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出雲 阿国(いずも の おくに、元亀3年(1572年) - 没年不明(1613年没とも))は、日本における安土桃山時代、江戸時代前期の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を経て、現在の大歌舞伎とチンドン屋が出来上がったとされる。
一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い。
お国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていたという可能性も否定できない。
なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、彼女が伝説化してから広まったものと考えられる。
● 生涯
出雲国杵築中村の里の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。
慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられているによれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。
当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張るに至った。
北野天満宮の祠官松梅院の僧禅昌は、阿国の芸と人物に対する最も理解のある有力な庇護者であった。
慶長8年(1603年)5月6日に女院(新上東門院)御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。
没年は、慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。出雲に戻り尼になったという伝承もある。
出雲大社近く、生家の中村家の墓の隣に出雲阿国の墓がある。また、京都大徳寺の三玄院にも同様に阿国のものといわれる墓があり、夫であった名古屋山三の墓と共に並んで供養されている。なお、旧暦4月15日(現在では新暦4月15日とも)が「阿国忌」といわれている。
● 阿国の与えた影響
お国一座は京都での人気が衰えると江戸を含め諸国を巡業したが、
かぶき踊は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった、江戸幕府が、風紀紊乱の取り締まり、寺社で既に徹底されていた女人禁制との整合性、および、江戸時代になって制度としても全面的に強くなり始めていた男尊女卑(女性差別)の傾向から、女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされる
「出雲阿国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2025年1月30日23時(日本時間)現在での最新版を取得
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