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狂った一頁


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『狂つた一頁』(くるったいちぺいじ、小書き表記:『狂った一頁』)は、1926年(大正15年)9月に公開された日本のサイレント映画である。監督は衣笠貞之助、主演は井上正夫。衣笠が横光利一や川端康成などの新感覚派の文学者と結成した新感覚派映画聯盟の第1回作品で、日本初の本格的な前衛映画(アヴァンギャルド映画)である。精神病院を舞台に、過去の心的外傷で精神を患い入院した妻を見守るために、その病院で小使として働く老人を主人公とする家庭悲劇の物語が、過去と現在、幻想と現実、狂気と正気を交錯させながら展開される。 物語は松沢病院を見学した衣笠の発案によるもので、川端、衣笠、犬塚稔、沢田晩紅の4人の共同で脚本が作成され、撮影終了後に川端名義でシナリオが雑誌上に発表された。衣笠がプロデューサーを兼任した自主製作映画として作られ、撮影は1926年(大正15年)5月に松竹下加茂撮影所を借りて行われた。同年9月に新宿の武蔵野館などの洋画専門館で封切られ、映画評論家や識者から高い評価を受けたが、興行的には失敗した。新感覚派映画聯盟は本作を残しただけで解散したが、純粋な映像だけによる表現が追求されている。映像の純粋性をねらう横光の提案により、サイレント映画でありながら全編が無字幕となっているが、実際の上映には活動弁士の説明が伴っていたため、映像の純粋性を保持することはできず、その点は公開当時に識者から批判された。 公開後、本作は長らく失われた映画と考えられていたが、1971年(昭和46年)正月に衣笠の自宅の蔵から偶然フィルムが発見された

● ストーリー
参照: 深夜の精神病院。外では激しい雨が降る中、女性患者の踊り子は何かに取り憑かれたように踊り続けている。この病院で小使として働く老人は鉄格子の付いた病室の前にたたずみ、ひとりの狂人の女性を見つめている。この女性は小使の妻であるが、狂気のせいで夫を識別することができない。小使は元船員で、長い航海生活で家庭を顧みず、そのせいで妻は孤独にさいなまれ、幼い子供と投身自殺を図ったが、子供だけ死なせて生き残ったことから発狂し、この病院に収容された。老人は自責の念にかられ、妻を見守るためにこの病院で働いているのだが、病院の人たちは全員、彼が患者の夫であるということを知らない。 翌朝、夫妻の娘が縁談を報告するために病院を訪ねるが、そこで自分の父親が病院で働いていることを知り、驚愕と怒りを覚える。娘は病室へ向かうが、何の反応もない母に失望し、母を狂わせた父を許す気にもなれずに病院を去る。病院では朝の診察が行われ、小使は妻を診る医師に彼女の容態を聞くが、相手にされない。一方、娘は病院に戻り、門番の少年に小使のことを聞く。小使は娘と再会し、過去の仕打ちに対して許しを請い、結婚について尋ねる。朝の散歩を許された妻は、芝生を歩きながら静かに空を眺め、小使と娘は少し離れたところから妻の姿を見守るが、突然患者のひとりが娘に襲いかかろうとし、娘は走って病院を抜け出す。 このあと、病院では患者の踊り子がふたたび踊り出し、それを見た他の患者たちが興奮して騒ぎ出し、看守や看護婦たちが患者たちを連れ戻そうとする。そのさなかにひとりの狂人が小使の妻を誤って殴り、激昂した小使と大喧嘩となり、小使は医師に叱責される。昼、うたた寝をした小使は、街の福引きで一等賞の箪笥を引き当て、娘の婚礼のお祝い品ができたと喜び、娘が嬉しそうに父に飛びつくという幻想を見る。昼食の時間のあと、娘が父のもとを訪ね、結婚の話は母親が狂人だと判明して崩れかけていると言うが、小使は結婚を断念するよう諭したため、娘は反抗的な態度で出て行ってしまう。 その夜、小使は妻を病院から脱出させようと図り、人目を避けて妻を病室から連れ出すが、妻は暗闇を怖がって病室へ戻ってしまう。小使は看守の足音に気付き部屋へ逃げるが、その時に扉の鍵を落としてしまう。その後、小使はふたたび妻を連れ出そうとする幻想を見る。その幻想では、小使が院長や狂人たちを殺し、そこへ花嫁衣装を着た娘と花婿然とした狂人の乗る自動車が駆けつけ、妻が車の前に立ちはだかると、娘は夫に母親の姿を見せまいと努め、さらに殺されたはずの院長たちが霊柩車に乗り込むといった、悪夢のような状況が繰り広げられる。続けて小使は、狂人や妻の顔に次々と「笑いの面」(能の面など)をかぶせ、自身にも面を付けるという幻想を見る。翌朝、妻は安らかに眠り、踊り子もいつものように踊っている。鍵を失くした小使は妻の顔を見に行くことができなくなり、いつものように黙々と廊下を掃除する。

