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は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭であり、同時にそれを起源とする武芸や武道の一つ。興行としては大相撲が行われている。日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも認知されている。
● 概説
相撲の歴史や伝承は古く、歴史としては平安時代以前、伝承としては神話時代から始まったとされている。江戸時代に入ると全盛期になり、日本文化を代表する一つの娯楽として隆盛を極めた。
現代の相撲について民俗学の研究ではその担い手と歴史的系譜から、相撲を生業とする人々による興行相撲から連なる大相撲、学生相撲や実業団相撲などのアマチュア相撲、地方の神事や余興として行われてきた相撲(新田一郎や池田雅雄らによって「素人相撲」に分類された草相撲・野相撲・奉納相撲など)の3つに区分する。特に日本相撲協会が主催するスポーツの興行としての大相撲が有名だが、神事に由来するため、他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど文化的な側面もある。
「日本の国技は相撲である」と巷で言われることがあるが、日本は法令や政令で国技を定めてはいない。
日本国内外でも同じような形態の格闘技があって、例えば沖縄本島の沖縄角力(シマ)、モンゴルのブフ、中国のシュアイジャオ、朝鮮半島のシルム、トルコのヤールギュレシ、セネガルのランブなど。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には「何々相撲」(沖縄相撲(琉角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)といった名で呼ばれることが多い。
● 語義
新田一郎によると「相撲」は当初は争うことや抗うことを意味し、特定の格闘競技を意味したものではなく、格闘や技芸を一般的に意味する漢語であったという。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたという説もある。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴むことの意、または、素手で勝負をすることを意味する。)
大相撲を取る人は正式名称は「力士」(りきし)といい、また「相撲取り」、親しみを込めて「お相撲さん」とも呼ばれる。
相撲の世界のことを「角界」と呼ぶことがあるが、これは嘗て相撲の漢字表記を「角力」あるいは「捔力」「角觝」としていたことに由来する。
英語ではまたはと表記される。
なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲、足相撲、指相撲、草相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。
● 歴史
◎ 古代
日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。
人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことは明確である。宿禰・蹴速は相撲の始祖として祭られている。
さらに『古事記』の垂仁記には、
とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀や六国史においても、相撲に関する記述が散見される。なお「相撲」という言葉そのものが初めて用いられたのは日本書紀の雄略天皇13年の記述で、当時の木工にして黒縄職人であった猪名部真根が「決して(刃先を)誤らない」と天皇に答えたため、雄略天皇が采女を呼び集めて服を脱いで褌にして相撲を取らせた記述が初見になる。
皇極天皇元年(642年)7月22日には、百済の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、宴会の余興として、健児(ちからひと)に命じて、同年4月8日に亡命していた百済王族 翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある。
天武天皇十一年(682年)7月、九州の隼人が大勢きて国の特産品を献上し、朝庭で大隅の隼人と阿多の隼人が相撲をとり、大隅の隼人が勝った、とある。
持統天皇九年(695年)5月13日、大隅隼人を宴会をしてもてなした。
5月21日。隼人が相撲を取るのを西の槻の木の下で観た、とある。
奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが、節会を統括する相撲司の初見は養老3年(719年)であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。しかし同時に、健児の選抜という本来の趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる。
一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている。
◎ 中世
相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた。
続く室町幕府は、相撲の奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という。
◎ 近世
江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲も力士を大名の抱えとすることでその名残をとどめた。
江戸の爛熟期である明和・安永期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、明和6年(1769年)の浅草寺の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した。11代将軍徳川家斉の時代になると、将軍が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも寛政3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった。
◎ 近代
明治の文明開化で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより日本相撲協会が誕生、勧進相撲は大相撲に一本化された。
平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュアの組織が結成された。また、義務教育に武道必修化の必修科目として、相撲・剣道・柔道の三種を基本として加味された。
2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大により身体接触を伴うスポーツへの抵抗が高まり、各地の学校の部活動でもなるべく身体接触を避けたいという意向が示されていた。2021年10月15日に開幕した福井県中学校秋季新人競技大会で、相撲競技が2人しかエントリーしないという選手不足のため、過去16回で初の開催中止となった。
● 神事としての相撲
◎ 神事との関係性
相撲は神事としての性格が不可分である。ただし、相撲と神事の関係については、相撲が神事に合わせて奉納される場合と、相撲の所作が神事の不可欠な要素に含まれている場合に分けられる、江戸時代以降は興行記録も残っており。
