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人間魚雷回天


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回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍初の特攻兵器である。

● 特徴
「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦「回天丸」から取って命名した。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、㊅金物(マルロクかなもの)。終戦までに420基が生産された。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった。 回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に1人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。 回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃(玄作戦)で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという。しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。 回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、回天の速力や射程は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった。また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった。 潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊の球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦(竹等)や一等輸送艦が改造された。また局地防衛のため、突撃隊などの沿岸防備部隊にも配備された。

● 歴史


◎ 開発段階
小型特殊潜航艇甲標的の開発に成功した日本海軍は、太平洋戦争で実戦に投入した。真珠湾攻撃(1941年12月8日)、シドニー湾奇襲(1942年5月30日)、ディエゴ・スアレス泊地奇襲(1942年5月31日)における甲標的作戦では事前に収容方法こそ検討されたものの、搭乗員達は片道攻撃であることを覚悟していた。 1943年(昭和18年)末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた、日本海軍はトラック島空襲で大打撃を受ける。2月26日、吉松中佐は山本善雄大佐(当時、軍務局第一課長)と協議し、呉海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた。だが脱出装置の設計は遅々として進まず、開発者2人(黒木、仁科)の主張により同年5月に断念された、大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された。 1944年7月初旬、試作兵器三基が完成する。7月10日、日本海軍は三輪茂義中将を第六艦隊司令長官に任命する。回天開発の第一人者、仁科関夫中尉や黒木博司大尉も第一特別基地隊に配属された。嶋田繁太郎軍令部総長は、第一特別基地隊設立の経緯を昭和天皇に上奏した。回天部隊は第一特別基地隊司令官の指揮下で訓練に従事する。同時に特攻への気運が高まっていった。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。 9月12日、大本営海軍部(軍令部)は軍令部総長官邸で奇襲作戦の研究をおこない、丹作戦(敵艦隊所在の泊地に対する航空特攻)と玄作戦(回天攻撃)を検討した。当初の計画では大型潜水艦8隻(予備2隻含む)、潜水艦1隻あたり回天4基(可能なら5基)計32基用意、投入時期は10月下旬から11月上旬、目標はマーシャル諸島各地(メジュロ環礁、クェゼリン環礁、ブラウン環礁)の敵機動部隊となった。9月27日、藤森中佐(軍令部部員)は中澤佑軍令部第一部長に、回天作戦の準備状況を報告すると述べた。

