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千葉真一


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千葉 真一(ちば しんいち、JJ Sonny Chiba, 1939年1月22日 - 2021年8月19日)は、日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・演出家・映画プロデューサー・映画監督。愛称:千葉ちゃん。本名:前田 禎穂(まえだ さだほ)。 日本を代表する映画スター・アクションスターとして、海外ではSonny Chiba(サニー ちば)の通称で名高い。特技の器械体操・極真カラテ四段・乗馬・スキー・少林寺拳法弐段を活かした、吹き替えに任せず自らアクロバティックなスタント・殺陣を演じていることと、名優としての存在感が、定評を博している。 芸能生活は半世紀以上の60年を越え、映画・テレビ映画・ドラマ・演劇など、計1,500本以上の作品に出演。1970年に創設したジャパンアクションクラブ (JAC) からは、数々のスタントマン・スーツアクター・殺陣師・俳優・アクション監督を輩出している。本職だけではなく、指導者として後進の育成をし、映画・演劇の演出、製作にも参画するなど、多岐にわたり活躍していた。

● 生涯


◎ オリンピックを目指して
福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕。4歳の時、千葉県君津市へ転居。中学生から器械体操を始め、オリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、千葉県立木更津第一高等学校へ入学後、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。1957年、日本体育大学体育学部体育学科に進学した。 (⇒ 家族) 器械体操の仲間には後の1964年東京オリンピックの体操競技で女子団体銅メダルを獲得する千葉吟子や、同オリンピック金メダリストで“山下跳び”の山下治広がおり、「種目によっては山下より上」と評されている。将来を嘱望されていたが、2年生の時に、跳馬を練習中に着地で失敗し、腰・膝を痛めてしまう。医者から「1年間運動禁止」と宣告され、選手を続けることが困難となる。休学も検討したが、学費を工面できないので余儀なく退学した。 (⇒ 2010年代・体操界・日体大・器械体操) 今後を模索し始め、実家に帰る途中の代々木駅で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを偶然見かける。地元に戻り、相談した親友も賛成してくれたことや、かつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し、東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたことから応募した。日本体育大学で器械体操をしていた経歴を珍しがられたが、2万6千人の応募からトップの成績で合格を果たす。

◎ アクションスター
1959年、大学を中退して、東映に入社。男性6名・女性14名のうち、俳優では新井茂子・亀石征一郎・志村妙子・都築克子・中条宏美・春海洋子や、映画監督では中島貞夫が、同期生にいた。俳優座で6か月の研修を経て、1960年1月7日に『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビュー。続けて『アラーの使者』にも主演した。 (⇒ 変身ヒーロー) 1961年、中山昭二の代役で『警視庁物語 不在証明』に出演後、深作欣二が初めて監督をした『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』に主演して、2期先輩の曽根晴美と「拳銃コンビ」のキャッチコピーで売り出された。吹き替えなしでスタントをこなすことから、「アクションができる素材に演技の磨きを増せば」と期待される新人であった。1962年は『事件記者シリーズ』の第1作『恐怖の魔女』に主演したほか、1963年には『八州遊侠伝 男の盃』で時代劇に初出演。『事件記者シリーズ』の第2作『殺人鬼の誘惑』と『柔道一代シリーズ』第一作に主演している。 1963年から音楽活動も始め、「男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューを果たした。1967年には“千葉真一とザ・サタンズ”というグループ・サウンズのバンドを結成。リーダーとして夜は都内の音楽喫茶・ライブハウスで歌い、九州などにも巡業し、ライブをしていた。 (⇒ 音楽・キイハンター・ディスコグラフィ) 1966年、『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日台合作)、『海底大戦争』(日米合作)にそれぞれ主演し、国際的にも活動し始め、後に『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年、日香泰韓合作)、『激殺 邪道拳』(1977年、日香泰合作)、『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年、日香合作)など、諸外国との共同作品に主演するきっかけになった。その合間に前年の『くらやみ五段』、遠藤実の自伝を映画化した『太陽に突っ走れ』や、『子守唄シリーズ』、『河内遊侠伝』、『陸軍諜報33』など次々と主演していた。 (⇒ Sonny Chiba・海外進出・ アクション映画) 1968年から『キイハンター』に主演。これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、千葉ちゃんの愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれた。 (⇒ 音楽・キイハンター・ファン)

◎ 転機
1969年、オールスターキャストで製作された『日本暗殺秘録』では、小沼正に扮して主演した。『キイハンター』を休んで撮影に臨み、小沼の怒り・葛藤・情念をアクションスターという枠に収まらない演技で印象深い場面を残し、同年の京都市民映画祭で主演男優賞を受賞。『キイハンター』で人気者になるだけではなく、「様々な作品に出演していかなくてはいけない」と考え直す転機にもなっている」と考えていたので、殴られ役をしていた若い仲間を集めて自主トレーニングをしていたが、正式な団体として発足させようと決意。1970年に法人としてジャパンアクションクラブ (JAC) を創設した。 (⇒ ジャパンアクションクラブ (JAC)・演劇) 1973年の『仁義なき戦い 広島死闘篇』では主役に選ばれていたものの、東映の意向でクランクイン直前、大友勝利役に代えられたが、凶暴・凶悪なキャラクターを演じ、『仁義なき戦いシリーズ』の中で、主人公をしのぐほどの強烈な印象を残す。大友はシリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気をつかんでおり、これ以降、他のヤクザ映画でも「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となっている。 (⇒ ヤクザ映画) 『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来、10年ぶりの格闘技をモチーフとした『ボディガード牙シリーズ』の撮影に入り、『殺人拳シリーズ』と次々主演作がクランクインしたため、『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現しなかった。これ以降は格闘をメインとした作品に続けざま主演していくが、極真カラテを修行して黒帯を允許された技量が生かされることとなる。 (⇒ 空手道)

◎ Sonny Chiba
『ボディガード牙シリーズ』(1973年)は日本だけにとどまらず、欧米でもヒットし、ブームになる先駆けの作品となった。これを皮切りに、『殺人拳シリーズ』(1974年 - 1976年)、『地獄拳シリーズ』(1974年)、『少林寺拳法』(1975年)、『けんか空手シリーズ』(1975年 - 1977年)、『激殺 邪道拳』(1977年)と、前後して『やくざ刑事シリーズ』(1970年 - 1971年)、『狼やくざシリーズ』(1971年 - 1972年)、『麻薬売春Gメンシリーズ』(1972年)や、小説『ウルフガイ 燃えろ狼男』(1975年)と劇画『ドーベルマン刑事』『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年)の映画化なども含め、数々の作品に主演。『キイハンター』と同様のスタントに、空手道・拳法・器械体操が加わり、アクロバティックでスリリングとシャープな演技は好評を博した。 (⇒ アクション映画・格闘映画) とりわけ1974年に主演した『激突 殺人拳』から始まる『殺人拳シリーズ』は国内のみならず、海外でも『The Street Fighter』のタイトルで公開され、アメリカ合衆国では日本映画として初めて興行収入100万ドル以上を記録。この成功は同国で最も権威のある総合情報週刊誌『バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)』の12月18日付にも掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げている。この頃から国際的にSonny Chiba(サニー ちば)という名前で認知されることとなり、主演・出演するカラテをメインにした格闘映画は続々と世界的に大ヒットした。海外でも著名人のファンは多い。 (⇒ 格闘映画・ファン(海外)) テレビ映画では『キイハンター』以降、『ザ・ボディガード』(1974年)、『ザ★ゴリラ7』『燃える捜査網』(1975年)『大非常線』(1976年)とアクション作品に主演。この頃、カリフォルニア州に聳えるマンモスマウンテンのバックカントリーをスキーで滑走しており、その姿は1974年5月6日にドキュメンタリー『千葉真一 4,000メートルのマンモスマウンテンを滑る』(東京12ch)や6月6日の『ザ・ボディガード』第10話「グランドキャニオンの殺人者」で、それぞれ放送されている。前後して若手の育成に追われる日々となったが、1976年の『沖縄やくざ戦争』では京都市民映画祭の主演男優賞を受賞した。 1977年4月にハワイ州で開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦。180cm以上あるネグロイドのアメリカ東海岸空手チャンピオンと戦い、二段蹴りでKO勝ちを収めた。 (⇒ 2022年・極真カラテ・空手道)

