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高畑勲


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高畑 勲(たかはた いさお、1935年〈昭和10年〉10月29日 - 2018年〈平成30年〉4月5日)は、日本のアニメ監督、映画監督。畑事務所代表、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事。日本大学芸術学部講師、学習院大学大学院人文科学研究科主任研究員、多摩美術大学客員教授などを歴任、紫綬褒章受章。映画プロデューサーや、フランス文学(ジャック・プレヴェール)の翻訳も手がけている。 1959年に東映動画に入社。『太陽の王子 ホルスの大冒険』で長編をはじめて演出した後、1971年からAプロダクションに移る。

● 来歴


◎ 生い立ち
1935年(昭和10年)、三重県宇治山田市(現・伊勢市)で、高畑浅次郎の三男として生まれる。父の浅次郎は当時中学校の校長であり、戦後は岡山県の教育長となり、後に同県初の名誉県民にまでなった人物であった。またこの時に、岡山県立師範学校男子部附属国民学校(現・岡山大学教育学部附属小学校)に転校した。9歳のときに岡山市で空襲に遭った。これが高畑の人生における一番強烈な体験だった。高畑はすぐ上の姉とともに家族とはぐれ、火の雨と猛火のなかを逃げまどい、川のほとりで明け方に冷たい黒い雨に打たれていた。1951年(昭和26年)に岡山大学附属中学校卒業後、岡山県立朝日高校に入学。1954年(昭和29年)に同校を卒業し、東大に入った二人の兄に続いて自らも東京大学教養学部文科二類(東大文二、現在の東京大学文科三類)に入学し上京する。 上京した大学生時代に、1955年に公開されたポール・グリモーの映画『やぶにらみの暴君』(のちに改作され『王と鳥』となる)が日本公開され、これに衝撃を受けて映画館に通うようになる。髙畑にとっては、これが、フランスの詩人・脚本家であるジャック・プレヴェールの作品との出会いであった。高畑はこれに影響を受け、後に彼の名詩集《Paroles》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳(2004年)という仕事を行う。また、フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『王と鳥』の字幕翻訳も手がけた。『紅の豚』の劇場用パンフレットではさくらんぼの実る頃(原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。東京大学文学部仏文科卒業。

◎ 東映動画に入社
長編漫画映画『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』の原型)に感銘を受けて、アニメーション映画を作る事を決意。1959年(昭和34年)、大学卒業後に東映動画に入社。東映動画による演出助手公募の第一期生で、同期に池田宏がいる。 入社後間もない1960年前後に、内田吐夢監督による『竹取物語』の漫画映画化企画が立ち上がった。この時、東映動画社内で脚本プロットの募集がおこなわれたが、高畑は応募しなかった。しかしながら高畑はこのとき「ぼくたちのかぐや姫」というメモや、「『竹取物語』をいかに構成するか」というノートを残している。 高畑は、その後、映画『安寿と厨子王丸』『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手になり、テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビュー。その仕事ぶりを認められ、大塚康生の推薦により、長編漫画映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出(監督)に抜擢される。この作品はのちに高い評価を得た。しかし、予算やスケジュールの大幅な超過から当時高畑をはじめとするメインスタッフはその責任を負う形で他と待遇に差を付けられ、興行面でもターゲットと宣伝の不一致から不振だった。

