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『天使のたまご』(てんしのたまご)は、1985年12月15日に発売された日本のOVAである。原案・監督・脚本は、押井守。71分。発売元は徳間書店。OVAながら新宿東映ホール1でOVA発売前に劇場公開された。キーワード「方舟」は押井の複数の後作に形を変えて登場しており、押井の作品世界を語る上で重要な一作である。なお「はこぶね」の一般的な漢字表記としては「箱船」「箱舟」等複数の表記があるが、押井はこの作品以降「方舟」に統一した。
この作品は海外へのロケハンの予算が得られなかったため、フランスの地方都市の写真集を基にして構想されている。その無人の路地・石畳の舗道・建築の奇怪な意匠・空を映す窓等の写真から、半ば自動的に設定が生まれ、街の様式や意匠を描写することで物語以前の何かを表現のみで成立するアニメを実現しようと試みたという。
登場する意味深げなモチーフは聖書におけるシンボルの暗喩で、例えば「魚」は「言葉」、「鳥」は「命」を意味するなどが挙げられるという考察もある。原画担当だった当時若手の貞本義行曰く、この時の押井は聖書のシンボル事典を横に置いて作業していたという。全体のモチーフは、押井が影響を受けたアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』に酷似している。
この作品自身もビデオソフトが後に廃盤になり、DVDなどで再発されるまでの間、作品の入手手段が完全になくなる不遇の時代を経験している。監督料はもらわずに、制作者印税のみの契約だったが。海外での反応は大きいものの、海外展開は「未来永劫不可能」と言っても過言ではない状況になっている」という、コミカルで軽い雰囲気に仕上げようと考えていたそうだが、天野の絵を見た途端に「このキャラで現実の日本を舞台にするのは辛い」「これはまっとうなファンタジーでやらないと駄目だ」と考えを改めた。
基本コンセプトは「基本は固定された画面で進行し、フォロー・ショット、パンは使わない」「時代の中の無意識を取り出す。それに成功すれば、観客個人の無意識の中にある風景に共感してくれるのではないか」「語っても言葉にならない部分を伝えて、時代を違った角度から明かす」「日常を忘れてスカッとさせるのではなく、観客が予想もしなかった物を見つけ出す喜びを見出せるようなエンターテイメント作品を作る」「「物語性は極力排除して、シンプルにする。アニメーションの面白くて、豊かな表現力を積み重ねて、その上で物語性を出す様にする」」「カール・グスタフ・ユングの分析心理学の『元型』『集合的無意識』の要領であらゆるモチーフを象徴的表現・暗喩で埋め尽くす」事とした。
企画書は鈴木敏夫が一晩で書き上げたが、押井は「言いたいことを好き放題言ってやる。全部喋ってダメならそれでもいい」。後に企画書はわざと押井を怒らせるために鈴木が用意したダミーであり、押井が言いたいことをスポンサーの上層部に臆せず堂々と言うことで、上層部が監督に対して作家に接する時と同じ敬意を持ってもらうための作戦だった、「オーソドックスな伏線を張って、ラストで結論に結び付く」という説話的な方法論を極力排除して、モンタージュ・間・構成を大幅に曖昧にし、並べ方を分かりづらくし、その中でイメージ同士をぶつけ合うことによって、そこから「どういう作り方が開発できて、プロット・シチュエーションが視聴者にどう見えるか」に挑戦した。
最初に押井が「『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で表現した『女の子の見る夢』を更に推し進める」ことをメインテーマにしたプロットを書き。
セリフの書き方について、「うる星やつら」の場合は「キャラクター同士が饒舌に喋っているけど、一つひとつの言葉に大した意味は持っていない。その中から、何かを新しく表現する」という姿勢で書いていたが、本作では逆の「言葉で表現しようとすると観念的になってしまい、そのままでは社会に出しても通用しない言葉になると思う。だから言葉が出てきそうなシーンでも、徹底的に抑制して、これ以上そぎ落とせない所までそぎ落とす。それが自分の表現にもなる」という姿勢で書いた。
◎ デザイン
