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ヤマトタケル


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ヤマトタケル(景行天皇12年 - 景行天皇41年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。 『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。

● 名称
『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』とも、本の名は「ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)」で、のちに「ヤマトタケル」を称したとする。それぞれ表記は次の通り。
・ 『日本書紀』・『先代旧事本紀』
 ・ 本の名:小碓尊(おうすのみこと)、小碓王(おうすのみこ)
 ・ 亦の名:日本童男(やまとおぐな)
 ・ のちの名:日本武尊(やまとたけるのみこと)、日本武皇子(やまとたけるのみこ)
・ 『古事記』
 ・ 本の名:小碓命(おうすのみこと)
 ・ 亦の名:倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
 ・ のちの名:倭建命(やまとたけるのみこと)、倭建御子(やまとたけるのみこ) 「ヲウス(小碓)」の名称について『日本書紀』では、双子(大碓命・小碓尊)として生まれた際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによるとする
・ 倭武尊 - 『古語拾遺』
・ 倭建尊 - 『新撰姓氏録』
・ 日本武命 - 『尾張国風土記』逸文、『古語拾遺』
・ 倭武天皇 - 『常陸国風土記』
・ 倭建天皇 - 『常陸国風土記』
・ 倭健天皇命 - 『阿波国風土記』逸文 なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」とする説がある。「ヤマトダケ ノ ミコト」と読まれる場合もある。

● 系譜
父は第12代景行天皇。母は皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫。第7代孝霊天皇の皇孫)。『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を若建吉備津日子(吉備臣らの祖)の娘とする)。
・ 妃:山代之玖々麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ、紀なし)
 ・ 足鏡別王(あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王/葦噉竈見別王) - 鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖(記)。
・ 妃:布多遅比売(ふたじひめ、紀なし) - 淡海安国造の祖の意富多牟和気の娘(記)。
 ・ 稲依別王(いなよりわけのみこ、紀の母は別) - 両道入姫皇女の所生とする紀とは異同。
・ 一妻(記では名は不詳、旧事本紀では橘媛)
 ・ 息長田別王(おきながたわけのみこ、紀なし)- 阿波君らの祖(旧事本紀)。
  ・河派仲彦王
   ・息長真若中比売(応神天皇の妃)
   ・
・稚野毛二派皇子(応神天皇皇子)
   ・
 ・忍坂大中姫(允恭天皇の皇后)
   ・
 ・衣通姫(允恭天皇の妃)
・ 宮簀媛(みやずひめ、美夜受比売) - 系譜には記されず、物語にのみ記される配偶者。尾張氏の娘。子は無し。 『古事記』では、倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。一方で雄略天皇に比定されている倭王武が中国南朝の宋に送った上表文(西暦478年)に記された「自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國(以下)」は、四道将軍やヤマトタケルなどの説話を指すと考え、更に上表文自体は伝わっていないものの、武の3代前の珍も武と同じく宋の官爵を求めて遣使をしている(西暦438年)ことから、5世紀前期には既にヤマトタケルの説話が成立していたとする説もある。

◎ 系図


● 記録
『古事記』と『日本書紀』の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、豪胆な主人公や父天皇に疎まれる人間関係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。おおむね『日本書紀』の方が天皇賛美の傾向が強く、父の天皇に忠実で信頼も厚い(『日本書紀』の説話は、『古事記』との相違点のみ逐一示す)。

◎ 西征
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◇ 古事記 : 父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害する。そのため小碓命は父に恐れられ疎まれて、九州のクマソタケル(熊襲建)兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
◇ 日本書紀 : 兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとある。古事記と異なり倭姫の登場がなく、従者も与えられている。従者には美濃国の弓の名手である弟彦公が選ばれる。弟彦公は石占横立、尾張の田子稲置、乳近稲置を率いて小碓命のお供をしたという。
◇ 先代旧事本紀 : (景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六歲 按日本紀 當作二十七年 とあるのみ。 ----
◇ 古事記 : 小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。
◇ 日本書紀 : 熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される。川上梟帥を討伐後、日本武尊は弟彦らを遣わし、その仲間を全て斬らせたため生き残った者はいなかったという。 肥前国風土記 : 佐嘉郡、小城郡、藤津郡で日本武尊の巡行が記述される。いずれも地名伝承である。小城郡では砦に立て籠もり、天皇の命に従わない土蜘蛛をことごとく誅している。 ----
◇ 古事記 : その後、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。そうして「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ」と“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”と歌う。こうして各地や国を払い平らげて、朝廷に参上し復命する。
◇ 日本書紀 : 崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は毒気を放つ吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。

