特に1960年代にアメリカ合衆国で発展したヒッピー運動に影響を与えたと考えている。

「ワンダーフォーゲル」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年10月11日15時(日本時間)現在での最新版を取得

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