◎ 実戦投入


◎ 回天特別攻撃隊菊水隊
先遣部隊(第六艦隊)は潜水艦5隻(伊36、伊38、伊41、伊44、伊46)および回天による敵艦隊拠点奇襲攻撃(玄作戦)を、11月上旬に実施する予定で計画を進めていた。だが1944年(昭和19年)10月上旬より米軍機動部隊の行動が活発化(十・十空襲、台湾沖航空戦)、日本軍は捷号作戦を発動する。玄作戦準備中の第15潜水隊も台湾沖航空戦の残敵掃蕩(誤認)に駆り出されたにともない連合艦隊は潜水艦のフィリピン方面集中を下令(レイテ沖海戦)、玄作戦投入予定の潜水艦もフィリピン方面に投入されたので、最初の玄作戦は変更を余儀なくされた、連合艦隊は先遣部隊(第六艦隊)に対し、11月20日の回天作戦実施を命じた。このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59)を撃沈して初戦果をあげた。最初の玄作戦における軍令部報告の中で回天について、「安全潜航深度増大が必要。熱走後一旦停止すると冷走になるので熱走が続くようにしたい」といった指摘があった。玄作戦詳細は以下のとおり。 1944年(昭和19年)11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜、伊37潜、伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が、回天特攻の初陣である。菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地を、伊37潜はパラオのコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指したから11月20日にかけて決行された。20日、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(残3基は故障で発進不能)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。しかし、伊47潜の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊47潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。 伊36潜は、4時15分発進予定地点のマーシュ島105度9分5浬に到着。3基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが4時54分に発進した。同じ頃にプグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁に座礁して、後に機密保持のために自爆しているが、アメリカ軍の記録によれば、うち1基は故障で海上を漂流中のところを哨戒機が発見して撃破したとされている。 湾外で回天とアメリカ軍艦隊の戦闘が起こった数分後の5時45分、湾内のタンカーの停泊地に停泊していたシマロン級給油艦のミシシネワに回天1基が命中した。ミシシネワには重油85,000バレル、ディーゼル油9,000バレル、航空燃料405,000ガロンが満載されていたのでオレンジ色の炎と煙が天に高々と舞い上がり、周辺数海里離れたところからもこの火柱を見ることができた。30秒後に搭載していた航空燃料が誘爆し猛火災となって、最後は武装の38口径5インチ単装砲の砲弾薬庫も誘爆し、消火もままならないまま1時間15分後に転覆して、さらに1時間後に完全に海中に没した。燃えている海上には多数の水兵が投げ出されたが、水上機が水上滑走して、機体後部から曳航したロープに水兵を掴まらせて救助するなどの懸命の救助活動が行われたが、63名が艦と運命を共にし、大量の貴重な燃料油が失われた。 ミシシネワに回天が命中する少し前に、軽巡洋艦モービル (USS Mobile, CL-63) が特殊潜航艇と覚しき目標を発見し発砲した。そのため環礁内は大混乱に陥り、停泊していたあらゆる艦艇がまだ見ぬ目標に向けて発砲をはじめ、100基以上の探照灯が煌々と環礁内を照らした。ちょうどそのころに10,000m離れたタンカー泊地で大爆発が起こり、混乱は一層増長された。6時00分頃、残った1基の回天がモービルに向けて突入してきたが。これは米設網艦(USS Winterberry, AN-56)が、8時58分に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、通報したものである。この報告を受けて、米護衛駆逐艦(USS Conklin, DE-439)、(USS McCoy Reynolds, DE-440)が9時55分に現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。午後も捜索を続けたのち、15時4分にコンクリンが探知し、レイノルズが15時39分にヘッジホッグで13発を発射したが効果なく失探、16時15分にコンクリンが再度探知して攻撃したところ、「小さい爆発音(命中音と思われる)らしきもの1」を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近したところ、17時1分に海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。以後は反応無く、撃沈と判定された。伊37潜の乗員と隊員は全員戦死と認定された。
◇菊水隊編成 :
 菊水隊  伊36潜  1944.11.8  ウルシー北泊地  4基-1基  
 菊水隊  伊37潜  1944.11.8  パラオ・コッソル水道  4基-1基  11.19沈没
 菊水隊  伊47潜  1944.11.8  ウルシー南泊地  4基-4基  