◎ 東征
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◇ 古事記 : 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
◇ 日本書紀 : 当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。 : 最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。 ----
◇ 古事記 : 倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売(宮簀媛)と婚約して東国へ赴く。
◇ 日本書紀 : 対応する記述は存在しない。 ----
◇ 古事記 : 相模の国で、相武国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
◇ 日本書紀 : 駿河が舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。 ----
◇ 古事記 : 相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地(現在の木更津市と言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。 入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。 : 弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
◇ 日本書紀 : 「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったと記され、同様に妾の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが、和歌はない。 ----
◇ 古事記 : その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。足柄坂(神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は尾張に入る。
◇ 日本書紀 : ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。 常陸国風土記 : 倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。巡幸に関わる記述が17件記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。 陸奥国風土記逸文 : 八槻の郷の地名伝承。日本武尊が東夷を征伐し、この地で八目の鳴鏑の矢で賊を射殺した。その矢の落下した場所を矢着(やつき)と名付ける。別伝は、この地に八人の土蜘蛛がいて、それぞれに一族がおり皇民の略奪を行っていた。日本武尊が征討に来ると津軽の蝦夷と通謀し防衛した。日本武尊は槻弓、槻矢をとり七つの矢、八つの矢を放った。七つの矢は雷の如く鳴り響き蝦夷の徒党を追い散らし、八つの矢は土蜘蛛を射抜いた。土蜘蛛を射抜いた矢から芽が出て槻の木となった。その地を「八槻」と言うようになったとある。  ----
◇ 古事記 : 尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が生理中であることを知り、次のように歌う。 : 「ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) ひはぼそ たわや腕(がひな)を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり」“天の香具山の上を飛ぶ白鳥のような、白くか細いあなたの腕を、私は抱こうとするが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの着物の裾には月(=月経)が見えているよ” : 美夜受比売は答えて次のように歌った。 : 「高光る 日の御子(みこ) やすみしし わが大君(おおきみ) あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな 君待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ」“ 高く光り輝く太陽の皇子よ。国を八隅まで支配される私の大君様。新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。そうです、そうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたのだから、わたしの着物の裾に月が出たのは当然です ” : 二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。
◇ 日本書紀 : 経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。
◇ 尾張国風土記逸文 : 宮酢媛の屋敷の桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができずに残したとされる。 ----
◇ 古事記 : 素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。 : 弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
◇ 日本書紀 : 伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。 ----
◇ 古事記 : 倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”との歌を詠んだ。 : すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后や御子たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだ。 : また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。 : 白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。 : これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった。
◇ 日本書紀 : 父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。 ----
◇ 古事記 : 白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
◇ 日本書紀 : 白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。 :『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。

● 墓
墓は、宮内庁により次の3ヶ所に治定されている(能褒野墓に白鳥2陵を付属)。
・ 能褒野墓(のぼののはか、三重県亀山市田村町)
 ・ 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末の築造と推定される。
・ 白鳥陵(しらとりのみささぎ、奈良県御所市富田)
 ・ 宮内庁上の形式は長方丘。かつては「権現山」・「天王山」とも。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる。一説には円墳では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか)は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されているでは「能裒野墓」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現允恭天皇陵に治定されている津堂城山古墳を真陵と見る説が唱えられている。また、景行天皇の治世を4世紀後半とする立場からは、能褒野王塚古墳は同時期に築造されてなおかつ伊勢地方にあるに関わらず、王族の陵墓の特徴である三段築成が後円部にみられることから、4世紀後半にヤマト王権の東方への勢力拡大に貢献した「ヤマトタケルノミコト的王族」(伝説のモデルとなる王族)がこの地で亡くなって葬られた可能性があるとする説が唱えられている。その後、大宝2年(702年)には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷、別説に地震)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされているには、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている。「白鳥陵」も参照。
・ 河内の白鳥陵
 ・ 明治8年(1875年)に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという。「白鳥陵」および「軽里大塚古墳」も参照。
 ・ 白鳥伝説のモデルとも考えられる水鳥型埴輪が出土したことと築造順から河内・古市古墳群最初の大王墓である津堂城山古墳を真陵する説もある。