◎ Aプロダクション時代
『太陽の王子 ホルスの大冒険』の制作遅延や組合活動によって、高畑は東映動画で長編劇場作品の演出や「やりたい企画」のテレビアニメを任される可能性はほぼないと考えていた。そんな折に、Aプロダクションに移っていた楠部大吉郎と大塚康生から、『長くつ下のピッピ』のアニメ化(企画は東京ムービー)のために移籍を勧誘される。大塚が手がけていた『ムーミン』にテレビアニメの可能性を感じていた高畑は、東映動画のテレビアニメにはないチーフディレクターによって作品全般を統括できる点にも魅力を感じて誘いに応じるも、宮崎駿・小田部羊一の2人が不可欠と、両者に移籍を説得した。高畑は「将来のある2人を巻き添えにする」ことに悩んだが、宮崎はすぐに決断し、小田部は悩んだものの妻の奥山玲子が残ることで周囲から容認された。 『長くつ下のピッピ』では、原作者(アストリッド・リンドグレーン)との交渉に向かう藤岡豊(東京ムービー社長)に同行する形で宮崎がスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描く一方、高畑は「覚え書き」や「字コンテ」を作って作品の方向性を固めようとしたが、原作者の許可が下りず、企画は頓挫した。移籍の理由が消失した高畑らはAプロダクションの様々なテレビアニメの企画や制作への参加を余儀なくされ、高畑は東映動画の(残った)仲間に申し訳ないという思いを抱いたという。『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』後半パートの演出を宮崎と共に担当したのも、そうした状況で受けた仕事の一つだった。高畑自身は「それなりに面白くできた話もありますけど、正直なところ投げ出すしかなくて、責任を取りたくない回もあります」と述べている。 1972年に映画『パンダコパンダ』、翌1973年に『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』の演出を務める。この映画の制作に際しては『長くつ下のピッピ』で作りかけた世界観や設定(少女の一人暮らし、三つ編みでそばかすのある主人公、オーブンのある台所など)が活用された。脚本の宮崎駿のアイデアが存分に盛り込まれ『となりのトトロ』のルーツとされる。

◎ 日本アニメーションに移籍
ズイヨー映像(のちに日本アニメーションに改組)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の演出・監督を担当、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。場面設計だった宮崎駿、絵コンテを担当していた富野喜幸に与えた影響は大きい(詳細は後述)。『未来少年コナン』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎駿をアシストした。 1977年、Aプロダクション時代に面識のあった楠部三吉郎がシンエイ動画での『ドラえもん』の再アニメ化を原作者の藤本弘(藤子・F・不二雄)に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した。高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾したという。その結果、水の都福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。 しかし、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった。これは高畑の監督作品でも最高の成績となった。また、スタジオジブリ時代の監督作では唯一のオリジナル作品である。 1999年に『ホーホケキョ となりの山田くん』を公開した後は、公開作品が10年以上途切れた。

◎ かぐや姫の物語
2000年代初頭、高畑の次回作と目されたのは『平家物語』のアニメ化であったが、メインアニメーターが同意しなかった事などにより断念。鈴木敏夫の発案により、日本の古典『竹取物語』を原作としたアニメ映画が次の企画となるも、進捗の不調から山本周五郎の『柳橋物語』や赤坂憲雄の『子守り唄の誕生』を原作やベースとした企画に変更される曲折を経る。鈴木敏夫は2007年6月のTV番組において、なるべく早く高畑勲に映画を撮らせたいと語った。ただ、高畑の場合、自分で絵を描く事が出来ないので、彼のイメージを具現化出来るアニメーターが必要になるので、その点が難しいが何とかすると述べた。鈴木は実際に脚本段階まで進んでいる企画が複数あると明かした。2008年に高畑が新作長編を製作していることがアナウンスされた。この年に企画が最終的に『竹取物語』に戻った事が後に明らかになっている。2010年1月には、高畑のコメントも含んだ形で『週刊文春』で紹介される。この中で高畑は「ストーリーは変えずに印象が全く違う作品にしたいと思っています。なかなか進まなくて、大分先になっちゃうかもしれませんが」と語った。しかし2013年2月になり、制作の遅れから公開予定が2013年秋に延期される事が発表され、同年11月23日に公開された。 アニメーション以外にも、人形劇の演出も行なっていた。晩年には、フランスのミッシェル・オスロ監督の長編アニメーション映画『キリクと魔女』等の一連の作品の日本語版の字幕翻訳・演出や、原作本の翻訳も手がけた。 2015年6月、アメリカの映画芸術科学アカデミー会員候補に選ばれた。

◎ 死去
最晩年に、西村義明と共に年来の夢であった『平家物語』の短編映画の制作に取りかかったが、病状悪化の為、死の3ヶ月前に断念した。2018年4月5日1時19分、肺がんの為、入院先である帝京大学医学部附属病院で死去した。(享年84)。監督としては2013年公開の『かぐや姫の物語』が遺作となった。高畑の死去は海外メディアでも報道された。 死去から1ヶ月余りが過ぎた5月15日に、三鷹の森ジブリ美術館で「お別れの会」が営まれ、宮崎駿・大塚康生・小田部羊一・久石譲がコメントを読み上げた。大塚は『太陽の王子 ホルスの大冒険』でのエピソード等を語り、死去を「悔しくて悔しくてしようがないよ」と述べ。