◎ 回天特別攻撃隊金剛隊
この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になった。生還した伊三六と伊四七の報告を元に研究会が開かれ、潜水艦3隻の喪失と米軍の対抗策を予想して泊地攻撃への懸念が表明されたが、上層部は聞き入れなかった。当山全信海軍少佐(伊四八艦長)の抗議に、艦隊司令部は「精神力で勝て」と命令している。第二次玄作戦は。参加潜水艦は6隻(伊36、伊47、伊48、伊53、伊56、伊58)、連合艦隊は電令作第448号をもって第二次玄作戦開始を命じる。 12月21日に伊56(目標地点アドミラルチー諸島ゼアドラ―港)、12月25日に伊47(フンボルト湾)、12月30日に伊36(ウルシー)と伊53(コッソル水道)と伊58(グアム島アプラ港)、翌年1月9日に伊48(ウルシー)が、それぞれ内海西部を出撃した(油槽船1隻・巡洋艦1隻・大型輸送船2隻轟沈)となった。
◇金剛隊編成。しかしアメリカ海軍も、侵攻部隊の輸送船団は厳重な泊地とは異なって日本軍潜水艦の格好の目標となることを懸念して、大西洋上でドイツ軍Uボート対策で絶大な効果を上げていた護衛空母と駆逐艦で編成されたで護衛していたので、見るべき戦果もなく回天を搭載した母艦が次々と撃沈されていった。アメリカ軍は硫黄島を攻略すると、4月1日には沖縄本島に上陸し沖縄戦が開始されて、その侵攻部隊に対しても回天部隊は出撃したが、より対策を強化したアメリカ軍艦隊相手には損害を重ねるだけとなった。 金剛隊以降、硫黄島や沖縄支援のために出撃した回天部隊は下記となる。
◇千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊編成。 この多聞隊は、海上において通商破壊を任務としており、各艦は沖縄と太平洋上のアメリカ軍各拠点を結ぶ補給線上でアメリカ軍船団を待ち構えていた。7月24日に伊53潜は戦車揚陸艦7隻、輸送艦1隻と護衛の護衛駆逐艦 アンダーヒル 他数隻で編成された船団を発見し、勝山淳中尉が搭乗する回天1基を射出した。まもなく護衛艦隊が回天を発見し爆雷攻撃を加えたが、護衛艦もパニックに陥っており、射出された回天は1基だったのにもかかわらず、何本も潜望鏡が見え、日本軍の特殊潜航艇数隻が攻撃してきたと誤認した。そのうち1つの潜水艇らしきものを発見したアンダーヒルは、衝突してその潜水艇を撃破しようと前進したが、勝山艇はアンダーヒルと衝突後に大爆発を起こして、アンダーヒルはあっという間に真っ二つになり、一瞬で10名の士官と102名の水兵が戦死した。アンダーヒルの艦体の前部はたちまち海没したが、残った後部はしばらく浮いていたため、他の艦の砲撃によって処分された。アンダーヒルの沈没は、日本軍潜水艦がフィリピン沖という外洋で積極的に作戦行動しているという衝撃的な情報であったが、なぜかこの情報がアメリカ海軍内で共有されることはなかった。 伊53潜はそのまま回天作戦を続行していたが、8月4日、不意に大量の爆雷攻撃を受けた。新兵器の三式探信儀で探索したところ、伊53潜が気づかないうちに半径1,000mで5隻の敵艦に包囲されていることが判明した。艦長の大場佐一大佐は、30mから回天の耐圧深度80mを超える100mまで艦を激しく上下させたり、艦を激しく左右に急旋回させて爆雷を回避するよう命じた。しかし投下された爆雷は100個以上となり、大場も今まで経験したことのない窮地に追い込まれた。