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板東英二


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板東 英二(ばんどう えいじ、1940年〈昭和15年〉4月5日 -)は、日本の元プロ野球選手、元タレント、野球解説者、俳優、司会者、YouTuber。「坂東英二」は誤記。愛称は「板(ばん)ちゃん」。 高校野球時代に投手として数々の記録を打ち立てて名を馳せる。プロ野球選手としては中日ドラゴンズに所属し、在籍11年で77勝を挙げた。現役引退後は、主にタレント業で活動していた。 満洲国虎林生まれ、徳島県板野郡板東町(現:鳴門市)出身。既婚者で、2女の父親。

● 経歴
満洲の虎林で生まれ、一家は間島省(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)図們市で高級料理店を経営していた。誕生日は公式には4月5日とされているが、板東自身が語っているところによれば、実際には3月31日だったという。4人兄弟の末っ子(姉2人、兄1人)。 5歳で引き揚げ。博多港から母・久江(旧姓 杉本)の出身地の神戸市宮ノ下に移り、神戸市立妙法寺小学校に入学。これは1947年4月のことで、実際の誕生日から見ると正規の学齢より1年遅かったに進む。最後は岡村の適時打などで0-2と敗退するが、準決勝・決勝合わせて41回を投げ抜いた板東の活躍は、地方紙だけでなく、全国紙でも報道。全国の高校野球のファンからも、一躍注目を浴びる。この大会で樹立した1試合25奪三振および、大会通算83奪三振の記録は、2022年の第104回大会終了時点で破られていない。

◎ 中日ドラゴンズ時代
1958年秋に慶應義塾大学のセレクションに合格するが、家庭の事情でプロ入りを決意し。1年目の1959年から一軍で起用され4勝。入団2年目の1960年には10勝を挙げ、オールスターゲームにも監督推薦で選出。1961年には、21歳にして開幕投手に抜擢され、初めて規定投球回(リーグ11位、防御率2.60)に達する。その後は故障もあって一時低迷するが、1964年にはリリーフに回り復活、チーム最多の53試合に登板する。 1965年は12勝7敗、防御率2.25(リーグ6位)の好記録を残す。1966年8月26日の対読売ジャイアンツ戦に中継ぎで登板し、塩原明を1球で打ち取って降板。これによりプロ野球史上2人目、セントラル・リーグ初、日本人投手として初の「1球だけの勝利投手」となった。1967年には、中継ぎ投手として好調を維持し、自己最高の14勝を挙げた。 1968年にはシーズン中の6月に、東京大学医学部附属病院での緊急手術で右肘の軟骨を除去。当時のプロ野球選手では前例のない手術だったが、シーズン終盤の9月には一軍へ復帰した。 1969年には、一軍公式戦16試合に登板したが、プロ入り後初めて1勝も挙げられなかった。開幕戦の広島東洋カープ戦では山内一弘にサヨナラ本塁打を打たれて敗戦投手。シーズン最後の巨人戦へ登板した直後に、当時の一軍監督・水原茂から、コーチへの転身を打診。さらに、球団が自身を任意引退選手として扱うことを新聞で知ったため、コーチへの就任を前提に現役引退を決断した。しかし、後に球団内の人事異動で、板東と折り合いの悪い人物が現場のトップへ就任。そのあおりで、コーチへの就任は幻に終わった。さらに、球団からスカウトへの転身を勧められたが、「自分に合わない」という理由で固辞した。

◎ 現役引退後の芸能活動
1970年より中部日本放送(CBC)の野球解説者へ就任。1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで、昼ワイド番組『ばつぐんジョッキー』の月曜パーソナリティを担当し、木曜パーソナリティ上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。 名古屋で野球解説を担当していた時代は数多くの事業に手を出し、不眠不休の生活を送っていた。しかし、1979年のシーズン途中に、CBCから野球解説者としての契約を解除(詳細後述)。プロ野球中継以外のレギュラー番組からも一斉に降板したため、タレント活動の拠点を関西へ移した。ただし、CBCとの縁が切れたわけではなく、以降もタレントとしてテレビ・ラジオ番組への出演を継続。プロ野球中継にも、スポット契約扱いで随時出演していた。 タレント活動が全盛期だったころは、毎日放送(MBS)の解説者として契約しながら、出演はゲスト扱いの1試合のみ、という年もあった(毎日放送解説者としての活動開始は1984年)。活動が落ち着いてきた2000年代以降は他の解説者同様に出演するほか、2003年以降はニッポン放送とも契約し、達川光男(2009年まで)同様に関東・関西を股に掛けて活躍した。さらに2012年8月より現在まで、徳島県鳴門市からの委嘱で「鳴門観光大使」を務めている。

◎ 所得隠し問題で芸能活動休止
板東は1988年に、国税庁の確定申告PRポスターのキャラクターに起用。また、名古屋市に住民票を置いていることから、確定申告の期間中に名古屋国税局へ出向く姿が東海地方を中心に毎年報じられてきた。2007年には、同国税局から感謝状を贈られている。 ところが、感謝状を贈られた5年後の2012年暮れに名古屋国税局が「オフィスメイ・ワーク」(かつて板東が役員も務めた事実上の個人事務所)に税務調査をすると、確定申告PRポスターのキャラクターに起用されながら2011年8月期までの7年間にわたって約5000万円の所得を名古屋国税局に申告していなかったことが判明。所得隠しを含めた申告漏れの総額が約7500万円にのぼったことから、同事務所ではその事実を認めたうえで、ただちに修正申告と追徴税の支払いで対応した。名古屋国税局では、板東自身の指示で所得隠しを続けていた可能性を指摘。TBS News iなどでは、「架空発注などを含む悪質な所得隠し」と報じた。このため、年明けの2013年1月から各局は板東の出演を順次見送ることを決定した(後述)。 2013年8月10日には、観光大使を務める地元の徳島県鳴門市で開催の阿波おどりイベントにゲスト出演。前述の申告漏れ報道以来約8か月振りに、公の場へ姿を見せた。さらに、自らの個人事務所であったオフィス・メイワークを閉鎖したうえで、11月10日に大阪市内で記者会見を開催。前述の申告漏れ問題を釈明すると共に、一連の経緯に関する事情説明が遅れたことなどを公式に謝罪した。名古屋国税局から申告漏れを指摘された背景については、公私にわたる金銭の管理をオフィス・メイワークのスタッフ1名に任せていたことや、過去に20年ほど続けていた頭部への植毛に対する税務上の「経費」の扱いで国税当局と認識の違いがあったことを明かしている。 この頃、同じ理由で降板したメ〜テレ『ドデスカ』放送中に、突如スタジオに現れ出演者を驚かせる。これは顔馴染みの警備員がゲストと誤認し顔パスで通したことにより、局内に勝手に入室したものだったという。