◎ ジャンルを越えた活躍
名実共に日本を代表するアクションスターとして活躍していたが、1978年から本格的に時代劇へ進出。主演した『柳生一族の陰謀』は興行収入30億円以上の記録的な大ヒットをした。1979年に第2回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞。柳生但馬守宗矩(若山富三郎)・宮本武蔵(緒形拳)と華麗で凄みのある一騎討ちを披露した主演作『魔界転生』(1981年)は観客動員数200万人・配給収入10.5億円を超し、『赤穂城断絶』(1978年)、『闇の狩人』(1979年)、『里見八犬伝』(1983年)、『必殺4 恨みはらします』(1987年)などにも出演している。 特に『柳生一族の陰謀』、『魔界転生』、『柳生あばれ旅シリーズ』(1980年 - 1983年)の柳生十兵衛三厳と、傑作と評価されている『影の軍団シリーズ』(1980年 - 1985年)の服部半蔵は、十八番である。 (⇒ 時代劇) 1979年には芸能生活20周年記念作品である『戦国自衛隊』で、主演と日本映画初のアクション監督を兼務し、配給収入で13.5億円の大ヒットを記録。その演出が評価され、1980年にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞した。1981年の主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』は自ら企画し、『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)と『吼えろ鉄拳』(1981年)で出演とアクション監督を兼務。1989年の『将軍家光の乱心 激突』でも出演とアクション監督を兼ね、この作品は第39回ベルリン国際映画祭に招待された。1990年にはプロデューサーと初の監督を兼ねた映画『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけ、アクション映画の全盛期を牽引していた。 (⇒ アクション映画) 1981年から演劇にも進出し、『ゆかいな海賊大冒険』(1982年 - 1984年)、『酔いどれ公爵』(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し、JACミュージカルとして定期的に公演した。新宿コマ劇場の観客動員数では、3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めている。 (⇒ ジャパンアクションクラブ (JAC)・演劇) 並行して1970年代から1980年代にかけ、『七色とんがらし』(1976年)や『十字路』(1978年)、『深夜にようこそ』(1986年)、『夢に見た日々』(1989年)の人間ドラマにも主演。1982年には楽曲「誓い(JACのテーマ)」を作詞、1985年には10年ぶりに歌手としてリリースした「曠野」の作曲も手がけ、俳優・歌手に留まらない映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家など、その活躍ぶりはジャンルを越えて幅広いものであった。 (⇒ 音楽・人間ドラマ)

◎ 海外進出
1966年から1970年代に数々の日本と諸外国との合作作品に主演し(⇒ アクションスター・Sonny Chiba)、1981年は『武士道ブレード』(英米合作)に出演。1970年代半ばにはフランシス・フォード・コッポラが「千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を製作したい」と東映へオファーしていたものの、岡田茂が断ったことで、「本格的な海外作品の出演をあきらめた」と関係者内で認識されていた。しかしハリウッドへの思いは募り、水面下のアピールや主演映画の評判などで、海外進出を決意。1990年頃からアメリカ映画の出演依頼が届き始めていた。折しもロサンゼルスでは『激突 殺人拳』(1974年)、『子連れ殺人拳』(1976年)など、14本の主演作がリバイバル興行されていた。 (⇒ 格闘映画) 1991年、ジャパンアクションクラブ (JAC) の売却を経て、1992年にアメリカ映画『エイセス / 大空の誓い』に出演。これを機に拠点をロサンゼルスへ移し、アメリカ合衆国でも活動をするようになり、グリーンカードも取得した。日本未公開作品もあるが、長年の経験で培ったそのアクションは高く評価されている。 (⇒ 外国作品) 1998年に出演した『風雲 ストームライダーズ』では、ラスボス“雄覇(ホンパ / ホンファ)”を演じた。原作のイメージを彷彿とさせるその演技は話題に上り、翌年の第18回香港電影金像奨では、外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネートされた。2001年には台湾でも連続ドラマ化された。 (⇒ 外国作品) 2003年、友人でもあるクエンティン・タランティーノが監督した『キル・ビル』シリーズでは出演と、ユマ・サーマン、ルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導をした。第30回サターン賞では『キル・ビル』で助演男優賞にノミネートされた。 (⇒ 外国作品) 2005年10月29日に開催されたハワイ国際映画祭では、これまでの功績を讃えた“MAVERICK AWARD”を受賞した。 2007年、英国放送協会製作の、日本をテーマにしたドキュメンタリーの『Japanorama』に出演。「Densetsu (Legends)」(伝説)をテーマにした回で取り上げられ、4月9日に放送された。同年の『風林火山 (NHK大河ドラマ)』に板垣信方役で出演。 11月には海外で通称としていたJJ Sonny Chiba(JJ サニー チバ)を日本でも使うようになった。11月26日には厚生労働省から「健康大使」にも任命されている。2008年10月から2009年3月まで京都造形芸術大学の教授を務めた。

◎ 2010年代
2010年10月22日には東京・グランドプリンスホテル赤坂で、結婚披露宴を兼ねた芸能生活50周年記念式典を開いた。もともとはアントニオ猪木・池谷幸雄・石田純一・市川亀治郎・今井雅之・内野聖陽・梅宮辰夫・岡崎二朗・ガッツ石松・川地民夫・神取忍・樹木希林・北の湖敏満・京本政樹・具志堅用高・郷田勇三・小林幸子・コロッケ・高橋英樹・竹本直一・田中好子・谷村新司・津川雅彦・十朱幸代・夏八木勲・白竜・張本勲・布施明・風吹ジュン・松井章圭・松坂慶子・美川憲一・三田佳子・やまさき十三・山本KID徳郁・横峯良郎・ラモス瑠偉ら計60名を発起人とした芸能生活50周年記念式典が先に決まっていたところ、現妻と挙式や披露宴をしていなかったため、千葉の要望で記念式典と合わせて企画された。前半の披露宴には家族でキャンドル点灯のほか、長女・真瀬樹里は父への尊敬とお祝いの挨拶が行われ、芸能界にまだ入っていなかった長男・新田真剣佑と次男・眞栄田郷敦の二人も登壇し、手紙を読み上げる形で両親を祝福している。後半の記念式典では出演した260本の映画・テレビ映画・ドラマなどが順に紹介され、千葉は樹里と殺陣、真剣佑・郷敦とは空手道の演武で型と杉板の試割りを家族皆で披露。勝野洋・小堺一機・夏樹陽子らは花環を贈呈し、出席者に上記発起人ほか、太田昭宏・北島三郎・関根勤・高岡早紀・高橋和也、デヴィ・スカルノ、南部虎弾、ビリー・ブランクス、堀田眞三・魔裟斗・松木安太郎ら、多数の芸能人を含む、各界から約600人がお祝いに集った。「あっという間の50年だった。まだまだ、やり残したことがあるので精進したい」と気を引き締めつつ、感謝の意を表している。 (⇒ 最期・人柄・家族) 2011年以降、芸名を日本のみ千葉 真一、海外ではJJ Sonny Chibaとしている。同年9月29日から10月2日にアジア・アメリカ映画を祝す国際フィルムフェスティバル「SINGAFEST 2011」(ビッグフット・エンターテインメント主催)がロサンゼルス・ウエストウッドのビッグフット・クレスト・シアターにて開催され、LIFETIME ACHIEVEMENT AWARDを受賞。代表作の一つである『魔界転生』が上映され、授賞式には樹里・真剣佑・郷敦も出席し、千葉と樹里は殺陣を、真剣佑と郷敦は空手を披露し、集まった多くのファンをわかせている。11月、徳島県鳴門市で生産・販売されている「本格焼き芋焼酎“斬”」の監修をした。 (⇒ 最期・外国作品・家族) 2013年3月10日、日本体育大学から正式に卒業を授与され、これにより最終学歴は「日本体育大学体育学部体育学科卒業」となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(体育学)」の学位が与えられた。 (⇒ 体操界・日体大・器械体操) 2014年の『おわこんTV』に主演し、テレビ業界のウラのウラまで知り尽くす名物社長を、存在感醸し出しながらも軽いタッチで演じた。同ドラマは文化庁芸術祭参加作品となっている。 2016年4月14日に勃発した熊本地震では、母の故郷を憂い、オスマン・サンコンと一緒に被災地で炊き出しをした。同年8月21日、千葉市の「第41回 親子三代夏祭り」で、千葉氏中興の祖である千葉常胤に扮して武者行列を務めた。 (⇒ 親交の有った芸能人) 2019年12月19日、千葉市の健康大使に任命された。市民が主体的に健康づくりを取り組めるよう、同市は広報・啓発の一環として、県内出身で芸能生活60周年を迎えていた千葉が就任する運びとなった。前年に芸能生活60周年を迎えており、これまでの歩みを振り返りながら、近況や家族のことと併せて、「私にはあんまり似合わない賞をいただいちゃって…。これからはこれに恥じないよう、しっかり努力して生きていきたい」と笑顔を見せた。 (⇒ 最期) 2021年6月、個人事務所「ルイアンドリーブス」を、「エム&リーヴス」へ設立し直した。子供たちに自身の企画やアイデアを受け継いでもらう願いと「いまのうちにきちんとしておきたい」という思いからである。千葉が代表で新田真剣佑は取締役となり、それまで複数あった会社の事業を統一し、全著作権を「エム&リーヴス」が引き継ぐと決めた。「膝・足が硬直するなど、昔と比べて身体の自由が利かなくなり、日課のジョギングも思うようにできなくなっていた。一昨年末頃から『もう長くない』と漏らし、断捨離を始めていた」と傍らにいた愛弟子の西田真吾は証言し、自身も「60代までは、まだまだ若者に負けないくらいのスピードができていた。しかし、今ははっきりと肉体が衰えていることを自覚している。気持ちとして、まだまだ演技や作品を追求したいけど、肉体がついてこない」と吐露していた。 (⇒ 家族) スティーブン・セガールとダブル主演での映画や、ジェシー・ベンチュラやウェズリー・スナイプスと共演するハリウッド映画も撮影予定であったが、コロナウイルスのパンデミックにより撮影が延期になっていた。