● 後裔氏族
『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・武部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君(武卵王後裔)、伊予別君(十城別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。 『古事記』の倭建命系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・建部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。 『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
・ 左京皇別 犬上朝臣 - 出自は諡景行皇の子の日本武尊。
・ 右京皇別 建部公 - 犬上朝臣同祖。日本武尊の後。
・ 和泉国皇別 和気公 - 犬上朝臣同祖。倭建尊の後。
・ 和泉国皇別 県主 - 和気公同祖。日本武尊の後。
・ 和泉国皇別 聟本 - 倭建尊三世孫の大荒田命の後。 なお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの名代部とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされる。本文では一貫して草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那藝剣(大刀)とのみ記される。
◇ 働き : 草薙剣は、スサノオ尊の十拳剣の刃が欠ける程の業物だったが、日本武尊が武器として使った記述はなく、実用的な働きは草を薙ぎ払う事のみである。平家物語においては日本武尊が草を薙いだところ剣は草を三十余町(3km四方)も薙ぎ伏せたとされている。また、草薙剣をミヤズヒメの元に残した日本武尊は、荒ぶる神の影響で病を得、都に戻ることなく亡くなってしまう。このことから倭姫命は、草薙剣を武器としてよりは、霊的な守護の力を持った神器として、日本武尊に渡したとも解される。
・ 白鳥神社(長野県東御市)東征からの帰路の途中に滞在した地とされる場所に古くから祀られている。
・御霊神社(岐阜県海津市)蛇池と呼ばれる大蛇がいる池があり、伊吹山へ向かうヤマトタケルが大蛇退治をし、池の真ん中を埋め立て社殿を建てたと伝わる)。
・ 山宮浅間神社(静岡県富士宮市)東征の途中、賊徒に追い込まれた尊が、富士の神を祈念し窮地を脱したことにより神霊を祀った場所とされる。
・ 萱津神社(愛知県あま市)東征の途中、人々が漬物を献上したところ、ヤマトタケルが漬物を「藪二神物」と称えたと伝わる。
・ 矢作神社(愛知県岡崎市)東征の途中、盗賊退治のために矢作部に一万本の竹矢を作らせたと伝わる。
・ 船津神社(愛知県東海市)ヤマトタケルが東征の時、伊勢から船でこの地に着岸したと伝わる。
・ 成海神社(愛知県名古屋市緑区)ヤマトタケルが東征の帰りに、ここから船出して宮簀媛がいる館に向かったと伝わり、元宮の天神社の伝承ではヤマトタケルは天神社の場所から伊吹山に向けて船で出発したとも伝わる。
・ 七所社(愛知県名古屋市中村区)境内には、岩塚という地名の由来となった古塚や日本武尊が腰をかけたと伝わる腰掛岩が現存している。
・ 内々神社(愛知県春日井市)ヤマトタケルが東征の帰路、尾張の内津峠(現在の春日井市内津町にある)に入った時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹から、副将軍建稲種命が駿河の海に落ち水死したとの報告に接し、悲泣して「現哉々々(うつつかな)、現哉々々(うつつかな)」といわれその霊を祀ったのが起源と伝えられる。
○ 近畿地方

・ 鳥出神社(三重県四日市市、ヤマトタケルが亡くなって白鳥となり熱田に向かうとき、この地で休んでから飛び出ていったと伝わる。)
・ 血塚社(三重県四日市市の旧東海道の国道1号線沿いの杖衝坂を登ったヤマトタケルが足の血を洗い流したと伝わる。)
・ 能褒野神社(三重県亀山市、ヤマトタケルの御陵であり、明治12年11月10日に旧内務省により正式に認定される。)
・ 加佐登神社(三重県鈴鹿市、ヤマトタケルの御陵(白鳥塚)の比定地の一つ、本居宣長や平田篤胤などの国学者はこの地を御陵であると主張していた。ヤマトタケルが死の間際まで愛用していた笠と杖が御神体として同神社に鎮座している)
○ 中国地方