◎ 芸能活動を一時再開
2013年11月23日に、インターネットテレビ番組『めちゃ×2ユルんでるッ』(ゼロテレビ)へのゲスト出演によって、芸能活動を事実上再開した。同年12月9日には、ラジオ番組『吉田照美 飛べサルバドール』(文化放送)のスタジオゲストとして、活動再開後初めて地上波での生放送およびラジオ番組に出演。前述の記者会見で明かした植毛のきっかけについて、最初に行ったのは20数年前の俳優活動中で、当時両面テープを使って行ったことを明かしている。12月25日未明には、『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』(フジテレビ)の生放送中に、明石家さんまへの電話を通じて地上波のテレビ番組へ1年振りに出演した。 オフィス・メイワークの閉鎖後はフリーランスで活動していたが、2014年1月16日付で、さんまの所属する吉本興業(当時・よしもとクリエイティブ・エージェンシー)への所属が同社から発表された。この所属については、「活動の場を広げたい」という本人の希望に加えて、さんまや島田紳助からの後押しも決め手になったとされる。先述発表の際に、「所属事務所(オフィス・メイワーク)の所得の申告漏れに関して、世間をお騒がせし、応援して頂いている皆様や、関係各社様にご迷惑をお掛け致しましたことを、深くお詫び申し上げます。今後はよしもとクリエイティブ・エージェントに所属し、同じ過ちを繰り返すことなく、芸能活動も再開できればと思っております」とのコメントを寄せた。 2014年2月2日には、ナゴヤドームで開かれたSKE48のコンサートで、名古屋城をかたどった正面ステージに戦国武将の姿で登場。「御心配をお掛けしました」と謝罪したうえで「開幕宣言」を述べた。同月には、関西テレビが制作するさんまの冠番組『さんまのまんま』(2月15日放送分)にゲスト出演。この番組で、吉本興業所属後初めて地上波のテレビ番組に登場した。毎日放送の番組には、4月13日・4月20日放送分の『MBSヤングタウン日曜日』(事前収録)、4月25日放送分の『上泉雄一のええなぁ』(生ワイド番組、いずれもラジオ)に相次いでゲスト出演。5月9日には、『5時に夢中』(東京MXテレビ)のゲストコメンテーターとして、テレビの生放送番組にも本格的に復帰した。 このように、在京キー局以外の地上波民放局が制作するテレビ番組では、徐々に出演の機会を増加。2014年10月からは、『バラいろダンディ』(東京MXテレビ)の火曜日でレギュラーコメンテーター(火曜ダンディ)を務めている。ただし、前述した『さんまのまんま』の板東が出演した回は、ネット局のフジテレビ(関東広域圏)では放送されなかった。TBSでも、衛星放送(TBSチャンネル)で以前から不定期に放送している『金曜日の妻たちへ』シリーズを、脱税発覚後は板東が出演していない第1シリーズに限って再放送を繰り返していた。ただし、TBSでは板東が出演した系列局制作のネットワークセールス番組(2014年12月21日放送の毎日放送制作『今だから言えるナイショ話』など)については差し替えずネット受けした。 その後、在京キー局でも単発番組へのゲストでは徐々に出演が再開され、2018年9月28日放送の『今夜解禁 ザ・因縁』で久々にTBSテレビ制作番組に出演し、草野仁とも対面した。 その一方で、ラジオ番組については、2014年のナイターオフ編成から毎日放送で『板東英二のおばあちゃんと話そう』のレギュラー放送を再開。また、ラジオ関西で新しい冠番組『板東・板東・晴れ・板東』が始まったほか、『師岡正雄 サタデーショウアップスポーツ』(ニッポン放送)内で「板東英二のプロ野球バンバン伝説」というレギュラーコーナーを持つようになった。 2015年には、『バラいろダンディ』の特別企画で、マルタ国際マラソン(2月22日開催)のウォーカソン(ウォーキング&マラソン)部門に日本人最年長の74歳で出場。21kmのコースを完走した。3月12日には、芸能活動再開後初めての著書『板東英二の生前葬』を双葉社から発売。5月29日には、『MBSベースボールパーク』(毎日放送ラジオ)の埼玉西武ライオンズ対阪神タイガース戦(西武プリンスドームのナイトゲーム)中継で、ゲスト扱いながら野球解説者としての活動を本格的に再開した。 2016年からはかつて野球解説者として出演していたニッポン放送のプロ野球中継 『ニッポン放送ショウアップナイター』のゲスト解説者として不定期ながら出演していた。 2016年9月4日、YouTubeに『B.E.(Boiled Egg)チャンネル』を開設し、サングラスを掛けて「B.E.」と名乗り、YouTuberとしての活動を開始した。初投稿分では、吉本興業所属のダンスユニット・エグスプロージョンの『本能寺の変』を踊り、その他に好物のゆで卵を取り扱ったものや、元高校球児の運動神経を生かした動画等を投稿した。だが、その評判は芳しくなくチャンネル登録者数も思ったより伸びず、初投稿から5ヶ月後の2017年2月17日付を最後に、動画の投稿は一切更新されていない。 なお、2017年9月20日に放送された『良かれと思って』(フジテレビ)のスタジオ収録では、前述した植毛をめぐる事情について改めて釈明。一時は耐用期間が2週間に満たない人工毛(1本180円)を3万本以上植えていたものの、2週間に1回の植毛で費用が嵩んだため、現在は前頭部にアデランス製のカツラを着用していることを告白した。

◎ 芸能界引退・消息不明報道
ところが、2018年3月を以って板東自ら吉本興業との所属契約を解除。以後は、ラジオ番組のパーソナリティをメインに活動していた。 しかし、2020年7月22日に毎日放送でのレギュラー番組の収録に現れず、同月中旬に大阪の自宅近所で転倒して頭部分を強打、総合病院に緊急入院したことを同局番組プロデューサーが明かした。この事故を境に出演復帰することはなく、同年の9月末限りでラジオ番組打ち切りに伴うレギュラー全番組終了と、板東がゲスト出演したテレビのバラエティ番組のロケVTRがお蔵入りになったこと、さらには大阪の自宅を引払い東京に居住する娘の自宅への転居などが重なり、週刊誌やタブロイド紙では「事実上の芸能界引退」との報道記事が躍った。 かつて板東と旧知であり、当時芸能リポーターとして活動していた井上公造は、2020年10月に自身の取材結果として、板東の近況とコロナ禍である点に鑑みた上で「現在は未だ体調が回復せず仕事復帰に慎重姿勢だが、『生涯現役の拘り』は変わらないと主張し、芸能界復活の意志を持っている」と説明した。しかし2021年3月にスポーツライター・小林信也が、板東への取材を試みたが体調不良の為外部との接触を絶っており、全くコンタクトは取れなかったという。 2023年7月27日、第105回全国高校野球選手権・徳島予選で徳島商が優勝し、12年振り24回目の夏の甲子園出場を達成した。しかし、同校OBの板東がコメントを発表することは無く、またNEWSポストセブンの取材により、2021年末限りで個人事務所を閉鎖していた事が判明した。