● キャスト
特記がない限りは本編(ニュー・サウンド版)のクレジットに基づく。
・ 小使:井上正夫
・ 妻:中川芳江
・ 娘:飯島綾子
・ 青年:根本弘
・ 医師:関操
・ 狂人A:高勢実
・ 狂人B:高松恭助
・ 狂人C:坪井哲
・ 踊り子:南栄子
・ 門番の息子:滝口新太郎(ノンクレジット)

● スタッフ

・ 監督・製作:衣笠貞之助
・ 撮影:杉山公平。しかし、『日輪』は右翼団体から抗議を受け、牧野省三の判断で上映中止となり、衣笠がマキノのもとを去る原因となった。当時の日本映画界では映画監督が自主独立して映画を作ることは珍しかったが、衣笠は満30歳を迎えた翌1926年 (大正15年)に「誰からも掣肘を受けずに、自由に思いのままの映画を作ってみたい」と考え、また俳優時代から溜まっていた金が映画1本分の製作資金になっていたこともあり、マキノのもとを離れて独立した。新感覚派映画聯盟という名称は、東京ステーションホテルでの会合を嗅ぎつけた『報知新聞』の芸能記者の中代富士夫が、4月11日の新聞紙上にそれを報じた時に勝手に命名したものである。川端は4月末時点で、自分たちではまだ名称を決めたわけではなく、むしろ他にいい名称が思いつかないため、ただ便宜的に新感覚派映画聯盟という名称を使っているだけであると明かしており、「製作の仕事が初まるまでに外のいい名称が見つかれば、勿論新感覚派云々なぞと云ふ窮屈な名称は用ひないつもりである」と述べている。その後、新感覚派映画聯盟という名称が独り歩きしたことで、いつの間にか正式なプロダクション名として採用されることになった。

◎ シナリオ
はじめに衣笠が構想していたサーカスと老人の物語は、横光や川端たちと顔合わせをするうちに見送られ、代わりに手が空いていた岸田國士が『ゼンマイの戯れ』というシナリオを2日程で執筆した。このシナリオは特許マニアの定年前のサラリーマンを主人公にした、フランス的な風刺のきいた小喜劇だったが、映画向きではないという理由で没になった。そこで衣笠と川端たちは新橋の烏森にある旅館に泊まり込んで案を練ったが、なかなかいい案は出てこなかった。 そんなある日、衣笠は横光宅を訪ねようと駅を降りた時に見かけた、精神病にかかっているというある高貴な人の一行に奇妙な印象を受けたことがきっかけで、ふと蘆原将軍の入院していた東京の精神病院の松沢病院を見学しに行った。脚本が未完成であることは、「脚本がほんとうに完成するのは、映画ができてからである」と考える衣笠にとって問題ではなかった。衣笠は完成途中のシナリオを受け取ったあと、マキノ時代から組んでいた脚本家の沢田晩紅に、それをもとにした撮影台本を執筆させた。実際の撮影では、撮影台本とそれを補完する撮影メモが使用されたが、撮影中も衣笠、川端、沢田に犬塚稔を加えた4人で撮影台本の打ち合わせが行われ、執筆作業が続けられた。ただし文末には「(このシナリオは、衣笠、犬塚、澤田等の諸氏に負ふところ多し、附記して、謝意を表す。)」と記されている。『川端康成全集』には、1959年(昭和34年)刊行の新潮社版12巻本の第1巻(11月30日刊)に初収録され、その後1969年(昭和44年)刊行の新潮社版19巻本の第1巻(5月25日刊)、1980年(昭和55年)刊行の新潮社版37巻本の第2巻(10月20日刊)にも再録された。