◎ 最期
事業の統一から2か月過ぎた2021年8月19日17時26分、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) による肺炎のため、千葉県木更津市の君津中央病院で死去した。。折しもCOVID-19の第5波で感染爆発している日本は、同月6日に感染者が100万人を超えており、医療体制が逼迫・確保できていない真っ只中に失命した。自らの意思で、COVID-19ワクチンを接種していなかった。 7月末に感染。咳嗽などの症状はあったが、元気だったので、そのまま自宅療養を続けていた。しかし8月4日に38.8度の熱を発し、PCR検査の数値も悪く、肺炎が悪化。救急車で搬送され、8日に入院した。酸素吸入などの治療を受け、一時は回復する兆しがあったものの、容体は急変。18日あたりから意識がなくなり、そのまま息を引き取った。新田真剣佑はハリウッド映画の撮影でアメリカ合衆国に滞在しており、真瀬樹里と眞栄田郷敦は仕事後に駆けつけるも、3人は父親の最期を看取ることができなかった。 (⇒ 家族) 緊急事態宣言中のため、通夜は行われていない。翌20日、眞栄田郷敦を喪主とし、葬儀が営まれた。人数が制限されていたため、親戚5人のみが参列。荼毘に付され、郷敦と前夫人が遺骨を拾った。 (⇒ 家族) 長女・真瀬樹里は「一報を受け、仕事後に駆けつけましたが、最期に立ち会うことはできず…。しかし、顔を見て、お別れと伝えたい事を言うことはできました。苦しんだとは思えないほど、穏やかな顔をしておりました」と最期の様子を振り返り、「少し前に、電話で父の元気な声を聞いたばかりでした。私にとっても突然のことで、まだ現実感がありません。ただただ悔しいです…。天国から両親が見守ってくれていることを信じて、胸を張って見せられる仕事ができるよう、精一杯生きていきたいと思います。父の遺した作品を、これからも愛し続けて頂けたら幸いです」と所属事務所を通じて発表した。 長男・新田真剣佑はインスタグラムにて、ローソクが立てられたケーキを前に、幸せそうに笑う千葉と微笑む幼少期の真剣佑や、千葉の体の上で安心した様子で眠る幼少期の真剣佑の姿が収められている2ショットを公開し、「No matter where I am, you'll always be in my heart.(私がどこにいても、あなたはいつも私の心の中にいます)Love you so much Dad.(お父さん、あなたをとても愛しています)」と思いを綴った。 次男・眞栄田郷敦は防護服を着て対面した日の夜に、所属事務所を通じて「一方的な約束をしてきました。それを守るだけです」と発表した。 2年前の2019年に世阿弥の著作より格言を抜粋し、樹里には『花鏡』から「初心不可忘(初心忘るべからず)」、真剣佑には『風姿花伝』から「秘すれば花」、郷敦には『風姿花伝』から「離見の見」と、それぞれ自筆の巻物にして娘・息子たちへ授けている。 (⇒ 晩年・体操界・日体大・空手道・家族)

● 追悼
国内外の各界から追悼が寄せられた。

◎ 追悼(国内)