・ 宮崎神社(鳥取県東伯郡北栄町、ヤマトタケルが西征の時、船で向かうが台風に悩まされる。しかし神助により引寄せるようにこの地に着御したと伝わる)
・ 須賀神社(島根県安来市、富田八幡宮境内社、スサノオノミコトの須賀の宮に相当するとされる)
○ 四国地方

・ 白鳥神社(徳島県名西郡石井町、仲哀天皇が建てた白鳥の宮。ヤマトタケルの息子息長田別王(阿波国造)が崇拝)
・ 白鳥神社(香川県東かがわ市、白鳥となって飛び去ったヤマトタケルが舞い降りたと伝わる)
○ 九州地方

・ 八剣神社(福岡県鞍手郡鞍手町、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐で、この地を訪れた時、村の酋長である田部今朝麿が村人達と共に、ヤマトタケルを手厚くお迎えしたと伝わる)
・ 八剣神社(福岡県北九州市八幡西区、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐の時、この地に立ち寄ったと伝わる)
・ 御山神社(福岡県直方市、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐で、宮居を定め暫し、この地に留まられ、多くの樹木を植えたと伝わる)
・ 近津神社(福岡県直方市、景行天皇平定より8年後、熊襲征討の為、入国したヤマトタケルは、土豪大兄彦が献じた御神器の弓矢をこの地に鎮祭したと伝わる)
・ 四王子神社(熊本県玉名郡長洲町)
・ 柿迫神社(熊本県八代市、ヤマトタケルが熊襲兄弟の征討に行った時、この地を訪れ、深く奉賽したという。ヤマトタケル伝説の最西端の足跡)
・ 平田神社(宮崎県児湯郡川南町、熊襲兄弟征討の為、幣田川(現平田川)の河口から、御舟で川を上がり、東南の高台の御山に宮居を定め、熊襲兄弟征討の後、再び立ち寄ったと伝わる)
・ 岩爪神社(宮崎県西都市、熊襲兄弟征討の帰りの際、この地に寄り、紀州の大権現に対し戦勝祈願をしたという。ヤマトタケル伝説の最南端の足跡)
・ 本庄稲荷神社(剣柄稲荷神社、宮崎県東諸県郡国富町、剣柄の古墳の上に鎮座しており、この古墳は熊襲兄弟の征討でヤマトタケルが熊襲兄弟を刺し殺したとされる短剣の柄を埋蔵したと言われる古墳と伝わる)