天野喜孝は単純な「キャラクターデザイン」ではなく、「アートディレクション」という役職になったが、その役割は押井曰く「本来1つの作品を作るために、沢山の各シーンのイメージイラストを描いた。それを壁に貼って、順番を入れ替えたりしながら各シーンのイメージを決定していき、そのシーンを担当するアニメーターがキャラクターを含めてそのシーンを作るものだった。しかし、次第にそこまで手間をかけられず、現場全体が『絵コンテからアニメーターがレイアウトを起こし、キャラクターは設定表を見てそのシーンに描き込む』という流れ作業になってしまった。このままでは作品世界に膨らみが無くなってしまう」と危惧し、絵コンテから原画を描き上げる前に、もう一度天野が絵コンテを元にイメージを膨らませる様にした。それが天野による大量のイメージボードの制作へとつながり、アニメーターはそれを見てもう一度レイアウトを起こしていくことで、世界観に厚みを持たせる様にした。
天野はキャラクターのデザイン作業以外にも、大道具・小道具のデザイン、イメージポスターを描き上げ、髪の色・肌の色等フィルム全体の色彩設定を押井と相談しながら決めていった。
天野は「僕がまとめて線までやったら、あの感じにはならなかった。名倉君が1本1本こだわって描いてくれたので、驚きながらもピッタリきた」と称賛した。
「少年」のデザインのコンセプトは天野の出したラフデザインから、逆算して性格や行動等のイメージを作り上げていった。イメージは「戦士」「旅人」を想定していた。天野はロングショットにも耐えられる様にシルエットをあっさりさせて、髪の色をホワイトにし、肌の色は黒を基調にしたデザインを決定稿にした。押井は絵コンテを切る時に「『少年』が『少女』に感情移入するのを客観的に描くのではなく、自分自身が『少女』に『30代の男性』『父親』ではなく、少年時代の自分として見られたい」と自身を投影させながら切っていった。天野が描いた「少女」のデザインを押井は「『かわいい』と言うより『妖しい』。これなら『子供』ではなく『少女』を描ける」と大変気に入った。
「巨大な機械」は押井は最初に「目玉に見えて欲しい。誰の手にも届かない世界――ある種の彼岸のイメージを出したい」と志した。デザインの注文を出した時には「ゴシック建築の寺院・石油コンビナート工場・五百羅漢寺にも見える」「球体の巨大な都市」「キリスト教の聖像」等どの様にもイメージできるように発注した。しかし天野の絵柄の影響もあり、次第に「仏陀」「観音菩薩」をイメージしたデザインに変わっていった。その現象について押井は「それぞれの時点でその別のイメージがあり、それが物語に果たす役割があり、最終的に一つにまとめた時にどう見えるかは全く違う」「細部への個人的な思い入れというのは、飽くまで自分1人の思い入れであって、映画に込めた物とは異なる。そういう所がアニメーションで映画を作っている時の最大の面白さ」と振り返っている。
押井は「内臓を詰め込んだ甲冑みたいな感じで」と「戦車」のデザインを発注し、見事に天野は注文通りの戦車を書いたが、そのまま使うのは動画にできないので、名倉がデザインを清書した。戦車一個中隊が出現するシーンはラッシュフィルムを見た押井が「血が逆流した」と興奮したが、その60枚分の動画が完成するのに2か月かかり、仕上げのスタッフ達からはクレームがきたという手法を全ての背景で採用した。これは「画面のリアリティを出したい」「『キャラクターの面白さ中心で、背景が主張し過ぎるとキャラクターが死んでしまうから適当でいい』なんて風潮はおかしい。刺激がエスカレートしていくと、アニメーションを退廃させるという不毛の道を歩むことになってしまう」という小林の意向によるものである。押井も「基本的に絵柄が良ければ、質感・色彩等は美術がどう捉えて、どう引き出すかに任せるべきだ」と考えて、敢えて止めなかった。
小林は事前にアニメーターが描いてきたレイアウトを、事前に押井・天野とイメージボードで統一した「色のない世界」「石柱のレイアウト一つとっても独特の理屈がある。どの様に画面を切り取るかで、奥行きが様変わりするから、それをどこまで制御して、どこを目立たせるか」というコンセプトに合わせて、ゴシック調の世界観を持ち込み、重量感のある世界を作り出していった。そのために、形・線・タッチ・色調・明暗等を全て統一・修正していった。作画スケジュールの半分はレイアウトの修正に費やした。小林は美術・レイアウト以外に色彩設計にも関与したため、半分以上が1枚毎の背景美術の表現力を高める作業となり、カット数は通常の映画の3分の1(71分で約400カット)となった、消しながら「レイアウトは理屈であり、雰囲気ではない」「明確な理論を持った上で上げなければいけない」「嘘を排除していけば、自ずと画面は存在感を持ったものになる」ということをアニメーター達の目の前で説教した。その叱責は「罵詈雑言」と言ってもいい程にひたすら貶すような言い方だったため、押井は「どうしてそこまで言うんだろう」と引いた。ただ、修正された背景は確実に良くなっていったため、アニメーター達と押井は全く文句が言えず、納得するしかなかった。