○ 芸能界

※ 共演者
『白昼の死角』と『伊賀忍法帖』で共演している中尾彬は千葉県立木更津第一高校の後輩で、「とても真面目な方だった。会うと地元の先輩後輩のように話し、お互い実家も近かった。3歳年上なので同時期に通わず、入れ替わりで卒業しましたが、頻繁に器械体操部のコーチに来ていました」と、バレーボール部の中尾とも会えば話す間柄だったと語った。「芸能界に転身しても器械体操の指導で母校へ通い続け、当時珍しかったジーンズを履き、慎太郎カットにしていた」と在りし日の姿や、中尾も芸能界に入ると「おお、頑張れよ」「俺の映画見てる?」と親しく声をかけてくれた気さくな人柄、夢を語る様を振り返っている。「ワクチンも率先して受けるタイプ」と中尾は接種していないことを訝しがりながら、「映画スター。今時、ああいう夢を語れる人が減っちゃったよなあ」と寂しそうだった 。 (⇒ 交友(国内)) 『キイハンター』、『影の軍団シリーズ』、『柳生あばれ旅』などにゲスト出演している東映ニューフェイスの後輩・堀田眞三は、ツイッターで一緒に撮った写真を掲載し、「千葉真一先輩の訃報 信じられないが あの日 あの時無限様々な想いがよぎる 謹んでご冥福をお祈りします 合掌」とつづっている。 11歳の時、共演している小林幸子はインスタグラムにて、「初めて出会ったのは、私にとって初出演だった『くらやみ五段』。デビューしてまもない私を“チビ”と呼び、肩車してくれたり、一緒にキャンプファイヤーしたり、とっても優しいお兄ちゃまという印象でした。その後も『キイハンター』など、いろんなお仕事でご一緒させて頂きました。いつも撮影の合間には、体を鍛えたりアクション練習したり、ずっと動いていて格好いい方でした。最後にお会いしたのは、昨年の文化庁長官表彰の時、息子さんの話を笑顔でお話していたことが印象に残っています。日本のアクションの世界を作り上げ、千葉真一さんご自身が日本の刀のような、何にも負けないはず方なのに。悔しいです。コロナが憎いです。今はゆっくり休んでください。ご冥福をお祈りします。合掌」と思いを記した。 倉田保昭は訃報を聞き、「ショックで寂しかった」と語っている。東映演技研修所に一期生で通っていた倉田にとって、7歳上で既にスターとして活躍していた違いもあり、「『キイハンター』で特に意識し、“ああなりたい”と思うような憧れの先輩でしたね」と回想した。1970年から香港映画に活動の場を移した倉田は、1974年に“和製ドラゴン”として凱旋帰国後、『直撃 地獄拳』に出演。同作では直接手合わせするシーンは無く、あまり話す機会はなかったものの、『バーディー大作戦』『Gメン'75』に出演していた時、近藤照男から「千葉真一ならこうだ」「千葉ならこうした」と倉田を発奮させるかのように幾度となく話をされ、更に意識するようになっていた。『必殺女拳士』でも共演するが同じシーンは無く、ようやく対面で演技をしたのは『服部半蔵 影の軍団』第2話「闇に潜む牝豹」。終盤に決闘するシーンもあったが、『影の軍団シリーズ』のレギュラーを断っていたので、倉田はきっちり共演できていないと気持ちに駆られていた。そのような思いから、倉田が製作する『マスター・オブ・サンダー 決戦 封魔龍虎伝』に出演してもらえるよう、自ら頼んでいる。「当時、日本のアクション映画は若手が育っていなかったので、千葉さんと私がぶつかる姿を若手に教材として見せたい」「3度ほど、二人きりで10時間以上お話をして ようやく千葉さんはOKしてくれた」「千葉さんとの最初のアクションを撮影する日には、ジャパンアクションクラブ (JAC) と倉田アクションクラブの門下生が大勢、セットへ見学に来たのが驚きだった」と振り返った。撮影の合間に「作りたい映画を、何時間も語り合ったことが思い出深い」と語る倉田は、同作で共演以降、ほとんど会う機会も無く、「いつも私の片思いでした」と残念がっている。倉田は千葉の出演作では「『赤穂城断絶』が特に印象に残っている」と評し、「何人ものスターを作り上げ、息子さん二人(新田真剣佑と眞栄田郷敦)もスターになりつつある。その情熱は素晴らしいし、大変な方だと思います。亡くなられた時に思い出したのは、千葉さんと私が立ち回りで闘ったこと。私たちの時代、特に私は先輩がいらっしゃったからガンバレたし、目標としていつも背中を追い求めてきました。良い時代を過ごさせていただき、ありがとうございました」と追悼した。 『影の軍団III』と『写真甲子園 0.5秒の夏』で共演した秋野暢子は「千葉真一さん……残念です」とブログで書き始め、「若い頃、東映スタジオで殺陣を教えていただきました。とても優しく、丁寧に指導してもらい、お優しい素敵な方」と、最近は会えなかったが、世界を代表するアクション俳優から指導を受けた思い出を振り返り、「とても頑強でお元気な方が、コロナ感染されるなんて信じられません」とショックを隠せず、「どうぞゆっくりおやすみください。ご冥福お祈りしています。合掌」と哀惜した。 20代のころに『織田信長』で共演した野村真美は、「ジャパンアクションクラブにお友達もいて、一緒にお食事をしたことも。今朝、テレビで見て『あぁ、そうか…』って言葉がない感じ。胸がつまる思いがありました」と偲んだ。 『源義経』で共演した東山紀之は、悲報に「20代のころに共演させていただきましたが、千葉真一さんが時代劇の立ち回りにアクションを入れた最初の方なんです。今、世界中の映画で行われているアクションものの一番最初は千葉さんがお考えになったものなので、この功績は凄いです」と改めて存在の大きさを絶賛した。千葉の弟子・真田広之とメールで連絡し、「真田さんは千葉さんという父親を亡くした。これは自然の摂理で、しょうがないことなんですが、僕らはその教えを次の世代に伝えていくっていうのが、これからますます大事になるねっていうやり取りをさせていただきました」と誓い合ったことを明かしている。 『寺子屋ゆめ指南』で父娘役を演じた西田尚美は「千葉真一さん、信じられません 半年間、時代劇で私の父上様でした」と受け入れがたい心境を吐露した。この時代劇は千葉と真瀬樹里の初共演作でもあり、西田は「千葉さんと娘さんの樹里ちゃんと殺陣のお稽古とか…私がふらふらになっても、千葉さんと樹里ちゃんはとても楽しそうで。なんて素晴らしい時間だったんだろう」と振り返りつつ、「ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り致します」と結び、西田が2014年3月2日にリツイートした千葉、樹里、新田真剣佑、眞栄田郷敦の写真を添えている。 『悪名』で共演した的場浩司はオフィシャルブログで「ため息。笑顔が似合う気さくで偉大な先輩が逝かれた。“千葉真一さん”。偶然にも前回の写真は、千葉さんと初めて共演させて頂いた『悪名』のもの。京都のロケ現場で全身からオーラを放つ千葉さんに、緊張しながら御挨拶させて頂いた場面を思い出しました。優しい笑顔が印象に残っています。その後も御会いする度に色んなお話しを聞かせてくれました。千葉さんの御冥福を御祈り致します。朝からため息しか出ないよ」と沈痛の思いをつづった。 『柳生十兵衛七番勝負』で共演した村上弘明は、世界的アクションスターとして活躍してきた様を「アクション・スタントにアクロバットを取り入れ、時代劇・現代劇を問わず、魅せる演技を創り上げた人で、旧来の殺陣に変革をもたらした」と敬意を表した。「決闘ではその一振りに鍛錬を重ねた荘厳さが感じられ、たいへん充実した立ち合いになったと思います。芝居に対するほとばしる情熱がまるで純粋な子供のようで、それがとても印象的でした」と回想。その数年後に『柳生十兵衛七番勝負 最後の闘い』のリハーサル室に現れ、村上に「やってるねー!相談事があったら、いつでも連絡して。待ってるからさ」と名刺を渡し、立ち去ったという。天国の千葉真一へ村上は「とても残念です。ご冥福をお祈りします」と追悼した。
※ JAC OB OG
創設したジャパンアクションクラブ (JAC) からは、愛弟子たちが追悼コメントを捧げた。 金田治は「千葉真一さんとの思い出は数えきれないほどあるが、同じ作品に出演したことよりも、一緒に練習し、JAC の合宿、番組の企画でアメリカのアクション映画のロケ地を、千葉さんと二人で巡ったりなどのほうが印象に残っている。千葉さんの功績は、アクションの専門職を作ったこと。『自分だけが凄いアクションができてもダメだ』と言い、スタントマンが冷遇されていたなか、日本のアクションを変え、アメリカ映画に負けないスタントが日本でもできるというポリシーを持って続けてきた。僕は千葉さんが考えていたこと、やりたいことを今も自分なりに続けている。千葉さんがいなかったら僕はこの道に入っていないかもしれないし、アクションの仕事で飯を食えていないかもしれない。今の自分は存在していなかった」と回想し、“日本アクション界の偉大な父”の冥福を祈った。 志穂美悦子はブログで「見上げる空に」と題し、「それは、あまりに突然で、言葉にならない」と綴るのが精一杯ながら、「でもJACイズムは生きている。それぞれの場所で生きている」と恩師の死を悼み、JACへの思いを記した。 指導を受けてきた真田広之は、「子役の頃から、様々な事を学ばせて頂きました。何よりも、夢を抱くことの大切さを。志を受け継ぎ、走り続ける事が恩返しと心得ております。本当にお世話になりました。安らかにおやすみ下さい。合掌」と悼んだ。 伊原剛志はツイッターで、「千葉真一さん!40年前、18歳でJACに入って、目をかけて貰い『影の軍団IV』『コータローまかりとおる』に抜擢してくれた。二人きりになると優しく、京都で良く一緒に走ったりトレーニングもした」と思い出を回顧。「俺が役者であるキッカケになった人だ!有難う御座いました。心からご冥福をお祈りします」と人生に大きな影響を与えた名優をしのんでいる。
※ 親交の有った芸能人
千葉を敬愛する芸能関係者は多く、親交していた芸能人も各々追悼している。 池畑慎之介はブログで偉大な名優との思い出として」と3ショットを公開。しみじみ振り返りつつ、「千葉真一さんのご冥福を心からお祈りいたします。合掌」と哀悼した。 オスマン・サンコンは日本でタレント活動し始めたころに知り合い、それからは“千葉のアニキ”と慕っていた。「コロナでアニキが亡くなったのはショックだった。千葉さんはサムライね!アニキほど、アフリカのことを考えてくれた俳優はいなかった」と語り、千葉が創ったJAC (JAPAN ACTION CLUB) の顧問に令和4年4月、就任している。 (⇒ 2010年代) 空手道を通じ、交流があった長嶋一茂は「本当に残念」と切り出し、「千葉さんは僕が傾倒する空手団体の門下生で、四段を允許されているし、トーナメントにも出ている。それぐらい凄い方で、小中学校時代には千葉さんの強さについて話を聞いていた」と振り返った。2019年に開催された空手の世界大会では「お会いして。黒づくめのスーツでお洒落なハットを被って、『一茂くん』と来てくれて。本当に格好良くて、ほとんどしゃべれなかったが、こういう年の取り方ができたらいいなって。憧れの方だった」とも語った。「生き方や生きざまでの判断・決断だったと思うので、ワクチンを打っていれば…と悔やまれるが、打たなかった千葉さん、変な言い方ですけど、格好良かったなっていう風に思う。ただ残念であることは間違いないです」と偲んでいる。 (⇒ 極真カラテ)
○ 体操界・日体大
1964年東京オリンピックの体操競技で女子団体銅メダルを獲得し、日本体育大学で共に練習に励んだ千葉吟子は突然の訃報に、「選手としての実力は相当なものだった。在学中の1年半を一緒に練習していたが、男性なのに柔らかくて、とても素敵な演技をしていた。当時、同期のみんなは彼が入学した時からオリンピック選手になれると思っていた」と振り返り、1960年ローマオリンピックの体操競技にも出場した吟子は「怪我をしていなければ、一緒に出場していたかもしれない。すごくハンサムで、女性は密かに憧れや気持ちを寄せていた」と回想。「とにかく残念。新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) が終わったら、同期会をやろうって言っていたのに・・・。とても寂しいです」としんみり語った。 (⇒ オリンピックを目指して・プロレス界・器械体操) 日本体育大学の理事長を務める松浪健四郎は、1か月前に話したばかりだったので「残念だね・・・」と絶句した。2019年に芸能生活60周年パーティーが催された時、日体大の伝統応援“エッサッサ”を、80歳で現役学生と共に白いパンツ一丁でやり通した姿に、松浪は「あれはきつくて、でも引き締まった美しい肉体で見事なエッサッサを見せてくれた」と、衰えぬ身体に驚いている。同大学の特別卒業第1号に認定されたときは「すごく喜んでくれて、ずっと中退が心残りだったと思う。五輪壮行会にも二つ返事で駆けつけてくれた」と母校愛がとても強く、スターを育成したい気持ちから「アクションスター学科を作ってほしい」といつも話していたと回想し、哀悼の意を表した。 (⇒ 2010年代・最期・2022年・プロレス界)
○ 格闘技界

※ 極真カラテ
山崎照朝は自身の格闘技コラム“撃戦記”にて、「訃報には驚いた。暗いニュースだった」と嘆き、「千葉さんは極真会館の前身・大山道場に入門しており、私の大先輩。俳優になる前は器械体操の選手として、五輪を目指すほどの実力を持っていた。私が大学生の頃、稽古でご一緒したこともある。嗜むスポーツは多彩で、アクションスターとして格好いい存在だった」と、その経歴・印象や在りし日の思い出を振り返りながら、追悼を寄せている。 松井章奎は極真会館 松井派の公式サイトで「千葉真一氏の訃報に接し謹んで哀悼の意を表します」と声明を出した。大山道場で修行を始め、『けんか空手シリーズ』の主演、1977年にハワイ州で開催された極真日本代表 vs ハワイ代表の試合に参戦、ジャパンアクションクラブを率いて第3回全世界空手道選手権大会でアクションの演武、松井体制では総本部相談役として大会に出席するとファンにサインをねだられるなど、極真を世に広めた大きな功労を紹介・感謝し、冥福を祈っている。 (⇒ Sonny Chiba・2022年・親交の有った芸能人・空手道)
※ プロレス界
船木誠勝は「千葉真一さんがお亡くなりになられました。『新 影の軍団シリーズ』の撮影時に大変お世話になりました。本当にありがとうございます。心より御冥福をお祈り致します」とオフィシャルブログに綴った。「撮影でご一緒する機会が多く、千葉さんは筆で台詞を大きな紙に書き、台本の代わりに持ち歩いていた。私がYouTubeの脚本を書いているのも、あの時の千葉さんが頭の片隅にあるんでしょうね」と回想しつつ、大スターへ哀悼の意を表している。 永田裕志は「日本体育大学の偉大な大先輩で、何度かお会いさせて頂きました。いつも優しい言葉をかけて頂きました。ご冥福をお祈りします」とTwitterでお悔やみの言葉を寄せた。同大学の先輩に紹介されて知り合った永田は、「なんてご挨拶したらいいか分からなくて、ひたすら『新日本プロレスの永田裕志です』と自己紹介した。紳士というか、偉ぶることなく優しい言葉で接してくれて、いたく感動したのを覚えている」、母校で催された2016年リオデジャネイロオリンピックの代表になった選手の壮行会では「敬語でお話され、こちらが申し訳なく思った」、アントニオ猪木や藤原喜明らが参加した会合でも「優しく声をかけてもらったことが忘れられない」、「かっこいい方だったなあ。アクションスターの先駆けのような存在だったし。心よりお悔やみ申し上げます」と振り返り、しんみりと悼んでいる。 (⇒ 体操界・日体大)

