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興福寺


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興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。

● 歴史


◎ 創建
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。 和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。 その後も、天皇や皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。

◎ 南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)に隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。 しかし、興福寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火、落雷により七度も焼失している。中でも永承元年(1046年)12月24日の大火では北円堂を残して全山が焼失している。治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による被害も甚大で、東大寺と共に大半の伽藍が焼失した。 この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走し、朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。 鎌倉時代や室町時代には武士の時代になっても大和武士 と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。また、江戸幕府からも寺領2万1,000石を認められた。 江戸時代の享保2年(1717年)にまたしても大火災が発生し、中金堂、西金堂、講堂、南大門などが焼失した。しかし、時代背景の変化もあって再建資金を捻出できず、大規模な復興はなされなかった。その後、約100年たった文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によって仮堂ではあるがようやく中金堂が再建された。

◎ 近現代
慶応4年(1868年)に神仏分離令が出された。1871年(明治4年)から一乗院は奈良県庁となり、中金堂の方も警察署や奈良県庁、郡役所として使用されていたが、1883年(明治16年)に興福寺に返還されている。 1880年(明治13年)2月14日に旧興福寺境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった。一乗院跡は現在は奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔と三重塔も売りに出されていた。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手が付いたといわれ、当初買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうと考えていたというが、延焼を心配する近隣住民の反対で考えを変えたという。また延焼の心配だけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。しかし、五重塔売却の話自体が伝承の域を出ないという説もある。 1881年(明治14年)2月9日、興福寺の再興が許可されたと南大門の再建が計画され、中金堂は2018年(平成30年)10月に落慶法要を迎えた(7日 - 11日)。中心部の巨柱は国内で檜の大木が入手しにくく、宮大工棟梁の提案でカメルーン産欅を取り寄せて使用した に限っては、例外的に一乗院門跡と大乗院門跡の双方を、他の幾つかの院家と共に兼帯している。また、両門跡に属する門主以外の者が別当に就任した例もある。 また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職については諸説ある。別当が権限を有していた説、両院の門主が共同で権限を行使していたとする説、門主が別当の時は別当が全権を行使し、それ以外の者が別当の時は別当と両院が共同で権限を行使していたとする説である。江戸時代には世俗的権力を失い、江戸幕府から一定の知行、一乗院が1,492石と大乗院が951石、を与えられた単なる寺院となった。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となった。

● 中金堂
2018年(平成30年)10月再建。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、1959年(昭和34年)の国宝館の開館までは、高さ5.2メートルの千手観音立像をはじめ、国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価な松材が使用され、瓦も安物が使われており、経年による雨漏りは年々ひどくなっていった。そこで、仏像への雨漏り被害を防ぐために1974年(昭和49年)11月23日に中金堂北側の講堂跡地に仮金堂(現・仮講堂)として薬師寺の旧金堂を移築し、本尊の釈迦如来坐像などがそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年(平成12年)に解体された。その後、中金堂解体後に発掘調査が行われ、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内各所の整備が始められた。創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2017年(平成29年)、翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を早くも中金堂に移し、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した、2017年(平成29年)までは南円堂に安置されていた。南円堂本尊の不空羂索観音像と同様、本四天王像も運慶の父・康慶一門の作であると長らく信じられていたが、藤岡穣が1990年(平成2年)に発表した論考で、当時の中金堂(仮金堂)に安置されていた現・南円堂安置の四天王像が、元から南円堂にあった康慶作の像であると指摘して以降、これが定説となった。本四天王像は2017年(平成29年)に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に、康慶作の四天王像と入れ替わる形で中金堂に移された。