◎ 作画
押井は「作品が持っているリズム・描くことで生まれてくるテンポ・軽さ・躍動感とは全く別の『重い表現』を生み出す」ことを作画表現上のメインテーマとし、中割りの枚数が増えることによって出てくる「表現の不自由さが生み出す奇妙な緊張感」を面白く感じた。
押井は「アニメーターの一人ひとりが、各自にテーマを持ちながら、作品を完成させて欲しい」「1つのカット・シークエンス・シーンが物語を進行させるための記号になるような絵を描いて欲しくない。1つのカットが動くアニメーションとして何かを表現して、訴えるような絵を描いて欲しい」「芝居をただリアルに見せるのではなく、動きがあっても1枚の絵として見せる。動かして、尚且つ緊張感を出す様に」とアニメーター全員に注文し、具体的な指示はほとんど出さなかった。名倉は「ねちっこい演技で、精神的・内面的な物を出したいのではないか」「表情をバッと出すのではなく、抑えてもなお滲み出てくる感情を期待しているのではないか」と解釈し、押井の出したイメージを感覚的に捉えて、自分の感覚で描いた。
名倉は鈴木から誘われる形で参加して、原画スタッフとしての作業に留まる予定だった。当初は作画監督はなかむらたかしが務める予定だったが、「工事中止命令」の作業が大詰めを迎えていたため、なかむらは参加できなくなった。困った押井が名倉が描いたレイアウト・原画が本作の世界観にハマっていたのを見て、押井の独断で名倉を作画監督に任命したと名倉の仕事ぶりを絶賛している。
「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の企画書のイメージボードの書き方に悩んでいた貞本義行に、押井が「今、天野がイラストを描いているから勉強しに来い」と誘った。貞本は原画を描きながら、天野の仕事を後ろから眺めて、天野からは怪訝な表情をされた。貞本は「天野さんと押井さんのセッションに興味があったので、押井さんに仕事場を見せてくれる様に頼んだが、結局天野さんの邪魔をしただけだった。だけど、この時の天野さんの描き方・カラーインクの使い方等がお気に入りで大きな影響を受けた」と振り返っている。
庵野秀明が作画スタッフとして参加していたが、その想像を絶する仕事量に打ちのめされ、2週間で逃走した。後にアニメーターの高木弘樹は「『巨大な機械の長尺・背動・1カット』の長丁場の原画の注文を受けた庵野さんが『1ヶ月かかるから30万で受けますよ』と条件を提示し、押井監督はそのカットを欠番にした」とも語っている。それから2021年の「庵野秀明展」にて、庵野が担当した本編では未使用のレイアウトが展示された。
動画スタッフ達は単純に原画と原画の間を埋める感覚で描くのではなく、全体的にコマ毎に先の動きを作りながら描いていった。
押井からは「ボーカルとピアノを基本に、キリスト教音楽のイメージを取り入れる」。
◎ キャスティング
斯波重治は「この作品は形而上学的・観念的・啓示的な内容だ」という自身の思いを踏まえて、「子供から大人に変わる年代を意識した、キャラクターの年齢に近い人」ではなく「人間が背負っている重みが、画面を通じて声の中に出せる人」を基準に選び、「声の芝居の中に、役者の存在感を感じさせる」様な演じ方を要求した。
根津に対しては、押井が根津に前々から抱いていたイメージを意識して、名指しで起用した。
兵藤はアニメーションの仕事は本作が初めてだった。斯波がオーディションテープを初めて聞いた時は「キャラクターとの相性が良すぎて、役者の存在感が薄れてしまう」と危惧したが、次第に「少女の日常生活感を払拭し、且つ本来持っているキャラクターをきちんと出していける人だ」と判断して、起用した。その場で一緒にオーディションテープを聞いていた押井は「この人でいい」と即断した。その後兵藤と対面した際には、「立派な女性なのに、実年齢より10歳位若く見えた。印象が『少女』を感じさせる人だったので、かなり気に入った」と称している。
1985年10月14日に押井・斯波・根津・兵藤が初めて顔合わせした。ミーティングの際に根津は押井に「キャラクターを捉まえるために、フィルムを見せて欲しい」と注文した。兵藤はミーティング前にアフレコ台本を読み込み、キャラクターに対しての疑問点を書き出して、ミーティングの時に押井に質問して、解釈を深めていった。アフレコは1985年11月15日午後20時~16日午前2時30分に浜町スタジオで行われた。