◎ その他

・ 東京都
 ・ 岩蔵温泉(青梅市小曽木)、東征での傷を岩倉温泉で癒したと伝わる。
 ・ 御岳ノ神代欅(青梅市御岳山)、東征の折、ヤマトタケルが植樹したと伝わる。
・ 石川県 - 兼六園日本武尊の銅像がある(2003年のイグノーベル賞を受賞した金沢大学の廣瀬幸雄教授の研究の素材となり、ハトが寄り付かないことをヒントにカラス除けの合金を開発した)。
・ 愛知県
 ・ 一宮市 - 笠懸の松(大和町)、ヤマトタケルが伊吹山に向かう途中、この地の松に笠を懸け休息したと伝わる。また松林の付近に広がる蓮の花をヤマトタケルが愛したとの伝承があり、旧暦の7月7日のこととされている。
 ・ 名古屋市 - 腰掛岩(中村区岩塚町)、ヤマトタケルが船を待つ間、腰を掛けていたと伝わる。
  ・ 白鳥古墳(名古屋市熱田区)、ヤマトタケルの陵だと伝わっており、能褒野墓から白鳥となって飛び立ったヤマトタケルが、愛する宮簀媛がいる尾張の地にやって来て、松の木にとまった為、その場所に白鳥御陵が出来たと伝わる。
  ・ 白鳥塚古墳(名古屋市守山区上志段味)、ヤマトタケルの伝説がある古墳で、ヤマトタケルが伊吹山の賊を征伐に行く途中に蛇に足を噛まれ、噛まれた足の傷口を川で洗っていたところ、一羽の白鳥が現れた。ヤマトタケルが白鳥に尾張に連れて行ってくれと頼み、ヤマトタケルを乗せた白鳥が尾張の東谷山の麓に着いたところで死んだため、ヤマトタケルがその場所に白鳥を葬った為、その墓が白鳥塚だと伝わる。
 ・ 知多郡 - 生路井(東浦町生路)、ヤマトタケルが尾張氏の兵と共に東征軍の兵力を整えていた時、この地で兵を引き連れて狩りに出掛け、生路(いくじ)の里を通りかかった。熱い夏だったため、喉が渇き、水飲み場を探すが無く、山にある崖の下の大きな岩が湿っていたので、ヤマトタケルが弓のはずで突き立てると清水が湧き出し泉となり、それが村人から生路井と呼ばれる水飲みや、酒造りの水となったと伝わる。
 ・ 春日井市 - 馬蹄石(春日井市西尾町)、ヤマトタケルが東征から尾張に帰路し、現在の内津峠に来た時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹から副将軍の建稲種命が駿河の海に落ち水死したとの報告を聞き「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆いた。そして、西尾の地で建稲種命の霊を祭った内津の方を振り返り、馬の尾が西を向いたので「西尾」の地名が付き、馬の蹄の跡が付いたと伝わる岩盤。「駒返り」とも言われる。
  ・ 明知町 (春日井市)、ヤマトタケルが上記の内津峠と「西尾(馬蹄石)」に続いてこの地を通りかかった時に、ようやく夜が明けて辺りが知れるようになったことから、「明知」の名が付いたと伝わる。
  ・ 御手洗(みたらし・みたらい)遺跡(神屋町御手洗)、ヤマトタケルが、上記の「西尾(馬蹄石)」の場所から熱田に帰路する時、手を洗って休んだと伝わる。
・ 岐阜県
 ・ 不破郡 - 居醒水(関ケ原町玉)、伊吹山での大蛇との戦いで傷ついたヤマトタケルが清水を飲み、高熱が醒めたと伝わり、居醒水と呼ばれる。
 ・ 養老郡 - 桜の井戸(養老町桜井・みゆき街)、ヤマトタケルが水を飲み、喉を潤したと伝わる井戸。
・ 滋賀県
 ・ 腰掛石・鞍掛石(米原市醒井・中仙道)、ヤマトタケルが腰を掛け、鞍を掛けたと伝わる。
・ 三重県
 ・ 四日市市 - 杖衝坂(釆女町)、足洗池(三重命名の池 西坂部町御館)。そしてヤマトタケルに随行した「大伴武日連」が佐久の望月で他界し、埋葬した場所を「武陵」(ぶりょう)という。ヤマトタケルが休憩した 北相木村の山を「御座山」(おぐらやま)と呼び、越えられた山を「臨降峠」という。またヤマトタケルは「国師ケ岳」の岩穴に籠られたという 伝説もある。なお、ヤマトタケルは、蓼科山の大河原峠を超え、諏訪に出ようとした時、白衣姿の武将が白馬に乗って出現し、道案内をした。武将は「我は諏訪明神である」と言って消えたという。
・ 福岡県鞍手郡鞍手町にヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐しに行った時、一時住んでいたと云わる「熊野宮跡」がある。中山鎮座の八剣神社がある、剣岳 (福岡県)を登る途中にあり、村人が熊襲建兄弟討伐で来た、ヤマトタケルを手厚くもてなしたので、ヤマトタケルが帰りに再びこの地に立ち寄り、村人は仮宮を建てた。ヤマトタケルは村人の人情風致を褒めたたえ、この地を「中山」、「植木」と命名して帰って行ったと伝わる。
 ・ 田川市 - 太刀洗いの井戸、ヤマトタケルがこの地方の、土賊・猪折(いおり)を討った後、大刀を洗ったと伝わる井戸。
・ 鹿児島県 - 霧島市に「熊襲の穴」と呼ばれる洞穴がある。熊襲の首領である熊襲建、川上梟帥の兄弟が居住にしていたと伝われており、熊襲建兄弟の討伐を命じられたヤマトタケルが女装して忍び込み、川上梟帥を誅殺した場所として伝われており、「熊襲の穴」のほか「一名嬢着の穴」とも言われている。