● 東金堂
国宝。応永22年(1415年)再建。5代目。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。西国薬師四十九霊場第4番札所。東金堂は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵・東金堂衆は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)にあった天武天皇14年(685年)に蘇我倉山田石川麻呂の冥福を祈って造立されたものと思われる講堂の本尊・薬師三尊像を強奪し、それを新たな東金堂の本尊として安置した。東金堂はその後、応永18年(1411年)に五重塔と共に焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建となる室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置する。
・ 銅造薬師三尊像(重要文化財) - 中尊は応永18年(1411年)の火災後の再興像で室町時代の作。脇侍の日光菩薩像・月光菩薩像は応永の火災の際に救出されたもので、奈良時代の作である。
・ 木造維摩居士坐像(国宝) - 本尊薬師如来像の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196年)、定慶の作。維摩は大乗仏教の重要経典の一つである『維摩詰所説経(維摩経)』に登場する伝説上の人物で、在家仏教徒の理想像とされる。興福寺では山階寺の創建直後に藤原鎌足が維摩経を講賛・供養する維摩会を始めさせ、以後、最重要の法会の一つとして現在に至るまで毎年10月に執り行われている。その経緯などから維摩は藤原氏の篤い信仰を集め、また興福寺においても特に重要な存在と見なされている。実在の老人のようにリアルに表現されている。
・ 木造文殊菩薩坐像(国宝) - 本尊薬師如来の向かって右に安置され、上記維摩居士像と対を成す。作者は不明だが、維摩像と同じ頃、定慶の手になるものと推定される。維摩経のクライマックスにあたる文殊と維摩の問答の場面を表現したものである。
・ 木造四天王立像(国宝) - 堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像。
・ 木造十二神将立像(国宝) - 薬師如来を守護する12の眷属の像。鎌倉時代、建永2年(1207年)頃の作。各像のダイナミックな姿勢と12体の個性を彫り分けた群像表現が見所である。

● 五重塔
国宝。応永33年(1426年)再建。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。 1905年(明治38年)7月には三重目の東北隅肘木に落雷が命中し黒煙をはくが、大事には至らなかった。これにより、1907年(明治40年)8月に避雷針を設置している。

● 北円堂
国宝。承元4年(1210年)再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である。西国三十三所第9番札所。南円堂は藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のために弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。堂は西国三十三所第9番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである(2002年(平成14年)秋、2008年(平成20年)秋、2013年(平成25年)春に特別開扉が行われた)。堂内には本尊である不空羂索観音坐像の他、四天王立像と法相六祖像を安置する。堂の前に生える「南円堂藤」は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。
・ 木造不空羂索観音坐像(国宝) - 運慶の父・康慶一門の作で、文治5年(1189年)に完成。坐像で高さ336センチの巨像である。
・ 木造四天王立像(国宝) - 元々南円堂にあったもの。その後、仮金堂に移されていたが、2017年(平成29年)に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に南円堂に戻された。
・ 木造法相六祖坐像(国宝) - 運慶の父・康慶一門の作。玄賓、行賀、玄昉、神叡、常騰、善珠という、法相宗の6名の高僧の肖像。(※右列に伝・行賀像の画像あり)

