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石原裕次郎


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石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年〈昭和9年〉12月28日 - 1987年〈昭和62年〉7月17日)は、日本の俳優、歌手。兄は、芥川賞を受賞した小説家で政治家の石原慎太郎。 石原プロモーション創立者で、初代代表取締役社長兼会長。ヨットマンとしても活動していた。昭和を代表する俳優・タレントとされている。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。2014年に発表された『キネマ旬報』の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優の14位となっている。

● 生涯


◎ 生い立ち
1934年(昭和9年)12月28日(金曜日)に父石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市須磨区で誕生。北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。 小樽のマリア幼稚園(現在の小樽藤幼稚園)卒園、小樽の稲穂国民学校時代に、競泳や(天狗山 で)スキーに親しむ。逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中し、五輪出場を目指していたこともあったが、1956年に、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の時に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、同映画作品の端役で映画デビューした。 日活入社前には兄慎太郎が強く推薦したことにより大映映画の『処刑の部屋』に主演し、大映入りする可能性があったが、慎太郎が断りを入れ、日活と契約した。1956年、『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では主演、この時歌手デビューを果たした。1971年には結核を患い療養することになる。 1972年、旧知の舛田利雄の勧めや、 東宝と日本テレビの粘り強い交渉の末、事務所の経済的事情もあり、13話だけでという約束でテレビドラマ『太陽にほえろ』への出演を開始した。予定の通り13話で降板するという石原を夫人や竜雷太らが説得し、出演を継続することとなり、日活黄金期の石原を知らない若い世代にも番組においての名称であるボスとして認識されるなど。1986年、病気療養のため渡哲也に代役を任せ『太陽にほえろ』を一度降板、同番組の最終回718話で復帰、ワンカット7分間のアドリブで命の大切さを語る圧巻の演技を見せたが(後述のエピソード欄にアドリブの補足あり)、これが俳優としての最後の演技に、そして渡哲也との最後の共演になった。

◎ 闘病
1978年、舌下潰瘍のため入院、手術。その後、悪性腫瘍(舌癌)との診断を受けたが、本人には告知されなかった(1983年再発)。1979年には舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術する。 1981年4月、『西部警察』のロケ撮影中に背中と胸に激痛が走り、慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアが疑われたが、その後、解離性大動脈瘤と診断され大手術を決行。生還率3%と言われたが、奇跡的な回復を遂げ無事退院した。退院後も首、腰の痛み、発熱が続き、右耳が難聴となった。 1984年、肝臓癌が発覚した。前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知をされなかった。 1986年5月、高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断され、7月の退院後はハワイで静養した。

◎ 死去
1987年4月20日、体調不良を受けてハワイから急遽帰国し、慶應義塾大学病院へ検査入院。5月2日に一旦退院したものの、3日後に再入院し容態が悪化。幻覚症状(肝性脳症)を発する。その後も意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止。酸素吸入により一度は心拍が再開するも、16時26分再度心停止し死去。52歳没。裕次郎の遺言は「俺が死んだら即会社をたたみなさい」であったが、まき子夫人が所属俳優やスタッフに言い出せなかったため、石原プロモーションはその後も存続した。 戒名は、陽光院天真寛裕大居士。墓は、万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑にはまき子夫人の直筆で次のような言葉で綴られている。