◎ 没後
2019年に開催された第91回アカデミー賞において、逝去した映画人を悼む“”(イン・メモリアム)のコーナーで追悼された。展覧会自体は高畑の生前から企画されており、当初の企画では高畑の好む作品(美術品・映画)と高畑の作品を並べて展示する趣向であったが、高畑が没したことで回顧展になったと説明されている。鈴木敏夫によると、宮崎が一番自分の作品を見せたい相手は高畑で、宮崎が見る夢には、いつも高畑しか出てこないと話した事があるという。宮崎・高畑の両名と仕事をした事のある富野由悠季は、「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんな事はありません」と述べ、高畑の方法論と対峙した結果として、宮崎の作品が生み出されたとして、「高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言出来ます」と指摘している。この起用に関して、当時無名同然の久石を起用する事にレコード会社と製作会社が難色を示し、公開前年の夏から年末にかけて難航する事態となったが、高畑が防波堤となり、反対意見を退けたという。 同じスタジオジブリで映画を制作していた関係だが、興行成績では高畑は宮崎の監督作品に遠く及ばない。ジブリでの監督作品では最も高いのが『平成狸合戦ぽんぽこ』が配給収入26.5億円であり、宮崎の『千と千尋の神隠し』の興行収入308億円とは桁違いの差を付けられている。『ホーホケキョとなりの山田くん』は、当時ジブリの親会社だった徳間書店社長の徳間康快が東宝と「ケンカ」してしまった為、東宝よりも配給力で劣っていた松竹で配給せざるを得なくなった。これが原因となって製作費に20億円以上かけながら、興行収入16億円弱・配給収入8億円弱という失敗(松竹は60億円の興行収入を見込んでいた)に終わり、反って赤字が膨らむ事になった。以後、高畑は次の新作まで14年を要する事となった。 2018年5月15日の高畑の「お別れの会」で宮崎は東映動画時代を出会いから振り返り「教養は圧倒的だった。僕は得難い人に出会えたのだと嬉しかった」と述べ、自身も参加した『ホルス』で納期や予算を超過する「苦闘」の末に出来上がった初号試写で見たヒロイン・ヒルダが「迷いの森」をさまようシーンの表現に驚愕した体験から「僕等は精一杯、あの時を生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕等のものだったんだ。」と、往時を偲んだ。 高畑作品の絵コンテは自身がまずラフコンテを描き起こし、それを元に優秀なアニメーターが清書するという共同作業で完成される。各場面のキャラクターの演技をどうするか、その心理を深く考え抜き、アニメーターにも深く考える事を求めた。自分の考えを押しつけはせず、民主的にアイデアを募り、有機的にまとめており、その中で頭角を現したのが宮﨑だった。宮﨑と組んだ時には、どんな物語にするか・プロット・一つ一つの情景を綿密に打ち合わせて、共通のイメージが出来上がった時点で絵にしていくという事を繰り返した。物語を作る際に宮崎は、膨大な量のイメージボードを描いている。 アニメは「誇張」や「省略」の手法を用いて描く事が主流だった中で、徹底した生活描写や舞台設定を行ない、作品に「リアリズム」を持ち込んだ。「アルプスの少女ハイジ」では当時のアニメ界では珍しい、海外へのロケーション・ハンティングを行なった。 アニメーションの本流への復帰を目指し、現実の日常生活の自然主義的な描写に留まっていてはアニメーションではないと考え、子供達の想像力を膨らませ、遊びの開放感と発見の喜びを味わわせる方向へと表現を高める事を要求した。 表現が記号やパターンでしか表現されないのでは実在感を感ずる事が出来ないと考え、生き生きとしたキャラクターは生き生きと、美しいものは観客にとっても美しく、楽しい事は楽しそうに、おいしそうなものはおいしそうに実質として表現した。 演出の特色は原作を深く読み込み、ドラマとキャラクターに距離をおいて、客観的に描き切る所にある。人物に対しては過度な理想を抱かず、ペシミズムに陥るわけでもなく、リアリズムを基調にしている。シビアな題材を扱った場合には冷徹ですらあり、コメディタッチの題材であっても、生真面目な視点で物語る。 高畑は原作への態度について、「原作が面白いと思ったら、その面白さをどう活かすか、どう発展させるかということに集中します」「原作に感心するから作るのであって、そうじゃなければ断りますよ。『原作には感心しないけど、換骨奪胎してこう作れば面白くなる』というのは原作者に対して失礼だと思うから。」と述べており、『かぐや姫の物語』だけがその例外だったとしている。『母をたずねて三千里』の次に『ペリーヌ物語』の監督が予定されていたが原作の内容に否定的な立場を表明して拒否したという、『ペリーヌ物語』スタッフによる証言がある。 キャラクターには平板な印象ではなく、靴を脱いだり履いたりといった日常の極めてささいな動作、立ち振る舞い家事等の表現を重視した。行動の過程をしっかり書く事で行動自体が楽しさや面白さが呼び起こすようにし、また、アニメーションの世界を現実のものとして感ずるようになる演出とショットの構成を求めた。 『ハイジ』はスポ根もの・ロボット系・魔法少女が人気だった当時のアニメ界で、地味な生活や質素な衣食住を丁寧に描いていこうと作られ、平均視聴率20%超えの大成功を収めた。 『となりの山田くん』『かぐや姫の物語』では日本の絵画の描線で、スケッチ風の淡彩の画面でやりたいという意志があった。アニメーターが描いたラフな線が持つ生命力を、そのまま画面に出す事を可能にした。 音楽に対しても非常にこだわりを持っていた。主題歌や挿入歌の作詞や訳詞も行なっている。『母をたずねて三千里』で、エンディングテーマ「かあさんおはよう」の作詞、『おもひでぽろぽろ』ではベット・ミドラーの「The Rose」を翻訳し、「愛は花、君はその種子」とタイトルを付けて都はるみに歌わせた。宮崎駿監督作『紅の豚』では、シャンソンの名曲「さくらんぼの実る頃」の訳詞も手がけ、こちらは加藤登紀子が歌って話題になった。そして、『ホーホケキョ となりの山田くん』では、ドリス・デイがヒッチコック映画で歌った「ケ・セラ・セラ」の訳詞も行なった。宮崎の監督作『魔女の宅急便』では高畑は「音楽演出」の担当者としてクレジットされている。また、作曲も手がけており、『じゃりン子チエ』の挿入歌である「バケツのおひさんつかまえた」を惣領泰則と共作。『かぐや姫の物語』では劇中歌の「わらべ唄」と「天女の歌」を高畑が作詞作曲を手がけた(作詞は坂口理子との共作)。この際、ボーカロイドの初音ミクに歌わせてデモ作りを行ない、久石譲に曲のイメージを伝えた。久石譲や矢野顕子・上々颱風等、多数のミュージシャンを指名し起用した。高畑の没後に坂本龍一も依頼を受けたことがあったと明かしている。坂本によると音楽が「シリアス過ぎて」起用は見合せになったという。坂本は作品名は答えていないが、2012年に坂本が鈴木敏夫と公開対談した際に鈴木から高畑作品への協力を要請されたことがあった。 制作のスピードに関しては、宮崎が「パクさんはナマケモノの子孫です」と喩える程スローである。『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、製作の遅れの責任を取って、プロデューサーが何度も交代する程であった。鈴木敏夫は高畑没後のインタビューで、(ジブリ時代に)高畑が「公開日に間に合わせて映画を作った事が、遂に一度もなかった」と述べている。『火垂るの墓』では一部カットの彩色が間に合わず、未完成版を公開した。 予算管理については甘いと指摘されている。特に、『柳川堀割物語』を監督した際には、高畑が巨額の製作費を注ぎ込んだ為、宮崎駿が調達した資金だけでは足りず、結果的に宮崎が自宅を抵当に入れざるを得なくなるという騒動が起きている。『かぐや姫の物語』にこれだけの製作費を投入出来たのは、高畑の監督作品、とりわけ『ホーホケキョ となりの山田くん』を気に入った日本テレビ会長(当時)の氏家齊一郎が、「高畑さんの新作を見たい。大きな赤字を生んでも構わない。金はすべて俺が出す。俺の死に土産だ」という意向で製作を要請し、氏家の逝去後も、そのパトロンとしての遺志が尊重された事が要因であると鈴木敏夫は述べている。