● 国宝館
文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、1959年(昭和34年)に食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート構造であるが、外観は創建時の食堂と細殿、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。2010年(平成22年)3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えた。文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになった。その後、2017年(平成29年)1月から12月までの1年間休館して耐震改修工事を施工、2018年(平成30年)1月に再度リニューアルした。館長には小西正文や金子啓明が歴任し、現在は当山貫首が兼務している。詳細は興福寺の仏像を参照。
・ 乾漆八部衆立像(国宝) - 奈良時代の作。もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。五部浄、沙羯羅(しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存するが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が著名である。(※右列に阿修羅像の画像あり)
・ 乾漆十大弟子立像6躯(国宝) - 奈良時代の作。八部衆像と共に、西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の一つである。当然ながら制作当初は10体の群像であったが、4体は明治時代に寺外へ流出し、舎利弗、目犍連(もくけんれん)、須菩提、富楼那、迦旃延、羅睺羅(像名はいずれも寺伝による)の6体のみが寺に現存する。寺外に流出した4体は、明治時代の古写真に写っているがいずれも破損が激しい。これら4体のうち、大倉集古館旧蔵の1体(伝・優波離像)は関東大震災で焼失した。他の3体は以下の所蔵先に現存するが、いずれの像も原形を留めていない。
 ・ 伝・阿難像(個人蔵) - 1922年(大正11年)に武藤山治が菅原大三郎に修理させたもの。像は大破しており、多くの欠失部分を補って復元されたものとされるが、詳細不明。2014年(平成26年)3月にニューヨークで行われたクリスティーズのオークションに出され66万5千ドルで落札された。
 ・ 伝・大迦葉像(大阪市立美術館蔵) - 旧田万コレクション。頭部のみ残存。
 ・ 像名不詳心木(東京藝術大学大学美術館蔵) - 両足先と衣の裾の部分がかろうじて残存する。像名不詳心木
・ 銅造仏頭(国宝) - 旧山田寺仏頭。白鳳時代の作で頭部のみ残っているが、白鳳文化を代表する作品である。元は飛鳥の山田寺(現・奈良県[桜井市)講堂の本尊・薬師三尊像の中尊像で、興福寺の僧兵が略奪してきたものである。薬師三尊像は東金堂本尊として祀られていたが、室町時代に火災に遭い、両脇侍像は助け出されたが中尊像は頭部だけがかろうじて焼け残った。この火災により、左耳付近が大きく変形している。この頭部は新しく作った本尊像の台座内に納められて長らく人目にふれず、1937年(昭和12年)に再発見された。この時には他に、類例の少ない銀製の仏像の腕(重要文化財)も発見されている。(※右列に仏頭の画像あり)
・ 木造仏頭(重要文化財) - 廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。鎌倉時代の作。頭部のほかに両手の一部、光背を飾っていた飛天像と化仏(小型の仏像)も残っている。従来、運慶の父・康慶の兄弟子・成朝の作とされていたが、近年、興福寺別当(住職)信円の日記の記述から、文治2年(1186年)1月に運慶によって作られたとする説が有力となっている。
・ 木造金剛力士立像(国宝) - もと西金堂安置。鎌倉時代の作。定慶作とする説もある。(※右列に画像あり)
・ 木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝) - もと西金堂安置。大きな燈篭を天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した鎌倉期彫刻の傑作である。龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215年)の作で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われる。(※右列に画像あり)
・ 木造千手観音立像(国宝) - もと食堂(じきどう)本尊。現在は、食堂跡地に建つ国宝館の中央に安置される。高さ5.2メートルの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229年)頃の完成と推定される。この千手観音像は記録によると造像開始から完成まで4半世紀の歳月を要した。当初の造像担当者であった成朝は運慶の父・康慶の兄弟子にあたり、康慶よりも正当な慶派の後継者であった。しかし成朝は病弱であったため千手観音像の制作途中で亡くなったと推定されている。その後放置されていたものが何らかの理由で制作が再開され、別の仏師の手により完成された。像の部材は制作が中止されている間風雨に晒されていたらしく、内部の木肌は酷く痛んだ状態であった。
・ 板彫十二神将像(国宝) - 平安時代11世紀半ばの作。日本では珍しい檜板に浮き彫りで制作された仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。12面完存している。像容は誇張的にデフォルメされており、武神像でありながらどこかユーモラスな雰囲気が漂う。厚さ3cmほどの板に彫られたとは思えないほど立体感と奥行きが感じられ、特に顔や手足の筋肉は微妙な段差と起伏によって巧みに表されており、作者の高い技量を見て取ることができる。10世紀末期に活躍した画僧・玄朝(源朝)の図様を元に制作された。江戸時代の文献には、この板彫を指すと見られる十二神将像が東金堂にあったという記載があるが、それ以前の伝来については解っていない。十二神将は薬師如来を守護し、仁和寺の薬師如来坐像の台座には十二神将を彫った作例があることから、元々は薬師如来像の台座側面に貼られていたと推測される。
・ 金銅燈籠(国宝) - 南円堂前に立っていた銅製の燈籠で、現在は国宝館に展示されている。平安時代初期の弘仁7年(816年)の銘があり、紀年銘のある燈籠としては日本最古のものである。火袋の文字は当代の書道史の遺品としても貴重。