● 詳細情報


◎ 年度別投手成績

      中日  33  12  1  1  1  4  4 
- 
-  .500  411  97.0  89  6  29  0  4  69  3  0  37  34  3.15  1.22
    44  20  6  0  3  10  11 
- 
-  .476  703  174.2  145  17  35  4  1  126  0  0  57  51  2.62  1.03
    47  33  8  4  2  12  10 
- 
-  .545  795  193.1  166  14  48  0  4  108  2  0  65  56  2.60  1.11
    28  13  2  1  0  2  9 
- 
-  .182  364  88.2  85  10  25  1  3  56  3  0  44  42  4.25  1.24
    30  6  2  1  1  3  1 
- 
-  .750  314  73.2  77  2  26  3  2  39  3  1  32  25  3.04  1.40
    53  9  2  0  0  6  7 
- 
-  .462  600  140.1  144  13  44  2  3  73  3  0  60  48  3.09  1.34
    55  8  0  0  0  12  7 
- 
-  .632  617  156.1  120  11  45  4  3  87  3  1  47  39  2.25  1.06
    60  1  0  0  0  13  5 
- 
-  .722  520  133.0  103  14  30  7  1  91  5  0  44  38  2.57  1.00
    51  1  0  0  0  14  6 
- 
-  .700  485  119.2  110  11  28  5  2  72  4  0  37  34  2.55  1.15
    18  0  0  0  0  1  4 
- 
-  .200  108  21.2  29  3  11  0  0  12  2  0  23  16  6.55  1.85
    16  0  0  0  0  0  1 
- 
-  .000  102  22.1  23  1  11  1  1  15  2  0  11  9  3.68  1.52
 通算:11年  435  103  21  7  7  77  65 
- 
-  .542  5019  1220.2  1091  102  332  27  24  748  30  2  457  392  2.89  1.17


◎ 記録

◇ 初記録
・ 初登板:1959年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、5回裏に救援登板、3回3被安打2失点
・ 初勝利:1959年7月2日、対国鉄スワローズ11回戦(後楽園球場)
◇ その他の記録
・ オールスターゲーム出場:3回 (1960年、1966年、1967年)

◎ 背番号

・ 30 (1959年 - 1960年、1963年 - 1964年)
・ 14 (1961年 - 1962年、1965年 - 1969年)

● 芸能人として
中日の投手時代に背番号「14」に因んで「十姉妹(ジュウシマツ)」と呼ばれたほどの饒舌振りが評価されて、現役引退を機に、CBCの野球解説者へ就任。また、「漫画トリオ」を解散したばかりの上岡龍太郎と知り合ったことを機に、『ばつぐんジョッキー』『オーサンデー』(いずれもCBCラジオで放送された生ワイド番組)のパーソナリティを務めた。上岡が板東を関西に呼び寄せたのは、前述の事情とテレビ局スタッフから「面白いタレント居らへんか?」というオファーがあったことによる。そのような経緯から、板東は上岡のことを「恩人であり師匠でもある」と語っている。2001年には第12回CBC小嶋賞を受賞している。 東京にも進出し、本格化していた芸能活動が落ち着いたかに見えた2000年代後半。明石家さんまらとのゴルフから生まれた名言「勝ちたいんや」に代わり「売れたいんや」と、本人曰く「再ブレイク」すると宣言。現役時代やゆで卵に関するエピソードらを引っ提げて2008年頃からテレビ出演が増えだし、再ブレイクを果たしていた。 2008年3月12日放送の『クイズヘキサゴンII』(フジテレビ)で、司会者の島田紳助、同チームの渡辺正行、別チームで水落ち担当の優木まおみに薦められて水に落ちる最高年齢記録を更新したが、3か月ほどで村田満に更新されてしまった(2008年8月6日放送で初共演した)。 2009年3月12日、毎日放送で番組の収録をしていた時、新譜の告知で同局を訪れていたMR. BIGのボーカル、エリック・マーティンに、サインを頼まれる。 ものまねタレントの大平シロー、コージー冨田、松村邦洋、かみじょうたけしなど多くの人にものまねされている。なかでも、かみじょうのものまねは板東英二本人が公認しているほどである。

◎ 司会者・解答者
1979年8月から『THE ビッグ』のメインMCを担当。「ビンゴシュート」の掛け声とともに投球フォームを披露した。 1980年代の土曜昼に放送されていた『ノンストップゲーム』(関西テレビ)では司会として、横山ノックや桂文珍と共に人気を博す。1984年、フジテレビ主催の「第12回 日本放送演芸大賞」で、最優秀ホープ賞を受賞している。番組内容によって関西弁と標準語を使い分け、自身が司会を務めるクイズ番組では標準語を使うことが多かった。『マジカル』終了後は、クイズ番組の司会者としての仕事はあまりない。元スポーツ選手で引退後に芸能界に進出し、クイズ・バラエティ番組の司会者で成功したのは板東ただ一人であり、「元野球選手で天下を取った男」として一役全国区となった。 1984年に児玉清が盲腸の破裂による急性腹膜炎で入院した結果、司会を務める『パネルクイズ アタック25』(朝日放送)に出演できなくなった時、板東が代理司会として10月14日と28日の2週にわたって抜擢されたことがある。その他、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ』(日本テレビ)でも、当時胃ガンで休養→死去した逸見政孝の代理司会を担当したこともある。板東は後年『クイズ紳助くん』(朝日放送)で行われた『アタック25』のパロディに解答者として出演している。