◎ 没後
死後に生前録音していた『北の旅人』、『わが人生に悔いはなし』が発売され、北の旅人は125万枚を売りげるヒット曲となった。 没後、毎年7月17日には總持寺で法要が行われ、裕次郎が生前あじさいの花が好きだったということにちなんで「あじさい忌」と呼ばれていた。まき子夫人や舘ひろし・神田正輝ら石原プロモーションの俳優・スタッフが集結し、記者会見を行うのが定例となっていた。また多くの一般客ファンも参列し、年忌法要では一般参列者に記念品がプレゼントされるといった、身内だけの法要に留まらない大規模イベントとなっていた。1993年の七回忌は3万8000人、1999年の十三回忌は20万人以上が参列した。十三回忌で20万人以上の参列者の人出で總持寺周辺が大混乱したことから、2009年の二十三回忌は国立競技場に総持寺の本殿を再現した拝殿を建てて行われ、約12万人が参列した。 1991年7月22日、裕次郎ゆかりの品々を展示する石原裕次郎記念館が、裕次郎が幼少時に過ごした小樽、しかもヨットマンだった裕次郎にふさわしい場所である小樽港マリーナの隣に開設された。多数のファンが訪れ裕次郎をしのぶ場となっていたが、2017年8月31日、入場者減少や施設の老朽化もあり、閉館。その代替として、2018年7月17日に行われた32回忌法要では、法要終了後、同年8月22日より2年間、全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した。 そして2019年7月17日に行われた33回忌法要の終了後の会見にて、まき子夫人が、今回をもって「弔い上げ」とし今後は石原プロとしての墓前供養を行わない旨を発表した。まき子夫人のほか一般参列者が高齢化し、裕次郎の墓がある高台まで昇るのが困難になっていることへの配慮を理由とした。 2020年7月には「株式会社石原プロモーションの商号を石原裕次郎の仏前に返還する」として、2021年1月16日を以て芸能事務所としての業務を終了することが発表された。そして発表通り、2021年1月16日に「解散式」が執り行われ、3月31日に全業務を終了。2021年4月30日、株主総会にて解散が決議された。

● ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動
裕次郎は日本のセーリング界でもその歴史に名を残している人物である。 もともと父親が郵船会社の社員、つまり船と海の世界に生きていた人物で、父親の転勤の折、父親の判断で海の近くの逗子、逗子湾近くに住居を構え、その地で裕次郎がヨットに興味を持ち、裕次郎の熱烈な希望に応える形で父親が木製のディンギーヨットを買い与えたのが、裕次郎にとってのヨットとの本格的な付き合いの始まりとなった。兄・慎太郎も一発でこのディンギーヨットの操作方法を会得し。

● エピソード


◎ 映画デビューについて

・ 1956年3月28日(水曜日)、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが、日活での初仕事であった。
・ 『太陽の季節』のカメラマンを務めた伊佐山三郎は水の江瀧子を呼び、エキストラとしてファインダーに映っていた裕次郎を「阪妻がいる」と絶賛。急遽端役が与えられ映画デビューとなった。

◎ 歌手活動

・ 日活時代から劇中で歌うシーンが多かったが、コンサートやテレビ番組で歌うことには消極的だった。佐瀬稔の取材に対し、テレビカメラの前で歌うのは緊張して「胃が痛くなる」とした上で、「あの中森明菜みたいな芸当は到底、私にはできない」と答えたという。
・ 「銀座の恋の物語」、「二人の世界」、「夜霧よ今夜も有難う」などの数々のヒット曲がある裕次郎だが、『紅白歌合戦』には1957年・第8回に雪村いづみの応援ゲストとして出演したことはあるものの、歌手としては生涯出場しなかった。
・ 裕次郎の若手時代はヒット曲を多数持つスター歌手が他人の持ち歌をカバーすることに消極的だったが、裕次郎自身はそうした中で積極的に他人の持ち歌をレコードに吹き込んだ。その中には裕次郎がカバーしたことで有名になった曲も存在する。ただ、梶芽衣子の「怨み節」のカバーについては断ったという。

◎ 性格

・ 性格として今で言う体育会系の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、自分の車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという。
・ ロケ先などで女学生に囲まれサインをねだられても断ることが多かった。理由は「真っ白な紙に名前だけ書いて渡すなんて試験の答案のようなもの」であることからと語っていた。
・ 困っていることがあると、自ら率先して動くタイプであった。また「人の悪口は絶対に口にするな。人にしてあげたことはすぐ忘れろ。人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな」という信念を持っていた。
・石原プロの名物である炊き出しは、俳優やスタッフ皆が同じ釜の飯を食べようと、元々は裕次郎が考案したものである。