◎ 追悼(海外)
アメリカ合衆国では、『バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)』や『ハリウッド・リポーター』といった業界誌はもちろん、『ニューヨーク・タイムズ』や『ロサンゼルス・タイムズ』、『ワシントン・ポスト』といったアメリカの主要一般紙でもその死が報じられた。映画にしてもテレビドラマにしても自国製の作品のみで十分に調えて供給できるアメリカでは、外国人俳優に対する一般人の関心が決して高くないことを踏まえると、サニー千葉は例外的存在だったと言える。 イギリスのインデペンデントは「『キル・ビル』などで知られる日本の有名なベテランスターは、新型コロナが原因で死去した」と速報し、フランスのBFM TV は「彼は絶望の危機に瀕している日本映画の真の伝説」と評し、世界中の千葉作品を愛したファンたちも、SNS などで「RIP(安らかに眠れ)」とメッセージを投稿した。

● 没後


◎ 2021年
数々の代表作を放送、パッケージ販売、リバイバル上映など、追悼企画としてそれぞれ催された。 スカパー は死去翌日の8月20日、テレビ映画『キイハンター』『現代鬼婆考 殺愛』のほか、映画『激突 殺人拳』『やくざ刑事シリーズ』『麻薬売春Gメンシリーズ』『あゝ同期の桜』『仁義なき戦い 広島死闘篇』『いつかギラギラする日』、時代劇『赤穂城断絶』『太閤記』『徳川家康』など、主演・出演した作品を放送すると発表した。BSテレビ東京は24日にアメリカ映画『エイセス / 大空の誓い』を29日21時から追悼放送するとアナウンス。同局プロデューサーは「敬老の日に、世界の名優たちと同列に活躍する千葉真一さんへリスペクトを込めて放映する準備をしていたが、突然の訃報により急遽追悼放送になってしまった…。(自身が)昭和の映画少年として、千葉さんが出演する数々の作品から影響を受けたものは計り知れず、その勇姿を心に刻んでほしい」とコメントを寄せている、東映チャンネルは「映画界最強の男 千葉真一特集」 と銘打ち、11月は『魔界転生』『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』『『ゴルゴ13 九竜の首』『けんか空手 極真拳』『けんか空手 極真無頼拳』『やくざ刑事 俺たちに墓はない』、12月は『柳生一族の陰謀』『仁義なき戦い 広島死闘篇』『狼やくざ 殺しは俺がやる』『激突 殺人拳』『殺人拳2』『警視庁物語 不在証明』、翌年1月は『カミカゼ野郎 真昼の決斗』『直撃 地獄拳』『日本暗殺秘録』『忍者武芸帖 百地三太夫』『狼やくざ 葬いは俺が出す』『逆襲 殺人拳』、翌年2月は『直撃地獄拳 大逆転』『少林寺拳法』『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』『ボディガード牙』『子連れ殺人拳』『空手バカ一代』と、4か月間に代表作24本を特集放映した。時代劇専門チャンネルは「ありがとう!千葉真一&12316;ジャパニーズ・ニンジャ・アクションスター&12316;」と題して11月に『服部半蔵 影の軍団』と12月に『柳生一族の陰謀』を各々全話ラインナップし、『里見八犬伝』『伊賀忍法帖』『赤穂城断絶』の映画と併せて放送した。 東映ビデオは9月10日に代表作の『逆襲 殺人拳』と『子連れ殺人拳』を、同年12月8日に初DVD化して販売することを発表し、販売した。 新文芸坐では10月2日に『ボディガード牙』『激突 殺人拳』『直撃地獄拳 大逆転』『子連れ殺人拳』のオールナイト上映会が。

◎ 2022年
誕生日の1月22日、ジャパンアクションクラブ (JAC) 出身の栗原敏・関根大学・若山騎一郎らを発起人とした「お別れの会 &12316;さらば!千葉真一&12316;」が東京都港区の増上寺・光摂殿で営まれた。『戦国自衛隊』のオフショットとして撮影された写真が遺影として飾られ、足元には同作で使用された日本刀とヘルメットが添えられた。BGMとしてお気に入りだった「ララバイ・オブ・ユー / LULLABY OF YOU」などが流された。愛用の空手着や主演を務めた時代劇『柳生十兵衛』の眼帯、刀など私物から撮影で使用された小道具まで幅広く展示された。長男の新田真剣佑と次男の眞栄田郷敦は欠席し、手紙で連名のコメントを寄せた。 2月20日、沖縄県那覇市ぶんかテンブス館にて、沖縄映画研究会は「沖縄への視角 千葉真一主演作を手がかりとして」と題し、第10回研究発表会をオンライン開催し、主演作や人柄を振り返った。沖縄を舞台・題材にした千葉主演作品には「沖縄と本土の深い溝を描かれている」と同会代表の世良利和は指摘し、昭和51年に国内公開された『脱走遊戯』、『沖縄やくざ戦争』などを紹介。世良は「他の役者も沖縄のやくざを演じているが、千葉さんは別格。うちなーぐちも話し、三線にあわせて空手の演武もやって見せる、堂々たる主演作だ」と評した。このほかには台湾から国立政治大学非常勤講師の李政亮による発表や、映画監督の當間早志とNPO法人・シネマラボ突貫小僧代表の平良竜次は「千葉さんは演技や役作り、アクションで創意工夫をする方だった。役者だけでなく、作り手側の人でもあった」と言及。併せて平成28年に収録した千葉のインタビュー動画を初上映し、千葉と中島貞夫のインタビュー動画も流されている。 3月27日に開催された第94回アカデミー賞では、授賞式恒例の追悼コーナーであるにて、「SONNY CHIBA ACTOR MARTIAL ARTIST」と紹介され、俳優だけでなく、格闘家としても、その偉業をたたえられた。 8月17日、真瀬樹里を喪主として「千葉真一さんを偲ぶ会」がリーガロイヤルホテル東京で催された。発起人は若泉久朗(KADOKAWA執行役員)、松浪健四郎、熊谷俊人、倉田保昭、中島貞夫、金子修介、北村龍平、深作健太、谷隼人、真田広之、兵頭慶爾(サンライズジャパン代表取締役)、金田治、西本良治郎(ジャパンアクションエンタープライズ代表取締役副社長)、鈴木哲也(アストライア代表)。主催:アストライア、協力:ジャパンアクションエンタープライズ、東映エージエンシー。白い胡蝶蘭や白いカーネーションなどで彩られた祭壇には真瀬が選んだ写真と、出演した映画のポスターや野際陽子らとのプライベート写真などが飾られた。午後1時から関係者の部、午後3時からジャパンアクションクラブ関係者の部では約100人が参列し、午後5時から一般の部の3部に約50人が来場し、それぞれ献花を行った。千葉と生前親交のあった芸能関係者らが続々と詰めかけ。北島三郎、三田佳子、志穂美悦子、明石家さんま、関根勤、小堺一機、坂上忍、伊原剛志らより、花が届けられた。真剣佑と郷敦は仕事で欠席したが、連名で「またこうして故人の思いを皆さまと共に分かち合い、新たな絆が生まれました」とメッセージを寄せた、新田真剣佑と眞栄田郷敦は一緒にそれぞれの結婚を発表した。真剣佑と郷敦は「父の誕生日である1月22日に揃って発表しよう」と事前に決めていたので。波島は古典的な仮面ヒーローの王道を行ったが、千葉はスーツアクターも兼務して、器械体操を活かしたアクションをふんだんに取り入れ、新しい七色仮面を編み出した。その演技・スタント・擬斗は、後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に、大きな影響を与えている、翌年の主演映画『宇宙快速船』のアクションヒーローに繋がっていく。 (⇒ アクションスター)