搭載していた回天4基のうち2基も損傷により使用不能となったが、残る2基の搭乗員関豊興少尉と荒川正弘一飛曹が、このままやられるよりは、乾坤一擲、死中に活を求めたいと出撃を直訴し、大場も最後の望みと考え出撃を許可、2基の回天は頭上で爆雷攻撃中の敵艦に突入するという困難な任務となったが、2基のうちの1基がバックレイ級護衛駆逐艦の至近で爆発、同艦は主機関と舵取機が損傷し戦線離脱を余儀なくされ、伊53潜は窮地を脱することができた。 伊58潜は広島と長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、1945年7月30日にレイテ島へ単独航行中であった重巡洋艦インディアナポリスを発見、橋本以行艦長は敵艦は真っすぐに向かってきたことから、発見されたものと考え(実際には発見されていなかった)、攻撃後に即潜航することが必要と考えて、回天搭乗員の出撃要求を抑えて通常魚雷6本を発射、うち2~3本が命中してこれを撃沈した。 伊58潜はその後もこの海域に留まり、回天作戦を継続して、4基の回天を射出していた。8月12日には、ラッデロウ級護衛駆逐艦とアシュランド級ドック型揚陸艦(橋本は15,000トン級の水上機母艦と誤認)の船団を発見、橋本は残った2基のうち1基の回天(林義明一飛曹搭乗)の射出を命じた。オーク・ヒルは回天の潜望鏡を発見し、トーマス・F・ニッケルが攻撃に向かったが、回天はそのトーマス・F・ニッケルの側面に命中した。しかし、命中した角度が浅かったため信管が作動せず、林艇はトーマス・F・ニッケルの側面をこすったのちに、同艦から25m離れたところで爆発した。林が信管の起動スイッチを押して自爆したものと思われる。回天の慣性信管はしばしば同様に命中しても、角度が浅く起動しないことがあった。金剛隊の攻撃で損傷した輸送艦ポンタス・H・ロスも同様に回天が命中しながら、信管が起動せずに小破で止まっている。搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても突入と同時に信管が作動するよう自爆装置に腕をかけるなどしていたが、個々人の覚悟と工夫だけでは限界があった。九死に一生を得たトーマス・F・ニッケルであったが、受けた衝撃は大きく、なおも数基の回天が同艦を攻撃していると誤認して、2時間に渡って幻の回天相手に転舵と回避を繰り返しながら、爆雷を投下し続けるという独り相撲を取り続けたが、船団に被害はなかった、アメリカ軍からも、戦争終結前の日本海軍の大きな成功と評された。
◇多聞隊編成
・ 回天による攻撃(発進49基=搭乗員)
・撃沈 :
  1944年11月20日    ミシシネワ    武装タンカー    ウルシー      63      95    満載していた、艦艇用重油5,000バレル、ディーゼル油9,000バレル、航空燃料405,000ガロンも海没
  1945年1月12日    LCI(L)-600 (歩兵揚陸艇)   歩兵揚陸艇    ウルシー      3      0   
  1945年7月24日    アンダーヒル    護衛駆逐艦    フィリピン      112      約100    命中したのは多門隊伊53潜・勝山淳中尉(没後少佐)の回天
  合計      3隻            178名      195名   