◎ 趣味・嗜好

・ デビューの頃からオーダーメイドで衣装を仕立てていたのは遠藤千寿で、私服が3,000着ほど、トータルで5,000着ほど作ったという。ジャケットの裏地からポケットなどまで、裕次郎がデザインして指定。ワイシャツの襟の高さは5.5cm程度のハイカラー(一般的なものは4cm)を好んだという。
・ 日本では力道山、夏木陽介と裕次郎の3人だけと言われるメルセデス・ベンツ・300SL(〈W198〉ガルウィングクーペのオーナーだった。シートは深紅。車体はシルバー(ただし、ヘッドランプを含むフロントフェンダー部分は所有当初から300SLロードスター用のものに交換されている)。他にロールス・ロイス・シルヴァースピリットやキャデラックなど複数の高級車を所有するカーマニアであった。

◎ 交友関係

・ 勝新太郎とは家族ぐるみの付き合いで、互いを「兄弟」と呼び合った仲。勝は裕次郎の葬儀で友人代表の弔辞も読んだ。
・ 1学年下の長嶋茂雄とは、巨人入団前に対談の企画で出会った。対面を重ねるうち、親交を深め、1959年には裕次郎が応援歌「男の友情 背番号3」の制作を考え、歌唱した。1962年1月には雑誌の企画で、前年結婚したまき子夫人を含めて米国を旅行した。
・ 裕次郎と同じ12月28日生まれの渡哲也は日活所属だった際、1970年の映画『ある兵士の賭け』による石原プロの倒産危機を知ると、180万円を差し出した(貯金全額と書かれている資料もあるが、映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也 週刊朝日ムックには『さらば掟』出演時の渡のギャラ全額相当とある。)裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した。
・ 関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、裕次郎の逝去前まで付き人兼運転手を務めた。

◎ その他

・ 前述の通り公式上の生年月日は1934年12月28日だが、運転免許証によると戸籍上の生年月日は6日後の1935年(昭和10年)1月3日とされている。
・ 1961年12月9日(土曜日)、翌日の10日に開業する伊豆急行線の開業式典にヘリコプターで伊豆急下田駅へ駆けつけた。
・ 主演した『赤い波止場』はジャン・ギャバン主演の、日本で特に人気が高いフランス映画の名作『望郷』が元ネタである。『赤い波止場』のリメイクである渡哲也主演の『紅の流れ星』も『望郷』を手本にしている作品であるが、主人公像はギャバンではなくてゴダール『勝手にしやがれ』のジャン・ポール・ベルモンドがモデルである。これは国民的ヒーローのギャバン=裕次郎と、アウトローなベルモンド=渡という主演スターのイメージや個性・持ち味の違いからきている。
・ 1964年の日活映画『太陽西から昇る』において、当時東宝撮影所近くに存在した石原の自宅(現在は解体済)がロケーションで使用された。
・ 1980年1月に成城の自宅(上神明遺跡内)において、古墳時代の遺跡、土器が発見されたこともある。それが歴史的大発見で話題になった。石原プロの俳優だった苅谷俊介は、裕次郎邸の遺跡発見がきっかけとなって考古学に目覚め、同社を退社して考古学研究の道に踏み出すこととなった。
・ 『太陽にほえろ』で共演した渡辺徹は、石原からどんな所に住んでいるかを聞かれ、「アパートの三階」と答えたところ、石原の成城の旧自宅をあげると言われ喜んだが、光熱費などだけでも数百万を要することから、当時新人で給料も安い渡辺は、貰うことを諦めたという。
・ 亡くなった1987年7月17日にはテレビ朝日では急遽19:30から1時間半近い特番が組まれた。これにより、当時金曜19:30にレギュラー放送されていた「宇宙船サジタリウス」は10月2日で放送終了が決まっていたが1話分放送できなくなり、急遽翌3日の土曜日に19:30から放送されることになった。
・『大都会 PARTIII』の終了後、日本テレビからパートⅣ製作の打診を受けた一方で、テレビ朝日からは大都会の流れを踏襲した様な、新たな刑事ドラマの製作を持ちかけられた。これを聞いた石原は、日本テレビのおかげで石原プロの経営が良好になったこともあり、その義理からテレビ朝日の打診を一蹴した。しかし、義理よりも金銭的に有利なテレビ朝日のオファーを小林正彦専務が強引に押し進める形で、日本テレビからテレビ朝日に鞍替えし、『西部警察シリーズ』が製作されることとなった)
・ 『零戦燃ゆ』(舛田利雄監督、1984年8月11日公開、東宝、 主題歌のみ)