◎ 俳優活動
自身と同じ徳島県出身の脚本家・鎌田敏夫による発案で、1984年には、鎌田の脚本による『金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?』(TBS)で俳優デビュー。板東自身は「(ワンシーンに出演する程度の)チョイ役」のつもりで出演依頼を引き受けたが、篠ひろ子の相手役として、レギュラー出演を果たした。 翌1985年には、『毎度おさわがせします』に中山美穂の父役、金妻シリーズの第3作目『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(いずれもTBS制作)にも小川知子演じる山下由子の夫(山下宏治)役で出演した。同局制作の連続ドラマでは、2007年にも、『華麗なる一族』(TBS)第4話に水谷通産大臣役で登場。2009年3月で放送が終了した『ひるドラ』の『オーバー30』(中部日本放送制作分)と、『愛の劇場』の『大好き五つ子完結編』(TBS)という、TBS系の2つの帯ドラマの最終作品にもレギュラーで出演した。 1989年には、向田邦子原作の映画『あ・うん』で高倉健と共演。自身も、同年の第2回日刊スポーツ映画大賞で助演男優賞、翌年の第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、第32回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞している。高倉とは、その後も『四十七人の刺客』『鉄道員(ぽっぽや)』でも共演した。 演じている役のほとんどが関西出身者と設定されている関係で、俳優としては関西弁で演技することが多い。『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』第3話「いっちゃん好きや」では、妻役の小川による不倫を許すシーンにおいて、「(『一番好きだ』という意味の関西弁である)いっちゃん好きや」という台詞をアドリブで連呼。放送後には一時、「いっちゃん」が流行語になった。板東は、このアドリブについて、「(台本にあった)『お前のことが一番好きだ』という台詞が、関西の人間にはこそばゆく感じられるので、自分流に『いっちゃん好きや』と言った。台詞の棒読みしかできないような人間が口にした言葉が、たまたま人気になるんだから、『世の中ええ加減(いい加減)なもんや』と思った」と述懐している。 1993年4月から9月までは、NHK連続テレビ小説『ええにょぼ』(NHK大阪放送局制作)において、戸田菜穂が演じるヒロイン・朝倉悠希の父親・源太郎役を演じていた。同月9月18日には、『ええにょぼ』第144回(源太郎が末期の癌で息を引き取る回)を放送した直後に『土曜大好き830』がスタート。板東は、オープニングにアップの映像で登場すると、にこやかな表情で視聴者に向けて『ええにょぼ』での臨終シーンを報告した。その一方で、2010年にワンシーンだけ出演した映画『きな子〜見習い警察犬の物語〜』の舞台挨拶では、17回もNGを出したことを監督から暴露された。

◎ ラジオパーソナリティ
1984年、『それゆけ金曜 板東英二』(毎日放送)の放送が始まると毎週、実の母親から放送局に苦情の電話が入っていた。内容は、「板東の母です」「お願いですから英二を黙らせて下さい」「あの子はホンマに嘘ばっかり吐いて…」「英二の言う事は信じんといて下さい」「皆さんにはご迷惑ばっかりお掛けしまして」といったものであった。あまりにしつこいのでスタジオに繋いだ事も複数回あり、放送中に板東は怒られ、共演者はひたすら謝られていた。 この頃、電話コーナー「おばあちゃんと喋ろう」がスタートする。
・ 聴取者から田舎のおばあちゃんを紹介してもらい、板東が事前連絡なしで直接電話をする。
・ 板東は絶対に名乗らず、名前を聞かれると「僕やがなー」「忘れたんかいなかなんなー」「名乗るほどの者でもございませんが…○○さんのおばあちゃんですね?」を繰り返しながら、巧みにおばあちゃんの近況を聞き出したり、電話口で十八番を唄ったりという電話のやりとりをそのまま放送。
・ 20分程度喋ったところで「(名産品やお金を)送ってーな」とねだりだす。
・ 最後に「わたくし板東と申しますがー」と正体を明かすが、声で早々に判る人や最後まで信じない人もいた(名乗りそびれも複数回あった)。
・ このコーナーで話したおばあちゃんが感激し、生きたニワトリ100羽を当時千里丘にあった毎日放送に送ってきたことがあり、大混乱の末送り返した事態は語り草となっている。
・ オレオレ詐欺(振り込め詐欺)が流行し始めると、所轄の警察幹部から「オレオレ詐欺の考案者は板東さんですよ」と怒られ、『板東英二金曜生BAN BAN』等で複数回ネタにしている(これ以降、事前連絡が入るようになる)。
・ このコーナーは好評で、『金曜生BAN BAN』が終了後も、『板東英二のおばあちゃんと話そう』という番組で、2020年9月まで存続していた。