◎ スタッフとキャスト
本作の製作のために集結したスタッフは、「何か新しい映画を作ってみたい」という強い思いを抱く20代の青年ばかりだった。撮影監督は杉山公平が担当し、その後も衣笠と杉山は多くの作品でコンビを組んだ。後に特撮監督として知られる円谷英二(当時は円谷英一)は、当時小笠原プロダクションで現像技師をしていたが、知人だった杉山の誘いで新感覚派映画聯盟に加わり、杉山の撮影助手を務めた。 主演の小使役には、かねて衣笠が頭に描いていた舞台俳優の井上正夫に依頼した。手の空いている者はみな仕事を手伝い、スタッフのみならず井上を含む俳優たちも、大道具から小道具、その他雑務までこなした、その間の7月10日には青山会館で行われた全関東映画協会の披露会でも試写がなされた。しかし、非商業的で難解な作品だったこともあり、なかなか配給先は決まらなかった。この知らせを聞いた衣笠たちは狂喜して浅草へ出かけ、屋台店ながら海老天2尾ずつで茶碗酒の祝杯をあげた。 武蔵野館での上映は、9月24日から1週間にわたり行われ、人気弁士だった徳川が説明を担当した。新聞広告では衣笠を「日本のジョセフ・フォン・スタンバーグ」と紹介し、「俄然 日本映画界を震撼させる大芸術篇」などという惹句が添えられた。武蔵野館と同じ24日は、浅草のパラマウント直営の東京館と、大阪の松竹座でも封切られ、東京館では活動弁士の石井溢美と玉井旭洋が説明を担当した。その翌週には東京の芝園館と南明座でも封切られ、10月1日には神戸のキネマ倶楽部、10月8日には京都松竹座でも封切られた。本作を封切りした映画館はすべて洋画専門館であり、そのほとんどでアメリカ映画が併映され、従来の日本映画とは異なる高級な外国映画と並ぶような作品として扱われた。

◎ 興行的失敗と聯盟の解散
武蔵野館での収益は1500円で、ヒットとはいかなかったが、館についている高級映画ファンの足を保持し、まずまずの興行成績をあげた。しかし、他の映画館での興行成績は低調で、また当時の日本映画が国内の多くの映画館で数か月かけて上映されることで利益を得ていた中、本作は上映館が少なく、日本中で広く上映されたわけではなかったこともあり、全体として興行的には成功しなかった。全体での配給収入は7500円となったが、これは2万円以上もした製作費を回収するには足りず、結果として1万円を超える損失を出した。 衣笠が東京での公開中も売り込みなどに奔走していた間、スタッフたちは衣笠が引き続いて映画を製作するものと信じて、京都の合宿先などで待機していた。収益は封切りが決まり上映され、歩合の上がりによってその都度支払われたため、スタッフたちへの送金もままならなかった。借財に加えて彼らの生活も背負わされていた衣笠は、次の映画製作の行動を起こさねばならないと考えていたが、無一文では次の仕事に取りかかることもできず、難渋が続いた。 そこへ松竹社長の大谷竹次郎から、同社のために1作品につき1万円で時代劇映画を請負い製作することを提案された。それは誰の掣肘も受けずに芸術的実験性の高い映画を作ることを放棄して、下請けとして商業主義的な映画作りに甘んじることを意味したが、衣笠は提案を受け入れ、スタッフたちを率いて契約を結び、下加茂撮影所内に松竹配給の衣笠映画聯盟を発足した。以後、衣笠映画聯盟はほぼ自転車操業で18本の時代劇映画を製作したが、やがてスタッフの間で本作に続く野心的作品を求める気運が高まり、それを受けて衣笠は実験的な時代劇映画『十字路』(1928年)を製作した。 一方、新感覚派映画聯盟は、1926年(大正15年)に本作に続く第2回作品として衣笠監督で江戸川乱歩の短編小説『屋根裏の散歩者』(1925年)の製作を計画したが、検閲を通過できないだろうという見通しがついたため、同じ江戸川の『踊る一寸法師』(1926年)に変更された。しかし、『踊る一寸法師』もまた衣笠の松竹入りなどの事情により製作は延期され、衣笠は江戸川宛ての手紙で「1927年春に撮影を始める」とし、『週刊朝日』に掲載した文では「まだ脚本もできていないが私の本当に作りたい作品である」と意欲を見せていたが、結局撮影に入ることはなく企画は立ち消えとなった。また、新感覚派映画聯盟の将来の作品を、片岡が無字幕作品として監督するという話もあった。結局、新感覚派映画聯盟は本作1本を残しただけで解散となった。翌1976年(昭和51年)3月には同ホールでアンコール上映が行われ、1982年(昭和57年)8月にはこの年に死去した衣笠の追悼上映会として再び『十字路』と併せて上映された。 ニュー・サウンド版は日本国外でも上映され、ヨーロッパでは日本よりも先に一般公開が行われた。イタリアでは、1972年のヴェネツィア国際映画祭で小さな試写が行われたあと、で上映された。そのほか、1975年までにソビエト連邦やオランダ、アメリカ、カナダでも上映され、ドイツではテレビ放映された。2019年3月には日本近代文学館で行われた展覧会「新世紀の横光利一」の関連イベントとして、サイレント版が活動弁士の片岡一郎の説明と、ピアニストの上屋安由美の伴奏により上映された。日本国外では、2001年にイタリアのポルデノーネ無声映画祭、2017年にフランスの、2018年にアメリカので上映された。 2010年(平成22年)3月、平城遷都1300年記念事業「アートシネマフェスタ2010」のプレイベントとして、新宿のライブハウスの初台Doorsと奈良市のなら100年会館で、ロックバンドの頭脳警察による本作のライブ上映が行われた。これは頭脳警察が本作をイメージして作曲したオリジナル曲を、本作の映像を上映しながら演奏するというものである。2012年(平成24年)12月にはそのライブ音源を収録したアルバム『狂った一頁×頭脳警察 ~a page of madness × ZK Live at The Doors 2010.3.20~』が発売された。2018年3月にはフランスの映画会社が、フランス語字幕版のDVDを発売した。日本ではDVDは発売されていないが、YouTubeやニコニコ動画などの動画共有サービスで視聴することが可能である。 2021年(令和3年)、衣笠邸で発見された35ミリの可燃性ポジフィルムが、青色に染色されていたことが発見された。ニュー・サウンド版を含む再発見以後に上映されてきたフィルムは白黒版であるため、長らく本作はモノクロ映画だと思われていたが、この発見で1926年(大正15年)当時は青染色で上映されていたことが判明した。これをもとに国立映画アーカイブとIMAGICAエンタテインメントメディアサービスは青染色を再現した「染色版」のフィルムを作成し、2022年(令和4年)5月に国立映画アーカイブで行われた上映企画「発掘された映画たち2022」で初公開された。