大元のイメージは、押井が子供の頃に母親から聞いた「女の人は生まれた時からお腹にたまごを持って生まれてくる」という話・テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』の「ずっと何かを待ち続けていた女の子が、他者に出会い、別れる事で世界が新しくなる」という関係性の変化を主軸にした物語から作られている。
本作を、主人公に感情移入して、ストーリーを追っていく見方に対するアンチテーゼであったかもしれないと語っており、物語よりもアニメーションの表現を楽しむ姿勢を投げかけようとしたところがあり、退屈で眠くなるようなギリギリのところで、緊張感を持続させる小刻みの感動を与え続けたいと語っている。
「たまご」は「夢」「希望」「可能性」等様々な意味を込め、「卵の中の鳥が見ている夢の中の世界」「鳥が卵になって、新しい夢を見ている」日々の個人的な妄想などと混ざり合って表現されたと解説している。そこから、「実体はないけど、影だけはある魚」を絵として表現し、それを「無くなってしまった物の記憶であり、実在しないもの。つまり、たまごと全く同じ意味を持つ」ことを表現した。
「戦車」は「少女のある種の願望」「少年が担いでいる銃、街の男達の槍と同じことを象徴している」と称している。
「水」は「沈んでしまった世界の記憶であり、街全体が水の底にあるかもしれない」「透明で形も無いし、波紋が現れる時以外は存在があっても、どういう物なのかを指し示すことができない」というイメージを表し、作品世界を覆う程のテーマとなった。
「街の男達」は「魚という実在しない存在を一生懸命に追いかけている」シーンを書くことで、「無いものを追い掛け回し、実在しないものが現れるのをひたすら待っている」「やっていることは少女と同じで、自分の事が全くわからない」ことを表現した。
「鳥」は「現実をもう一度バラバラに解体してみせ、観客を別の次元に引っ張り込むためのとっかかり」「戦車を出した以上は、巨砲をぶっ放せ」。
美樹本晴彦は「モノトーンの背景にキャラクターの色彩が置かれているのがいい」「美術が描き込まれている部分もいいけど、森の背景で、奥の背景をシルエットにして、描き込みをワンポイントに絞っている点が、ここまで徹底的に凝っているととても効果的だと思いました。その他の部分も暗い中でうっすらと背景が見えていたりして、空気を感じさせられました」「キャラクターの外見が割とシンプルなのに、実際に動くとフォルムに立体感があって、びっくりしました。作画の手間もかかったと思いますが、実際の作業に入る前の『練り』がしっかりやってありました。『どういう画面にするのか』に非常にこだわっていて、『漠然と描き込む』『単にリアルにする』様なことをしなかったのが、数多い作品の中で一線を画していると思います」「内容は決して大衆的な作品ではありません。しかし、そういう作品で押し切るだけの確たるものを持った作り手の姿勢が、すごく魅力的だとおもいます」「OVAは映画やテレビアニメとは違って、『作り手が自分の作りたいものを作れる』という点にメリットがあります。そういう点で本作は『OVAのメリットを最大限に活かした』初めてに近い作品だと思います。出来からいえば、映画館にかけてもおかしくない作品でしょう」と絶賛している。
池田憲章は「SFファンの心をくすぐりながらも、宗教的・生命感のなさ・終末観というSFファンですら惑乱してしまう虚無的で終末感あふれるイメージが全編に続出する。その中で少女が動き、行動すると生命力を感じさせる生活空間に転じてしまう。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『ダロス』で実践された『架空の世界』自体に意味を与えるのではなく、最終的には逆説的な要領でキャラクターを立たせるために、常に異様な世界観作りをしてきた押井守監督らしい演出と言えるだろう」「この物語は、過去・現在・未来に生きている人間全てに捧げられたレクイエムだったのかもしれない。意味ありげな心象風景のイメージの積み重ねより、少女の印象が強いのも、映画は『空想の世界』を描くのではなく『その中の人間』を描くのだという証明なのだろう」と評している。
岸田秀は「最初に見た時は『ようわからんかった』です。これは褒め言葉です。わからんと言うのは、『わかろうとして自分の既成の枠組みに入れよう』としていることです。現実には何ら自分の流れに反響を及ぼさない無関係という『わからん』もありますが、本作の場合は違います。その場面場面のイメージは夜寝るまで残りました。街の中の魚の影は何か?たまごとは何なのか?戦車らしきものは一体何なのか?水は幻想というか、現実というか…とにかくどれもが重要な役割を果たしている様だが、『作った人は何を描こうとしているのか?』等と色々考えさせられました。この作品はエモーションの上で反響があったが、それはどういう感動かは容易に言語で説明できることではない」と賛辞を呈し、押井は「僕が意図した通りの見方をして頂いて嬉しい。あなたは善意の観客です」と微笑んだ。