◎ 交友
プロ野球・芸能界の双方で一定の実績を残していることから、幅広い交友関係を持つ。プロ野球関係者では、自身と同学年の王貞治や、中日時代のチームメイトだった権藤博・星野仙一らと仲が良い。また、自身は政界から距離を置きつつも、同郷の政治家・後藤田正晴から知遇を得ていた。
○ プロ野球関係
王との間には、年齢が同じであることに加えて、「高校時代に投手として甲子園の全国大会で活躍」「高校からの卒業を機にセントラル・リーグの球団へ入団」「同リーグの一軍公式戦に1年目から出場」といった共通点がある。ただし、高校時代には対戦していない。また、野球解説者に転じてからも、公の場で王に言及する際には王を呼び捨てにしている。 板東より年齢が7歳も年下(学年は6つ下)の星野は、板東が現役を引退する1969年に中日へ入団したため、1年だけチームメイトになった。そのような関係であったにもかかわらず、板東は野球解説者やタレントとして星野と接するたびに、星野を「監督」と呼んで敬語で接していた(板東は後年、星野の人となりについても「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交代も自分から替えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ」「巨人相手に投げるのが生き甲斐だなんて言っているが広島戦の方がよっぽど一生懸命投げていた。その方が勝星につながるからだ」と語っている)。逆に星野は、板東を「板ちゃん」と呼びながらも、公の場では板東に敬語を使わなかった。なお、2018年1月に星野が70歳で永眠した直後には「まさか、(1997年に永眠した)奥様も含めて自分が見送ることになるとは、さびしい限りです。すぐに後を追いますので待っていて下さいね」というコメントで星野を偲んだ。
○ 芸能関係
金妻シリーズや『金曜日には花を買って』『毎度おさわがせします』で共演した篠、香坂みゆき、佐藤B作とは、現在に至るまで親交が深い。後に司会を務めた『土曜大好き830』(関西テレビ)で、香坂は女性アシスタントとして板東とタッグを組み、篠はこの番組の第1回と最終回の放送で記念ゲストとして、B作もこの番組のゲストとして何度も迎えられている。 また、『あ・うん』への出演をきっかけに、高倉とも25年以上にわたって交流。高倉から折に触れて、高級腕時計、花束、直筆の手紙を贈られるほどの間柄にまで発展した。高倉の逝去(2014年11月10日)直後にゲスト出演した番組や、2015年発売の著書『板東英二の生前葬』では、高倉との公私にわたる交流や秘話を披露している。 10歳年下の和田アキ子とは、「板ちゃん」、「アッコ」と呼ぶ関係である(芸能人においては、板東と和田は、年下の先輩と年上の後輩という関係である)。年下である明石家さんまや島田紳助などからは「板東さん」と呼ばれるが、同じ年下であるやしきたかじんなどからは「板ちゃん」と呼ばれている。 黒柳徹子とは『世界・ふしぎ発見』(TBS)で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。「オバン」以外には「お母さん」と呼ぶこともある。黒柳は、関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。黒柳は、野球に対する知識がまったくないが、内容を吟味しているのか、会話が混乱することはない。 島田紳助が駆け出しのころ、板東のラジオに出演した際破格のギャラを提示し、躊躇う紳助に対し「売れて返してくれたらいい」と答え、紳助は意気に感じたという。その後、珍プレー特集の司会者として長年紳助と共演した。 明石家さんまとも長年交流が深く、さんまが板東本人のものまねを披露したり、プライベートでよくゴルフを一緒にすることや『痛快明石家電視台』『さんまのまんま』『恋のから騒ぎ』『踊るさんま御殿』『さんまのSUPERからくりTV』『明石家マンション物語』『明石家ウケんねん物語』『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』など、多くのレギュラー・単発特番含めさんまが司会の番組へスタジオ・VTR・ロケ問わずゲスト出演している。妻の訃報を、徳島のいとこのほか、娘を通じてさんまにだけ伝えた。 2000年に元付き人で、自分の番組で共演もしていた桂春彦から7億円を脅し取られそうになったが、春彦が逮捕されて未遂に終わった。
○ 政治関係
CBCの野球解説者だった1970年代後半には、東海地方における板東の人気を「少なくとも50万票の獲得が見込める」と評価した自民党が、板東に対して国政選挙への出馬を要請。2,000万円もの選挙資金を用意したり、当時の内閣総理大臣で総裁でもあった福田赳夫との面会の場を設けたり、名古屋で開いた総決起集会の司会を板東に任せたりした。板東自身も、「事業で抱えた借金を選挙資金で返せる」という思惑を持ちながら、出馬に意欲を見せていた。しかし、板東から相談を受けていた当時のCBC報道局長や、家族からの諌言(詳細後述)によって出馬を断念。板東自身は、この一件を機に、政界から距離を置くことを一貫して表明している。 その一方で、1983年の第37回衆議院議員総選挙の最中には、当時の内閣官房長官で自民党から出馬していた後藤田の選挙事務所を突如訪問。「『後藤田と面識がある』と思われれば、視聴者が自分のことを見直すだろう」という打算の下に、自身の番組に後藤田を出演させようと秘書に交渉した。板東自身が後藤田のライバル・三木武夫と同じ徳島商業のOBであることから、「三木陣営のスパイではないか」と警戒した秘書は、板東に対して後藤田陣営の総決起大会での応援演説を依頼。結局、投票前日(土曜日)に徳島市民会館で開かれた大会で、満員の観衆を前に演説する羽目になった。後藤田自身も、「前述の交渉での約束を果たしたい」という理由で、選挙の数年後に『板東英二のわがままミッドナイト』(徳島県内の大半の地域でも視聴できた毎日放送土曜深夜の生放送番組)を放送中の毎日放送千里丘放送センターを突然訪問。秘書すら連れず、土曜日の深夜に同センターを訪れた後藤田を、板東は急遽スペシャルゲストとして同番組に迎えた。後藤田の逝去後に刊行された追悼文集には、歴代の内閣総理大臣や衆議院議長を初めとする政官界の重鎮の寄稿とともに、板東の追悼文も掲載されている。もっとも、三木は生前、板東の東京の自宅近辺に居住していた。そのため、板東が三木の妻・睦子と会った際には、後藤田との関係を知る睦子から直々に「裏切り者」と呼ばれたという。 中日2年目のシーズン中には、関西圏での試合の際にチームで宿泊していた竹園旅館(兵庫県芦屋市)の近辺で営業していた牛乳店が、店主の高齢化によって廃業することを聞き付けた。そこで、当時牛乳業界に従事していた実兄を通じて、その店の営業権を取得。 1990年代からは通信販売事業を開始。最初は通信販売番組に出演するだけだったが、後に運営にも携わった(詳細後述)。また、かつては、大阪市の西天満に建つビルを所有。自動車では日産・プレジデントやトヨタ・istを購入したという。しかし、前述の不祥事でオフィス・メイワークを閉鎖したことを機に、所有するビルを知人に売却した・毎日放送では、2013年1月から当面の間、冠番組の差し替えや番組への出演見合わせで対応。板東自身が一連の問題について記者会見などで説明責任を果たすことを、復帰の条件に挙げていた。 なお、上記の放送局よりも早く『そこが知りたい 特捜板東リサーチ』『板東英二の南山マスターズ2』の休止に踏み切ったCBCテレビでは、2013年2月1日に両番組を打ち切ることを正式に発表。同年1月から『世界ふしぎ発見』への出演見合わせで対応してきたTBSテレビでは、2013年2月9日付で板東を同番組から正式降板を決定。同月27日の定例社長会見で発表した。 在阪局では、『おはよう朝日です』(板東が火曜日のコメンテーターとしてレギュラー出演していたテレビ情報番組)を制作する朝日放送(ABC)が、「不祥事が直接の原因ではない」としながらも2013年4月の番組リニューアルを機に板東を降板させることを発表。不祥事の発覚後も唯一放送されてきた『ベストスコアへの道板東英二のゴルフ塾』(関西テレビの収録番組)も同年3月末で終了したため、4月以降は板東のレギュラー番組が完全に消滅した。 さらに、野球解説者としてラジオの野球中継で出演契約を結んできたニッポン放送・毎日放送も、2013年シーズンの再契約を保留。後に、当該シーズンの契約を破棄した。毎日放送では、「(記者会見などによる事情の説明がない)現状では(中継出演の)オファーを出すことはない」という姿勢を示していた。 上記の在阪局では、板東の吉本興業所属直後まで、番組出演再開に対して慎重な姿勢を崩していなかった。もっとも、朝日放送社長の脇阪聰史は、所属発表直後(2014年1月21日)の定例記者会見で「謝罪会見の内容には納得している。今後(板東が)出演する番組は決まってないが、社としては(出演への)支障がない」「『おはよう朝日です』からの降板は、コメンテーターを交代する時期と重なっただけに過ぎない。出演の再開については、現場のプロデューサーの判断が最も優先される」として復帰に含みを持たせた。 毎日放送では、社長の河内一友が、移籍発表直前(2014年1月14日)の新春社長会見で「謝罪会見は納得できるような話ではなかった。私たちの方からテレビやラジオで(仕事を依頼する)というのはない」との見解を示していた。これに対して、板東は1月31日に、同局の本社へ出向いて所得隠し問題について同局の番組制作担当役員などに詳しく説明。毎日放送では、板東の説明を了承するとともに、「今後の番組出演については、現場単位での判断になる」としながらも板東と事実上の和解に至った。