● テーマ
本作は日本映画で初めて精神病院を舞台とした作品であり、病院側の管理体制や病棟の空間的分割、治療の光景、あるいは食事や労働作業、屋内散歩などの患者たちの生態がリアリスティックに描かれている。その一方で、精神病院における権力と患者たちへの抑圧と監禁、それに抵抗する患者たちの姿が描かれており、映画評論家の四方田犬彦曰く「近代イデオロギー装置」の典型である病院が携える、監禁と解放、治療と懲罰という相反するシステムについて、鋭い社会的な眼差しが向けられている。また、本作には悪循環と宿命、自己閉鎖と無限などの観念の寓意として、「回転する円環」という主題が繰り返し登場する。例えば、冒頭の豪雨の病院で踊り子が踊り狂うシーンでは、豪雨の中を乗り付ける車輪、踊り子の背後の巨大な球体、踊り子の回転舞踊などと、円環のイメージが増殖している。これに対して円環の回転を制限し、抑圧する力となるものとして、病室の鉄格子や格子扉などの「冷たい垂直線」のイメージが登場し、それは精神病院という装置そのものの原理を体現している。 本作は過去の過ちで家族を不幸にさせた元船員の夫と、そのせいで精神に異常をきたした妻、母の病気で悩む結婚間近の娘を登場人物とする家庭悲劇が、基本的な物語として展開されている。このような物語は、当時の日本の映画や舞台における現代劇の主流だった新派悲劇に有りがちなものである。四方田も、本作は「斬新な手法と感傷的なメロドラマの結合物という形」をとっており、父娘が結婚問題を話し合うシーンや、貧しい娘とブルジョワ青年との恋という設定などに、新派メロドラマ的な要素が見られると指摘している。公開当時の新聞や映画館のプログラムなどの梗概にも、非物語的な芸術作品ではなく、このような新派悲劇的な物語が紹介されており、日本映画研究者のはそれが「この作品の特質の様式を無視し普通の映画と変わらない物語的な快楽を宣伝する作戦の表れ」と考えることができると指摘している。 衣笠は、このような物語で元船員の主人公を設定したことについて、大正時代はまだ日本国外へ出るのが大変なことで、そんな時代に国外へ自由に行ける船員は「自由に振舞える男の冥利」であり、「そうした自由をほしいままにした男の背後には、家を破壊され、犠牲になる妻や子供がいる。妻は狂気となってさらに不幸がつづく。これが劇の背景となっていた」と述べている。映画評論家の佐藤忠男は、この物語には「病気によってバラバラにされた夫婦、親娘の骨肉の愛情の切なさ」が描かれているとし、「病気によって人間の絆を失った人々の、人間的なつながりに対する熱い希求が表現されている」と述べている。水口紀勢子は、本作を父性映画と見なし、基本的には「娘の結婚話の結実を主軸とするありきたりの父性愛と愛妻の物語」であると指摘している。 文学研究者の十重田裕一は、小使と妻を隔てる病室の牢格子(鉄格子)が、本作の重要イメージとして終始登場し、そこには「牢格子の内/外の境界が現れ、二つの間に葛藤が生成する」と指摘している。とくに小使が妻を病院から連れ出そうとするクライマックスのシーンでは、なんとしても牢格子の外へ妻を連れ出そうとする小使と、外の闇を恐れて後ずさりする妻との間で激しい対立・葛藤が展開されているという。また、このシーンのあとに展開される、小使が妻や狂人たちの顔に面を付け、さらに自分の顔にも面を付けるシーンでは、面を付けることで牢格子の内と外の対立が解消し、「牢格子の中にいる妻にも固有の世界があることを、日々めくる頁があることを夫が受け入れたことを暗示」しているという。 この面を付けるシーンについて、衣笠は自伝で、松沢病院を見学した時に、患者たちの多くが無表情だが決して無個性とは言えきれないような印象を受けたことから思いついたと述べている。一方、川端は柔和な笑みの面で苦悶や狂気を包んで、小使や患者たちを救ってやりたかったという意図があったと述べている。20世紀初頭のヨーロッパではフォーヴィスム、キュビスム、未来派、表現主義、ダダイスム、シュルレアリスムなど、既存の秩序や規範を打破しようとする前衛芸術運動が盛んとなった。それは映画にも波及し、1920年代には、純粋映画、などの前衛映画運動が起こり、旧来の映画が持つ物語性や知覚などの枠組みを解体して、新たな映画的表現の可能性が追求された。