◎ アクション映画
1961年の『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』では。危ないシーンはスタントマンに任せるのが主流な時代に、「吹き替えせずにできる」と映画スタッフへ言ったので、「さすが日体大だけに凄いことをやる」と評された。『風来坊探偵シリーズ』を監督した深作欣二は、文芸ものよりもアクション作品を好み、「肉体こそ俳優の言葉」が口ぐせだったので、第二作『風来坊探偵 岬を渡る黒い風』でも、10mぐらいの崖から海に飛び込み、屋根の上から走行する自動車に飛び降りるスタントを演じさせている。ニュー東映のホープとして主演した『ファンキーハットの快男児シリーズ』では、カーチェイス、左右に開脚して2人の敵を同時に倒す跳び蹴り、器械体操で培った筋骨隆々な肉体美を、大車輪で披露している。こののち千葉と深作は17の映画でコンビを組み、ヒットを連発していく。 (⇒ アクションスター・キイハンター) 深作欣二の評価とは対照的に高倉健から「アクションスターにはアクションしかできないという評価もあるから、そのイメージを世間に持たれないほうがいい」とアドバイスされ、ドンパチの活劇だけでなく青春ものをやりたいなとも思っていた。宣伝担当の福永邦昭は「器械体操で鍛え上げた肉体と抜群の運動神経で、新しいアクション俳優の誕生と騒がれたが、東映が彼を生かしきれなかった。 (⇒ 格闘映画) 1966年の『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日台合作)は台湾でロケーション撮影され、離陸する軽飛行機の翼に飛びつき乗り込むスタントをした。疾走する自動車を追いかけアンテナに飛びつくスタントでは、後輪の跳ねた石が脛に突き刺さり、台湾で一週間入院する代償を払っている。傷だらけになりながらもスタントを演じきったが。同シリーズは後の作品にも影響を与えており、1999年のアメリカ映画『マトリックス』でキアヌ・リーブス扮する主人公が片手側転しながらマシンガンを連射するシーンは、第1作の『やくざ刑事』で千葉が右手で拳銃を撃ちながら、片手で側転するスタントが原型となっている。 (⇒ キイハンター・格闘映画・ファン) 芸能生活20周年記念作品である『戦国自衛隊』(1979年)で、アクション監督として撮影を自ら行っており、これらの敢行はスタッフをとても心配させた、『体が動くからアクション俳優をやれ』と要望通りに何でも演じてきたことで、日本では逆にアクションのみが先行してしまい、あまり良くないイメージを持たれた」と複雑な心情を吐露している。 (⇒ アクションスター・ジャンルを越えた活躍)

◎ 音楽
1963年に「男一匹生きるなら」で歌手デビュー、1967年には“千葉真一とザ・サタンズ”を結成した。山頂駅を出発した谷を行き来するロープウェイにワイヤを投げてぶら下がってからよじ登り、走行する列車やバスに飛び降りて屋根で敵と格闘、自動車から並走する軽飛行機に飛び移る、雪渓から回転しながら転落、滑落しそうな滝の前で格闘など、数々のスタントを演じているがケガも絶えず、大きなものでは左足首骨折や日本刀で腕を斬られたこともある。 (⇒ アクション映画) 本作の脚本は映画に比べるとアクションが詳細に指定されていなかったので、良いものを作りたい一心で積極的にアイデアを出すが、経費を気にするスタッフと対立することもあった。しかし視聴率が上がっていき、千葉のアイデアはどんどん採用されていくこととなる。他の作品でも俳優という立場ながら、撮影現場でいろいろと提案し続ける“米国流”の仕事の進め方は、深作欣二のようにアイデアを喜んで受け入れる者もいたが、対照的に煙たがるスタッフもおり、後年渡米する理由の一つとなっている。 国内では1969年の近代映画10月号臨時増刊では『千葉真一特集号』を刊行され、週刊マーガレットでは同年のNo.17から『千葉真一物語』が連載されるなど、人気はさらに上昇していった。 (⇒ ファン(海外)) 香港・タイ王国で『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年)、『激殺 邪道拳』『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年)、『HAKEN 覇拳 ふりむけば修羅』『地雷原 A mine field.』(1992年)など、千葉の主演・監督作品がロケーション撮影された際には現地で大歓迎されている。中島貞夫は『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』をタイの製作会社からの資本参加を得てロケができた理由の一つに、『キイハンター』が当地で放送されており、千葉の人気が高かったことを挙げている。 (⇒ ファン) 共演者の野際陽子は「ともかく熱意が凄くて、ケガすると普通はビビるのがそれ位以上のことに挑戦して成功する“怖いもの知らず”。でもサボテンだけは怖いんですって」と言っている。 (⇒ 音楽) 宮内洋は千葉が爆発の中を駆け抜けるシーンを横のアングルから見ていた時、「カメラを通して観るように」と言われ、安全のために千葉は火薬と距離を取りアクションをしていたが、レンズの位置からみると「今にも火薬でやられてしまうような迫力だった」とその迫力の違いに驚愕していた。『仮面ライダーV3』のオファーを受けた宮内は演技づくりのために『仮面ライダー』を何本かみて、「“アクションの神様”である千葉真一さんから教えを受けた私なら、変身前のアクションシーンをもっと盛り上げられると思った」とその影響を認めている」と、アクションのノウハウを千葉から享受されていた。 (⇒ アクションスター) 1969年、『キイハンター』を休んで映画『日本暗殺秘録』に主演。TBSやファンから復帰の要望が高まっていたが。主な門下生には春田純一・金田治・西本良治郎・山岡淳二・大葉健二・高橋利道・栗原敏・井上誠吾・志穂美悦子・真田広之・甲斐将馬・関根大学・稲田龍雄・斉藤一之・黒崎輝・崎津隆介・山田一善・山本亨・渡洋史・高木淳也・伊原剛志・堤真一・真矢武・土家歩・村松美香・山口祥行らがおり、俳優・アクション監督・スタントマン・スーツアクターで活躍する人材を輩出、石橋雅史が空手道をそれぞれ教えていた。 (⇒ 空手道) 千葉真一の親友・夏八木勲や、桜木健一、ら所属していない俳優も練習に通っていた。 トップスターでありながら、志穂美悦子の『女必殺拳』、真田広之の『忍者武芸帖 百地三太夫』『吼えろ鉄拳』『伊賀忍法帖』、大葉健二の『宇宙刑事ギャバン』、黒崎輝の『伊賀野カバ丸』『コータローまかりとおる』、村松美香の『旅少女』など、教え子たちの主演作品に助演として出演することも多い。共に格闘映画を製作してきた橋本新一(脚本家・助監督)は「東映の大部屋俳優だけでは彼の擬斗を活かせることができなかったから、JAC を作ったことで格闘映画の質は向上した」と評している。 30代前半でJAC創設を経て育成を続け、志穂美悦子の『女必殺拳』、真田広之の『忍者武芸帖 百地三太夫』『吼えろ鉄拳』『伊賀忍法帖』、大葉健二の『宇宙刑事ギャバン』、黒崎輝の『伊賀野カバ丸』『コータローまかりとおる』、村松美香の『旅少女』など、教え子たちの主演作品に助演。しかし狂犬のようなヤクザ・大友勝利を演じることが決まっていた北大路欣也が「大友は粗暴で下品すぎて、どうしても自分では演じられない。山中をやらせてほしい」と言い出したことから、プロデューサーの日下部五朗と宣伝担当者らは千葉を突然訪ね、「山中と大友を交代してもらえないか」と依頼してきた。北大路に役を譲ったのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて二度目であった。 ブロマイドの売上げが俳優部門で4年連続No.1のアイドルでもあったが、過激なセリフに悩みながら「これまで良いと思ったものを全て捨てる」という姿勢で、サングラスを常時掛けて眼を隠し、唇を裏返しにして糊付けするなど、役柄にふさわしい演技・扮装を工夫した。そして作り上げた大友勝利はシリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気をつかんでおり、後のヤクザ映画でも「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となっている、それを聞いた千葉は「とても自信がついた。悪役の妙味を知ることができ、実に大きなものを与えてくれた作品だった」と語っている、『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来、10年ぶりの格闘映画にクランクインしたため、『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現しなかった。

◎ 格闘映画
1963年から始まる『柔道一代シリーズ』に主演したのが最初の格闘映画で、第二作『柔道一代 講道館の鬼』(1964年)の乱闘シーンで肩を骨折してしまった。 (⇒ 極真カラテ・アクション映画・空手道) 1973年の『ボディガード牙シリーズ』で、10年ぶりに格闘映画へカムバック。翌年の『激突 殺人拳』は、ヤクザ映画が下火になっていた東映にとって、久々の大ヒットを飛ばす作品となった。アメリカ合衆国・ヨーロッパ・オーストラリア・カナダの映画会社も『激突 殺人拳』を買い付けに来ていた。忍者の末裔に扮した同年の主演作『直撃 地獄拳』は、千葉のスピードあるアクションと石井輝男のユーモアとウィットを盛り込んだ演出が組み合わされた作品で、1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に入り、アメリカでは『The Executioner』というタイトルで1999年現在、10万本以上のビデオが売れている。 (⇒ Sonny Chiba・海外進出・空手道) 海外ではマーシャルアーツの大スターである"Sonny Chiba"の熱狂的な人気は根強く」と述べている。 (⇒ ファン(海外)) 岡田茂は「(主人公と)牛との格闘を欧州ではびっくりして、えらく受けている。東南アジア映画祭でジャカルタへ行ったときも、抜群の動員力と人気を上げていた。東洋でナンバーワンなんだから、あのアクションをやらせたら世界に(千葉真一以外)いないんじゃないかな、「まだその時期ではない」と認められなかった。 (⇒ Sonny Chiba・空手道)