● エピソード


◎ 高校野球関連

・ 高校時代には、「1試合15三振以上取らないと罰として一日中走らされた」、「練習がきつすぎて部員が8人にまで減った」、「台風が来ようが、インフルエンザで学校が休みになろうが、年中無休。毎日21時までは必ず練習、時には23時まで練習した」などと後に述懐するほど、須本憲一監督の下で非常に厳しい練習を重ねた。
 ・ そのため、高校時代の斎藤佑樹との新聞での対談で彼本人から「1日の練習時間は3時間から4時間」と聞いて板東は「何やて?授業中の居眠りの時間とちゃうぞ」と唖然していた。
・ 高校3年夏の全国大会準々決勝では、延長18回を投げ切った直後に、「疲れはないか?」という記者の質問に対して「少しも疲れていません」と返答。翌日の新聞に板東の写真と「不敵な笑みを浮かべる板東」というキャプションが掲載されたことから、板東の態度を生意気だと批判する人間もいた。もっとも、上記の実績に強い誇りを持っていることから、高校時代の経験談を笑いのネタに使うことはほとんどない。
・ 2018年の第100回全国高等学校野球選手権記念大会期間中の第1試合と決勝で組まれていた甲子園レジェンド始球式では、8月16日の第12日目にワンバウンドながらピッチングを披露している。

◎ プロ野球関連

・ 中日での現役投手時代の武器はフォークボールで、入団当時の監督だった杉下茂に伝授された。板東は指が短く、習得には相当苦労したことを自著『プロ野球知らなきゃ損する』の中で記している。ほかにシュート、スライダー、チェンジアップも投げたが、カーブは苦手だった。前述の1球勝利の際はこのカーブを試しで投げたところ、たまたま初球から打者が手を出してくれたためだという。高校時代はナックルボールも投げていたとされる。
・ 開幕投手やオールスターゲームへの出場を経験したが、高校時代から右肘を痛めていた影響で、中日での現役生活は11年と短かった。このため、引退後に毎日放送のプロ野球中継や番組でたびたび共演している太田幸司と同様に「甲子園での全国大会での投球過多によって選手生命が縮まった」と言われることが多い。板東自身は引退後に「肘に自転車のチューブを薄く切ったものを巻き付けた状態で投げていたので、(中日での現役生活が続くにつれて)長いイニングを投げるのが苦痛になっていた」と語っている。
 ・ 上記の事情から1964年以降は、近藤貞雄の勧めで主に救援投手として起用。引退後の1974年からセ・リーグの公式記録に採用されたセーブの基準を、1965年から1967年までの一軍公式戦救援時の投球成績に適用すると、以下の成績に相当するという。このような見地から、救援投手自体の評価や地位が低く、かつ同時期に活躍した「8時半の男」宮田征典の陰に隠れがちであった当時の板東を、「NPBにおける救援専門投手のパイオニア」として再評価する向きもある。1967年には、「ON砲より上」と公言するほどサンケイの外国人野手コンビ(ルー・ジャクソンとデーヴ・ロバーツ)を苦手にしていた。
  ・ 1965年(47救援登板):救援投球回数112イニング、10勝3敗11セーブ(21セーブポイント)、防御率2.17
  ・ 1966年(59救援登板):救援投球回数128イニング、13勝4敗11セーブ(24セーブポイント)、防御率2.57
  ・ 1967年(50救援登板):救援投球回数116.2イニング、14勝6敗7セーブ(21セーブポイント)、防御率2.47
 ・ 右肘の状態は深刻で、引退後の現在もまっすぐに伸ばせないという。引退後20年以上経ってテレビ番組で腕相撲への参加を勧められた時には、右肘の故障を理由に固辞した。その一方で、2011年9月27日にテレビ朝日で放送された『「ぷっ」すま 祝お引っ越し生放送』では、当時71歳ながら100km/hの投球に挑戦。3回目の投球で、101km/hを記録した。
・ 1960年のオールスターゲームでは、第2戦(後楽園球場)で、セントラル・リーグ選抜の4番手として登板。先頭打者の田宮謙次郎を自らの意思で敬遠すると、小柄のカールトン半田(南海)に同ゲーム史上初のランニング本塁打を献上。結局、1死も取れずに降板した。板東によれば、半田に本塁打を許した球は「おちょくったつもりで甘いコースに投げた球」だったという。
・ セントラル・リーグ初の1球勝利を挙げている。打ち取った球は板東が苦手とするカーブで、試しに投げたら偶然にも打者が手を出してくれたためだという。また、東映フライヤーズとのオープン戦で、後にニューヨーク・ヤンキースの名物コーチとなったドン・ジマーと対戦したことがある。
・ 投手生活で2回だけ、試合への登板中に審判からボークを宣告された。そのうち1回は、中日の投手として後楽園球場の巨人戦へ先発した際(登板日不詳)に、「三塁への牽制球」と見せかけて(当時三塁側のファウルグラウンドに設けられていた)ビジターチーム用のブルペンで投球練習中の味方投手へボールを投げたことによる。板東は引退後に、自身の調子が良かったにもかかわらず(勝利投手の権利が発生する)5回裏の途中で首脳陣が投手交代の準備に入ったことへの怒りから、そのような「(野球選手として)最低の行為」に出たことを告白している。
・ 現役時代、妻の祖父に当たる松本健次郎宅の庭で次女と写っている写真が新聞に載ると、警察官数人がやってきた。自生していた、モルヒネとアヘンの原料となるケシの花が偶然写っていたためである(ケシと知らずに育てていた)。後に「球界の麻薬王」と揶揄されたが、特に罰金などは無く、警察はケシの花を抜いて帰った。
・ 巨人の星のアニメ版で、「中日ドラゴンズの打撃コーチ」として登場した星一徹が、板東の実名を挙げて賞賛したことでも知られる。実際は、来日して日本野球をバカにしていたアームストロング・オズマに日本野球を知らしめるために、板東・星野・山中巽にオズマを討ち取らせて、彼の傲慢な心を折る役目を果たした。
・ 引退時点での監督だった水原については、引退後の著書で「『巨人(監督)時代の水原さんは名将だった』と言われるが、監督として優れたものは何一つなかった。あったのは頑固さだけだ」と語るなど「尊敬できない人物」に挙げている。その一方で、投手コーチとして自分の生き残る道を模索してくれた近藤貞雄には、引退後も頭が上がらなかった。
・ 前述したように、中日での現役引退の際にコーチへの就任話を反故にされて以来、プロ野球での本格的な指導経験はない。しかし、2011年2月に京セラドーム大阪で開かれた「日韓親善野球2011」(日本プロ野球OB・タレントの混合チームと韓国タレントチームによる対抗戦)では、「板東ジャパン」と称して日本チームを指揮。また、以下のように、指導者への色気を見せたこともある。
 ・ 2011年秋に中日ドラゴンズの次期監督に後輩の高木守道の就任が決定した際、高木からの要請で「球団外広報兼営業マン」に就任。ファンサービスの企画を任された。
・ 中日ドラゴンズの公式サイト内にあるチームデータで、歴代背番号の選手名検索で板東英二では該当するデータなしとなる。これは「坂東英二」と誤って登録されているため。

