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越路吹雪


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越路 吹雪(こしじ ふぶき、本名:内藤 美保子(ないとう みほこ)、旧姓:河野(こうの)、1924年(大正13年)2月18日 - 1980年(昭和55年)11月7日)は、日本のシャンソン歌手、舞台女優。元宝塚歌劇団の主演男役。 愛称は「コーちゃん」「コッシー」(旧姓から)。 所属レコード会社は日本コロムビア→東芝音楽工業(その後東芝EMIに改称、現:ユニバーサルミュージック)。

● 生涯


◎ 生い立ち
1924年(大正13年)に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区麹町)に5人きょうだいの3人目として生まれる。両親は山梨県の出身。その様子を目にしていた父が、娘に好きな歌を思う存分歌える場所として宝塚歌劇団入団を薦めたのである。

◎ 宝塚時代
宝塚歌劇団男役スターとして戦中から戦後にかけて活躍した。宝塚歌劇団27期生。同期生に月丘夢路、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいる。宝塚入団時の成績は93人中73位。「清く正しく美しく」のスローガンで知られる宝塚で越路は喫煙や門限破りをするなど異色の存在でありによる代役として初出場。当日越路は自宅で新年会(当時紅白は正月開催だった)の真っ最中で出場を依頼された時は泥酔状態だったが、時間が迫ると「じゃあ、行ってくるか」とNHKへ向かい本番では見事に歌い上げた。 その後、紅白には1969年・第20回まで通算15回出場。しかし、1970年・第21回には出場を辞退した。辞退の理由は「ジーンズ姿の歌手と一緒に並んで出るのが嫌」だったから、とも伝えられた。しかし後年の岩谷の証言に拠れば、1月に舞台出演が多くなり主演をしている立場として紅白のために舞台稽古を止めて歌合戦の稽古に出るのは舞台人として迷惑をかけることになる。このため岩谷は越路リサイタルの演出家である浅利慶太に相談し、彼と伴にNHK会長と話し合い、卒業という形で解決したとある。その後も、人気アンケートでベスト10にランクインしたこともあり、NHKからもオファーがあったものの頑なに出場を辞退し一度も復帰することは無かった。

◎ 56歳で死去

○ 最後の舞台
1980年(昭和55年)3月に越路は、ライフワークであった恒例の日生劇場でのロングリサイタル(越路の急逝により越路最後のリサイタルとなった)を終えると、新境地開拓として芝居に挑戦した。演目は「古風なコメディ」、劇団民藝の重鎮宇野重吉の演出で、越路と米倉斉加年の二人だけの芝居であった。 その経緯として浅利によれば、ロングリサイタルとミュージカルの両輪が揃った越路に、岩谷と内藤から「越路に芝居を。シェークスピアのマクベス夫人などはどうだろう」という注文が出たが、これは少し難しく、内藤と親しかった倉橋健を通じて宇野が引き受けることになったという。岩谷も、越路とはかねてより歌のかたわらに念願だった芝居の勉強もしておきたいと相談しており、浅利の諒承を得て「古風なコメディ」に出演することになったと記している。 「古風なコメディ」は福岡で5月27日から上演され、その後東京では連日大入りの好演となり、6月5日から22日までの公演であったところ追加公演が行われた(6月26日千秋楽)。なおこの劇中で内藤作曲の「サーカスの唄」が越路によって歌われたが、これが越路最後の歌唱となった。
○ 闘病
公演中より越路は胃の不調を訴えていたようであり、西武劇場(現:PARCO)にて胃の激しい痛みを堪えつつ舞台を務めるも、公演終了直後に緊急入院。「重度の胃潰瘍」との診断を受け、7月8日に東京都目黒区の東京共済病院で、胃の5分の4を切除する大手術を受けた。術後の復帰を目指してリハビリに励み、その後も入退院を3回繰り返すものの、11月7日午後3時2分に死去した。。「古風なコメディ」の終演後僅か4ヵ月という急逝であった。 実は本当の病名は胃潰瘍ではなく「末期の胃癌」で、腹膜にも多数の癌が転移していたが、当時本人には告知されなかった。死の直前、病床に臥し意識が朦朧とする中で「法美さんにコーヒーを」と、最期まで最愛の夫を気遣った。越路は両親と実兄を共に癌で亡くしている(夫・内藤も1988年7月、肝臓癌のため死去)ことから、自身も一番癌を怖れ毎年の癌検診を欠かさなかったが、たまたま死の前年だけ多忙のため検査を先延ばしにしていたという皮肉な結果だった。死後、岩谷の意向により。