● 人物
宮崎駿やプロデューサーの鈴木敏夫、古参アニメーターなどから「パクさん」と呼ばれていた。 高畑死後のインタビューで鈴木敏夫は、高畑について「いい作品を作ることがすべてであってその他のことにはまったく配慮しない人」「よくいえば作品至上主義。でも、そのことによって、あまりにも多くの人を壊してきたことも事実です」と述べた。 趣味は音楽鑑賞と勉強。音楽に関しては特に造詣が深く、ピアノも弾け、譜面も読め、ベートーヴェンのスケルツォを集めたCDの企画・選曲も手がけている。文学にも関心が強く、気になったフランス語の文芸評論を個人的に訳出しパソコンで管理する一面もあったが、大塚康生によると周囲に対してそうした教養をあまり表に出さなかったという。『かぐや姫の物語』では挿入歌である「わらべ唄」「天女の唄」を作曲している。 かつては宮崎駿や鈴木敏夫と同じく愛煙家だったが、その宮崎と鈴木からの指示により2009年11月より禁煙に踏み切る。高畑は東大の先輩で良き理解者だった2011年の氏家齊一郎への追悼文の中で、宮崎と鈴木がその後もタバコをやめないことも踏まえ、二人の禁煙の指示は氏家の強い意向を受けてのものであったと記している。 組合活動以来の縁で選挙では一貫して日本共産党を支持しているが、共産党員ではない。