● 伽藍
かつての興福寺には、中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)という3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像を安置していた。寺の中心部には、南から北に、南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には、南から、五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には、南から、南円堂(なんえんどう)、西金堂、北円堂(ほくえんどう)が建っていた。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は創建以来火災に度々見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治時代以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。「興福寺の仏像」も参照。
・ 中金堂 - 2018年(平成30年)10月再建。解説は既述。
・ 経蔵跡 - 基壇が復元されている。
・ 鐘楼跡 - 礎石が残っている。
・ 廻廊跡 - 基壇が復元されている。
・ 中門跡 - 基壇が復元されている。
・ 仮講堂 - 仮講堂の建物は元は薬師寺の金堂で、慶長5年(1600年)に増田長盛によって建てられたものである。薬師寺に新たな金堂が建てられるために撤去されることとなったので、1974年(昭和49年)11月23日に屋根を入母屋造から寄棟造にし、向拝を撤去するなどの大改造を行って当寺の講堂跡の地に仮金堂として移築された。その後、老朽化していた中金堂の本尊・釈迦如来坐像などを移し、長らく仮金堂としての役目を負っていた。2000年(平成12年)に老朽化した中金堂を解体し、2018年(平成30年)10月に中金堂を再建すると、仮金堂は仮講堂と名称を改めて国宝館にあった阿弥陀如来坐像を新たな本尊として安置した。
 ・ 梵鐘(国宝) - 奈良時代、神亀4年(727年)の銘がある。制作年の分かる梵鐘としては妙心寺鐘(698年)に次いで、日本で二番目に古い。現在は仮講堂に所在。
・ 東金堂(国宝) - 応永22年(1415年)再建。解説は既述。
・ 五重塔(国宝) - 応永33年(1426年)再建。解説は既述。
・ 放生池 - 五重塔の横にある。
・ 西金堂跡 - 西金堂は光明皇后が、母・橘三千代の一周忌に際し、釈迦三尊像を安置する堂として天平6年(734年)に創建した。平安時代に2回、鎌倉時代に1回被災したが、その都度再建されてきた。その後、江戸時代の享保2年(1717年)1月4日に講堂からの出火によって中金堂や南円堂と共に焼失した。この時は資金難の為に再建は叶わず、基壇を残すのみという状態になってしまった。そうして今は西金堂跡として往時を偲ぶばかりとなっている。ただ、堂内に納められていた寺宝には焼失を免れて今日まで伝えられているものが少なくない。釈迦如来像(伝・運慶作。体部は焼失し、今は頭部のみが国宝館に安置されている)、両脇侍像(薬王菩薩像と薬上菩薩像。今は中金堂に両脇侍像として安置)、梵天・帝釈天像(奈良時代の作。明治時代に国外へ流出し、今は米国サンフランシスコのが所蔵)、十大弟子像(奈良時代作。今は10躯中の6躯を国宝館などに安置)、八部衆像(奈良時代の作。今は国宝館に安置)、金剛力士像(伝。定慶作。今は国宝館に安置)、四天王像(所在不明)、華原磐(「かげんけい」と読む銅製楽器で、奈良時代の作。今は国宝館に安置)などがそれである。
・ 興善院 - 子院。
 ・ 一言観音堂 - 南円堂の横にある。南都七観音巡拝所の一つ。
・ 不動堂 - 不動明王坐像などの他に西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊を模した33体の観音像を祀る。
・ 額塚 - 茶臼山と呼ばれる塚。かつて南大門には興福寺の山号であった「月輪山」と書かれた額が掲げられていたが、不思議なことが多々発生し、結局月輪という字が良くないとされてその額がここに埋められ、不思議なことも治まった。それ以来、興福寺は山号自体をなくしてしまった。
・ 南円堂(重要文化財) - 寛政元年(1789年)再建。解説は既述。
・ 鐘楼
・ 興福寺会館
・ 三重塔(国宝) - 鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である。跡地には、1959年(昭和34年)になって寺宝を納める耐火式宝物庫「国宝館」が建設された。食堂と細殿の遺構は国宝館の地下にそのままの形で保存されている。
・ 国宝館 - 1959年(昭和34年)築。解説は既述。
・ 南大門跡 - 基壇が復元されている。
・ 般若の芝 - 南大門基壇の南側に設けられている土壇。ここで興福寺薪御能が行われる。
・ 五十二段 - 南大門と猿沢池を結ぶ石段。菩薩五十二位に由来している。
・ 猿沢池 - 興福寺の南側にある池。かつては興福寺の放生池であった。
・ 本坊 - 境内東方に位置する。一般には公開されていない。
 ・ 大圓堂(持仏堂) - 明治時代建立。
  ・ 木造聖観音立像(重要文化財) - 大圓堂の本尊。鎌倉時代の作。一般には公開されていないが、1997年(平成9年)に東京国立博物館で開催された「興福寺国宝展」で初めて展示されたほか、2007年(平成19年)10月20日 - 11月25日に寺内で初めて公開された。寺伝では聖観音像とされているが、像内納入文書によれば本来は弥勒菩薩像として、建長5年(1253年)に仏師の快円によって作られたものである。
 ・ 庫裏
 ・ 南客殿 - 天正年間(1573年 - 1592年)建立。
 ・ 北客殿 - 嘉永7年(1854年)再建。東西に長い僧房・東室を模している。
 ・ 表門 - 天正年間(1573年 - 1592年)に建立された本瓦葺の四脚門を1907年(明治40年)に子院の菩提院から移築したもの。
・ 菩提院 - 子院。別名を「十三鐘」ともいう。五重塔の南、三条通りを渡ったところにあり、玄昉の創建だとされている。大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所。詳細は菩提院大御堂を参照。
 ・ 大御堂 - 本堂。天正8年(1580年)再建。1970年(昭和45年)に改築され、内陣は鉄筋コンクリート造とされた。本尊・阿弥陀如来坐像(重要文化財)などを安置する。
 ・ 鐘楼 - 梵鐘は永享8年(1436年)造。
 ・ 三作塚 - 死刑となった三作を祀る。
 ・ 庫裏
・ 大湯屋(重要文化財) - 五重塔の東方に建つ。応永33年(1426年)再建。平面は桁行四間、梁間四間。屋根は一重、本瓦葺で、西面を入母屋造、東面を切妻造とする。