・損傷 :
  1945年1月21日   ポンタス・H・ロス   リバティ型輸送艦    ホーランディア      0      0    回天が左舷3番船倉に衝突し、直径22cmほどの凹みができた。その後回天は海面上を滑って離れ、側面を回って船首前方右舷寄りに90m離れてから大爆発した。爆発は激しかったが、船体の損傷は軽微であった
  1945年1月21日       弾薬輸送艦    ウルシー      8      13    36m離れた所で回天が至近爆発、その衝撃で艦体に亀裂が入り危うく沈没するとこであったが、5,300トンも搭載していた弾薬が誘爆せず、また3番船倉から後ろが無事であったことにより浮力が残ったため沈没は免れた。修理に半年を要する深刻な損傷であった
  1945年6月27日       輸送艦    サイパン島の東方      0      11   伊165潜が発射した回天との戦闘中に乗組員が負傷
  1945年8月4日       護衛駆逐艦    エンガノ岬沖      0      0   母艦伊53潜が同艦から爆雷攻撃を受けているときに、反撃として発射した回天関豊興少尉艇もしくは、荒川正弘一飛曹艇が水中で爆発、その衝撃で機関が損傷して落伍、母艦伊53潜は無事に生還した
  合計      4隻            8名      24名   

・回天作戦中の母艦の雷撃による戦果。 :
  1945年6月24日       ドック艦    サイパン島沖      0      11    上陸用舟艇の修理艦。3本の魚雷が艦下を通過したが、うち1本が爆発し操舵不能の損傷
  1945年7月30日    インディアナポリス    重巡洋艦    フィリピン海      883      約300   原爆の部品運搬任務後レイテ島へ単独航行をしていたところを、回天作戦中の伊58潜の通常雷撃により撃沈。伊58潜は回天ではなく通常の魚雷を6本発射し3本が命中、わずか12分で沈没した。インディアナポリスマクベイ艦長は、危険水域でのジグザグ航行を怠り艦を危険に晒した罪で軍法会議にかけられたが最終的に無罪となった。しかし、1968年に妻に先立たれた寂しさや、インディアナポリスで戦死した兵士の遺族からの辛辣な手紙や電話に思い悩んで拳銃自殺している
  合計      2隻            883名      311名  
回天作戦により、回天搭乗員80名が作戦中に戦死、母艦の潜水艦も8隻を損失しており、その損害に対して戦果は期待外れであった。しかし、アメリカ軍は回天を過大評価しており、菊水隊によるウルシー攻撃の際にウルシーに滞在していた第38.3空母群司令フレデリック・C・シャーマン少将は「我々は一日終日、そして次の日も、今にも爆発するかもしれない火薬庫の上に座っている様なものだった。」と、当時のアメリカ軍の回天への警戒ぶりを率直に述べており、また、8月12日に回天と最後の戦闘をした駆逐艦トマス・F・ニッケルの艦長C・S・ファーマー少佐は、回天による巧みな戦闘ぶりに、母艦が回天をソナーの捜索範囲外からコントロールしているものと信じて疑わなかった。沖縄戦時に第1戦艦戦隊司令官であったジェシー・B・オルデンドルフ中将は、回天との戦闘経過の報告を受けて「戦いを継続していく上で回天は最大の脅威となっていた」と考えた。 吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、アメリカ軍をこれだけ恐れさせた回天であるのに戦果が少ないので、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいると指摘している。アメリカ軍の全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているもの。 なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) を撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にペンシルベニアが受けた被害は1945年(昭和20年)8月12日の夜間雷撃によるものだった。ペンシルベニアは戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発に耐えたのち、1948年2月10日に沈没した。 当時の日本軍側は回天発射後の母艦からの潜望鏡による火柱、爆煙の目視、爆発音の聴取など間接的な形でしか戦果を観察できず、そこに「発進から30分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚」や「燃料の切れる1時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い」など推定を多く重ねざるを得ず、戦果報告は現実とかけ離れたものにならざるを得なかった。例えば伊58潜の橋本以行艦長は、回天作戦に従事した時には潜水艦長勤務が3年に及ぶベテランであったが、インディアナポリス撃沈時には目標艦が酸素魚雷3本を被雷しながらしばらく沈まなかったことを考慮し「アイダホ型戦艦撃沈」と報告している。さらに8月12日の回天戦では発進後44分後に爆発と黒煙を確認、1万5000トン級水上機母艦を撃沈したと報告している。