● ヤマトタケルが登場する作品

◇ 小説 :
・ 白鳥の王子 ヤマトタケル・シリーズ - 黒岩重吾の小説。 :
・ 白鳥異伝 - 荻原規子のファンタジー小説。勾玉三部作2作目。 :
・ ヤマトタケル - 氷室冴子の小説。 :
・ 日本武尊(ヤマトタケル)SF神話シリーズ - 豊田有恒の伝奇小説。 :
・ ヤマトタケル - 文:那須正幹、絵:清水耕蔵の物語絵本。 :
・ 倭建(ヤマトタケル)-新アスカ伝説3 - 三田誠広の小説。 :
◇ 映画 :
・ 日本誕生 - 1959年に公開された、日本神話を題材にした東宝の特撮映画で、三船敏郎が演じる日本武尊(ヤマトタケル)を中心に物語が展開される内容になっている。 :
・ ヤマトタケル - 1994年に公開された、ヤマトタケルをモチーフにした主人公(演・高嶋政宏)が活躍する特撮映画。 :
◇ 漫画 :
・ 火の鳥 - 手塚治虫の漫画。1968年 - 1969年。『ヤマト編』に、ヤマトタケルをモデルにしたキャラクターが登場。 :
・暗黒神話 - 諸星大二郎の漫画。1976年。 :
・ヤマトタケルの冒険 - ゆうきまさみの漫画。1983年。 :
・ヤマトタケルノミコト(学研まんが人物日本史 21巻) - 監修:樋口清之、漫画:ムロタニツネ象。1983年。 :
・ヤマトタケル - 山岸凉子の漫画。原作:梅原猛。1986年 - 1987年。 :
・ ヤマトタケル - 原作:三村渉、漫画:たかや健二。1993年 - 1994年。下記アニメと連動したメディアミックス作品。ストーリーや設定などは違っている。 :
・ 天翔ける英雄伝説(週刊新マンガ日本史 創刊号) - 和月伸宏の漫画。シナリオ:氷川まりね。2010年。 :
・ ヤマトタケル - 安彦良和の漫画。2012年 - 2018年。 :
・ まんがで読む古事記倭建命 - 久松文雄の漫画。2013年。 :
・ バケガミ〜化神〜(読売KODOMO新聞) - 漫画:藤異秀明、原著:岸本みゆき。2016年 - 2018年。 :
・ カムヤライド - 久正人の漫画。2018年 - 。 :
・ ヤマトタケルとオトタチバナヒメ物語 ~二人の愛に包まれたふるさと亀山~ - 監修:亀山市教育委員会、漫画:小林はな。2023年。 :
◇ アニメ :
・ 火の鳥・ヤマト編 - 上記漫画のOVA化作品。 :
・ ヤマトタケル - 日本神話をモチーフにしたSFロボットアニメ。 :
◇ 舞台 :
・ スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」 - 演・脚本:三代目市川猿之助、作:梅原猛。 :
・ バレエ「御佩劍」-緑間玲貴演出、振付のバレエ。
◇ 音楽 :
・ オペラ「建・TAKERU」 - 團伊玖磨作曲のオペラ。 :
・ オペラ「火の鳥[ヤマト編」 - 手塚治虫原作・青島広志作曲のオペラ。 :
・ オラトリオ「ヤマトタケル」 - 三枝成彰作曲のオラトリオ。 :
◇ 歌 :
・ 長野県歌 信濃の国 - 六番の歌詞で日本武(ヤマトタケ)が「吾妻はや」と嘆いたことを碓氷峠の序詞としている。

● 紙幣の肖像
日本の紙幣(日本銀行券)の肖像としては、終戦直後の1945年8月17日に発行された当時としては超高額紙幣の甲千圓券に採用されている。

「ヤマトタケル」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年3月29日16時(日本時間)現在での最新版を取得

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