● 影響を受けた作家・作品


◎ フレデリック・バック
高畑はフレデリック・バックの『クラック』を観て衝撃を受ける。その後も交流や日本での紹介を行ない、尊敬を持って接し続けた。2011年にスタジオジブリの企画により、バックの展覧会を日本で開催した際には、高畑は来日したバックとテープカットも行なっている。スタジオジブリでは2011年に「フレデリック・バック展」を開催した。バックが亡くなる直前に高畑が自宅を訪れ、高畑の持参した『かぐや姫の物語』を鑑賞してもらっている。

◎ 宮沢賢治
高畑は宮沢賢治の作品を8歳か9歳の時に初めて読んだ。今と違い、児童書など無い頃で夢中になって読み、たちまち賢治の魅力にとらえられた。豊かな音の表現、登場人物をひっくるめて森羅万象が生気を漲らせて息づき、美しさと恐ろしさ、澄んだ明るさと暗い混沌、無心と悪意の交錯する、これらの作品は、まるで究極のアニメーション映画、決して映像化する事の出来ない、心の中にしか映し出せないアニメーション映画のように迫ってきた。なにもかもが、動きと光と色彩と音を伴って、実にありありと子供の高畑には見えた。オノマトペ等、賢治独特の不思議な言い回しは、口に出してみないではいられないほど魅力的で、兄弟で呪文の様に唱え合って楽しんだ。また、全集に収録された楽譜付きの楽曲にも親しんだ。 その後、高畑は『セロ弾きのゴーシュ』を監督としてアニメーション化する。他にも『貝の火』・『水仙月の四日』・『鹿踊りのはじまり』・『雪渡り』・『どんぐりと山猫』・『税務署長の冒険』等をアニメーション化したかったという。

◎ ジャック・プレヴェール
高畑はジャック・プレヴェールの作品には大学在学中に出会った。「枯葉」や「バルバラ」、「美しい星へ」といったシャンソンの曲群に多大な影響を受けた。後にプレヴェールの詩を訳した書籍も出版した。