・急に後ろに引いたり、体を開くなどによって相手のバランスを崩す。
相撲においてはまず押すことを良しとし、多くの相撲部屋や道場では初心者は押しの技法を身に付けることから始める。廻しを取った手は引くが、その場合も体全体として常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが褒められない。また、引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。
○ 防ぎ手
◎ 相撲の組み方
力士同士のお互いの組み方として四つ身という組み方があり、右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ、または、外四つ(もろ差し)などがある。
・互いにまわしを取り合う場合、標準的なつかむ位置として相手の腰の横から少し後ろとなる。すると、両者の腕が交差することになるが、このとき相手の腕の外を回る腕を上手(うわて)、内側に入る腕を下手(したて)という。両者互角に組む場合、それぞれ片腕が上手、もう片腕が下手となる。ここで互いに右手が下手になっているのを右四つ、左手が下手になっているのを左四つという。
・片方が両腕ともに下手でまわしを取るのをもろ差しという。このとき相手も両手でまわしを取ると、両手とも上手となるのが外四つである。
・両者が互いの向き合う手をつかみ合った状態で押し合うのを手四つという。大相撲で見ることはほとんどない。むしろプロレスで見ることが多。
・互いの頭を押しつけあうのを頭四つ(ずよつ)という。そのまま相撲が進むことは少なく、その状態から互いの肩を押したりといった形になる。
これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。
◎ 四十八手
四十八手とは相撲における決まり手のことある。四十八手の称は慶長年間には既に世にあったとされる。江戸時代より『相撲強弱理合書』、『角力秘要録』、『相撲之圖式』、『相撲鬼拳』、『相撲大全』などに記されているが書によって内容が異なる。
◇相撲強弱理合書
:笈撕、繋なげ、波離間なげ、胸なげ、腹なげ、腕なげ、寄なげ、大腰、小腰、大渡し、三所詰、うたせの手、鳧の入れ首、痿の手、膝車、四肢の張身、曳廻、鬢廻、疎己圓、手繰蹴返、飛違、わく抜、相合頭捫、枕浪、両手の爪取、袖返し、曳捨、縊込、立居腰、上手捫、多怒気の腹なげ、取手の崩し、立眼相、居眼相、雀鷂の大意、鷲の掴揚り、不見離、四ッ手蹴返し、外足飛反、留反、傳反、掛反、裏繋、外繋、障泥掛、掛残、鋪小股、河津の掛の一本立
◇相撲圖式
:大腰のひしぎ、磯之波、引廻之入身(相引廻不變)、逆繋、四手崩、はちなげ(繋投)、ひしぎ投、そり捻、むそう捻、ちやうの掛(内掛)、車返(車反り)、膝やぐら、袖返(ひつそう入身)、袂之下反、うけ返り、立居返(傳返り)、一寸返、頭捻、諸捻(つきおとしの入身)、兒之手栢(すかしひねり)、捻返し(逆捻)、得智後捻(腰捻)、蹴返之當(出しのもたれ)、腹やぐら、磯之波、胴捻、前付捻、登り掛、投残、あおり掛、きぬうり、腹投、抱投、無相出し、折返、かけの一本立、大逆手(逆手くじき)、くくりなげ、上手反、大渡、撞木反、四手捻、かいなひねり、片輪車、折倒、はねそり、つみの大心(打虚之入身)、喉附、寄投、立居腰(上手返し)、投之三所詰、中投、小腰之ひしぎ、大腰之ひしぎ、中反り、飛反り、かけぞり、居反、負投、すくひ投、そくひ、波枕、けひねり、くくり投、かひ投
◇相撲大全
:かものいれくび、むかふづき、さかてなげ、すくひなげ、ぎゃくなげ、なげ、つまどり、さまた、ためだし、たぐり、みところづめ、けかへし、かひなひねり、うちがけ、かたすかし、だし、そくびおこし、ひきまはし、かはづがけ、しゅもくぞり、やがら、もちだし、ひさこまはし、とびちがひ、こしくぢき、大わたし、鴫のはがへし、まがひつき出し、つつきけかへし、そとがけ、きぬかつぎ、てふのがけ、つきやぐら、たすきぞり、うはてすかし、しきこまた、そとむさう、よつがひ、そくびなげ、はりまなげ、かけなげ、おひなげ、のぼりがけ、やぐら、したてやぐら、うちむさう、とあし、くぢきだふし
● 力士
◎ 力士の鍛練法
・ 受け身・鉄砲・四股・摺り足・股割・ぶつかり稽古など
◎ 力士の段級
・ 日本相撲連盟が、段級位制を取っている。黒いまわしの着用が許されるのは初段以上である。
◎ あんことソップ
重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士や初代霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。
● 行司家
・ 相撲司家の宗家吉田司家以外に、全国には行司家というものがあった。行司家は、五条家をはじめ、吉岡家、服部家、尺子家、一式家、岩井家、式守家、木村家、木瀬家、鏡山家、長瀬家など、その他多数存在した。
・ 2017年現在、木村家と式守家のみが残っている。
一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。
事実、吉田家の19世吉田追風(吉田善左衛門)が寛政年間(1789年-1801年)に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、また、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。
● 日本国外における相撲
相撲に似た格闘技は世界各地に存在している。
これ以外に、日系人が海外に伝えたり、大相撲の海外巡業や、外国人力士の活躍により触発されたりした日本式相撲文化も見られる。
◎ 相撲と日本人移民
相撲は、日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも持ち込まれた。
ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節(天皇誕生日)を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。
・ 1962年、アマチュアの普及発展を目的に、伯国相撲連盟が結成。1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となった。相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市にある。
・ 1983年、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
・ 1985年にはパラグアイ、アルゼンチンの相撲連盟が同協議会に加盟する。
・ 1986年、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催される。日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加した。
日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が遠征がのちにも続いた。
◎ 大相撲の影響
ジョージアはもともとレスリングや柔道など格闘技が盛んであった。同国出身である栃ノ心剛史の大相撲での活躍が伝わり、相撲のファンクラブが設立されたり、相撲を学んだり、力士としての渡日を志したりする人が増えている。
● 相撲の用語
「相撲」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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