◎ 野球解説関連

・ 1979年のシーズン途中にCBCから野球解説者としての契約を打ち切られたことについては、週末にナゴヤ球場で催された中日対巨人戦のラジオ中継で実況アナウンサーの福井豊治と展開した以下のやり取りを原因に挙げたうえで、「(契約先の放送局を)シーズン中に解雇された解説者は、後にも先にも板東英二だけ」と述べている。
 ・ 巨人ベンチ内で当時新人だった江川卓の練習態度を巡るいざこざが起きていたことを試合前の取材で知りながら、福井と示し合わせたうえで、テレビ中継が始まる前の放送中に「今日の巨人は試合前からあれですからね あの状況は良くないです 試合前からあんなことがあっては勝てません」とあえて抽象的に表現した。この表現に対して、リスナーから抗議が殺到。CBCのキー局・TBSの幹部が、(他カードの経過・結果速報用に使っていた)放送席への直通電話で苦情を申し入れる事態に至った。意固地になった板東は、「途中から(中継を)聴いている人にまで、なんであれ(の内容)を説明せないかんのや」と激昂。幹部からの電話を途中で切った。
  ・ 板東によれば「この電話が(幹部の)逆鱗に触れた」という。
 ・ さらに、当時巨人の監督を務めていた長嶋茂雄がベンチから出すサイン、スコア、テレビ中継用の映像を照らし合わせながら、長嶋のサインから次のプレーを繰り返し予測。予測がことごとく的中したため、ラジオ中継を聴いていた巨人ファンからも多くの苦情を寄せられたあげく、翌週月曜日にCBCの本社で担当者から解説者契約の解除を通告された。
  ・ 板東は後に、「『新しいことをしよう』と思って、長嶋のサインを見破った。(個人的には)『面白い』と思ったが、全く分かってもらえなかった。CBCの担当者から(当時人気の高かった)『ばつぐんジョッキー』への出演を続けることを提案されたが、『同じ局なのに、これ(プロ野球中継での解説)はダメで、あれ(「ばつぐんジョッキー」のパーソナリティ)は良いというのはおかしい』と言ったら、(CBCの番組を)全部クビになった」と述懐している。
 ・ なお、実際にはCBCラジオで、1984年3月まで『ばつぐんジョッキー』月曜日のパーソナリティを継続。その後もCBCテレビ・ラジオの野球中継で解説者の不足時などに単発ゲストとして時折解説に復帰することがあった。2018年4月から冠番組『板東サンデー』のパーソナリティへ起用されたことから、『ばつぐんジョッキー』の降板以来34年振りに、同局制作番組へのレギュラー出演を再開。もっとも、『板東サンデー』が2020年3月で終了してからは、レギュラー出演の機会が再び途絶えている。
・ 1982年シーズンは中日と巨人が熾烈な優勝争いを展開していた。そんな時、徳光和夫が『ズームイン朝』で「もし巨人が優勝できなかったら丸坊主になる」と発言。脇田義信も広島が優勝しなかった場合の丸坊主を公約した。この年は中日が優勝したため、徳光と脇田はきくち教児(当時、同番組の中日担当リポーターだったローカルタレント)と板東から丸坊主にされた。
・ 2019年時点ではラジオを中心に野球解説を行っているが、解説中は選手名を呼ぶことはなく、「ピッチャー」「バッター」などの呼称を用いている。このことについて、2019年6月29日放送の『有吉反省会』(日本テレビ)で、板東が野球選手の名前を全く知らないためであることが明かされた。野球ファン以外でも認知度の高い大谷翔平の名前も知らないありさまだった。板東のマネージャーによると「野球を観ない。嫌い。だから、現役の選手を知らない」とのことで、番組司会の有吉弘行に「野球観ずに解説なんか務まるんですか?」と指摘されると、板東は「選手の名前なんか分からなくてもバックスクリーンに出てるじゃないですか」と居直っている。また、同番組中、解説のスタイルについて「僕の好きな監督や選手はちゃんと解説します。嫌いな奴はもうボロクソに言うたる」と豪語している。

◎ 投資関連

・ 前述した事情から、中日1年目のシーズン終了後に独学で猛勉強。日本で三種の神器が持てはやされた当時の世相を背景に、電機メーカーの株式を購入した。購入した銘柄の株価は軒並み上昇したが、素人の勘でその傾向を不審に思ったことから、ある程度の価格まで上昇した時点で一斉に売却。以降も、しばらく取引に手を出さなかったという。

◎ ゆで卵に関して
ゆで卵が大好物なことで知られている(著書『ホンネで勝負』にもそのエピソードは綴られている)。 ここまでゆで卵を好む理由として、終戦により旧満州から着の身着のままで難民同然に日本へと帰る際、空腹のあまり夜中に中国人の農家の鶏小屋から卵を盗んだが、見つかってしまう可能性があるため火も焚けず、生のまますすり飲むことで命を保った経験から、当時食べたくても食べられなかったおいしいゆで卵に特別の思い入れがある、と読売新聞のインタビューに答えている。 『秘密結社鷹の爪』劇場版第3弾の『http://鷹の爪.jpは永遠に』では、新幹線でひたすらゆで卵を食べながらマイペースにつぶやくおじさん役として出演している。声も板東が担当している。 世間では「板東英二=ゆで卵」というイメージが強く定着しているが、実は卵かけご飯も同様に好物である。しかし、実際には赤飯の方が好きであることを明かしている。父の早世のため洋子は、西日本工業倶楽部を出て、成城にある母方祖父の松本健次郎邸で暮らしていたが、週刊読売で洋子が明仁の妃候補と報じられるという一大事があり、健次郎は板東に「結婚しろ」と言い、2人は結婚することになる。1964年に長女が誕生。次女はスポーツ選手や芸能人のマネージャーで、星野仙一、牛島和彦、加藤登紀子などを担当。元ラグビー選手で、ラグビー日本代表のコーチを歴任した永田隆憲は板東の娘婿(長女の夫)である。 結婚に際しては健次郎の七男・松本七郎が、板東と洋子の仲を取り持った。その縁で、板東は結婚後に、日本社会党所属の衆議院議員だった七郎の選挙運動を応援。後に自身が自民党からの出馬を要請された際には、七郎から反対された
・ あ・うん(1989年) - 水田仙吉役
・ まあだだよ(1993年) - 巡査役
・ 四十七人の刺客(1994年) - 天川屋儀兵衛役
・ 億万長者になった男。(1994年) - 棟方薫役
・ 鉄道員(ぽっぽや)(1999年) - 集配人役
・ あらしのよるに(2005年) - 長老役(声の出演)
・ バルトの楽園(2006年) - 南郷巌役
・ 天国はまだ遠く(2008年) - 堀江隆志役(特別出演)
・ ピューと吹くジャガー 〜いま、吹きにゆきます〜(2009年) - 野球家族役(声の出演)
・ 秘密結社鷹の爪 THE MOVIE3 http:// 鷹の爪.jpは永遠に(2010年) - 本人役(声の出演)
・ 昆虫物語 みつばちハッチ〜勇気のメロディ〜(2010年) - コガネナシ役(声の出演)
・ きな子〜見習い警察犬の物語〜(2010年) - 地元テレビ局報道局長役
・ NECK(2010年) - 青島教授役
・ 9 〜ナイン〜(2018年2月17日、MIRAI) - 田原 役