● 部隊


◎ 搭乗員
海軍兵学校、海軍機関学校出身者は加賀谷武大尉(兵71)、帖佐裕大尉(兵71)、久住宏中尉(兵72)、河合不死男中尉(兵72)、村上克巴中尉(機53)、福田斉中尉(機53)、都所静世中尉(機53)、豊住和寿中尉(機53)、川崎順二中尉(機53)が、潜水学校11期卒業と同時に志願して回天隊に参加。以上は黒木、仁科が最初に何らかの形で接触をはかった者と思われる。上別府宜紀大尉(兵70)、樋口孝大尉(兵70)は特四内火艇で竜巻作戦中止の後、回天作戦に参加。近江誠大尉(兵70)、三谷與司夫大尉(兵71)、橋口寛中尉(兵72)も回天と同様の特攻兵器の意見書を提出後、参加。それ以外は指名による(本人の配属希望を考慮し選考)。 予備士官、予科練出身者は募集。ただし、作戦は奇襲で、軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な事柄には一切触れられなかった。募集要綱には「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」、「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。それ以上の説明は口頭でなされた。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者を基準に100名が選抜された。 なお、最初期に着任した搭乗員は以下の34名である。 黒木博司(機51・戦死)、樋口孝(兵70・戦死)、上別府宣紀(兵70・菊水隊)、仁科関夫(兵71・菊水隊)、加賀谷武(兵71・金剛隊)、帖佐裕(兵71・第三回天隊◎)、久住宏(兵72・金剛隊)、河合不死男(兵72・第一回天隊)、石川誠三(兵72・金剛隊)、川久保輝夫(兵72・金剛隊)、吉本健太郎(兵72・金剛隊)、福島誠二(兵72・多々良隊)、土井秀夫(兵72・多々良隊)、柿崎実(兵72・天武隊)、小灘利春(兵72・第二回天隊◎)、福田斉(機53・菊水隊)、村上克巴(機53・菊水隊)、都所静世(機53・金剛隊)、豊住和寿(機53・金剛隊)、川崎順二(機53・千早隊)、宇都宮秀一(東大・菊水隊)、今西太一(慶大・菊水隊)、近藤和彦(名古屋高工・菊水隊)、佐藤章(九大・菊水隊)、渡辺幸三(慶大・菊水隊)、原敦郎(早大・金剛隊)、工藤義彦(大分高商・金剛隊)、前田肇(福岡第二師範・天武隊)、池淵信夫(大阪日大・轟隊)、小林好久(長岡工業専門・戦死)、藤田克己(予・多聞隊◎)、永見博之(予・第五回天隊◎)、上杉正俊(予・転属)、松岡俊吉(予・転属)。(注・予=予備士官で出身校不明、◎=生還) 1988年(昭和63年)2月の回天名簿によると、最終的には兵学校・機関学校122名、予備士官244名、兵科下士官10名、予科練1050名の、計1426名(うち転出51名)が着任した。 著名人には、 小灘利春(「全国回天会」会長)、河崎春美(全国回天会事務局長)、帖佐裕(軍歌「同期の桜」作詞者)、山地誠(旧姓近江)(晩年出家し回天戦没者追悼の旅をする)、横田寛(『ああ回天特攻隊』著者)、園田一郎(元三菱商事副社長)、上山春平(哲学者、京都大学名誉教授)、武田五郎(元大洋ホエールズ球団社長)がいる。また、予備士官出身で戦死した塚本太郎は、学徒出陣に際して残した肉声のレコードが戦後公表されたことで知られる。 終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、1,375人であったが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に死亡した者は15名、終戦により自決した者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になった。訓練中の死者は特攻兵器の中で最も多い。 :なお、以前の展示品などは、回天記念館と同じ住所の休憩所「養浩館」に展示されている。そちらでは体験談を聞くことができる。発射練習基地はそのほとんどが破壊され、大方の輪郭のみ残っているものの一部老朽化が進み、立ち入り禁止になっている。通称「ケイソン」と呼ばれている。
◇基地回天隊 :回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われ、また敵の本土上陸が現実問題となってきたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された。 :第一回天隊8基および搭乗員、整備員、基地員の全127名は1945年3月に第十八号輸送艦で沖縄に向け進出したが、同18日に沖縄南西の慶良間諸島付近で米潜水艦「スプリンガー」に撃沈され全滅(推定)した。第二回天隊8基は1945年5月に伊豆諸島の八丈島の2ヶ所の収容壕に配備され、敵艦隊の接近を待ったが、出撃する機会なく終戦を迎えた。その後アメリカ軍命令で壕ごと爆破処理されたが、現在は壕は発掘され、説明看板が立てられている。 :そのほか、第三・第五・第八・第九回天隊は宮崎県、第四・第六・第七回天隊は高知県、第十一回天隊は愛媛県、第十二回天隊は千葉県、第十六回天隊は和歌山県に配備され、いずれも敵の上陸予想地点を射程内に捕らえる場所にあった。
◇一覧 : :
 光突撃隊     S19年11月25日    山口県光
 平生突撃隊     S20年3月1日    山口県平生
 大津島分遣隊    S19年9月1日    山口県大津島
 大神突撃隊  山田 盛重  S20年4月20日  回天16基(終戦時)  大分県大神
 01回天隊  河合 不死男    回天8基(配備前に喪失)  沖縄県沖縄本島
 02回天隊  小灘 利春    回天8基  東京都八丈島
 03回天隊  羽田 育三    回天8基  宮崎県油津
 04回天隊  近江 誠    回天8基  高知県須崎湾
 05回天隊  永見 博之    回天7基  宮崎県大堂津・栄松 (宮崎県)  南郷町 (宮崎県)  栄松南郷
 06回天隊  那知 勤    回天8基  高知県浦戸湾
 07回天隊  櫻井 勝    回天8基  高知県浦戸湾・高知県須崎湾
 08回天隊  井上 薫    回天12基  宮崎県細島
 09回天隊  重岡 力    回天6基  宮崎県内海
 10回天隊  佐賀 正一    回天4基  鹿児島県内ノ浦
 11回天隊  久堀 弘義    回天8基  愛媛県麦ヶ浦
 12回天隊  峯 眞佐雄    回天6基(未配備)  千葉県小浜
 13回天隊  未展開      静岡県網代
 14回天隊  未展開      神奈川県小田和湾
 15回天隊  未展開      愛知県大井
 16回天隊  武永 惟雄    回天4基(未配備)  和歌山県由良白崎
 17回天隊        展開先未定
 18回天隊        展開先未定