◎ 人間ドラマ
アクションスターとして大画面をいっぱいに暴れまわっていた同時期、アクション・格闘・スタントを主としない対照的な作品に主演をし、静の演技を見せ、主戦場のアクション映画・アクションドラマで魅せる姿とは対照的であった。深作は従来の時代劇でなく、もっとテンポのあるアクション時代劇を作りたかったので、その期待に応えられる俳優は千葉真一、ただ一人しかないと見定めていた。2012年のハリウッド映画『アベンジャーズ』のサミュエル・L・ジャクソンが、扮した役柄は千葉の柳生十兵衛を参考としているなど、後世の作品にも影響を与え、根強い人気がある。しかし十兵衛で長時間、左目に眼帯をしていたため千葉の右目は酷使され、視力を失い、人工レンズを入れる代償も払っていた。 (⇒ ジャンルを越えた活躍・ファン) 千葉真一演ずる剣豪・忍者は、空手や器械体操の技を取り入れたアクロバティックな殺陣で、人気を得ている。その身体能力を活かしたド迫力の殺陣を時代劇の芝居に持ち込み、これまで表現できなかったアクロバティックな動きが、時代劇の殺陣で観れるようになった。時代劇の表現が定形化し、大人しくなっていく中で、新たな可能性を追求・挑戦し続けたスターである、共演した内野聖陽は と語っている。 市川猿之助は『風林火山』がテレビドラマ初出演だったが、「現場がよかった。千葉真一さんは僕に付きっきりで、映像のことを教えてくれた」と撮影時の様子を振り返っている。

◎ 演劇
1980年代、定期的にJACミュージカルを公演し、成功を収めていた。(⇒ ジャンルを越えた活躍) JACの設立当初は吹き替えせずにアクションを演じられる俳優・スタントマンを育成する場だったが、ウエスト・サイド物語に感動して「いつかはミュージカルをやりたい」という夢を抱いていた、「肉体は俳優の言葉」というポリシーに「五体で喜怒哀楽を表現する」を加えて生徒を育てていく。 ハリウッド映画だけでなく、他の外国作品にも出演しており、香港映画では『風雲 ストームライダーズ』が代表作である。 2003年、クエンティン・タランティーノのアメリカ映画『キル・ビル』では“百代目 服部半蔵”として出演と、ユマ・サーマン、ルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導をした」と、一方のリューは「Sonnyは本当にいろいろなことを教えてくれた」と、それぞれ語っている。 後輩の松方弘樹は千葉が海外で活躍している要因を と評している。

● 人物


◎ 器械体操
君津市立君津中学校へ進学すると、進路に影響を与えることとなる体育教師の松本と出会う。松本は千葉を陸上競技・バレーボール・野球(投手で4番打者)など、複数の大会に出場させていた。1952年ヘルシンキオリンピックが開催されると、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、一大ブームが発生する。松本はその時勢に乗り、「体操部を創るから部員になれ」と勧誘したので、運動部を掛け持ちしながら練習し始める日々となった。勧められての体操競技だったが、やがてオリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、松本に相談すると「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされた。進学校のため躊躇していると、松本は練習後にも勉強をみてくれる先生を手配し、その甲斐有って合格。1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。 (⇒ オリンピックを目指して) 1957年、日本体育大学体育学部体育学科へ進学。同級生には1964年東京オリンピックの跳馬金メダリストの山下治広がおり、ヘルシンキオリンピックの跳馬銀メダリスト・竹本正男に指導を受けた。大学2年生の夏、跳馬の着地で失敗し、腰・両膝を痛めてしまう。練習とアルバイトの掛け持ちで身体を酷使していたことも加わり悪化し、医者から「1週間運動禁止」と宣告された。1週間も練習を休めば差がつくこの時期に、選手を続けることが困難となる。山下は「日本の体操選手が不得意にしているあん馬が彼は得意だった。でも大学二年の秋、跳馬の練習中に着地を失敗してアキレス腱と腰を痛めてしまって…。あのまま体操を続けていれば、間違いなく東京オリンピックでメダルを獲得できたのに惜しかった」と評し、その実力・才能を惜しんでいる。 (⇒ オリンピックを目指して・2010年代・体操界・日体大)

◎ 空手道
東映に入る前から大山道場に通っており、きっかけは日体大学生の頃、大山倍達を知っている韓国人から紹介を受け、入門した。主演格闘作品で、幾度となく敵役を演じていた石橋雅史は、極真カラテの先輩にあたる。大山は「学生時分から千葉は道場へ来ており、仕事の関係でまとまった稽古をしていないまでも、門下生の序列でいうと相当古い方になるんだよ」と語っており、大山と組手もしている。 名誉段位ではなく、一般門下生と同様に昇段審査を受けており、1965年10月15日に黒帯(初段)を允許。山崎照朝は、大学生の時に極真会館本部道場で一緒に修練したと証言している。1977年2月3日に弐段を越えて飛び段で参段、1984年1月20日に四段へ昇段した。 (⇒ 極真カラテ・格闘映画) 1977年3月16日に空手道による真剣勝負をすることが発表され、4月にハワイで開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦した。他の日本代表メンバーには大石代悟・二宮城光・東孝・中村誠などがおり、対戦相手は「前アメリカ東海岸空手チャンピオンのグレッグ・カーフマン」という180cm以上あるネグロイドであった。通常の空手技の他に、跳び右後ろ回し蹴りや胴回し回転蹴りの元となった前方宙返りして踵で蹴るなど攻撃して、第2ラウンドに二段蹴りでKO勝ちを収めた。結果的に同年5月14日に国内で封切り公開された『空手バカ一代』の宣伝にもなった。大山倍達は「千葉真一の空手映画は欧米で非常なブームとなっており、本職の空手家らの『Sonny Chiba(サニー ちば)の空手は本物』という批評が聞かれていた。極真カラテの黒帯である千葉だからそれも当然で、この対抗試合に出場してその実力を示したのは立派と言うしかない」と述べている。 (⇒ Sonny Chiba・2022年) 1984年1月20日 - 22日に開催された極真会館主催の第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では志穂美悦子・真田広之らジャパンアクションクラブ (JAC) メンバーを率い、演武とテレビ中継のゲスト解説をした。同年8月、極真会館ブラジル支部長・磯部清次の招待により、志穂美・真田・大葉健二を連れてサンパウロへ行き、25日 - 26日に開催された第1回日伯・第8回ブラジル極真空手道選手権大会でも演武を行った。 (⇒ 極真カラテ) 日本・アメリカ合衆国・東南アジアと世界各国で後進の育成・空手道普及の活動をしており、毎年10月には旧武徳殿がある京都市武道センターで少年少女オープン空手道選手権大会「千葉真一総裁杯」を催している。『新 影の軍団シリーズ』で共演した高野八誠は「最終章のラストシーンで千葉さんと殺陣をするんですが、休憩中に千葉さんが後ろ回し蹴りを見せてくれて、すっごい感動しましたね。動きは昔と変わってないなって、改めてビックリさせてもらいました」と、当時66歳の千葉について語っている。 (⇒ 格闘映画・時代劇) 『キネマ旬報』のライター・荻原順子は、自分の子供が小学生の時に、新田真剣佑・眞栄田郷敦と同じロサンゼルスの極真カラテ道場に通っていたことがあり、稽古や昇級試験を見学しにきた千葉真一と会っている。その道場の先生は弐段だったので、訪れると大いに緊張し、恐縮していたが、介することなく「みんな、頑張って!押忍!」と極々短く挨拶。気さくに居合わせた他の親たちに話しかけ、子供たちのスパーリングをにこやかに眺めていたのが印象的だったと、荻原は述べている。 (⇒ 最期・家族)

◎ ファン

○ ファン(国内)
日本では秋山幸二・今井雅之・小倉久寛・尾崎将司・竹中直人・吉川晃司・関根勤・高平哲郎、などのファンがいる。 秋山幸二は「あなたにとってサムライとは?」という問いに「千葉真一の柳生十兵衛は、生きるか死ぬか究極の真剣勝負というイメージがいい」と評した。 (⇒ 2010年代・キイハンター・時代劇) 小倉久寛はアクションヒーローを聞かれ、「千葉真一さんです」と回答・大葉健二・志穂美悦子・関根大学・山田一善・渡洋史、などがいる。 (⇒ ジャパンアクションクラブ (JAC))
○ ファン(海外)
日本国外の熱烈なファンにはキアヌ・リーブス、ジャッキー・チェン、ジョナサン・ノーラン、ブルース・リー、リュ・スンワン。 ジャッキー・チェンはスターとして認められだした頃に東映京都撮影所へ出向き、千葉を表敬訪問して念願であった対面を実現した」と語り、尊敬する俳優に「ジェームズ・ディーン、ジャン=ポール・ベルモンド、高倉健、若山富三郎、ゲイリー・クーパー」、「親友は夏八木勲」、東映ニューフェイスの先輩でもある高倉健は「お互いに無口なところが妙に気が合ってね。普通なら男同士、酒でも飲んで語り合うもんだが、酒を飲めない俺に気を使ってか、喫茶店でコーヒーを飲んだりメシを食いに行ったりで、内気な恋人同士のデートみたいだった。それでも楽しいんだなあ。日体大に在学していた千葉が教育実習で指導した生徒が中尾で、教師と教え子の関係でもあったが、理由もなく反抗して授業をよくサボっていた。千葉は舞台へ上がらず、カメラ片手に客席からメンバーに声をかけて裏方に徹し、場を盛り上げていた。そんな千葉に川谷拓三は感謝し「ワシ、生まれて初めてこんな派手なスポットライトを浴びましたわ。ホンマおおきに!」と号泣していた、らと親交がある。国中を席巻したカリスマであり、正真正銘の映画スターとして、醸し出す雰囲気や存在感が全然違う」、サミュエル・L・ジャクソンは「タフガイを演じる時には、いつも千葉さんの演技を参考にさせてもらっているんだ。カリスマ的な存在感のある、最高にクールな俳優だと思うよ」、大木凡人は「とにかくカッコ良く情熱をもったスターです」、小泉孝太郎は「撮影現場に入られただけで、見えていないのにそれと分かる雰囲気を感じるくらい、ものすごい存在感でした。何かに例えるならば、サッカーコートジボワール代表のディディエ・ドログバのような。千葉さんが画面の前にお立ちになると、一気に何かが激変します」など、異口同音に「(千葉さんには)オーラやカリスマ性がある」と証言している。 真樹日佐夫は「とても折り目正しいところに、淡い好感をおぼえた」、「ニューヨークで酒を酌み交わした時、いくら飲んでも崩れを見せぬ見事な酒品だった。 戸田菜穂は1990年の『第15回 ホリプロタレントスカウトキャラバン』で、約3万4千人の応募者のなかからグランプリに選ばれるが、発表の直前に後ろで控えていると、審査員の1人だった千葉に「いつか共演しましょうね」と声をかけられ、「え、もしかして?!」と嬉しさや驚きを飲み込んだのが「芸能界での一番最初の思い出」と振り返っている。