◎ テレビドラマ

・ 『ダイヤル110番』(1958年、日本テレビ)
・ 『小さき闘い』(1964年、フジテレビ)
・ 『結婚について・祝婚』(1965年、TBSテレビ)
・ 『黒部の太陽』(1969年、日本テレビ)
・ 『太陽にほえろ』(1972年7月-1981年5月、1981年12月-1986年6月、1986年11月、日本テレビ)- 藤堂俊介・捜査第一係長(通称・ボス)
・ 『座頭市物語』(1974年11月14日、フジテレビ、CX / 勝プロ)第7話「市に小鳥がとまった」
・ 『痛快河内山宗俊』(1975年、フジテレビ)
・ 『新・座頭市』(1976年、フジテレビ)
・ 『大都会』シリーズ(日本テレビ)
 ・ 『大都会 闘いの日々』(1976年1月-9月)- 滝川竜太
 ・ 『大都会 PARTII』(1977年4月-1978年3月)- 宗方悟郎
 ・ 『大都会 PARTIII』(1978年9月-1979年9月)- 宗方悟郎
・ 『浮浪雲』第二十回(1978年9月、テレビ朝日)- は組の頭岩吉
・ 『西部警察』シリーズ(テレビ朝日)- 木暮謙三
 ・ 『西部警察 PART-I』(1979年10月-1982年4月)
 ・ 『西部警察 PART-II』(1982年5月 - 1983年3月)
 ・ 『西部警察 PART-III』(1983年4月 - 1984年10月)
・ 『木曜ゴールデンドラマ 俺たちの明日〜坂本竜馬、中岡慎太郎幕末に散った壮絶な青春〜』(1980年、日本テレビ)
・ 『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(1989年、テレビ朝日)- 小暮警視(第1話にて遺影で登場)

◎ テレビ・ラジオ

○ レギュラー番組

・ 『石原裕次郎アワー』(1957年-1959年、文化放送)
・ 『裕次郎アワー 今晩は裕次郎です』(1963年-1964年日本テレビ)
・ 『すてきな仲間』(1966年NET)
・ 『ラジオ広場 やあ裕次郎です』(1982年、ニッポン放送)
・ 『THE YUJIRO』(2003年-ミュージックバード) 
・ 『石原裕次郎チャンネル』(有線ラジオ放送)
○ 音楽番組

・ 『ミュージックステーション』(1987年1月9日、テレビ朝日) - 生前最後のテレビ出演。
○ ラジオドラマ

・ 『海峡を越えてきた男』(1957年、ニッポン放送)

◎ CM

・ エーザイ(ユベロン)
・ 宝酒造(松竹梅、※宝正宗、宇野重吉と共演)
・ 資生堂(ビコーズ) ※放映されなかったCMであり、死去直後に『幻のCM』として放送されたほかDVD「生誕80周年記念 石原裕次郎 松竹梅CM集」に収録。

◎ 大会出場

・ 大島ヨットレース(1959年・1963年)
・ トランス・パシフィック・レース(1965年・1973年・1975年)
・ アドミラルズ・カップ・レース(1977年)
・ パンナム・クリッパーカップ・ヨットレース(1982年)
・ インビテーショナル・ゴルフ大会-途中ホールアウト(1986年)
・ 石原裕次郎メモリアルヨットレース(死後)

◎ パチンコ

・ CR石原裕次郎(2009年・オリンピア・平和)

● 歌手活動


● 書籍

「石原裕次郎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年3月29日5時(日本時間)現在での最新版を取得

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