◎ 映像表現の純粋性
本作にはフランスの純粋映画やドイツの絶対映画に近い映像スタイルが打ち出されている。これらの運動では、映画から文学や演劇の借りものと言える物語や演技などの要素を排除し、純粋な映像表現に徹しようとする試みがなされた。絶対映画ではハンス・リヒターの『リズム』シリーズ(1921年 - 1925年)やヴィキング・エッゲリングの『』(1924年)などが、抽象的な線と形の動きだけによる映像を試みた。日本でも1921年に『カリガリ博士』が公開されると大きな話題を呼び、それをきっかけに表現主義映画が流行し、日本映画にも影響を与えた。本作もまたドイツ表現主義映画の形式や内容から強い影響を受けており、文学研究者の栗坪良樹は「ドイツ表現主義映画の流れを汲む作品」と見なしている。日本では1925年(大正14年)前後にアベル・ガンス監督の『』(1923年)やアレクサンドル・ヴォルコフ監督の『』(1923年)、監督の『』(1924年)などの印象主義映画が公開され、その手法の土台となったらの映画理論が紹介されると、日本映画でフラッシュが大流行するなど、多くの作品が影響を受けた。本作もフランス印象主義映画の影響を受けた作品のひとつである。 宮森南二郎は、本作のフランス印象主義映画からの影響について、「衣笠は彼のかなり豊富な内容的な手腕をかなぐり捨て、『キイン』『ラ・ルー』〔『鉄路の白薔薇』〕等を土台にテクニックを作り上げた」と指摘している。本作の冒頭ではフラッシュの技法が使われており、短いショットの積み重ねで豪雨の病院と踊り子の乱舞を描き、切迫感を強調している。豪雨の病院を映す約1分間の映像では、避雷針や病院の窓、自動車、車輪、稲妻、水流などのごく短いショットが、三拍子のリズムで素早くつながれて反復され、しだいにショットの速度も増している。このような本作でのフラッシュの使用は、『鉄路の白薔薇』で主人公の機関士が列車事故を起こすシーンにおける、フラッシュで車窓の風景、水蒸気、線路、激しく回転する車輪などのショットを激しいテンポで反復させ、だんだんとショットの速度を上げてクライマックスへ向かうという手法や、『嘆きのピエロ』でサーカスの団長が妻に迫るシーンにおけるフラッシュから影響を受けている。

◎ ショット技法
本作はフラッシュの技法に加えて、複数の映像を同じ画面上に重ね合わせる多重露光、回想など過去の場面の映像を挿入するフラッシュバック、イメージの出現や消失の技法である(ディゾルブとも)などといった、ショットをつなぐ映画的な編集技法が用いられている。とくに多重露光は作品全体にわたり頻繁に用いられており、例えば、面を付けるシーンでは終始その映像に鉄格子の映像が重ね合わされている。大久保美花によると、ソビエト・モンタージュ派が理論化した編集法で、それだけでは意味が確定しない個々のショット同士を有機的につなぎ、ショットの関係から映像だけで象徴的な意味を発生させるモンタージュの技法も多用されているという。 これらの技法を使用していることもあり、本作は全体で800以上のショットから構成されている。サイレント時代のハリウッド映画における1ショットの長さは平均5.7秒であるのに対し、本作の1ショットの長さは平均3.3秒であり、四方田によるとこれは「常軌を越えて速い」という。最初の1巻(約9分)だけでショット数は220もあり、その中には0.5秒や1秒ほどの長さしかないショットも含まれている。当時の日本の映画製作者は、活動弁士が長々と説明できるようにするため、1つのショットを長々と続くようにすることが多く、短いショットでつなぐことに消極的だったため、本作のショット数の多さは前例のないことだった。