● 各型

◇一型 : :艇後半の機関部を九三式酸素魚雷から流用して作製。他に一型を簡素化して量産性を高めた一型改一および一型改二がある。 :一型は130基程度生産し、その後は二型に切り替える予定だった。だが二型や改良型の生産遅延により、一型は各種約420基生産された。 :
・ 全没排水量:8.30 t :
・ 全長:14.75 m :
・ 直径:1.00 m :
・ 軸馬力:550 馬力 :
・ 速力/射程:12kt / 78,000 m、20 kt / 43,000 m、30 kt / 23,000 m :
・ 最低航行速度:3 kt :
・ 乗員:1 名 :
・ 炸薬:1.55 t :
・ 安全潜航深度:80 m :
◇二型 : :遣独潜水艦作戦により伊号第八潜水艦がドイツより持ち込んだ新型機関を基礎に、過酸化水素と水化ヒドラジンを燃料とする機関(六号機械)を搭載して40ノットの高速を狙った大型タイプ。 :六号機械の開発が難航し、量産されることなく終戦を迎えた。本来ならば、この二型が回天の主軸を担うはずであった。 :
・ 全没排水量:18.38 t :
・ 全長:16.50 m :
・ 直径:1.350 m :
・ 軸馬力: :
・ 速力/射程:20kt / 83,000 m、30 kt / 50,000 m、40 kt / 25,000 m :
・ 最低航行速度: :
・ 乗員:1 名 :
・ 炸薬: :
・ 安全潜航深度:
◇四型 : :機関に二型と同じ六号機械を使用し、燃料のみ一型と同じ酸素と灯油に変更したタイプ。二型と同じく六号機械の開発難航により量産されなかった。生産台数は6基という。 :
・ 全没排水量:18.17 t :
・ 全長:16.50 m :
・ 全幅:1.35 m :
・ 速力/射程:20kt / 62,000 m、30 kt / 38,000 m、40 kt / 27,000 m、 :
・ 炸薬:1.8 t :
◇十型 : :九二式電池魚雷を中央部で切断し、操縦室を挿入した簡易型回天。航続距離、速力とも低く航行中の艦船を襲撃することは不可能だったが、酸素魚雷転用の一型では不可能な機関停止による待機や、逆転による後進が可能で運用の柔軟性が増すと期待されていた。 :生産が間に合わず、実戦に参加することなく終戦を迎えた。 :

● 現存する回天(実艇)

◇一型 :靖国神社の遊就館に一型改一が展示されている。後部の機関部分は復元であるが、外部に取り付けられた複雑な構造物やパーツなどが緻密に復元されている。 :アメリカワシントン州キーポートの海軍潜水艦博物館に一型改一が収蔵されている。世界中で現存する回天一型(改一)の実艇は、この二艇だけである。
◇二型 :平生町歴史民俗資料館(山口県)に中部胴体(操縦室と後部浮室)が残されている。
◇四型 :靖国神社遊就館に中部胴体(操縦室と後部浮室)が展示されている。
◇十型 :呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に試作型の実艇が展示されている。同館の解説によれば「湯豆腐嵯峨野」から寄贈されたという。 :

● 主題にした作品


◎ 映画

◇ 『潜水艦ろ号 未だ浮上せず』
◇ 『人間魚雷回天』
◇ 『人間魚雷出撃す』
◇ 『潜水艦イ-57降伏せず』
◇ 『海軍兵学校物語 あゝ江田島』
◇ 『南太平洋波高し』
◇ 『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』
◇ 『出口のない海』
◇ 『真夏のオリオン』

◎ 舞台

◇ 『逆鱗』

◎ テレビドラマ

◇ テレビ指定席『魚住少尉命中』
◇ 『風たちの遺言』
◇ 『僕たちの戦争』 : 後述の荻原浩の同名小説をドラマ化。

◎ 音楽

◇ 混声合唱組曲『滄海よ うたって -人間魚雷 回天』 : 原詩:車木蓉子、作曲:新実徳英)
◇ 『あゝ回天』 : 作詞:山門芳馨/作曲:長津義司/歌唱:山田実
◇ 『回天の母 お重さん』 : 歌唱:市川昭介
◇ 『回天の母〜人間魚雷〜』 : 作詞:歌川二三子/作曲:三好章夫/歌唱:歌川二三子

◎ 小説

◇ 『出口のない海』
◇ 『僕たちの戦争』

◎ 漫画

◇ 『特攻の島』
◇ 『出口のない海-人間魚雷回天特攻作戦の悲』 : 横山秀夫の小説を漫画化。
◇ 『人間魚雷回天』
◇ 『ゴルゴ13』 : 回天を小型潜水艇に改造し、海賊退治に使用した。
◇ 『金田一少年の事件簿R』 : ファイル46「聖恋島殺人事件」

「回天」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年4月16日21時(日本時間)現在での最新版を取得

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