● ピアフ、「愛の讃歌」との関わり


◎ ピアフについて
1953年(昭和28年)春、日本人の海外渡航が自由化されていない時代に越路は初めてフランス・パリへ渡る。そこでシャンソン歌手のエディット・ピアフのステージを生で聴いた越路は大きな衝撃を受け、当時の日記には「エディット・ピアフを初めて聴く。オーケストラ、ジェスチャー、アレンジの素晴らしさに私は悲しい。ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい、寂しい、私には何もない。私は負けた。泣く、初めてのパリで。」と書き残されている。ピアフは越路の代表曲『愛の讃歌』のオリジナル歌手でもあり、生涯にわたって越路にとってシャンソン歌手としての大きな目標になった。なおこの時の越路の3ヶ月のパリ生活を世話したのは、当時パリに滞在していた錚々たる日本の文化人達であった。 越路とピアフとは因縁めいた関係があり、越路夫妻が1963年(昭和38年)にパリに旅行した際に、偶然にも夫妻はピアフの訃報をホテルで聞いたのであった。ホテルのスタッフが誰彼となく、ピアフの死を泣きながら伝えていたことを越路は後年記している。また越路は後にピアフの妹シモーヌとの交流も深めたらしく、越路が彼女と抱擁し合う写真が残されている、これが彼女の最初の訳詞作品となった。

● 日生劇場でのロングリサイタル


◎ 公演のあらましとスタッフ
越路は初めてのパリ行からの帰国後の1953年(昭和28年)に、第1回リサイタルを東京銀座のヤマハホールで開催した。以後はほぼ年に1回のペースでヤマハホールを拠点に(他では日比谷公会堂)リサイタルを開催し、1965年(昭和40年)から日生劇場での開催を始めその後芸能界の歴史に残るリサイタルとなった。第1回当初は2〜3日の公演だったがその後大きな反響を呼び、1968年(昭和43年)には公演期間は11日間に伸び、1969年(昭和44年)からは空前絶後の約1ヶ月におよぶロングリサイタルとなった。1970年代当時、最もチケットの入手が困難なライブ・ステージのひとつともいわれた。1972年(昭和47年)以降はほぼ春、秋に公演され、秋の公演後は全国縦断公演も行った。 越路の歌唱は年々進化・深化していったが、その最大の功績者の一人はロングリサイタルの演出家であった浅利慶太と言って良いだろう。リサイタルには1966年(昭和41年)から劇団四季の演出家である浅利慶太が関わったが、当初は越路の所属先であった東宝(越路は昭和43年からフリー)との関係から浅利が前面に出ることは無かった。その後は浅利の演出、日本ゼネラルアーツ(浅利の舞台制作会社)の制作により、越路の死去する1980年(昭和55年)までリサイタルを支えた。 また、音楽構成は越路の夫である作曲家の内藤法美が務め、舞台装置は金森馨、照明は吉井澄雄、また演奏にはジョージ川口らが加わり、最高のスタッフ陣がロングリサイタルを支えたことは特筆すべきことである。

◎ 「ドラマチックリサイタル」
ロングリサイタルでは、越路が単独で歌い演ずる形式だけではなく「ドラマチックリサイタル」と称する意欲的な作品も制作された。これは越路吹雪と劇団四季とのタイアップで行われた。その最大のヒット作は1971年(昭和46年)初演の「愛の讃歌-エディット・ピアフの生涯」であり、越路が亡くなる前年の1979年(昭和54年)までロングリサイタルの一演目として再演された。 その内容とは、ピアフを演ずる越路とギリシア古典劇のコロス様に扮した劇団四季の俳優陣とが相呼応しつつ、ピアフの名曲約20曲でピアフの生涯を劇的に描くものであった。四季による「三つの鐘」の大合唱で幕を開けて、出生・結婚(当作品ではパリ解放)・死という人生で鳴り響く3度の鐘をモチーフにして、ピアフの生涯が綴られた。 第1幕は、ピアフの出生(第1の鐘)から始まる。凍る冬の真夜中にパリの路上で産み落とされたピアフ、その不幸な少女は街で歌いやがてスターに、しかし殺人の疑惑をかけられ転落、その後復活した彼女はドイツ占領からパリ解放に喜ぶパリ市民と高らかにラ・マルセイエーズを歌い上げて幕(第2の鐘)。 第2幕は、戦後アメリカで人気を博したピアフのバラ色の人生で幕を開ける。ボクシングの世界チャンピオンであるマルセル・セルダンとの恋、そして悲しい別れ、その後薬物中毒に落ちるピアフ、やがて復活、ギリシアの年若いテオ・サラポとの新たな恋そして彼との結婚、しかし病魔に蝕まれていたピアフはテオに看取られながら永遠の眠りにつく。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されるピアフを何万人ものパリ市民が見送る。ピアフの魂を安らげる鐘(第3の鐘)が鳴り響き、愛の讃歌の大合唱へと変わり幕が閉じる。 劇中でピアフの最愛の恋人マルセル・セルダンの突然の事故死を受けて、絶望の中でマルセルの霊を慰め永遠の愛を込めて越路が歌った「愛の讃歌」は、悲痛さと魂の清らかさを表現した絶唱として、「ノワールの愛の讃歌」「世界で最も感動的な愛の讃歌かも知れない」との評価を得ている。 その他のドラマチックリサイタルとしては、1975年(昭和50年)春の「恋の7章」がある。また越路最後のリサイタルとなった1980年(昭和55年)春の「スペシャルリサイタル」も、第1部は劇団四季との共演であった。これらの越路と劇団四季との共演が、今日の四季ミュージカルの基盤となったであろうことも指摘できるだろう。