● 『狂つた一頁』と新感覚派


◎ 新感覚派と映画
本作は日本の文学者が映画製作に直接的に関与した先駆的事例のひとつであり、新しい芸術を生み出そうとする文学者と映画人との協力の結果あらわれた作品である。本作で衣笠と手を組み、新感覚派映画聯盟を結成した『文藝時代』同人の横光利一、川端康成、片岡鉄兵、岸田國士ら新感覚派の文学者は、20世紀初頭のヨーロッパの前衛芸術運動に触発されながら、従来の日本文学の主流の自然主義文学に反発し、擬人法や比喩などを多用した独自の文体により、新しい文学的表現を試みた。そんな新感覚派の文学の試みは、ヨーロッパの前衛映画運動の影響を受けながら、従来の日本映画の話法を否定して新しい映画的表現を打ち立てようとした本作の試みと一致した。 1920年代の日本では、映画が新興芸術として知識人たちの関心を集めていたが、新感覚派の文学者たちも本作以前から映画に関心を寄せており、新感覚派の文学と映画は一味一体のものとなっていた。横光は短編小説『蠅』(1923年)でモンタージュの手法を採り入れるなど、映画的手法を用いた小説を創作していた。川端も『驢馬に乗る妻』(1925年)などの新感覚派時代の小説で、映画的技法を意識した表現を試みていたが、当時は暇さえあれば映画を見るほどの映画マニアでもあった。『文藝時代』同人の間では、映像の純粋性を追求する前衛映画の方向性を擁護する風潮があり、横光らも純粋映画や絶対映画などの動向を理解していた。本作の製作に刺激されて、『文藝時代』1926年10月号は「特集映画号」となり、稲垣足穂や鈴木彦次郎など7人が映画シナリオ形式の作品を掲載し「シナリオは文藝作品たり得るや」というアンケート特集も組まれた。

◎ 新感覚派文学者の製作上の貢献
新感覚派映画聯盟結成の呼びかけ人である横光は、病気の悪化した妻を看病していたため、映画製作に直接携わることはできなかったが、聯盟の精神的支柱となる存在ではあった。横光が本作の創造面で大きく貢献したのが、題名の変更と無字幕での上映を提案したことである。題名については、当初は現在形の『狂へる一頁』だったものを、横光のアイデアで過去形の『狂つた一頁』に変更した。十重田は、「狂つた」という過去形への変更は、「過去の過ちが主人公とその家族の人生の歯車を狂わせてしまったことを暗示」しており、と同時に「フラッシュ・バックによって甦る過去の記憶が物語の基点となっていることを強調する効果もある」と指摘している。 無字幕での上映は、純粋映画や絶対映画の動向を察知していた横光が、映像の純粋性の追求をねらったことから主張したものである。十重田によると、横光は「字幕を排除することで映像の純粋性を徹底し、無声映画の表現の固有性を重視することが、新しい日本映画の実験において必要」だと判断したという。このような横光の理念は、新感覚派映画聯盟の中でも共有され、本作が無字幕で上映されると、『文藝時代』同人たちの意見として顕在化し、新感覚派のひとつの思潮を形成した。例えば、川端は新感覚派映画聯盟が「文芸的な映画」ではなく「映画的な映画」を指向すると表明し。衣笠によると、横光だけでなく、岸田も無字幕にする見解を述べていたという。 川端は映画人と共同で撮影台本を作成し、それをまとめたシナリオを雑誌上に発表するなど、本作の製作に密接にかかわった。川端はシナリオで、映像のイメージをどのように言語化するかを試みた。例えば、冒頭シーンはシナリオで「夜。脳病院の屋根。避雷針。豪雨。稲妻。」と書き、場面を構成する最小限の要素を抽出し、その単語だけを羅列する手法をとることで、短いショットの連続で映像のリズムが作り出される実際の映像を言語化している。また「小使」の父親と娘という設定にも川端の発案が容易に看取され、それは川端が元恋人の伊藤初代から想起したものと考えられている。一方、川端は小説家としてシナリオに物語的な要素を打ち出し、とくに物語の結末を重視して、小使の娘と青年の結婚を暗示するハッピーエンドを書いた。しかし、物語よりも映像のイメージを重視した衣笠は、本編からこのシーンを割愛した。言葉に依存しない純粋な映画を支持する批評家は、川端の本作への貢献を否定し、岩崎も川端によって本作に混入された文学的なるものが、作品の夾雑物となっていると批判した。