● 手がけた主要作品

・ 監督作のみ太字。
scope=""col   年 scope=""col   タイトル scope=""col   役職
 1961年    安寿と厨子王丸    演助助手
 1962年    鉄ものがたり    演助進行(演出助手と制作進行を兼任)
 1963年    わんぱく王子の大蛇退治    演出助手
 1963年    暗黒街最大の決闘    助監督
 1964年    狼少年ケン
おばけ嫌い ジャングル最大の作戦    演出
 1965年    狼少年ケン 誇りたかきゴリラ    演出
 1968年    太陽の王子 ホルスの大冒険    監督・演出
 1969年、1970年    もーれつア太郎    演出(カラー版OP/ED演出も担当)
 1971年    長くつ下のピッピ    ※アニメ化権取得に失敗
 1971年    ルパン三世 (TV第1シリーズ)    演出
 1972年    パンダコパンダ    監督
 1973年    パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻    監督
 1974年、1975年、1979年    アルプスの少女ハイジ    総監督・演出
 1975年    フランダースの犬    第15話絵コンテ
 1976年、1980年    母をたずねて三千里    監督・演出
 1977年    アルプスの音楽少女
ネッティのふしぎな物語    絵コンテ
 1977年    シートン動物記 くまの子ジャッキー    絵コンテ
 1978年    未来少年コナン    演出・絵コンテ
 1978年    ペリーヌ物語    絵コンテ
 1979年    赤毛のアン    監督・演出・脚本
 1981年    じゃりン子チエ    監督・脚本 ※劇場版
 1981年、1982年、1983年    じゃりン子チエ    チーフディレクター、絵コンテ、演出 ※テレビ版
 1982年    セロ弾きのゴーシュ    監督・脚本
 1982年    ニモ/NEMO    日本側演出 ※1983年3月12日に降板
 1984年    風の谷のナウシカ    プロデューサー
 1986年    天空の城ラピュタ    プロデューサー
 1987年    柳川堀割物語    監督・脚本
 1988年    火垂るの墓    監督・脚本
 1989年    魔女の宅急便    音楽演出
 1991年    おもひでぽろぽろ    監督・脚本
 1994年    平成狸合戦ぽんぽこ    監督・原作・脚本
 1999年    ホーホケキョ となりの山田くん    監督・脚本
 2003年    キリクと魔女    日本語吹替版演出・翻訳
 2003年    連句アニメーション「冬の日」    芭蕉「名残表十句」作
 2007年    アズールとアスマール    日本語吹替版監修・演出・翻訳
 2013年    かぐや姫の物語    監督・脚本・原案
 2016年    レッドタートル ある島の物語    アーティスティック・プロデューサー
 2017年    メアリと魔女の花    感謝


● 賞歴

・ タシケント国際映画祭監督賞(『太陽の王子 ホルスの大冒険』)
・ 厚生省児童福祉文化賞(『赤毛のアン』)
・ 第36回毎日映画コンクール大藤信郎賞(『セロ弾きのゴーシュ』)
・ 第42回毎日映画コンクール教育文化映画賞(『柳川堀割物語』)
・ 日本カトリック映画大賞(『火垂るの墓』)
・ 文化庁優秀映画(『火垂るの墓』)
・ 国際児童青少年映画センター賞(『火垂るの墓』)
・ シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞(『火垂るの墓』)
・ シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位(『火垂るの墓』)
・ モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリ(『火垂るの墓』)
・ 1991年 山路ふみ子文化財団特別賞
・ 1992年 芸術選奨文部大臣賞(『おもひでぽろぽろ』)
・ 第49回毎日映画コンクールアニメーション映画賞(『平成狸合戦ぽんぽこ』)
・ 1995年度アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門グランプリ(『平成狸合戦ぽんぽこ』)
・ 第3回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞(『ホーホケキョ となりの山田くん』)
・ 1998年 紫綬褒章
・ 2007年 第12回アニメーション神戸賞・特別賞
・ 2009年 ロカルノ国際映画祭名誉豹賞
・ 第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞(『かぐや姫の物語』)
・ 2014年 東京アニメアワード特別賞「アニメドール」
・ 第23回日本映画批評家大賞アニメーション監督賞
・ 2014年度アヌシー国際アニメーション映画祭「名誉賞」(Cristal d’honneur)
・ 2015年 東京アニメアワード監督賞(『かぐや姫の物語』)
・ 2015年 フランス芸術文化勲章オフィシエ
・ 2015年 ウィンザー・マッケイ賞
・ 『映画を作りながら考えたこと 1955〜1991』徳間書店、1991年 ISBN 978-419-5546390。
・ 『映画を作りながら考えたことⅡ 1991〜1999』徳間書店、1999年 ISBN 978-419-8610470
・ 『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』徳間書店、1999年 ISBN 978-419-8609719
・ 『漫画映画(アニメーション)の志―「やぶにらみの暴君」と「王と鳥」』岩波書店、2007年 ISBN 978-4000220378
・ 『一枚の絵から 海外編』岩波書店、2009年 ISBN 978-4000221771
・ 『一枚の絵から 日本編』岩波書店、2009年 ISBN 978-4000221764
・ 『アニメーション、折りにふれて』岩波書店、2013年 ISBN 978-4000220804。岩波現代文庫、2019年 ISBN 978-4006023096
・ 『映画を作りながら考えたこと―「ホルス」から「ゴーシュ」まで』文春ジブリ文庫、2014年
・ 『君が戦争を欲しないならば』岩波ブックレット、2015年 ISBN 9784002709420