● 文化財
現在の境内と合わせて奈良公園の一部にまたがる旧境内が国の史跡に指定されている。所有する国宝は27件になる。

◎ 国宝

◇(建造物)
・ 東金堂
・ 五重塔
・ 北円堂(附:旧内陣小壁8枚、銘札1枚)
・ 三重塔
◇(彫刻)
・ 木造文殊菩薩坐像(東金堂)
・ 木造維摩居士坐像 定慶作(東金堂)
・ 木造四天王立像(東金堂) ※右列に広目天像の画像あり。
・ 木造十二神将立像(東金堂) ※右列に伐折羅像と波夷羅像の画像あり。
・ 木造弥勒仏坐像 運慶作(北円堂) ※右列に画像あり。
・ 木造無著立像・木造世親立像 運慶作(北円堂)
・ 木心乾漆四天王立像(北円堂)
・ 木造不空羂索観音坐像 康慶作(南円堂) ※右列に画像あり。
・ 木造四天王立像(南円堂) - 2018年度国宝指定
・ 木造四天王立像(中金堂) ※右列に画像あり。
・ 乾漆八部衆立像 8躯(国宝館・旧西金堂)
・ 乾漆十大弟子立像 6躯(国宝館・旧西金堂)
・ 木造金剛力士立像 2躯(国宝館・旧西金堂)
・ 木造天燈鬼立像・木造龍燈鬼立像(国宝館・旧西金堂)
・ 木造法相六祖坐像 6躯 康慶作(南円堂)
・ 板彫十二神将像(国宝館・旧東金堂)
・ 銅造仏頭(国宝館・旧東金堂)
・ 木造千手観音立像(附:像内納入品)(国宝館・旧食堂)
◇(工芸品、書跡典籍ほか)
・ 金銅燈篭
・ 梵鐘
・ 華原磬 ※右列に画像あり。
・ 日本霊異記上巻 延喜四年書写奥書
・ 興福寺金堂鎮壇具(銀製鍍金唐花文鋺2口、銀製鍍金唐草文脚杯残欠1口、銀鋺7口、水晶念珠玉5箇、水晶玉類6箇) - 1884年(明治17年)に発掘された鎮壇具の大部分は東京国立博物館の所蔵になっている。興福寺所蔵分は銀器、水晶玉など21点。 ※右列に画像あり。 ※ 阿修羅像は「乾漆八部衆立像 8躯」のうちの1躯である。