◎ 後年の評価
小林は出来上がった絵コンテを見た時から「これは絶対に売れるよ」と押井の手腕を絶賛した。
本作を観た押井の母親からは「もう観客が来なくなるのではないかと」今後を心配されている。
安彦良和は「『以前にはなかった試み』だという気がするのは、断片的なモンタージュではなく、『80分という長さで1つの完結した世界を作る』ということだと思うからなんです。作画のタッチは『哀しみのベラドンナ』にあった近代主義的なものだけど、非常に興味深いと同時に、常に危険を孕んでいる感じもある。押井さんが作家として立っていけるのか、その岐路に立たされた時、尚且つ『作家・押井』と『演出家・押井』を使い分けていく道ができたら、余計辛い所へ行ってしまうのではないか」と押井の今後を危惧し、押井は「1つのスタイルを決定するのは割と容易いけれど、自分は映画の根源にある『時に芸術的になったり、風俗的になったり、B級アクションになったり』する様なそういう正体不明の非常に無節操な部分は手放せない。大事なのは『どっちに転んでもかまわない』という覚悟なんだという気がしてならないんです」と返答している。
今関あきよしは「観客が要求するものを気持ちよく出してしまう映画が多い中で、『もっと見る側もイマジネーションを作りなさい』という映画でしたね。絵の並べ方もカット割りというより、イメージの羅列に近い所が部分部分あって、恐ろしく長い間があったりとか。1枚1枚のイメージが見事に絵になっていましたね」「ビデオで見ると、ロングショットのキャラクターはビデオでは点景でしかないし、画面が小さいと何もわからない。音響も静かに演出しているので、細かい部分を聞き取るために音量を大きくすると、ボリュームのノイズが先に聞こえてくる」と評し、押井は「最初から『映画を作るつもりでやろう』とスタッフと意思統一した」と話している。
河森正治は「『よくぞここまで画面設計や色彩の素晴らしい作品を作ってくれた』と頭の下がる思いです」「テレビアニメに比べると予算はいいでしょうけど、劇場用アニメに比べれば、制作期間・制作費の面でそれほど差はないのに、その緻密さには驚くべきものです。場当たりの仕事ではなく、基本的な設計段階で綿密な計画が成された上で作られているのでしょうね」と賞賛している。反面「押井さんが掲げていた『物語性の排除』と『シーンの表現』は少年・少女・たまごの3つに絞っていれば、象徴的な大道具である方舟・太陽等の美術は必要とせず、抽象性・動かし方・台詞の表現で更に突き抜けることができるのは、と思ってしまいます。あれほど克明に描かれているだけに僕個人の欲として言いたくなってしまいます」と語り、押井は「制作中に聞いたら頷いていました。今回はちょっと複雑なんです。既存のアニメーションがよく取り上げる『自己犠牲』『勇気』とは全く違うものを観客の心の中に投げ入れたかった。既存の人生を鼓舞する様なテーマでは、むしろ見る人の現状をあまりにも無視した作品になってしまうと思いました」と返している。
光瀬龍は「今は重く哲学的なテーマを取り扱うと『照れ臭い』『格好悪い』『サラリと流して欲しい』と言われる時代。だからこそ、そのテーマに真面目に取り組んで作っていることが嬉しかった」「本作のテーマは第二次世界大戦前夜のヨーロッパのムードに非常によく似ていると感じた。その頃の私はまだ幼くて、実感として知っているわけではありませんが、その後読んだ書物や記録を思い出すと、ピタリと符合する。言葉で表現すれば、『必ず来る破滅を予期して、おののいている人間の魂』を感じた」と賞賛している。
金子修介は「一言で言えば『寂しい』という印象でした。豊かさ・解放感があまり感じられないのです。もう少し説話的なストーリーがあった方がよかった。カットは非凡でしたけど、構成全体は既にどこかで見た様な気がしました」と評し、押井は「今まで本作で見てきたドラマを反芻して欲しかった。それが新しいエンターテイメントの方法だから」と返した。