◎ 評論

・ サンケイスポーツ

◎ 著書

・ 『ホンネで勝負―板東英二の球際人生』(1984年、日之出出版、ISBN 4-89198-042-7)
・ 『プロ野球知らなきゃ損する―ドえらいこの事実すべて実名です』(1984年、青春出版社〈プレイブックス〉、ISBN 4-413-01351-4)
・ 『プロ野球 これだけ知ったらクビになる―プロ野球 知らなきゃ損する Part2』(1984年、青春出版社〈プレイブックス〉、ISBN 4-413-01360-3)
・ 『オレたちだから言えるんだ―プロ野球(秘)情報 激談』(江夏豊との共著、1985年、山手書房)
・ 『プロ野球 殺られても書かずにいられない―ここまで知ったらヤミツキになる』(1985年、青春出版社〈プレイブックス〉、ISBN 4-413-01376-X)
・ 『プロ野球 ここを喋る奴はウチから出ていけ―ここまで知られたら非常事態』(1986年、青春出版社〈プレイブックス〉、ISBN 4-413-01407-3)
・ 『恐いものなし 人間しゃべり方一つ―いつまでも引っ込み思案じゃ楽しくない』(1986年、青春出版社〈プレイブックス〉、ISBN 4-413-01423-5)
・ 『言いたい放題アッコとバンちゃん』(和田アキ子との共著、1986年、日音〈日音books〉、ISBN 4-543-02508-3)

・ 『プロ野球 この極秘事項を知ったら100倍面白い―他人(ひと)にもらせばクビになる61条』(1986年、青春出版社〈プレイブックス〉、ISBN 4-413-01433-2)
・ 『板東英二が明かします―楽屋裏を覗いてみれば…』(1988年、日之出出版、ISBN 4-89198-070-2)
・ 『プロ野球とても言えなかった機密事項―はだかの選手、この誤算、あの裏切り、その醜聞』(1989年、青春出版社〈プレイブックス〉、ISBN 4-413-01495-2)
・ 『板東英二のもっと言わせろ、プロ野球―オレだから知っている「まさかあいつがそこまで」』(1994年、情報センター出版局、ISBN 4-7958-0823-6)
・ 『プロ野球 ことしは黙ってられないゾ―球界大変化のウラの裏、ぜんぶ実名で明かします』(1995年、青春出版社〈プレイブックス〉、ISBN 4-413-01633-5)
・ 『赤い手』(1998年、青山出版社、ISBN 4-900845-77-9)
・ 『赤い手 運命の岐路』(1999年、青山出版社、ISBN 4-900845-83-3)
・ 『天然 板東英二のゆでたまご伝説』(2009年、ワニブックス、ISBN 978-4-8470-1848-0)
・ 『心がギュッと強くなる本―大切な人への手紙23通』(述、TOKYO FM「ゆうちょ LETTER for LINKS」番組制作チーム監修、2012年、PHP研究所、ISBN 978-4-569-80848-2)
・ 『板東英二の生前葬 最期のありがとう』(2015年、双葉社、ISBN 978-4-575-30838-9)

◎ 音楽作品(シングル)

  燃えよドラゴンズ    中日小唄    1974年    東宝レコード    AT-1085   
  少年ドラゴンズの唄    ドラゴンズ讃歌
(ロイヤル・ナイツ)    1975年    東宝レコード    AT-1095   
  ガッツだドラゴンズ    ドラキチ音頭
(新間正次)    1975年    東芝EMI    TP-2015   
  あやまち    男が涙を流すとき    1976年    東芝EMI    TP-20217   
  燃えよガッツだドラゴンズ    竜の神様頼みます    1976年    東芝EMI    TP-20264   
  ダッシュだドラゴンズ    燃えよドラゴンズ'77
(ロイヤル・ナイツ)    1977年    東芝EMI    TP-10174   
  燃えよドラゴンズ    中日小唄    1982年    キングレコード    KO7S-349    A面は1982年版
  よくある酒場の物語    同左(カラオケ)    1984年    リバスター音産    7RC-0041    「板東英二・上岡竜太郎・香月美保子」名義
  燃えよドラゴンズ!2000(ミレニアム)    同左(オリジナル・カラオケ)    2000年    キングレコード    KIDS-441    「板東英二 with CBCアナウンサーズ」名義


◎ 野球・俳優以外での受賞

・ 日本放送演芸大賞 最優秀ホープ賞(1984年)
・ ベスト・ファーザー イエローリボン賞(1990年)
・ ビートたけしのエンターテインメント賞 話題賞(2014年)

● 参考資料

・ 『TVスター名鑑』1992年発行分(『週刊TVガイド』1992年10月15日臨時増刊。東京ニュース通信社発行)
・ 『プロ野球12球団全選手百科名鑑』シリーズ各年版
 ・ 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(同2000年3月号増刊。同発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』(同2002年3月号増刊。同発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2003』(同2003年3月号増刊。同発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2004』(同2004年3月号増刊。同発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2005』(同2005年3月号増刊。同発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2006』(同2006年3月号増刊。同発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2007』(同2007年3月号増刊。同発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2008』(『ネットマネー』2008年3月号増刊。廣済堂出版発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2009』(『ホームラン』2009年3月号増刊。廣済堂あかつき発行)
 ・ 『12球団全選手カラー百科名鑑2013』(『廣済堂ベストムック』219号。2013年2月25日発売・発行、廣済堂出版)ISBN 4331802213
・ プロ野球コンプリート選手名鑑2013(『三才ムック』VOL.598。2013年2月23日発売・3月1日発行、三才ブックス)ISBN 4861995752
・ 各種外部リンク

「板東英二」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
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好き嫌い決勝

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1位 vs 2位


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嫌いな俳優は どっち?

1位 vs 2位


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好き嫌い準決勝

好きな俳優は どっち?

3位 vs 4位


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3位 vs 4位


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好き嫌い準々決勝

好きな俳優は どっち?

5位 vs 6位


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5位 vs 6位


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好き嫌い7位決定戦

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7位 vs 8位


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7位 vs 8位


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好き嫌いTOP10圏内確定戦

好きな俳優は どっち?

9位 vs 10位


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俳優の無作為ピックアップ

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