◎ 好尚

◇ 趣味 :高校在学中からハリウッド映画のファンで、アラン・ラッドの『シェーン』やゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』など、西部劇・アメリカ映画を夢中で観ていた、スポーツカーではマツダ・コスモスポーツ(白)とフォード・マスタング・Mach1、マーキュリー・クーガーへ乗り継いだ。トヨタ・カリーナのCMに出演した頃、トヨタよりカリーナの新車を毎年提供されていたので1年間乗った後、志穂美悦子や真田広之らジャパンアクションクラブ (JAC) のメンバーに譲っていた。
◇ 健康法 :健康法は一日一食を心掛け。
◇ 思考 :「フリーメイソンリーの会員である」と『週刊文春』の2021年1月14日号で記事になり、「友達やまわりに何人もいたんで、いろいろと興味津々、探索しているところ」と取材に答えた。2022年8月19日付の『デイリー新潮』によると、日蓮正宗に帰依し、2019年3月11日付の御授戒と同年12月20日付の御本尊下付願があると配信された。

◎ 家族
福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕。父親は芸能界入りを猛烈に反対して勘当していたが、その後は観るのを楽しんでいる。 (⇒ オリンピックを目指して) 弟の矢吹二朗が中学生になると東京都へ呼び寄せ、学校にも通わせ、育ち盛りの矢吹にはご飯を食べさせ、千葉はコッペパンに水という日々もあった、日本に居たい野際の意志不一致から、その女性とは真剣佑・郷敦ともども良好な関係を続けていた。
・ 日本盛 - 清酒 日本盛(1970年 - 1971年)
・ オリエント時計 - 液晶クオーツ(1976年 - 1978年)
・ ハウス食品 - ジャワカレー(1976年 - 1982年) ※野際陽子と共演。
・ 合同酒精 - ワリッカ(1979年 - 1984年)
・ PHILIPS - フィリシェーブ(1981年 - 1982年)
・ 洋服の青山(1982年 - 1986年)
・ ニコちゃん食品 - いももちおふくろさん(1985年) ※野際と共演。北海道のみ。
・ がまかつ - 釣竿がま鮎マークII(1985年)
・ 原ヘルス工業 - バブルスター(1989年 - 1990年) ※梅宮辰夫・松方弘樹・北大路欣也・山城新伍と共演。
・ JTB - エース「夫婦いい旅」(1991年) ※野際と共演。
・ サントリー - ビア吟生(1991年 - 1992年)
・ 登別伊達時代村(1992年) ※北海道のみ。
・ 関西デジタルホン - しゃべるならデジタルホン(1995年 - 1997年) ※クエンティン・タランティーノと共演。関西のみ。
 ・ しゃべりすぎの男 税関篇
 ・ しゃべりすぎの男 喫茶店篇
 ・ しゃべりすぎの男 銭湯篇
・ 千葉県選挙管理委員会 - 千葉県知事選挙「千葉県にあなたの真剣な一票を」(2001年)
・ キリンビバレッジ - 超力水(2002年)
・ サントリー - なっちゃんスムージー(2004年)
 ・ ノドボトケさん・とても新しい感覚だ 証言篇
 ・ ノドボトケさん・スムージィー 証言篇
 ・ ノドボトケさん・発音がなってないな 証言篇
 ・ ノドボトケさん・おじさん頭が悪いから 証言篇
・ ニューギン - CR新 影の軍団「忍者隊」(2006年)
・ フィールズ - CR七人の侍「雨の中の戦い」(2008年)
・ ニューギン - CR柳生一族の陰謀(2011年)
・ 百年の活力 - 砂漠人参カンカ(2013年)
・ エバーライフ - 鮫肝海王(2013年)
・ 湯浅温泉 湯浅城(2013年) ※和歌山県のみ。
・ NTTドコモ - ドコモ光「何がはじまる?」篇(2015年 -) ※渡辺謙・安藤玉恵・佐藤江梨子・マキタスポーツと共演 兼 ナレーション。

● 監督・演出・監修
☆出演兼務の作品は出演を参照。
◇ 映画
・ 燃える勇者(1981年、東映)- アクション監修
・ リメインズ 美しき勇者たち(1990年、松竹 / サニー千葉エンタープライズ / JTB / 京都映画)- 監督 兼 製作
◇ 演劇
・ スタントマン物語(1981年7月3日 - 7月28日、新宿コマ劇場、第1回JACミュージカル)- 演出 ※深作欣二監修、『柳生十兵衛 魔界転生』と同時上演。
・ アドベンチャー 青春の出発(1986年4月3日 - 4月27日、第6回JACミュージカル)- 演出 兼 企画 ※『スタントマン 愛の物語』と同時上演、新宿コマ劇場開場30周年記念。
◇ 商品
・ 斬(2011年)- 徳島産・芋焼酎の監修

● 音楽
☆太字は作曲兼務。声の出演は声優を、写真のみの出演は肖像を、それぞれ参照。
◇ シングル
・ 男一匹生きるなら(1963年、歌謡コダマ)
・ ともしび(1963年、特選歌謡コダマ)
・ 本当だぜ 君(1963年、特選歌謡コダマ)
・ 東横線で帰ろうよ(1963年、歌謡コダマ)
・ くらやみ五段(1965年、コダマプレス)
・ くらやみなげのうた(1965年、コダマプレス) ※楽曲「くらやみ五段」のB面。
・ 瞼のうた(1965年、コダマプレス)
・ 素敵なカミカゼ野郎(1966年、クラウンレコード)
・ 恋のアドベンチャー(1966年、クラウンレコード) ※楽曲「素敵なカミカゼ野郎」のB面。
・ 太陽も笑っている(1966年、ミノルフォン)
・ 妻に捧げる歌(1966年、ミノルフォン)
・ 握手をしよう(1968年、キングレコード)
・ 母のひざはゆりかご(1968年、キングレコード) ※楽曲「握手をしよう」のB面。
・ 男の子守唄(1968年、キングレコード)
・ 女の片えくぼ(1968年、キングレコード)
・ 一匹狼(1970年、キングレコード)
・ 白いワゴン(1970年、キングレコード)
・ 俺たちに墓はないから(1970年、キングレコード) ※映画『やくざ刑事 俺たちに墓はない』の主題歌。
・ 夕日に立つ乙女(1970年、キングレコード) ※楽曲「俺たちに墓はないから」のB面。
・ 野良犬のブルース(1971年、キングレコード)
・ 白い月の浜辺(1971年、キングレコード)
・ 葬いは俺が出す(1972年、キングレコード) ※映画『狼やくざ 葬いは俺が出す』の主題歌。
・ 母を亡くした禿鷹よ(1972年、キングレコード) ※楽曲「葬いは俺が出す」のB面。
・ 流れ唄(1973年、キングレコード)
・ 街角のエトランゼ(1973年、キングレコード)
・ 旅人ひとり(1975年、テイチクレコード)
・ 限りなき愛 〜千葉真一のラブテーマ〜(1976年、テイチクレコード)
・ 小さな旅立ち(1976年、テイチクレコード)
・ 曠野(1985年、VAP)
・ 影(1985年、VAP)
・ 粋な関係(2020年、日本コロムビア) ※楽曲「ごめんね大丈夫」のB面、清水節子とのデュエット。
◇ アルバム(オムニバス含む)
・ 東京紳士(1963年、別冊歌謡コダマ) ※『歌う東映スター』の1曲目に収録。
・ アクションスターNo.1 - 千葉真一の魅力(1971年、キングレコード)
◇ 作詞
・ 光への叫び(1981年) ※ミュージカル『スタントマン物語』の主題歌。
・ 誓い(JACのテーマ)(1983年) ※時代劇『影の軍団III』の主題歌。
◇ エグゼクティブ・プロデューサー
・ 青春ワンウェイ(1983年) ※高木淳也のアルバム。

● 著書




・ ※監修


● 参考文献


























「千葉真一」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年3月29日4時(日本時間)現在での最新版を取得

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