● 対人関係


◎ 親友・マネージャー 岩谷時子との関係
越路の活躍の裏には、マネージャーとして最期まで支え、21世紀に入っても現役で活躍していた岩谷時子の存在が大きかった。越路が15歳の頃、宝塚出版部に勤めていた岩谷と知り合い意気投合し、その後越路が宝塚を辞めた際に岩谷も一緒に退社。共に上京した後東宝に所属し、岩谷は東宝の社員として籍を置いたまま越路のマネージャーも務めた(岩谷は1963年に東宝を退社)。その後作詞家として成功を収めた後も、岩谷は自分の本業を聞かれるたび「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。 宝塚時代の越路と岩谷が初めて接触したのは、新人だった越路が自分のサインの見本を書いてほしいと岩谷に相談を持ちかけた時だった。この時2人で作ったサインを越路は終生使い続け、彼女が忙しくなってからは岩谷が「代筆」することもよくあったという。 その後、岩谷は気づけば越路の付き人の役割を担っており、ある日の舞台が終わったあと、越路は不器用ながらも小道具の手入れをする岩谷を見て、「時子さんもどこか抜けているし、私も抜けている、二人でやっと一人前だよね」と言ったという。 宝塚時代から、靴や洋服など欲しいものがあればどんどん買ってしまい、よく給料を前借りしていた越路は、東宝に移籍するときには歌劇団に借金が残っていた。その浪費癖を重々承知していた岩谷は、1978年、越路がパリにアルバムのレコーディングに赴くにあたり、レコード会社の担当ディレクターに「(所持金が)足りなくなったら使ってほしい」とこっそり現金を託した、という話も残っている。 また岩谷はマネージャー業の傍ら、越路の「日本語でしか歌いたくない」という求めに応じてシャンソンなど外国曲の訳詞を担当。越路の代表曲である『愛の讃歌』『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』などは、岩谷の優れた訳詞によりヒットへ導かれた。越路が亡くなるまで約30年間に渡りマネージャーを務めた岩谷だが、「越路のことが好きで支えていた」と語り、マネージャーとしての報酬は一切受け取っていなかったという。 越路がこの世を去る数か月前、胃の手術のため入院した際「もう一度彼女を舞台に立たせたい」と強く願っていた岩谷は、闘病中の彼女から睡眠薬と煙草を取り上げることに懸命だった。それにも拘わらず、夫の内藤は妻である越路が病床でタバコを吸っていても、ずっと大目に見ていたという。「いまの越路には厳しい愛が必要だ」と考えていた岩谷にとって、これは許しがたいことであった。3度目の入院を前に岩谷は、越路のもとを訪れた際に「内藤さん、あなた(越路)に甘過ぎるんじゃないの。あなたもあなたよ『睡眠薬もタバコも辞めなけりゃ、胃の痛みは治らない』って、お医者様も仰ったでしょう?もし今後もあなたが私の言う事を守れないのなら、あなたの仕事は一切手を引かせて貰うわよ!!」と叱責する一方、一対一で説得。その日以来、越路は睡眠薬もタバコも一切止めたという。

◎ 越路に対する浅利慶太からの評価
浅利は、越路を「シャントゥーズ・レアリスト(真実を歌う歌手)」と評し、心の中の愛や悲しみ、祈りを見事に歌う歌手、感性の中にものすごいひらめきと知的な部分を持っている人であったと語っている。岩谷は、浅利が越路に一つ一つの歌の意味を教えドラマとして作り上げていく過程を振り返り、「浅利と越路は芸術家として心が深く通い合っていた」こと、「浅利との仕事が越路の人生で最高の時であった」と回顧している

◎ 夫・内藤法美やその他親しい人
私生活では1959年秋作曲家の内藤法美と35歳で結婚、夫妻に子はなかったが彼とは越路の逝去まで連れ添った。内藤は越路が亡くなるまでリサイタルやディナーショーの構成、作曲、編曲、指揮などを手掛けた。結婚前は“恋多き女”として名を馳せた越路。 肝の据わった女性と思われがちだが、徹底したプロ意識の一方、開演前の舞台袖では過度の緊張から常に全身を震わせていた。宝塚時代から不眠に苦しみ、毎晩の睡眠薬とタバコが手放せなかった
 ・ 幸和希
・ 『女の一代記』シリーズ 第2夜「越路吹雪・愛の生涯~この命燃えつきるまで私は歌う」(フジテレビ 2005年11月25日)
 ・ 天海祐希(22歳 - 56歳)・新垣結衣(15歳当時)
 ・岩谷時子の逝去により、追悼番組として 2013年11月4日にドラマチックα枠で急遽再放送された。
・ 歴史秘話ヒストリア 「歌え!友情の『愛の讃歌』〜異色の宝塚スター 越路吹雪と岩谷時子〜」(NHK 2012年4月4日)
 ・ 笹本玲奈
・ 帯ドラマ劇場・越路吹雪物語(2018年1月8日 - 3月30日、テレビ朝日)
 ・ 大地真央(絶頂期)・瀧本美織(青年期)・岩淵心咲(少女期)

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