◎ 重要文化財

◇(建造物)
・ 大湯屋
・ 南円堂
◇(彫刻)
・ 木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(中金堂)
・ 銅造薬師如来および両脇侍像(東金堂)
・ 木造阿弥陀如来坐像(菩提院大御堂)
・ 木造阿弥陀如来坐像(仮講堂)
・ 木造釈迦如来坐像(国宝館)
・ 木造薬師如来坐像・像内納入品(薬師経)(仮講堂)
・ 木造仏頭(附:仏手2箇)(国宝館・旧西金堂本尊)
・ 木造飛天・化仏 11躯(飛天8、化仏3)(国宝館・旧西金堂本尊光背付属)
・ 木造帝釈天立像(仮講堂)- 寺では「梵天像」と称している。
・ 木造梵天・帝釈天立像(国宝館)
・ 木造地蔵菩薩立像(仮講堂)
・ 厨子入木造弥勒菩薩半跏像(附:像内納入品)(国宝館) - 大乗院持仏堂旧所在
・ 厨子入木造吉祥天倚像(中金堂)
・ 銀造仏手(国宝館)
・ 木造大黒天立像(中金堂)
・ 木造広目天立像(奈良国立博物館寄託) - 四天王のうちの1体。残り3体は滋賀・MIHO MUSEUM(持国天)および奈良国立博物館(増長天・多聞天)所蔵。
・ 木造聖観音立像(弥勒菩薩立像)快円作(本坊持仏堂)
・ 木造釈迦如来立像(1929年盗難) (参考)広島県尾道市(生口島)の耕三寺所蔵の木造釈迦如来坐像(1901年重文指定)はもと興福寺にあり、第二次世界大戦後に耕三寺に移ったものである。
◇(絵画、書跡典籍ほか)
・ 絹本著色慈恩大師像
・ 絹本著色慈恩大師像
・ 絹本著色淄州(ししゅう)大師画像
・ 絹本著色二天王画像
・ 護法善神扉絵 12面
・ 細字(さいじ)法華経 天平十六年書写奥書
・ 経典釈文断簡
・ 成唯識論(じょうゆいしきろん)巻十 天平宝字五年小治田弟成書写奥書
・ 紺紙金字成唯識論 10巻
・ 紺紙金泥金剛般若波羅蜜経 奥に康永二年二条良基の願文あり
・ 宋版一切経 4,354帖
・ 講周易疏論家義記断簡
・ 大慈恩寺三蔵法師伝 10巻
・ 僧綱補任 6巻
・ 明本抄 巻第一、第三、第六、第十紙背文書(内1通栄西自筆)附:建暦二年十二月廿三日貞慶付嘱状等(6通)1巻
・ 延暦寺智行高僧伝
・ 左府抄 3巻 寛喜三年実信鈔写奥書
・ 聖徳太子伝暦 4帖 徳治二年書写奥書
・ 篳篥譜(ひちりきふ)
・ 興福寺別当次第 6巻
・ 造興福寺記
・ 春日版版木 2,778枚(附 版本瑜伽師地論(春日版)91巻、版本大般若経(春日版)610巻) 典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

◎ 国の史跡

・ 興福寺旧境内

◎ 奈良県指定有形文化財

・ 絹本著色法相曼荼羅図 1幅 南北朝時代
・ 絹本著色春日社寺曼荼羅図 1幅 鎌倉時代
・ 鰐口 1口 建長8年(1256年)
・ 黒漆舎利厨子 4基 内2基は南北朝時代、2基は天文6年(1537年)と天文23年(1554年)
・ 鉄湯釜 2口 平安時代末期から鎌倉時代
・ 大般若経 600帖 室町時代
・ 興福寺大和国雑役免坪付帳 2冊 室町時代

◎ 奈良市指定無形民俗文化財

・ 薪御能(薪御能保存会)