◎ 共著

・ 宮崎駿・鈴木伸一・おかだえみこ『アニメの世界 とんぼの本』(新潮社 1988年)
・ 大塚康生・叶精二・藤本一勇『王と鳥 スタジオジブリの原点』(大月書店 2006年)
・ 宮崎駿・小田部羊一『幻の「長くつ下のピッピ」』(岩波書店 2014年)

◎ 訳書

・ ジャン・ジヨノ『木を植えた男を読む』訳著 徳間書店 1990
・ ミッシェル・オスロ『キリクと魔女』徳間書店スタジオジブリ事業本部、2003
・ ジャック・プレヴェール『ことばたち』ぴあ 2004年
・ プレヴェール『鳥への挨拶』編訳 ぴあ 2006年(奈良美智絵)

● 関連書籍

・ 宮崎駿 -「高畑勲さんへ」(2018年5月15日ジブリ美術館での弔辞)「週刊朝日」2018年12月21日号、第137-138頁に収録。
・ 大塚康生『作画汗まみれ』 文春ジブリ文庫(増訂版)、2013年 ISBN 4-19-861361-3
・ 大塚康生『リトル・ニモの野望』 徳間書店、2004年 ISBN 4-19-861890-9
・ 『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』聞き手森遊机、実業之日本社、2006年 ISBN 4-408-61255-3
・ 『高畑勲 「太陽の王子ホルスの大冒険」から「かぐや姫の物語」まで』「キネマ旬報ムック」キネマ旬報社、2013年
・ 『ユリイカ 詩と批評 総特集 高畑勲の世界』青土社、臨時増刊2018年7月
・ 『高畑勲 〈世界〉を映すアニメーション』河出書房新社、2018年8月
・ 鈴木敏夫『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』文藝春秋<文春新書>、2019年5月
・ 『高畑勲をよむ:文学とアニメーションの過去・現在・未来』三弥井書店、2020年4月
・ステファヌ・ルルー『シネアスト高畑勲 アニメの現代性』岡村民夫訳、みすず書房、2022年4月

● 研究

・ 高畑は自身の関心に基づき、「日本絵画史に見るマンガ的アニメ的なるもの」「絵で語る工夫の世界史―いわゆる異時同図を中心に―」というテーマで「素人研究」を行ってきた。この研究のうち、12世紀の連続式絵巻に関する部分を出発点にまとめたものが『十二世紀のアニメーション:国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』として出版されている。
・ 2005年から2007年にかけて、学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学研究科による身体文化学プロジェクトに参加。共同研究テーマ「身体表象メディア論(映像芸術と身体表象メディア)」のリーダー(主任研究員)を務めた。その成果は『世界の鏡としての身体:シェイクスピアからアニメーションまで』として出版された。

● 関連する人物


◎ 近藤喜文
近藤喜文は『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』において彼抜きではこの両作はあり得なかった。『赤毛のアン』などで日常生活の「キャラクターアニメーション」(人物の性格・ひととなりの活写)をこころざして近藤はとても良い仕事をした。『火垂るの墓』において近藤に課せられた目標は「日本人をちゃんと描こう」ということだった。こうあってほしいという理想主義的なキャラクターでもなければマンガ的様式的なキャラクターでもない、まぎれもない日本人がこうあった、という現実的なキャラクターでなおかつ日本人の尊厳を保ちながらユーモアをまじえて捉えることはできないかということを目指した。近藤は自分の作ったキャラクターならば斜め仰向きの顔などどんな難しいアングルでも感じよく描くことができた。