◎ その後の創作への影響
横光は本作において、言語を排除することで映画固有の表現形式を追求したが、それは文字が言語による芸術であるという認識を強めるきっかけとなった。横光は本作の製作にかかわったのを契機に、文学における形式主義を主張するようになり、映画の表現に触発された新しい文学的表現を試みた。その具体的な実践例は『上海』(1928年 - 1931年)や『機械』(1930年)などに見られるが、とくに『機械』は狂気のテーマという点で本作と共通すると十重田裕一は考察している。また十重田は、本作の試写会の時期と執筆時期が近い『春は馬車に乗って』(1926年)と、その延長線上の作品『花園の思想』(1927年)には、細部の表現などに本作との強い関係性を見出すことができるとしている。例えば、『春は馬車に乗って』の中で繰り返し出てくる言葉「檻の中」あるいは「檻の中の理論」は、本作に頻出する「牢格子」のイメージを連想させ、『花園の思想』には本作のように光と影の効果を特徴とした表現がとり入れられていると考察している。 川端は本作の撮影現場での実体験を下敷きにして、短編小説『婚礼と葬礼』(1926年)と掌編小説『笑はぬ男』(1928年)を創作した。そこから先はフィクションを混ぜた話となり、最後は面のアイデアを取り止めようと考えた主人公が「メンノトコロヲキリステヨ」と電報を打とうとするが、思いとどまりその紙をやぶくところで終るもので、美術(芸術)と家庭をモチーフにしている。川端は本作での経験を通じて、以前にも増して映画の表現に触発された小説の創作を試みており、その例は『浅草紅団』(1934年)や『水晶幻想』(1931年)などに見られると十重田は解説している。文学研究者の和田博文によると、『浅草紅団』には映画のカメラワークを思わせる描写が何度か登場し、それはニュース映画や本作での脚本執筆の経験から影響を受けたものであるという。公開の翌1927年(昭和2年)5月には全関西映画協会から1926年度の優秀映画に指定され、川端にメダルと賞状が贈られた。 岩崎昶は『キネマ旬報』で、「日本で生れた、最初の映画らしい映画だ。と、私は確信を持って断言する。そしてまた、日本で作られた、最初の世界的映画だ」と激賞し、「〔衣笠の〕描いてゐる美は、決して劇的でも小説的でも絵画的でもなく、とに角あらゆる既成芸術と無関係な(といっても良い)美である。映画的な美である」と評した。その一方で、「彼〔衣笠〕は唯人生の一つの断片から純映画的なモメントのみを描出してそれをスクリーンに固着せしめるに満足すべきである。(中略)他方川端氏のストーリーに引摺られて一つのディレンマに陥つて了つた。ここに厳密に考へるとこの映画の弱点がある」と批判もしている。 『中京キネマ』の殿島蒼人は、「普通の映画劇が常識的なものなら、これは常識以上、常識を超越した存在である。(中略)人情や理屈を制服した感覚映画である。面白いとか、深刻だとかそういう価値基準にはまるで用のない、『映画』そのものを表現しようとした作品である」と賞賛し、欧米映画と比較して「『カリガリ博士』より一歩進んだ作品」「キャメラ・ワークの巧妙は『最後の人』のそれに比敵してゐる」と述べた。同誌の加藤英一は、「従来の日本映画とは、本質的に、その価値を置き換へられる可き位置を占めている」と評した。『東京日日新聞』の映画評は、「従来の小説的な講談的な即ち説明的な映画に比して恐ろしく高踏的なものだ」と述べ、従来の言語的要素に依拠する日本映画とは異なり、言語に大きく頼らずに映像を構成したことを高く評価した。菊池寛も、「『狂つた一頁』は気持ちよく見た。日本映画式のいやなところが、ない丈でもうれしかった」と評した。 藤森成吉は、「最も成功しているのは撮影だ。実にいい感じの明暗だ。技術の点では、欧米の第一流映画に較べて何の遜色もないとまで思われた」と、本作の明暗の効果を指摘して高く評価した。石巻良夫も、撮影や照明の使い方について、「『狂った一頁』を見よ、その映画的価値は撮影技巧の上からのみ決定されると云ふても恐らく過言ではあるまい。(中略)カメラを据える位置や、光線のとり方が最後の決定をする」と評した。田中純一郎は、表現主義映画的な光と影を強調した照明を「光の遊戯」と呼んで高く評価し、「『狂つた一頁』これを来るべき映画の本質的旅立ちへの最も有力な道案内とすることは、当然過ぎるほど当然なことではあるまいか」と述べて、本作から映画芸術の将来性に期待を寄せた。『中京キネマ』の丹羽信も、「純粋映画や絶対映画からはらみ出された精進の姿であり、金と事業的精神の外何等考へてゐない当世映画業者の思ひもつかない、芸術的本能に、芸術至上に邁進した、誠、貴きものである」と述べて、本作の映画としての新興芸術的な可能性に高い希望を表明した。 