● 主な行事

・ 1月1日 修正堂参(諸堂)
・ 1月1日 - 7日 吉祥天像御開帳(中金堂)
・ 1月2日 春日社参式(春日大社本宮・若宮)
・ 2月3日 追儺会(東金堂)
・ 2月3日(旧暦)解脱上人忌(本坊・持仏堂)*非公開
・ 2月15日 涅槃会(本坊・北客殿)
・ 3月5日 三蔵会(本坊・北客殿)
・ 3月20日 無縁仏供養(菩提院内・供養塔)*非公開
・ 4月8日 仏生会(南円堂前庭)
・ 4月17日 放生会(一言観音堂)
・ 4月25日 文殊会(東金堂)
・ 5月第3金曜・土曜日 薪御能(南大門跡・般若の芝)*薪御能保存会(奈良市観光協会内)が主催。
・ 7月7日 弁才天供(三重塔)
・ 8月13日 - 15日 羅漢供(本坊・持仏堂)*非公開
・ 9月21日 無縁仏供養(菩提院内・供養塔)*非公開
・ 10月第1土曜日 塔影能(東金堂前庭)*雨天の場合は奈良県文化会館にて催行される。
・ 10月17日 大般若経転読会(南円堂)*南円堂は当日のみ内陣の拝観が可能。
・ 11月13日 慈恩会(仮講堂)*会場は薬師寺と隔年交代制。
・ 12月31日 歳末読経(諸堂)、除夜の鐘(南円堂・菩提院大御堂) 上記の他、春と秋の一定期間 (約2週間)、北円堂が特別開扉される。また、通常非公開となっている諸堂の特別公開が毎年行われている。

● 近代以降の住職・貫首

・ 園部忍慶(在職:1881年 - 1890年)
・ 千早定朝(在職:1890年 - 1891年)
・ 雲井良海(在職:1891年 - 1894年)
・ 千早定朝(在職:1895年 - 1899年)※再任
・ 大西良慶(在職:1899年 - 1942年)
・ 板橋良玄(在職:1942年 - 1954年)
・ 多川乗俊(在職:1954年 - 1984年)
・ 多川乗覚(在職:1984年 - 1989年)※2024年3月26日死去、興福寺長老
・ 多川俊映(在職:1989年 - 2019年)※現在、興福寺寺務老院(責任役員)
・ 森谷英俊(在職:2019年 -)

● 前後の札所

◇ 西国三十三所 : 8 長谷寺 - 9 興福寺南円堂 - 10 三室戸寺
◇ 西国薬師四十九霊場 : 3 般若寺 - 4 興福寺東金堂 - 5 元興寺
◇ 大和北部八十八ヶ所霊場 : 61 春岳院 - 62 興福寺菩提院大御堂 - 63 白毫寺
◇ 南都七大寺 : 1 東大寺 - 2 興福寺 - 3 元興寺
◇ 神仏霊場巡拝の道 : 15 春日大社 - 16 興福寺 - 17 大安寺

● 真言・御詠歌

◇ 南円堂(不空羂索観音)
・ 真言:おん はんどま だら あぼきゃ じゃやでい そろそろ そわか
・ ご詠歌:春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲
◇ 東金堂(薬師如来)
・ 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
・ ご詠歌:猿沢の 池のほとりの 寺庭に 瑠璃の光は あまねかりけり
◇ 一言観音
・ ご詠歌:頼もしく 歩みを運べ 一言の 願いも捨てぬ 誓いいませば

● 拝観

・ 境内は塀などがなく、24時間自由に無料で通行できる(立入禁止区域を除く)
・ 国宝館、東金堂、中金堂は通年拝観可(それぞれ別々に拝観料を要する。国宝館と東金堂は共通割引券あり)。
・ 北円堂の内陣は春(GW前後)・秋(正倉院展の開催時期)に期間を限定して拝観が可能(有料/期間はその年による)。
・ 南円堂の内陣は10月17日の大般若経転読会に応じて、当日1日のみ拝観が可能(有料)。
・ その他の堂宇(五重塔・三重塔・仮講堂・大御堂など)の内陣は通常非公開。特別公開として内陣の拝観が可能になる年もある。

● アクセス

・ 近鉄奈良駅より東へ徒歩7分。
・ 奈良駅(JR西日本)より三条通りを東へ約1.2Km、または奈良交通バスに乗車して県庁前バス停下車。

● 近隣施設

・ 奈良国立博物館
・ 東大寺
・ 春日大社
・ 奈良基督教会

● その他


◎ ドキュメンタリー

・ 「落慶〜奈良・興福寺〜」(2019年1月13日、NHK BS8K)

「興福寺」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年4月27日3時(日本時間)現在での最新版を取得

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