◎ 井岡雅宏
井岡雅宏は『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』で美術監督を務めた。『赤毛のアン』では色数が多いのに濁らず、しぶいのに空気は澄んで、他の美術の人に比べてタッチは荒く筆あとも残し、明暗を同色で描かず色彩で描き自然の現実感を失わないまま装飾的に描いた。彼の描いた美術ボードは一枚一枚が「絵画」となっており見飽きなかった。『ホルス』では朝夕のリアリズムを基調とした現実感のある場面を描いた。

◎ 小田部羊一
小田部羊一は高畑の初期作品から長年共に仕事をした同志である。『ハイジ』『母をたずねて三千里』などではキャラクターデザインを務めた。小田部のキャラクターはごく簡潔でありながら人間的な温かみと柔軟性を持ち地を通わせることができた。東映動画を退社する際も共に退社している。
小田部が時代考証を担当した『なつぞら』(2019年度上期NHK連続テレビ小説)では、若き演出家・坂場一久(演・中川大志)について、東大卒の経歴や長編映画『神をつかんだ少年クリフ(「太陽の王子 ホルスの大冒険」をモチーフにした作品)』担当した経緯について高畑をオマージュさせている。

◎ 男鹿和雄
『平成狸合戦ぽんぽこ』は男鹿和雄に美術をやってもらうことを前提に設計した。男鹿の絵は見る者に自然の実感を喚起する力をもち映画美術としての機能的側面を忘れさせることができた。自然に対する愛情と適応力・観察眼そしてセンスの良さを持ち合わせた。

◎ 百瀬義行
百瀬義行とは1983年に『風の谷のナウシカ』の原画を依頼するために阿佐ヶ谷駅前の喫茶店で初めて会った。『火垂るの墓』では絵コンテ作画と場面設定・レイアウトを受け持ってもらった。百瀬の絵コンテは緻密かつ的確でそれを拡大コピーすればそのままレイアウトの基礎になり、しかも絵に温かみがあった。百瀬はうまいだけでなく人柄も反映したどこか丸みのある穏やかな絵柄も、人々が普通に見ている感覚にできるだけ近い画角の取り方も高畑の目指す日常的な画面づくりにぴったりだった。『火垂るの墓』以後の高畑作品全てに百瀬は参加している。

◎ 山本二三
山本二三は『じゃりン子チエ』の美術を行った。原作漫画の絵柄の良さを生かしたレイアウトをした。山本のレイアウトの美術はしばしばリアルな「リアル」を超え第二の「リアル」を画面に作り出した。

◎ 氏家齊一郎
氏家齊一郎は高畑の実質的なパトロンとして高畑を支えた。『かぐや姫の物語』が氏家の強い希望で作られた。氏家は『かぐや姫』の進展を心待ちにし脚本準備稿・絵コンテにも目を通していた。

● 影響を与えた人物
※宮﨑駿については「宮﨑駿との関係」の節を参照。

◎ 富野由悠季
『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』などを監督した富野由悠季は、高畑が監督を務めた世界名作劇場で、『アルプスの少女ハイジ』全52話中18本、『母をたずねて三千里』全52話中22本、『赤毛のアン』全50話中5本(※『機動戦士ガンダム』の放送のため中盤から不参加)の絵コンテを担当。高畑が監督をした世界名作劇場シリーズにおいて、もっとも多くの絵コンテをこなした。 富野は「対象への理解が正確でなければならない、ということを追求してきた監督が高畑勲です」と述べている。『子供は分かれば見る』と子どもの理解力を舐めてはいけないということを教えられ、何人かが焚き火しながら話しているだけのワンカットに1分以上も費やす場面を作った際も、1分耐えられるセリフやストーリーが作れるのか、それがアニメの勝負だと教えられた。 「街の風景、街灯がそこに立っている意味、つまりは物事の形が持っている意味は、なんとなくではありません。“それを意識する・考える”ということを高畑さんに教えられました。何より、ガンダム以降、僕は作品作りにおいてハッキリとそういう気を付け方をするようになったんです。これは高畑さんの影響だと認めざるをえません」、「SFモノ、巨大ロボットものをやっている目線だけでは、アニメにおいて“文化論”を意識するところまでは絶対にいけなかった」と述べている。

「高畑勲」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年4月20日2時(日本時間)現在での最新版を取得

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