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連合艦隊(れんごうかんたい、聯合艦隊)は、大日本帝国海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した艦隊。海軍部内での略称はGF。
● 概要
連合艦隊は2個以上の艦隊で編成された帝国海軍の中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないという意見がでてきた。一時は警備艦隊を常備艦隊に統合する案が出たが、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が警備艦隊を「西海艦隊」と改名し、常備艦隊と西海艦隊をもって「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降は「艦隊」の上位編成として常設された。後年連合艦隊を基幹に編成された海軍総隊と同様、編成は概ね陸軍における総軍に匹敵するもので、現在でも海上自衛隊の自衛艦隊やアメリカ海軍のアメリカ艦隊総軍など、連合艦隊に類似した編成の総軍相当艦隊が存在する。
なお、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦の頃までは、「連合艦隊」は「第一艦隊+第二艦隊」であり、「艦隊」と略称した。単に「艦隊」と呼称する場合、中華民国の上海を拠点とする常設艦隊である第三艦隊(昭和12年以降は支那方面艦隊)は含まなかった
◇日露戦争開戦時(明治36年12月28日付)
◇日露戦争北遣艦隊編成時(明治38年6月14日付)
◇第一次上海事変発生直後(昭和7年2月2日付)
◇日中戦争勃発時(昭和11年12月1日付)
◇太平洋戦争開戦時(昭和16年12月10日付)
◇最終時(昭和20年6月1日付)
◇本節の書誌情報
・坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
● 連合艦隊司令部設置箇所に関する論争
艦隊司令部は通常、艦隊内の軍艦に設置される。連合艦隊司令部もその創設以来、常備艦隊や第一艦隊の軍艦に司令部を設置し、その艦隊司令部を兼ねていた。しかし太平洋戦争末期になって司令部設置箇所を巡り論争が起きた。
その原因は連合艦隊司令長官の指揮範囲を拡げ過ぎたことにある。明治時代の連合艦隊司令長官は原則として純粋な戦闘部隊のみを指揮下に置いていた。しかし時が経つにつれて名声が高まり、軍令を司る軍令部長(職制上は連合艦隊司令長官の上官)と並び称されるほどになった。それに加え連合艦隊司令長官の地位が単なる戦闘指揮官ではなく海上作戦全般の総指揮官という意味も帯び始め、補給部隊や基地航空隊、鎮守府なども指揮下に入るようになった。こうなると多くの司令部人員の増加が必要となり、居住及び勤務空間の確保や無線設備の増強など海上の一艦にあって総指揮をとることが何かと不都合になってきたのである。実際、当時のアメリカ海軍太平洋艦隊司令部はハワイ(太平洋戦争開戦前にサンディエゴより移動)にあり、陸上から指揮をしていた。よって司令部上陸論ともいうべき主張が司令部内でされるようになった。
そのためか太平洋戦争において、連合艦隊旗艦が作戦行動を起こしたのはミッドウェー海戦のみであり、しかも帝国海軍最強の大和型戦艦である旗艦大和は機動部隊のはるか後ろを航行していたため戦闘には参加していない。
それに対し反対論も根強かった。海軍には「指揮官先頭、率先垂範」という伝統があった。また日本海海戦では東郷平八郎司令長官が旗艦三笠の艦橋先頭に立ち、戦闘中微動だにせず海戦終了後東郷長官の足跡がくっきりと残っていたという実話もある。「司令長官とはそうあるべきもの」という観念が海軍の中では確固たるものとしてあった。安全な後方(陸上)から指揮を受けるなど考えたくもなかったと思われる。
1941年(昭和16年)の戦時編制発令で多数の艦隊が編制され、連合艦隊の規模が拡大したため、第一艦隊司令部が新設され、連合艦隊司令部と分離された。その後、第一艦隊は日本本土にとどまり、連合艦隊旗艦はトラック泊地へと進出する。
1944年(昭和19年)に入るといよいよ戦争範囲は拡大しつつも敗勢が濃くなり、他艦隊へと艦船を供出していた第一艦隊は解散し、連合艦隊旗艦が含まれていた第一戦隊も第二艦隊へと編入される。軽巡洋艦大淀を連合艦隊旗艦用へ改装中、当時の連合艦隊司令長官の古賀大将が殉職する。後任の豊田大将は就任と共に、「大淀」に司令部を移し、しかも単艦で木更津沖に碇泊させた。これは米海軍の等と同じく最初期の指揮専用艦に属する艦艇であったが、当時の司令部にその意識はなく、単なる妥協策であった。このような処置は間に合わせのものであり、連合艦隊司令部は陸上にあって後方指揮を取るのが望ましいとされた。中央(東京)と連絡をつけやすく、作戦部隊作戦地域に近く、かつ作戦全体の指揮も可能という候補地を求めた結果、第一候補地・神奈川県日吉台慶応大学附近、第二候補地・台湾高雄(高雄警備府司令部所在地)と決定され、昭和天皇の勅許を得た。第一候補地については、「大淀」の改装完了以前から日吉台(横浜市港北区日吉)に海軍の部隊が移駐しており、1944年3月には軍令部第三部(情報)が慶應義塾大学日吉キャンパスに移転、同じ頃川崎市蟹ヶ谷には海軍通信隊が地下壕を建設していた。軍令部三部の地下壕は7月15日に建設開始、連合艦隊司令部の地下壕は8月15日に建設が開始された(日吉台地下壕)。
通信室、作戦室、居住施設の順番で建設を開始、徐々に機能を移し、9月29日に豊田は将旗を移動、連合艦隊司令部は陸(おか)に上がった。「大淀」は連合艦隊旗艦の役目を解かれて、ただの軽巡洋艦という立場に戻った。ここにおいて連合艦隊旗艦は消滅した。
● その他
◎ 海上自衛隊の「連合艦隊」
海上自衛隊には連合艦隊に相当する機動運用部隊として自衛艦隊があり、自衛艦隊司令官の指揮下に護衛艦隊(4個護衛隊群基幹)・航空集団・潜水艦隊・掃海隊群・情報業務群・海洋業務群・開発隊群・その他の実動部隊で編成されている。
◎ 秘密組織の暗号名
文化大革命中、中華人民共和国の軍人林立果は毛沢東暗殺を計画した。その際組織した秘密組織の名前は「連合艦隊」であった。これは林立果が日本映画『連合艦隊司令長官 山本五十六』を観て感動したことから日本の連合艦隊に影響されたものである。
● 関連作品
◇書籍
・ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』光人社刊: ISBN 4-7698-0979-4、『連合艦隊の栄光』光人社刊: ISBN 4-7698-1006-7
◇映画
・『連合艦隊』(東宝、1981年。監督:松林宗恵)
「連合艦隊」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
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