長部日出雄は「レベルの高い芸術作品であるし、他の小説・演劇より質が高い。しかも、2度目の視聴でわかったことがあったり、新たにわからなくなった所が出てきたりと『何度も見ないとわからない構造がOVAみたいな作品だな』と思いました」「アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』と深い関係にありますね。それを一番強く感じたのが『水』です。絶えず変化していく『流動性』・人間にとって必要不可欠である反面、多数の死者をもたらす利害の『両義性』というタルコフスキーの思いを、押井さんが意識的に出発点にして、自分なりのイメージを広げていると思うんです。鮮やかに表現されていて、感動しました」「『宇宙』『人間』『生』『死』といった哲学的なテーマを正面切って扱っています」と絶賛し、押井は「僕自身『ノスタルジア』から真似をしたわけではなく、映画とは色々な引用をし、こちらで咀嚼して折り合いがついていればそれでいいと思っています。『これだけ多くの映画が撮られているのだから、かつて撮られていないカットはない』と断言してもいいんじゃないかな」と持論を展開した。
池田敏春は「カメラアングルで俯瞰景が多かったです。失礼な言い方になりますが、撮影する対象に冷たくなれるんですよね。その冷たさが全体の画面を引き締めて美しくさせることにもつながるのですが」と複雑な心境を抱いたが、反面「演技・物語がバカにされ始めた時代の中で、『どうすれば自分たちのテーマを観客に訴えられるか』という問題に本作はアニメーションで対応した。クサい演技は実写だとそのクサさがストレートに伝わってしまう。アニメーションだと『これは絵ですよ』とクサさが取れて、押しつけがましさがなくなっていく」と評価し、押井は「その通りだと思います。物語を作るのが難しくなってしまった今の時代に迂闊なことをやると、すぐに笑われてしまう。かと言っても笑われるのを恐れていると、何も訴えることはできなくなります。ただ、池田さんの仰った『これは絵ですよ』というアニメーションの独自の権利を利用して、生身の人間ではないのをいいことにもっと露骨に演技・物語・感動の押しつけをやっている作品が結構あるんです」と持論を展開した。
押井は「作品の中でやりたいことだけを全部吐き出す様にやりましたので、改めて語る部分がないんです。その分のツケとして『他人が入れない映画』になってしまい、仕事がなくなった。本来『商品』という前提で作品を作っているわけですから、制作者としての自分はやはり問題があった」と総括している。
布川ゆうじは「俺がプロデューサーだったら絶対やらせなかった」と言い、押井は「それでもやりたかった。宮崎駿になる気は毛頭なかったし、その時々のテーマに忠実でありたかった」と返している。
● 関連書籍
いずれも徳間書店からの刊行。すべて長らく絶版となったが、2004年『イノセンス』公開時に再版された。『絵コンテ集』は2013年、『少女季』は2017年に、復刊ドットコムより再々版(『少女季』は天野喜孝のコメントが新たに収録されている)。
・ 天野喜孝(絵) あらきりつこ、押井守(文)『天使のたまご 少女季』徳間書店、1985年 ISBN 4-19-861802-X
・ アニメージュ編集部(編)『THE ART OF 天使のたまご』徳間書店、1986年
・2004年の再版時に天野喜孝のイメージボード80ページを追加し、 増補改訂版(ISBN 4-19-810009-8)となる。
・ 天野喜孝・押井守『天使のたまご』徳間書店<アニメージュ文庫>、1985年 ISBN 4-19-669549-3
・ 『天使のたまご絵コンテ集』徳間書店、1985年 ISBN 4-19-720230-X
● サウンドトラック
◇ 天使のたまご 音楽編
: 菅野由弘、JAN 4988008534030
: プレリュード
: 卵のみる夢
: 機械仕掛けの太陽
: 天使のたまごメインテーマ
: 水の記憶
: 窓の向こうに
: 水底の街
: 魚狩り
: オペラハウス
: 時の堆積
: 天使の化石
: 夜盗の如く
: 転生
: 異神と共に
● 本作の登場する作品
篠田節子の小説『聖域』には、登場人物が本作のビデオを鑑賞する場面がある。描写されている内容から見て、作者が本作を実際に鑑賞した上で執筆していることが窺える。
ベルギー出身の映画監督カール・コルパートの作品『In The Aftermath: Angels Never Sleep』(日本未公開)では新撮の実写シークエンスと『天使のたまご』のアニメーションをミックスし、最終戦争後の荒廃した世界が描かれている。
● 参考文献
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「天使のたまご」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)
2024年4月27日0時(日本時間)現在での最新版を取得
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