その一方、無字幕ゆえの作品の分かりにくさを批判する人も少なくはなかった。『映画時代』の合評会では、活動弁士の説明を伴わない試写を見た7人の批評家のうち、内田岐三雄が「何だか一寸見て分からなかったのです。僕の考へでは、あの写真は非常に観客に対して親切でないやふに思ふ、と云ふのは、或る所は手を省き過ぎてゐて見物には一寸筋が呑み込めないし、一方にはかなりのろのろした所もある、あれをもう少し統一してもらひたかった」と批判し、古川緑波も「タイトルが無いと云ふことは、あの写真にはいけない」「筋が何れなのだが、本筋でないものが本筋のように見えたり、そこらが、前へ戻るが、字幕なしでは、ますます分からなくなる」と批判した。また、直木は、本作が無字幕により映画理解を困難にする非物語的な作品であるにもかかわらず、活動弁士の説明により観客が十分に理解してしまっていることが矛盾していると批判し、「無字幕映画に対して、徳川夢声が説明をするといふ間違つているような、本当のやうな事を何う考へるのか? いや、この妙な現象には一言も云ふファンが無くて『夢声はうまい。あの解らぬ映画を解らせてくれた』と」と述べている。純粋映画的な無字幕映画であるはずなのに、物語理解のために弁士の説明に頼ることが、映画を不純なものにしているという問題点は、岩崎も「個々に独立せしめれば驚く可く新しい映画美に充ちてゐるが、全体として視るときには、多量に異分子が混入して戸惑ひしてゐる。(中略)(無字幕であり乍ら説明なしでは解らない、といふのもこの矛盾から因由してゐるのである)」と指摘したほか、内田や古川も意見するなど、多くの評者から批判された。 本作は日本国外でもよく知られている作品であり、国際的に高く評価されている。1970年代にニュー・サウンド版が公開された時、イギリスの映画雑誌『』のジョン・ジレットは、「彼〔衣笠〕の抽象的イメージの使用はむしろラディカルであり、革新的である」と評し、『オブザーバー』のジョージ・メリーは『カリガリ博士』や『戦艦ポチョムキン』などの古典的作品と比べながら本作を紹介し、「衣笠貞之助はアベル・ガンス、セルゲイ・エイゼンシュテインと並んで映画的創造者のパンテオンに臨席することになるだろう」と評した。 ポルトガルの映画監督のパウロ・ローシャによると、1972年にリスボンで上映された際には、国立映画学校の学生たちから熱狂的な反応を受けたといい、「『狂った一頁』のような“新しい”作品の突然の登場は、1920年代の映画についてこれまで持たれていた我我の古い概念をすべて打ち壊し、驚きと興奮をまきおこし」たと述べている、2016年には『Ozus' World Movie Reviews』のデニス・シュワルツが本作に「A」評価を下して、「大きな感情的な力のある、活気に満ちながらも不安にさせる作品」と評し、2002年には『』のジャスパー・シャープが、「『狂つた一頁』は当時の映画製作者が知るあらゆる映画技術を駆使した、驚くべき映像の連続であなたを圧倒する。今でも衣笠の映画はヒナギクのように新鮮に見える」と評した。同年には『タイムアウト』も作品を称賛し、「これまでに見た中で最も過激で挑戦的な日本映画のひとつである」と評した。2021年には『』が発表した「史上最高のホラー映画ベスト100」で51位にランクされた。 日本国外の映画史研究において、本作は1920年代の日本映画の中で最も頻繁に論じられてきた作品である。四方田によると、本作について言及した文献は、関係者の証言を別とすれば、日本語よりも英語で執筆されたものが多いという。アメリカの日本映画研究者のアーロン・ジェローは、2008年に本作を詳細に考察した研究書『A Page of Madness: Cinema and Modernity in 1920s Japan』をミシガン大学から刊行した。

● シナリオ収録刊行物

・ 『キネマ旬報別冊 日本映画代表シナリオ全集 第2巻』(キネマ旬報社、1958年3月)
・ 『川端康成全集 第1巻 伊豆の踊子』(新潮社、1959年11月30日)
・ 『キネマ旬報別冊 日本映画シナリオ古典全集 第1巻』(キネマ旬報社、1965年12月)
・ 『川端康成全集 第1巻 伊豆の踊子』(新潮社、1969年5月25日)
・ 『衣笠貞之助監督2大作品 狂った一頁/十字路』(岩波ホール、1975年10月10日)
・ 『川端康成全集 第2巻 小説2』(新潮社、1980年10月20日)

「狂つた一頁」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/
2024年4月23日21時(日本時間)現在での最新版を取得

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